六月だけれど、雲の切れ間からは青空が見えていた。そんなもう七月も近い休日の朝、俺は陽南からとんでもないデートの誘いを受けて、思わず洗っている皿を落としそうになってしまった。
「ポムグレのライブ、一緒に行かない?」
「……なにを言ってるんだお前」
思わずそんなことを言うくらい、陽南の提案は俺には突拍子もないことだった。
ポムグレとは、陽南──土橋詩音が声をあてているコンテンツ「
「いつもは越戸さんと行ってたよね?」
「そうなんだけど、凛ちゃんがその日、別のバンドのヘルプで……」
「ならキャンセルすれば」
「やだ!」
つい最近知ったことだが、陽南はバンド及びアニメの準備段階でこのポムグレのメンバーに相当助けられたらしく、また日葵の声優である
「関係者席じゃなくて一般席だから、ね?」
「それはもっとヤバいんじゃないかな?」
「お兄ちゃんってことにしとく、配信でちょくちょく瑛士のことお兄ちゃんって体で話してるし!」
「……そうなの?」
「やっぱり配信は追いかけてなかったね」
「ついクセで……」
正直脳震盪でも起こしたような衝撃が顎に来た。カレシや恋人を家族、身内として誤魔化して話すというのは、オタク間ではよくある杞憂、邪推の類だ。他の声優や配信者の界隈でもお兄ちゃんのことを話す異性だと暗雲が立ち込めることがある。
まさか少なくとも詩音の配信ではそれが半分くらい事実だったということを目の前で証明されては、オタクとして足がもつれるのも致しかたなしというところだ。
「瑛士はお兄ちゃんみたいなもんだし、お姉の話も同じくらいするしお姉のカレシの話もする」
「ガチ恋勢は涙流してるよそれ」
「関係なくない?」
ひどすぎる。ガチ恋勢はお前にとって本当に大切(に扱わなければならない爆弾みたい)なファンなんだぞ! 一歩間違えれば炎上間違いなしだからな、こんな思いをするなら花や草に生まれたかったとか言われるんだからな!
「とにかく! その日はバイト入れないで、交通費もチケット代も私が持つから! なんなら凛ちゃんだけじゃなくて真鈴さんも来れないんだから」
「三人で行く予定だったのね……真鈴さんはなんで?」
「作曲家のカレとデート」
「やめて」
ついでのようにドラム担当の真鈴姐さんの恋愛事情がバラされて泣きそう。でも姐さんは確か今年で32歳だったか、うん幸せになってほしい。でもコンポーザーと付き合ってるとかそういう情報はガチでいらなかった。こんな思いをするなら以下略。
「──で、振り切れたの?」
「いえ、バイト先の店長にまでライブ行きたいってリークして休みにさせられました」
「わぁ、強引だぁ」
七月に入ってすぐ、雨ではなくともなんとなく習慣になってしまい、玲奈先輩と並んで歩いて駅まで向かっていく中で、俺は愚痴を展開していた。従妹がアニメ系バンドの声優兼アーティストで俺がそのオタクだということを知っているのは実のところ玲奈先輩だけだから、愚痴を零して共感してくれそうなのが先輩しかいない、というだけなのだが。
「確かに、芸能人の恋愛はスキャンダルだもんね」
「アイドルの恋愛スキャンダル級ですよ」
「良く燃えそうだねぇ」
「なんなら巻き込まれますよ、先輩も……俺の名前と大学晒されれば多分」
「他人事じゃないねぇそれは……んん、でもひとりで送り出すのも不安なんだよね?」
「まぁ……そりゃ」
俺としてはキャンセルしてほしいところだが、そうはいかないらしい。知らない間にすっかり陽南もポムグレのオタクになってしまったようで、俺に対してもヘブンズのライブ行けるなら絶対行くでしょと言われてぐうの音も出なかった。
「お兄ちゃんならセーフなんじゃない?」
「無茶でしょ、こうやって検索すれば杞憂のお言葉が羅列するのに」
「わぁ」
SNSの不特定多数という場とはいえ流石の玲奈先輩もドン引きである。かわいすぎると評判の詩音がいつも楽しそうに話す年の近いお兄ちゃんとかもうツーアウト越えてゲームセット判定出してる人まで居るんだよね。そこでうっかりバレてツーショット撮影されれば本当にゲームセットだ。なにせ今回の嘘兄の場合は杞憂でもなんでもない事実なんだし。
「ん~、ひとつだけ解決する方法があるんだけど……陽南ちゃんは嫌がるかなぁって」
「なんでしょう?」
「チケットは、二枚余ってるんだよね?」
「……え、まさか?」
「ふふ、お兄ちゃんとそのカノジョさんとのスリーショット、なら……さほど燃えないんじゃないかな?」
玲奈先輩の提案、それよりも上手で丸く収める具体策は、俺には出せなかった。
ただ絶対、陽南は嫌がるだろう。俺も嫌がられてまでこの提案を押し通す気はなかったし、最悪の場合は俺が不審者スタイルで行けば問題ない、はず。俺の方は有名人でもなんでもないし。
「わかった、いいよ」
「え……いいの?」
「うん、しょーがないもん」
──と思っていたのだが、意外なことに陽南はそれで妥協してくれた。これで炎上リスクはがくっと減ってよかった。
よかったのだが、問題はまだあって、先輩はまったくのオタクじゃないしライブは趣味でもない興味ない、曲を聴きたいならCDで充分だと言っていた。そんな先輩がライブ、しかも興味の欠片もないジャンルの音楽を聴きに行くのは、苦痛ではないのだろうか。しかも陽南が先輩にチケット代はまだしも交通費は出さないと言い切ったというのに。
「興味はなかったんだけどね~」
「なかったけど?」
「瑛士くんが好きなものを、食わず嫌いで別に興味ないって言いきっちゃうの……ひどいことだなぁって」
「俺は、酷いとは思いませんよ」
そんなもの生きてれば幾らでもあることだろう。先輩は結構本が好きで、お店が暇な時は客席で紅茶を飲みながら小説やマンガを読んで過ごしているらしいけど、きっとその先輩が面白いと思った本の大半は読んだこともないけど興味を持てないものだろうし、陽南の好きなアーティストも、あんまり興味を持ったことはない。
「そっかぁ」
「すみません……この言い方だと冷たいですかね」
「そうだね、でも瑛士くんはきっと……あんまり他人に興味がないのかもね」
「そうかもしれませんね」
例えドル6はキモオタが集う陰キャのコンテンツだとか、リアイベはライブで騒ぎたいだけのチンパンジーの集まりだとか、そうやって自分が好きなものを貶されても怒らない。嫌だなと思うことはあっても口には出さない。ただ相槌を打つだけだ。
それが他人に対して冷たい、興味がないというのならそうだろう。でも、先輩は優しくて暖かいから、俺がそういう冷たさに嫌な思いをして、ちゃんと口に出してくれる。
「嫌でしたか?」
「うん、寂しいって思ったな」
「俺は、先輩のそういうところを尊敬してますよ」
「……尊敬だけ?」
「え?」
「──好き、とか言ってくれないんだ?」
「尊敬です」
揶揄われている気配を感じて俺は先輩にノーを突き付ける。だいいち尊敬という言葉にはちゃんと好意も内包されているものだ。でもそれを口に出して美人で優しい先輩に釣られて告白するような勘違い非モテにはなりたくない。俺は分別のある非モテなんだ、と胸を張りたい。張れるようなことではないだろうけど。
「じゃあ、ライブ楽しみにしてるね」
「楽しいかどうかは、先輩次第ですけどね」
「うん、だから──楽しみにしてるね」
「……はい」
玲奈先輩の後ろ姿は、少しだけ嬉しそうに肩が弾んでいる気がした。
ともかく俺は、こんな経緯でまさかの推しでもある従妹と、オタクとは全く遠いところにいる先輩と共に、アニメバンドのライブに行くことになってしまったのだった。
贅沢なオタクだねぇ!