紫組に、ただいま   作:只野至

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女の子のミュウツーって可愛くないですか?


第1話 紫組へようこそ

第1話 紫組へようこそ

 

 娘の声が、頭の中に響いた。

 

『お父さん。朝』

 

 耳元から聞こえたわけではない。音のしない言葉が、眠りの底へ直接入り込んでくる。布団を頭までかぶっても、枕で耳を塞いでも、この声からは逃れられない。

 

 テレパシーというものは、目覚ましに使われるとなかなか厄介だった。

 

「……あと五分、待ってくれるかな」

 

『さっきも言った』

 

「そうだった?」

 

『言った』

 

 頬を指でつつかれる。仕方なく目を開けると、紫色の瞳がすぐ近くにあった。

 

 薄い灰色の体。すらりと長い手足。腹から背中へ続く紫色と、ゆっくり揺れる太い尻尾。ベッドの脇に浮かんでいる娘は、普通の人間の女の子ではない。

 

 ミュウツー。

 

 その名を知っている人でも、実物に出会ったことがある者は少ないだろう。強大なサイコパワーを持ち、私よりよほど難しいことを考えられるポケモンだ。

 

 名前はアンバー。うちの娘である。

 

 血のつながった親子ではないし、私が彼女を生み出したわけでもない。事情があって引き取り、一緒に暮らしてきた。今では、私の寝起きの悪さまで熟知している。

 

『起きた?』

 

「うん。おはよう、アンバー」

 

『おはよう』

 

 娘の口は動かない。返事はやはり、頭の中へ届いた。

 

 表情や視線と一緒に、声の調子も伝わってくる。今朝は短い言葉の奥に、少しだけ急かす気持ちが混じっていた。

 

 壁の時計を見る。仕事にはまだ余裕がある。

 

「今日は早起きだね。何か楽しみでもあるの?」

 

『パン屋さん。新しいの』

 

 昨日、商店街で見つけた張り紙のことらしい。

 

『売り切れる』

 

「開店したばかりだよ」

 

『だから行く』

 

 筋は通っている。

 

 私は布団をめくり、両足を床に下ろした。娘の朝食がかかっているなら、二度寝の許可は出そうになかった。

 

「着替えるから、下で待っていてね」

 

『五分』

 

「うん。今度は本当に」

 

 アンバーは満足したのか、床へ降りた。自分で扉を開け、尻尾を挟まないよう体を横にして出ていく。

 

 サイコパワーを使えば扉くらい簡単に動かせるが、家の中ではなるべく手を使う。何でも念力で済ませていた時期に、私がそう教えた。

 

 おかげで最近は、私がベッドから物を取ろうとして届かないときまで、手を貸してくれない。

 

『自分で取る』

 

 以前そう言われたときは、教育が行き届いているなと思った。

 

 洗面台で顔を洗う。鏡の中には、金色の髪をあちこちへ跳ねさせた男がいた。

 

 三十五歳。寝不足だと目元に年齢が出るが、顔立ちだけなら昔から女と間違われることもある。以前は面倒だった。今は、仕事で初対面の人を怖がらせにくいので助かっている。

 

 髪を整え、白いシャツに濃い紫のネクタイを合わせる。スーツの上着へ袖を通してから、もう一度鏡を見る。

 

 眉間の力を抜く。口元を少し緩める。

 

「おはようございます」

 

 声を出してみる。寝起きの低さを消し、少しゆっくり、柔らかく。

 

 これも身支度の一部だ。

 

 仕事で人と接する以上、こちらの機嫌で相手を緊張させたくない。声や表情を意識するようになって、長い。そのまま放っておくと愛想のない顔になるので、朝に一度確認している。

 

『四分』

 

 頭の中へ届いた報告に、作った笑顔が少し崩れた。

 

「計らなくても大丈夫だよ」

 

『あと一分』

 

 厳しい娘だった。

 

     *

 

 私の名前は、スカーレット・T・ヴァイオレット。

 

 仕事ではスカーレットと名乗るが、この街では大抵「スカさん」で通る。ハッコウシティに腰を据えて十数年、名前より先に用事を言われることも珍しくない。

 

「スカさん! 今日、午後から二人お願いできる?」

 

 今朝もそうだった。

 

 潮の匂いがする商店街で、青果店の奥さんが店先から手を振っている。

 

「おはようございます。荷下ろしですか?」

 

「そう。いつもより多くてね。主人の腰も、まだよくならなくて」

 

「それは心配ですね。予定を確認して、すぐお電話します」

 

「助かる。急な話で悪いね」

 

「困ったときに呼んでいただくための会社ですから」

 

 奥さんはほっと笑い、それから私の隣へ手を伸ばした。

 

「アンバーちゃん、今日は早いじゃない。ほら、これ持っていきな」

 

 つやのいいリンゴが二つ、娘の両手に載せられる。

 

『ありがとう』

 

「どういたしまして。お父さんにも一つあげるんだよ」

 

『考える』

 

「私の分もあると思っていたんだけどな」

 

 奥さんが声を上げて笑う。アンバーはリンゴを袋へ入れ、何事もなかったように歩き始めた。

 

 彼女のテレパシーは、私にだけ届くものではない。話しかけたい相手へ、言葉を送れる。今のやり取りも、奥さんにはきちんと聞こえている。

 

 初めて経験すると、突然頭の中に声が現れて驚く人が多い。ハッコウシティの人たちは、ほとんど慣れてしまっていた。

 

 魚屋の前を通れば店主が手を振る。掃除中のおじいさんには、アンバーの方から会釈する。角の喫茶店では、昨日彼女が鉢植えを倒さず運んでくれたと、店員に礼を言われた。

 

 娘にも、私の知らない付き合いがある。

 

 仕事中ずっと事務所にいるわけではないのだ。気が向けば街へ出て、知り合いと話して帰ってくる。たいてい、何か食べ物を持って。

 

 ボールは持っているが、普段アンバーを入れることはほとんどない。本人が入りたいと言ったときや、必要のある移動くらいだった。

 

 隣を歩ける娘を、私の都合だけでしまっておく理由はない。

 

 パン屋の入口では、焼きたての香りが一段と強くなった。

 

「ああ、アンバーちゃん。新しいの、できてるよ」

 

 店主が顔を上げる。娘はカウンターへまっすぐ進み、張り紙と同じパンを指さした。

 

『二つ』

 

「私も食べていいんだね」

 

『一つずつ』

 

 朝のリンゴについても、このくらい明確な返事がほしかった。

 

 代金を払って袋を受け取ると、店主がアンバーへ身を寄せた。

 

「感想、聞かせてね。甘すぎないようにしたんだけど」

 

『ちゃんと食べる』

 

「うん、頼りにしてる」

 

 娘は真剣にうなずいた。

 

 通りへ出たところで、旅行鞄を引いた男性がこちらを見て足を止める。

 

 視線はアンバーに釘づけだった。

 

「そのポケモン……もしかして、ミュウツー……?」

 

「はい。名前はアンバーといいます」

 

 男性は何度もまばたきをした。

 

「本当に……? こんなところに……」

 

 娘は軽く会釈し、パンの袋を少し持ち上げる。

 

『新しいの。まだある』

 

「……え?」

 

「そこの角のお店ですよ」

 

 私も道を示す。

 

 男性が言葉を探している間に、通りの向こうから声がした。

 

「アンバーちゃん、帰りにうち寄って! お花、届いたから!」

 

 花屋の店員へ、娘が手を振り返す。

 

 男性は、その様子をじっと見ていた。

 

「この街では、皆さん、知ってるんですか」

 

「ええ。長く暮らしていますから」

 

 男性はもう一度アンバーを見て、それから小さく笑った。

 

「……すごい街ですね」

 

 否定はできなかった。

 

     *

 

 事務所の前で、黒いスーツの男が二人、軽トラックへ荷物を積んでいた。

 

 一人は剃った頭に太い首。もう一人は頬に傷があり、黙っていると大抵の人が目を逸らす。二人とも、ジャケットの下には作業用のシャツを着ている。

 

「おはようございやす、オヤジ!」

 

 私を見るなり、そろって腰を折った。

 

「おはよう。これから設営?」

 

「へい。机と景品は積み終わりました。昼までには片づけて戻ります」

 

「ありがとう。先方のお子さんが手伝いたがるかもしれないけど、重いものは任せないでね」

 

「承知しやした。そっちは、うちの若いのにやらせます」

 

 荷台には折り畳み机と、子ども向けの景品が載っていた。ぬいぐるみの袋を抱えている方の男は、昨晩それらを種類別に分ける仕事をしていたらしい。

 

 ピンクのリボンが一本、袖にくっついている。

 

「そこ、リボンが残ってるよ」

 

「おっと。失礼しやした」

 

 男が袖からリボンを外すと、アンバーが手を差し出した。

 

『もらう』

 

「へい、お嬢。どうぞ」

 

 彼女は袋の持ち手へリボンを結び、満足そうに眺めた。

 

 ガラス戸を開ける。正面に受付、その奥に机が並び、窓際には応接用のソファとテーブル。私の席は低い間仕切りの向こうだ。奥には給湯室があり、昼になると弁当を温める列ができる。

 

 ここが紫組の本社である。

 

 名前や外見から誤解されることは多いが、事業は人材派遣と業務請負だ。店の繁忙期に人を出し、催しの設営を請け負い、荷物を運ぶ。各街の支社も、それぞれの地域で似た仕事をしている。

 

 あちこちで手伝いをしているうちに、一人では手が回らなくなった。助けてくれる人が増え、仕事を頼まれる範囲も広がり、気がつけば会社になっていた。

 

 今では私の主な仕事も、現場で荷物を持つことから、人と予定と金額の調整へ変わっている。

 

「組長、おはようございます」

 

 奥の机から男が立ち上がった。派手な柄のシャツに紫の腕章。机には電卓と見積書がきれいに並んでいる。

 

「今日の配置です。午前の応援は、全員入りました」

 

「ありがとう。午後の青果店に、二人お願いできるかな」

 

「人は押さえられます。若いのを一人つけて、仕事も覚えさせようかと」

 

「うん。慣れた人と組ませてあげてね」

 

「心得ております」

 

 私は一応、社長である。

 

 だが、組員たちからそう呼ばれることはほとんどない。「組長」か「オヤジ」。最初は訂正していたが、誰一人直す様子がないので、そのうち諦めた。

 

 外ではできれば控えてほしいと頼んだこともある。

 

 その翌日、銀行で「父親がお世話になっております」と深々頭を下げられたときには、そういう意味(闇金)ではないと説明するのも疲れてしまった。

 

 アンバーは応接ソファの端へ座り、パンの袋を膝に置いた。

 

 窓辺にいたサーナイトが、濡らした布巾を持ってくる。エルレイドはテーブルの書類を片づけ、娘のために場所を空けていた。

 

『ありがと』

 

 二匹とも、うなずいた。

 

 私の普段の手持ちは六匹。ニドキングとニドクイン、サーナイトとエルレイド、ソウブレイズとグレンアルマだ。

 

 それぞれ二匹で動くことが多い。長く一緒にいると、相手が何をしたいかも分かるらしい。仕事を手伝うときも、その呼吸の合い方にはよく助けられる。

 

 サーナイトが布巾を渡す間に、エルレイドが空の袋を片づける。私が朝食を食べ損ねそうなら、どちらかが机の端へ皿を置く。

 

 今朝も、私のパンは無事に確保されていた。

 

     *

 

 青果店へ電話をかけ、午後の人数を伝えた。見積書を二枚確認し、支社から届いた報告へ返信する。

 

 その間にパンが冷めた。

 

 これくらいは、いつものことだった。

 

 ようやく袋を開けようとしたところで、受付の男が入口へ顔を向ける。

 

「どちらさんで?」

 

 ガラス戸の前に女性が立っていた。

 

 片手に封筒、もう片方にスマートフォン。看板と画面を交互に見ている。どうやら、ここで合っているか確認していたらしい。

 

 男の声に、女性の背筋が伸びた。

 

「す、すみません。間違えました」

 

「いや、お待ちを。何かご用がおありで?」

 

 男が扉を開ける。逃げ道を塞いだように見えたのは、本人には気の毒だが、事実だった。

 

 私は席を立った。

 

「おはようございます。ご相談でしょうか?」

 

 男の横へ出て、歩幅を落とす。口元を緩め、女性と少し距離を取った。

 

「こちら、紫組さん……ですか?」

 

「はい。代表のスカーレットです」

 

「人材派遣の……」

 

「ええ。お仕事のご相談ですか? それとも、人手が必要でしょうか」

 

 女性が封筒を持ち直す。

 

「引っ越しで、少し困っていて。友人に、こちらへ頼むといいと言われたんです」

 

「そうでしたか。よろしければ、中でお話を聞かせてください」

 

 声を少し柔らかくした。受付の男にも、先に席へ戻ってもらう。

 

 女性はためらいながら一歩入り、応接ソファを見て止まった。

 

 娘がパンを食べていた。

 

 向こうも客に気づいて、顔を上げる。

 

『おはよう』

 

 女性が周囲を見回した。

 

「今、誰か……」

 

「アンバーがご挨拶したんですよ。テレパシーで話すんです」

 

 娘がパンを袋へ戻し、両手を軽く上げた。

 

『こっち』

 

 女性の視線が、ようやく娘へ戻る。

 

「ミュウツー……?」

 

「はい。驚かせてしまいましたね」

 

「すみません。本でしか、見たことがなくて……」

 

 そこで黙っていればよかったのだが、受付の男が背後から顔を出した。

 

「お嬢に何か失礼でも?」

 

 女性が固まる。

 

「その聞き方は、やめてあげようね」

 

「すみません、オヤジ」

 

 男は素直に引っ込んだ。

 

 私も一つ、息を整える。

 

「アンバーはうちの娘です。この街で一緒に暮らしていますから、怖がらなくて大丈夫ですよ」

 

「娘さん……?」

 

「ええ。私が父親代わりでして」

 

 今度は、女性もゆっくりうなずいた。

 

 娘が座る位置を少しずらす。

 

『ここ、座って』

 

 私は向かいの椅子を引いた。

 

「お茶をお持ちしますね。まずは、何にお困りか聞かせてください」

 

     *

 

 女性の名前はミナといった。

 

 昨日、この街へ越してきたばかりで、商店の事務の仕事に就く予定だという。引っ越し代を少し抑えようと、友人に手伝ってもらい、荷物を自分たちで運んでいた。

 

「棚が、階段で動かなくなってしまって」

 

 スマートフォンの写真には、踊り場へ斜めに挟まった木製の棚が写っていた。手すりには毛布、角には厚紙。傷をつけないように気を配った跡がある。

 

「上にも下にも動かせなくなって。友人は今日仕事なので、もう来られなくて」

 

「一人で動かそうとは、していませんか?」

 

「少しだけ……でも、怖くてやめました」

 

「それならよかった。怪我をされなくて何よりです」

 

 写真を拡大する。棚の脚は外せそうだった。

 

 踊り場の幅と棚の大きさを聞く。ミナさんは封筒から間取り図を出し、手書きの寸法を指さした。

 

 よく準備してきてくれたらしい。

 

「大切な棚なんですね」

 

「母が、持っていきなさいって。新しいのを買えばいいと言ったんですけど」

 

 少し困ったように笑った。

 

「実家では、これに私の本を入れてたんです。それで、結局置いてこられなくて」

 

 私は写真へ目を戻した。

 

「なるべく傷めずに運べる方法を考えましょう。今、階段を使えない方はいらっしゃいますか?」

 

「隣の方が。怒られはしなかったんですけど、申し訳なくて……」

 

 予定表を見る。

 

 午前の設営班は、もう戻るはずだった。片方の現場は、少し長引いている。何もなければ、戻った二人を向かわせられる。

 

 人が出払っているときは、私が行く。スーツを脱いで作業着へ着替えればいい。ただ、今は先方への連絡と午後の調整も残っていた。

 

 手を動かせることと、私がその仕事をするべきかは別だ。

 

「十分ほどで担当が戻ります。現場を確認して、作業前に料金をご説明しますね」

 

 大まかな金額と、作業が増えた場合の扱いを伝える。

 

 ミナさんは熱心に聞き、最後に大きく息を吐いた。

 

「よかった……もっと、すごい金額かと思ってました」

 

「普通の会社ですからね」

 

「あっ、そういう意味では……」

 

「大丈夫ですよ。よく言われます」

 

 彼女がようやく笑った。

 

 アンバーも、袋からパンを取り出す。

 

『冷める』

 

「ああ、ごめんなさい。食べていたのに」

 

『平気』

 

 少し考えたあと、娘は私の方を見た。

 

『お父さんのも冷めた』

 

「私のことは、内緒にしてくれてよかったんだけどな」

 

 ミナさんの笑い声が、さっきより大きくなった。

 

     *

 

「組長、戻りやした!」

 

 扉が開いて、朝の二人が入ってきた。今はジャケットを脱ぎ、紫の作業着姿だ。

 

 ミナさんの肩が一度跳ねる。

 

「お帰り。早速で悪いんだけど、ご依頼をお願いできるかな」

 

「へい。どちらへ伺えば?」

 

 写真と間取りを見せ、作業内容を伝える。二人の顔つきが変わった。片方は写真を拡大し、もう片方は寸法を手帳へ書き込んでいる。

 

「脚を外せそうですね。工具は車にあります」

 

「毛布も追加で持っていきやす。階段、古い建物ですか?」

 

「はい。手すりが木で……」

 

「でしたら、そっちも養生してから動かします」

 

 質問の内容を聞いて、ミナさんが少しずつ前へ身を乗り出した。

 

 言葉遣いは相変わらずだが、二人ともこの仕事に慣れている。

 

 重い棚なので、ニドキングとニドクインにも手伝ってもらうことにした。

 

 ボールから出てきた二匹が、テーブルの写真へ顔を寄せる。ニドクインが棚の脚を指さし、ニドキングはその指先を見てうなずいた。

 

 ニドキングは力に自信がある。ニドクインは周囲を見るのが得意だ。片方が持ち上げようとする前に、もう片方が人や荷物の位置を確認する。

 

「無理に引っ張らないようにね。皆で相談しながら」

 

 二匹が顔を上げる。

 

 担当者も、ミナさんへ深々と頭を下げた。

 

「お任せください。きっちり仕事させていただきます」

 

 彼女は少し驚いてから、同じくらい深く頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

 玄関で靴を履き直している彼女へ、私は名刺を渡した。

 

「途中で気になることがあれば、こちらへお電話ください」

 

 ミナさんは名刺の表を読み、裏の連絡先を確かめた。

 

「……あの。最初、別の場所かと思ってしまって。すみませんでした」

 

「看板も、少し紛らわしいですよね」

 

「いえ。その、皆さんが……」

 

「それも、よく言われます」

 

 今度は、彼女も遠慮なく笑った。

 

 アンバーがソファから手を振る。

 

『また来て』

 

「はい。アンバーちゃんも、ありがとう」

 

 扉が閉じる。

 

 娘はパンの最後の一口を食べてから、こちらを見た。

 

『お父さん』

 

「何かな」

 

『娘って言う前に、名前』

 

「うん。今日は言えたと思うんだけど」

 

『受付の人にも教える』

 

 つまり受付の段階でアンバー(ミュウツー)がいる事を逆に伝えなさい、と。

私は受付の男を見た。

 

 彼は電卓を打ちながら、こちらの会話を聞いていたらしい。

 

「お嬢、ごもっともです」

 

 娘が少しだけ、胸を張った。

 

     *

 

 昼前に、作業完了の電話が届いた。

 

「棚も壁も傷なしです。残りの荷物も運び終えました」

 

「ありがとう。休憩を取ってから戻ってきてね」

 

「へい。それと、お客さんからニド夫婦の二匹にも礼をしたいと。帰りに差し入れをいただきました」

 

 作業終了の電話を終え受話器を置くと、オフィスのガラス戸が開いた。

 

「こんちゃー! スカさん、いるー?」

 

 途端に、組員たちの背筋が伸びる。

 

「姐御、お疲れさまです!」

 

「姐(あね)さん、お荷物お持ちします!」

 

「おい、応接空けろ!」

 

「普通に入れるってば! お客さんいたらびっくりするでしょ!」

 

 ナンジャモが、大きな袖を揺らしながら入ってきた。

 

 ハッコウシティのジムリーダーで、人気のストリーマー。そして、うちの組員でもある。

 

 彼女を見た人がさらに会社の正体を疑うこともあるが、所属についてはきちんと契約を交わしている。紫組は配信のスポンサーであり、催しや撮影で必要になれば、スタッフの手配もする。

 

 私自身は、今ほど多くの人に知られる前から彼女を知っていた。

 

 昔の話をすると、本人に止められる。恥ずかしいらしい。

 

「お昼、まだでしょ?」

 

 手にしたお弁当の袋を持ち上げられる。

 

「まだだけど……私たちの分も?」

 

「そ! 三人分。アンバーちゃんの好きそうなのも買ってきたよ」

 

 娘がすぐにソファを空けた。

 

『姉御。ここ』

 

「アンバーちゃんまで、その呼び方覚えちゃったの!?」

 

『みんな言ってる』

 

「君は、名前で呼んであげようね」

 

 ナンジャモが袋を置く。アンバーの分には、小さなデザートまでついていた。

 

 私が財布を出すと、彼女は大げさに首を振った。

 

「今日はボクがおごるって。いつもお世話になってますので!」

 

「じゃあ、次は私が用意するね」

 

「そのときは、一緒に買いに行こうよ」

 

「うん。何がいいか教えてね」

 

 彼女は一度口を開けて、それから閉じた。

 

 向かいでアンバーが、尻尾をゆっくり揺らす。

 

『一緒に行くのがいいんだって』

 

「アンバーちゃん!」

 

 ナンジャモの声が少し高くなった。

 

 私は娘を見た。

 

「気持ちを勝手に覗いてはだめだよ」

 

『見てない。顔』

 

 ナンジャモは袖で口元を隠した。

 

「……とりあえず、食べよ?」

 

 うなずいて、弁当のふたを開ける。

 

 アンバーには、テレパシーで言葉を送る力のほかに、相手の気持ちを感じ取る力もある。傷ついたポケモンを癒すこともできる。

 

 その力は、私にとって特別な意味を持つものだった。

 

 だが、使えるからといって、いつでも使っていいわけではない。娘にも、そう話している。彼女自身も、人から何でも知られていると思われるのは嫌らしい。

 

 今の指摘が本当に顔だけを見た結果なら、父親よりずっと観察力がある。

 

「オヤジ、こちらに目を通していただけますか」

 

 組員が書類を持ってきた。

 

「ありがとう。今――」

 

「それ、急ぎ?」

 

 ナンジャモが顔を上げる。

 

「いえ、姐(あね)さん。午後で構いません」

 

「じゃあ、スカさんにご飯食べさせてあげて」

 

「失礼しやした!」

 

 書類が速やかに撤収された。

 

「私が頼むより、よく聞いてくれるね」

 

「スカさんが何でもすぐ引き受けるからでしょ」

 

『そう』

 

 娘までうなずく。

 

 私は逃げるように箸を取り直した。

 

「さて、ご飯にしようか」

 

 隣でナンジャモが笑った。

 

     *

 

 昼食後、来週の配信で使う会場と、必要な人数を相談した。

 

 彼女は画面に映る部分だけでなく、その裏で動く人のこともよく考える。休憩の取り方や搬入の時間まで確認し、無理な予定には自分から修正を入れた。

 

 組員たちが彼女を慕うのは、名前が売れているからだけではない。

 

「この時間なら、撤収の人も間に合う?」

 

「うん。ただ、車を一台増やした方がよさそうだね」

 

「じゃ、それでお願い。必要な費用も出して」

 

 見積もりに追記したところで、電話が鳴った。

 

 商店街の催しを準備している担当者からだった。午後の風が思ったより強くなり、道路標識サイズの大きめな案内板が倒れそうだという。

 

「今、子どもたちは近くにいますか?」

 

「まだ始まってないから、大丈夫。でも、倒して壊すと困るし……」

 

「触らずに待っていてください。こちらで見ます」

 

 予定表を確認する。

 

 午後の班はもう出発していた。今いる組員は電話と受付の担当。もう一人は、支社と人員の入れ替えを調整している最中だ。

 

 設営場所までは歩いて数分。私が行くのが早い。

 

「ごめんね、ナンジャモ。少しだけ、席を外してもいいかな」

 

「いいけど、人がいないの?」

 

「近いから、私が見てくるよ。続きは戻ってからでも大丈夫?」

 

「もちろん。ボクも行く。会場の人に顔出しときたいし」

 

 私は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。奥に置いてある作業着へ着替える。

 

 鏡の前で整えたスーツも、半日でハンガーへ戻ることになった。

 

 工具箱を取ると、アンバーが立っていた。

 

『行く』

 

「風で物が飛ぶかもしれないから、近づきすぎないでね」

 

『お父さんも』

 

「気をつけるよ」

 

 二つのボールを手に取り、受付へ声をかける。

 

「電話をお願いね。何かあれば、すぐ連絡して」

 

「へい、オヤジ。お気をつけて」

 

     *

 

 広場では、飾りつけの旗が音を立てていた。

 

 問題の案内板は、催しの入口付近に設置された大きなものだった。支柱は安定しているが、後からつけた飾りが風を受け、全体を揺らしている。

 

 担当者が駆け寄ってきた。

 

「スカさん、ごめんね。うちで飾りを増やしたら、こんなことに」

 

「怪我をした人がいなくてよかったです。まず、周りを空けていただけますか」

 

 工具箱を置いて、二匹を出す。

 

 ソウブレイズとグレンアルマ。ともに炎の力を持つが、こんな場所で使うのは当然、別の得意分野だ。

 

「ソウブレイズ、向こうから人が入らないよう見ていてね。グレンアルマは、板を支えてくれるかな」

 

 二匹が動く。

 

 グレンアルマは案内板の背へ回り、支柱を支えた。ソウブレイズは両腕の刃が人に触れないよう、通路の端で体の向きを変える。

 

 事情を聞いたナンジャモも、近くに集まった子どもたちへ声をかけた。

 

「はいはーい、こっちで待ってようね。今、スカさんたちがお仕事中なので!」

 

 子どもの視線が彼女へ向く。その隙に私は留め具を外し、余分な飾りを下ろした。

 

 脚の重りを足し、支柱を確認する。風が吹いても、先ほどのようには揺れなくなった。

 

「これで一度、様子を見てください。風がもっと強くなったら、板は屋内へ移しましょう」

 

「助かった。やっぱりスカさんに頼めば安心だね」

 

 礼を言われ、工具を片づける。

 

 振り返ると、アンバーが足元のリボンを拾っていた。飛ばされたものを、一つずつ袋へ入れている。

 

 必要なら念力でまとめられるはずだが、今はしゃがんで拾う方を選んだらしい。

 

 近くの子どもが真似して、紙の飾りを持ってくる。

 

「アンバーちゃん、これも?」

 

『うん。ありがとう』

 

 子どもは頭に届いた返事にも驚かず、また一枚拾いに走った。

 

 娘がこちらを見た。

 

『終わった?』

 

「うん。手伝ってくれてありがとうね」

 

 ナンジャモが、その横でにこにこしていた。

 

「スカさん、作業着も似合うよね」

 

「汚れても気にならないから、楽ではあるね」

 

「そういう話じゃなくて」

 

 娘が小さく首をかしげる。

 

『また顔』

 

「アンバーちゃん、今は実況しなくていいから!」

 

     *

 

 事務所へ戻ると、ミナさんが待っていた。

 

 午前中とは違い、入口で迷った様子はない。足元には、小さなパモがいる。

 

「早速、また来てしまって。お礼を言いたくて」

 

「棚は大丈夫でしたか?」

 

「はい。きれいに置いていただいて。部屋も片づいたので、この子を迎えに行けたんです」

 

 パモが彼女の足へ寄り、アンバーを見上げる。

 

 娘は少し離れたところでしゃがんだ。見慣れない相手には、大きい体が怖いこともある。

 

『こんにちは』

 

 ミナさんも声を受け取ったらしく、笑った。

 

「この子にも、話してるんですか?」

 

「ええ。ちゃんと、ご挨拶しているようですよ」

 

 パモが一歩近づく。

 

 アンバーはそのまま待った。伸ばした手の匂いを確かめられ、指先に小さな前足が触れる。

 

 私は工具箱を棚へ戻した。

 

 ミナさんが受付の男へ頭を下げる。

 

「さっきは、皆さんにも失礼な態度を取ってしまって」

 

「とんでもない。こちらこそ、驚かせちまいました。慣れねえ街で、お困りならいつでもどうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 男は照れたように、眉の傷を指でかいた。

 

 差し入れの菓子を取り出すと、アンバーがこちらへ顔を向ける。

 

「これは、ニドキングとニドクインにいただいたんだよ」

 

『分かってる』

 

 一拍置いて、娘が付け足した。

 

『一個もらえるか、聞く』

 

「じゃあ、二匹が良いって言ったらね」

 

 隣でナンジャモが吹き出す。

 

 つられて私も笑った。口元の形も、声の柔らかさも、確認する暇はなかった。

 

 アンバーは目を細め、それからパモへ向き直る。

 

「来る前は、どうしようって思ってたんです。知らない街で、誰に頼めばいいかも分からなくて」

 

「そういうときは、遠慮なく声をかけてください」

 

「はい。……ここに来てよかったです」

 

 私はうなずいた。

 

 机の電話が鳴る。組員が受話器を取って、いつもより少し柔らかい声で会社名を告げた。

 

 窓の外では、風がまだ旗を揺らしている。

 

 明日から仕事を始める人。午後の現場へ向かう人。友達と小さく挨拶を交わしている娘。

 

 戻ってきた私の椅子には、ハンガーに掛けた上着と、まだ返事をしていない書類があった。

 

 ナンジャモが隣から、見積書を差し出す。

 

「スカさん、続き、お願いしていい?」

 

「うん。待っていてくれて、ありがとう」

 

 椅子を引いて、彼女の方へ向ける。

 

 アンバーの声が、頭の中へ届いた。

 

『お父さん』

 

「何かな」

 

『明日も、パン屋さん行く』

 

 私はペンを持ったまま、娘を見た。

 

「今度は、五分早く起きようね」

 

『お父さんがね』

 

 事務所に笑い声が広がった。




とりあえず主人公のセットをチャッピーに入力して書かせてみた。実験。
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