第1話 紫組へようこそ
娘の声が、頭の中に響いた。
『お父さん。朝』
耳元から聞こえたわけではない。音のしない言葉が、眠りの底へ直接入り込んでくる。布団を頭までかぶっても、枕で耳を塞いでも、この声からは逃れられない。
テレパシーというものは、目覚ましに使われるとなかなか厄介だった。
「……あと五分、待ってくれるかな」
『さっきも言った』
「そうだった?」
『言った』
頬を指でつつかれる。仕方なく目を開けると、紫色の瞳がすぐ近くにあった。
薄い灰色の体。すらりと長い手足。腹から背中へ続く紫色と、ゆっくり揺れる太い尻尾。ベッドの脇に浮かんでいる娘は、普通の人間の女の子ではない。
ミュウツー。
その名を知っている人でも、実物に出会ったことがある者は少ないだろう。強大なサイコパワーを持ち、私よりよほど難しいことを考えられるポケモンだ。
名前はアンバー。うちの娘である。
血のつながった親子ではないし、私が彼女を生み出したわけでもない。事情があって引き取り、一緒に暮らしてきた。今では、私の寝起きの悪さまで熟知している。
『起きた?』
「うん。おはよう、アンバー」
『おはよう』
娘の口は動かない。返事はやはり、頭の中へ届いた。
表情や視線と一緒に、声の調子も伝わってくる。今朝は短い言葉の奥に、少しだけ急かす気持ちが混じっていた。
壁の時計を見る。仕事にはまだ余裕がある。
「今日は早起きだね。何か楽しみでもあるの?」
『パン屋さん。新しいの』
昨日、商店街で見つけた張り紙のことらしい。
『売り切れる』
「開店したばかりだよ」
『だから行く』
筋は通っている。
私は布団をめくり、両足を床に下ろした。娘の朝食がかかっているなら、二度寝の許可は出そうになかった。
「着替えるから、下で待っていてね」
『五分』
「うん。今度は本当に」
アンバーは満足したのか、床へ降りた。自分で扉を開け、尻尾を挟まないよう体を横にして出ていく。
サイコパワーを使えば扉くらい簡単に動かせるが、家の中ではなるべく手を使う。何でも念力で済ませていた時期に、私がそう教えた。
おかげで最近は、私がベッドから物を取ろうとして届かないときまで、手を貸してくれない。
『自分で取る』
以前そう言われたときは、教育が行き届いているなと思った。
洗面台で顔を洗う。鏡の中には、金色の髪をあちこちへ跳ねさせた男がいた。
三十五歳。寝不足だと目元に年齢が出るが、顔立ちだけなら昔から女と間違われることもある。以前は面倒だった。今は、仕事で初対面の人を怖がらせにくいので助かっている。
髪を整え、白いシャツに濃い紫のネクタイを合わせる。スーツの上着へ袖を通してから、もう一度鏡を見る。
眉間の力を抜く。口元を少し緩める。
「おはようございます」
声を出してみる。寝起きの低さを消し、少しゆっくり、柔らかく。
これも身支度の一部だ。
仕事で人と接する以上、こちらの機嫌で相手を緊張させたくない。声や表情を意識するようになって、長い。そのまま放っておくと愛想のない顔になるので、朝に一度確認している。
『四分』
頭の中へ届いた報告に、作った笑顔が少し崩れた。
「計らなくても大丈夫だよ」
『あと一分』
厳しい娘だった。
*
私の名前は、スカーレット・T・ヴァイオレット。
仕事ではスカーレットと名乗るが、この街では大抵「スカさん」で通る。ハッコウシティに腰を据えて十数年、名前より先に用事を言われることも珍しくない。
「スカさん! 今日、午後から二人お願いできる?」
今朝もそうだった。
潮の匂いがする商店街で、青果店の奥さんが店先から手を振っている。
「おはようございます。荷下ろしですか?」
「そう。いつもより多くてね。主人の腰も、まだよくならなくて」
「それは心配ですね。予定を確認して、すぐお電話します」
「助かる。急な話で悪いね」
「困ったときに呼んでいただくための会社ですから」
奥さんはほっと笑い、それから私の隣へ手を伸ばした。
「アンバーちゃん、今日は早いじゃない。ほら、これ持っていきな」
つやのいいリンゴが二つ、娘の両手に載せられる。
『ありがとう』
「どういたしまして。お父さんにも一つあげるんだよ」
『考える』
「私の分もあると思っていたんだけどな」
奥さんが声を上げて笑う。アンバーはリンゴを袋へ入れ、何事もなかったように歩き始めた。
彼女のテレパシーは、私にだけ届くものではない。話しかけたい相手へ、言葉を送れる。今のやり取りも、奥さんにはきちんと聞こえている。
初めて経験すると、突然頭の中に声が現れて驚く人が多い。ハッコウシティの人たちは、ほとんど慣れてしまっていた。
魚屋の前を通れば店主が手を振る。掃除中のおじいさんには、アンバーの方から会釈する。角の喫茶店では、昨日彼女が鉢植えを倒さず運んでくれたと、店員に礼を言われた。
娘にも、私の知らない付き合いがある。
仕事中ずっと事務所にいるわけではないのだ。気が向けば街へ出て、知り合いと話して帰ってくる。たいてい、何か食べ物を持って。
ボールは持っているが、普段アンバーを入れることはほとんどない。本人が入りたいと言ったときや、必要のある移動くらいだった。
隣を歩ける娘を、私の都合だけでしまっておく理由はない。
パン屋の入口では、焼きたての香りが一段と強くなった。
「ああ、アンバーちゃん。新しいの、できてるよ」
店主が顔を上げる。娘はカウンターへまっすぐ進み、張り紙と同じパンを指さした。
『二つ』
「私も食べていいんだね」
『一つずつ』
朝のリンゴについても、このくらい明確な返事がほしかった。
代金を払って袋を受け取ると、店主がアンバーへ身を寄せた。
「感想、聞かせてね。甘すぎないようにしたんだけど」
『ちゃんと食べる』
「うん、頼りにしてる」
娘は真剣にうなずいた。
通りへ出たところで、旅行鞄を引いた男性がこちらを見て足を止める。
視線はアンバーに釘づけだった。
「そのポケモン……もしかして、ミュウツー……?」
「はい。名前はアンバーといいます」
男性は何度もまばたきをした。
「本当に……? こんなところに……」
娘は軽く会釈し、パンの袋を少し持ち上げる。
『新しいの。まだある』
「……え?」
「そこの角のお店ですよ」
私も道を示す。
男性が言葉を探している間に、通りの向こうから声がした。
「アンバーちゃん、帰りにうち寄って! お花、届いたから!」
花屋の店員へ、娘が手を振り返す。
男性は、その様子をじっと見ていた。
「この街では、皆さん、知ってるんですか」
「ええ。長く暮らしていますから」
男性はもう一度アンバーを見て、それから小さく笑った。
「……すごい街ですね」
否定はできなかった。
*
事務所の前で、黒いスーツの男が二人、軽トラックへ荷物を積んでいた。
一人は剃った頭に太い首。もう一人は頬に傷があり、黙っていると大抵の人が目を逸らす。二人とも、ジャケットの下には作業用のシャツを着ている。
「おはようございやす、オヤジ!」
私を見るなり、そろって腰を折った。
「おはよう。これから設営?」
「へい。机と景品は積み終わりました。昼までには片づけて戻ります」
「ありがとう。先方のお子さんが手伝いたがるかもしれないけど、重いものは任せないでね」
「承知しやした。そっちは、うちの若いのにやらせます」
荷台には折り畳み机と、子ども向けの景品が載っていた。ぬいぐるみの袋を抱えている方の男は、昨晩それらを種類別に分ける仕事をしていたらしい。
ピンクのリボンが一本、袖にくっついている。
「そこ、リボンが残ってるよ」
「おっと。失礼しやした」
男が袖からリボンを外すと、アンバーが手を差し出した。
『もらう』
「へい、お嬢。どうぞ」
彼女は袋の持ち手へリボンを結び、満足そうに眺めた。
ガラス戸を開ける。正面に受付、その奥に机が並び、窓際には応接用のソファとテーブル。私の席は低い間仕切りの向こうだ。奥には給湯室があり、昼になると弁当を温める列ができる。
ここが紫組の本社である。
名前や外見から誤解されることは多いが、事業は人材派遣と業務請負だ。店の繁忙期に人を出し、催しの設営を請け負い、荷物を運ぶ。各街の支社も、それぞれの地域で似た仕事をしている。
あちこちで手伝いをしているうちに、一人では手が回らなくなった。助けてくれる人が増え、仕事を頼まれる範囲も広がり、気がつけば会社になっていた。
今では私の主な仕事も、現場で荷物を持つことから、人と予定と金額の調整へ変わっている。
「組長、おはようございます」
奥の机から男が立ち上がった。派手な柄のシャツに紫の腕章。机には電卓と見積書がきれいに並んでいる。
「今日の配置です。午前の応援は、全員入りました」
「ありがとう。午後の青果店に、二人お願いできるかな」
「人は押さえられます。若いのを一人つけて、仕事も覚えさせようかと」
「うん。慣れた人と組ませてあげてね」
「心得ております」
私は一応、社長である。
だが、組員たちからそう呼ばれることはほとんどない。「組長」か「オヤジ」。最初は訂正していたが、誰一人直す様子がないので、そのうち諦めた。
外ではできれば控えてほしいと頼んだこともある。
その翌日、銀行で「父親がお世話になっております」と深々頭を下げられたときには、
アンバーは応接ソファの端へ座り、パンの袋を膝に置いた。
窓辺にいたサーナイトが、濡らした布巾を持ってくる。エルレイドはテーブルの書類を片づけ、娘のために場所を空けていた。
『ありがと』
二匹とも、うなずいた。
私の普段の手持ちは六匹。ニドキングとニドクイン、サーナイトとエルレイド、ソウブレイズとグレンアルマだ。
それぞれ二匹で動くことが多い。長く一緒にいると、相手が何をしたいかも分かるらしい。仕事を手伝うときも、その呼吸の合い方にはよく助けられる。
サーナイトが布巾を渡す間に、エルレイドが空の袋を片づける。私が朝食を食べ損ねそうなら、どちらかが机の端へ皿を置く。
今朝も、私のパンは無事に確保されていた。
*
青果店へ電話をかけ、午後の人数を伝えた。見積書を二枚確認し、支社から届いた報告へ返信する。
その間にパンが冷めた。
これくらいは、いつものことだった。
ようやく袋を開けようとしたところで、受付の男が入口へ顔を向ける。
「どちらさんで?」
ガラス戸の前に女性が立っていた。
片手に封筒、もう片方にスマートフォン。看板と画面を交互に見ている。どうやら、ここで合っているか確認していたらしい。
男の声に、女性の背筋が伸びた。
「す、すみません。間違えました」
「いや、お待ちを。何かご用がおありで?」
男が扉を開ける。逃げ道を塞いだように見えたのは、本人には気の毒だが、事実だった。
私は席を立った。
「おはようございます。ご相談でしょうか?」
男の横へ出て、歩幅を落とす。口元を緩め、女性と少し距離を取った。
「こちら、紫組さん……ですか?」
「はい。代表のスカーレットです」
「人材派遣の……」
「ええ。お仕事のご相談ですか? それとも、人手が必要でしょうか」
女性が封筒を持ち直す。
「引っ越しで、少し困っていて。友人に、こちらへ頼むといいと言われたんです」
「そうでしたか。よろしければ、中でお話を聞かせてください」
声を少し柔らかくした。受付の男にも、先に席へ戻ってもらう。
女性はためらいながら一歩入り、応接ソファを見て止まった。
娘がパンを食べていた。
向こうも客に気づいて、顔を上げる。
『おはよう』
女性が周囲を見回した。
「今、誰か……」
「アンバーがご挨拶したんですよ。テレパシーで話すんです」
娘がパンを袋へ戻し、両手を軽く上げた。
『こっち』
女性の視線が、ようやく娘へ戻る。
「ミュウツー……?」
「はい。驚かせてしまいましたね」
「すみません。本でしか、見たことがなくて……」
そこで黙っていればよかったのだが、受付の男が背後から顔を出した。
「お嬢に何か失礼でも?」
女性が固まる。
「その聞き方は、やめてあげようね」
「すみません、オヤジ」
男は素直に引っ込んだ。
私も一つ、息を整える。
「アンバーはうちの娘です。この街で一緒に暮らしていますから、怖がらなくて大丈夫ですよ」
「娘さん……?」
「ええ。私が父親代わりでして」
今度は、女性もゆっくりうなずいた。
娘が座る位置を少しずらす。
『ここ、座って』
私は向かいの椅子を引いた。
「お茶をお持ちしますね。まずは、何にお困りか聞かせてください」
*
女性の名前はミナといった。
昨日、この街へ越してきたばかりで、商店の事務の仕事に就く予定だという。引っ越し代を少し抑えようと、友人に手伝ってもらい、荷物を自分たちで運んでいた。
「棚が、階段で動かなくなってしまって」
スマートフォンの写真には、踊り場へ斜めに挟まった木製の棚が写っていた。手すりには毛布、角には厚紙。傷をつけないように気を配った跡がある。
「上にも下にも動かせなくなって。友人は今日仕事なので、もう来られなくて」
「一人で動かそうとは、していませんか?」
「少しだけ……でも、怖くてやめました」
「それならよかった。怪我をされなくて何よりです」
写真を拡大する。棚の脚は外せそうだった。
踊り場の幅と棚の大きさを聞く。ミナさんは封筒から間取り図を出し、手書きの寸法を指さした。
よく準備してきてくれたらしい。
「大切な棚なんですね」
「母が、持っていきなさいって。新しいのを買えばいいと言ったんですけど」
少し困ったように笑った。
「実家では、これに私の本を入れてたんです。それで、結局置いてこられなくて」
私は写真へ目を戻した。
「なるべく傷めずに運べる方法を考えましょう。今、階段を使えない方はいらっしゃいますか?」
「隣の方が。怒られはしなかったんですけど、申し訳なくて……」
予定表を見る。
午前の設営班は、もう戻るはずだった。片方の現場は、少し長引いている。何もなければ、戻った二人を向かわせられる。
人が出払っているときは、私が行く。スーツを脱いで作業着へ着替えればいい。ただ、今は先方への連絡と午後の調整も残っていた。
手を動かせることと、私がその仕事をするべきかは別だ。
「十分ほどで担当が戻ります。現場を確認して、作業前に料金をご説明しますね」
大まかな金額と、作業が増えた場合の扱いを伝える。
ミナさんは熱心に聞き、最後に大きく息を吐いた。
「よかった……もっと、すごい金額かと思ってました」
「普通の会社ですからね」
「あっ、そういう意味では……」
「大丈夫ですよ。よく言われます」
彼女がようやく笑った。
アンバーも、袋からパンを取り出す。
『冷める』
「ああ、ごめんなさい。食べていたのに」
『平気』
少し考えたあと、娘は私の方を見た。
『お父さんのも冷めた』
「私のことは、内緒にしてくれてよかったんだけどな」
ミナさんの笑い声が、さっきより大きくなった。
*
「組長、戻りやした!」
扉が開いて、朝の二人が入ってきた。今はジャケットを脱ぎ、紫の作業着姿だ。
ミナさんの肩が一度跳ねる。
「お帰り。早速で悪いんだけど、ご依頼をお願いできるかな」
「へい。どちらへ伺えば?」
写真と間取りを見せ、作業内容を伝える。二人の顔つきが変わった。片方は写真を拡大し、もう片方は寸法を手帳へ書き込んでいる。
「脚を外せそうですね。工具は車にあります」
「毛布も追加で持っていきやす。階段、古い建物ですか?」
「はい。手すりが木で……」
「でしたら、そっちも養生してから動かします」
質問の内容を聞いて、ミナさんが少しずつ前へ身を乗り出した。
言葉遣いは相変わらずだが、二人ともこの仕事に慣れている。
重い棚なので、ニドキングとニドクインにも手伝ってもらうことにした。
ボールから出てきた二匹が、テーブルの写真へ顔を寄せる。ニドクインが棚の脚を指さし、ニドキングはその指先を見てうなずいた。
ニドキングは力に自信がある。ニドクインは周囲を見るのが得意だ。片方が持ち上げようとする前に、もう片方が人や荷物の位置を確認する。
「無理に引っ張らないようにね。皆で相談しながら」
二匹が顔を上げる。
担当者も、ミナさんへ深々と頭を下げた。
「お任せください。きっちり仕事させていただきます」
彼女は少し驚いてから、同じくらい深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
玄関で靴を履き直している彼女へ、私は名刺を渡した。
「途中で気になることがあれば、こちらへお電話ください」
ミナさんは名刺の表を読み、裏の連絡先を確かめた。
「……あの。最初、別の場所かと思ってしまって。すみませんでした」
「看板も、少し紛らわしいですよね」
「いえ。その、皆さんが……」
「それも、よく言われます」
今度は、彼女も遠慮なく笑った。
アンバーがソファから手を振る。
『また来て』
「はい。アンバーちゃんも、ありがとう」
扉が閉じる。
娘はパンの最後の一口を食べてから、こちらを見た。
『お父さん』
「何かな」
『娘って言う前に、名前』
「うん。今日は言えたと思うんだけど」
『受付の人にも教える』
つまり受付の段階で
私は受付の男を見た。
彼は電卓を打ちながら、こちらの会話を聞いていたらしい。
「お嬢、ごもっともです」
娘が少しだけ、胸を張った。
*
昼前に、作業完了の電話が届いた。
「棚も壁も傷なしです。残りの荷物も運び終えました」
「ありがとう。休憩を取ってから戻ってきてね」
「へい。それと、お客さんからニド夫婦の二匹にも礼をしたいと。帰りに差し入れをいただきました」
作業終了の電話を終え受話器を置くと、オフィスのガラス戸が開いた。
「こんちゃー! スカさん、いるー?」
途端に、組員たちの背筋が伸びる。
「姐御、お疲れさまです!」
「
「おい、応接空けろ!」
「普通に入れるってば! お客さんいたらびっくりするでしょ!」
ナンジャモが、大きな袖を揺らしながら入ってきた。
ハッコウシティのジムリーダーで、人気のストリーマー。そして、うちの組員でもある。
彼女を見た人がさらに会社の正体を疑うこともあるが、所属についてはきちんと契約を交わしている。紫組は配信のスポンサーであり、催しや撮影で必要になれば、スタッフの手配もする。
私自身は、今ほど多くの人に知られる前から彼女を知っていた。
昔の話をすると、本人に止められる。恥ずかしいらしい。
「お昼、まだでしょ?」
手にしたお弁当の袋を持ち上げられる。
「まだだけど……私たちの分も?」
「そ! 三人分。アンバーちゃんの好きそうなのも買ってきたよ」
娘がすぐにソファを空けた。
『姉御。ここ』
「アンバーちゃんまで、その呼び方覚えちゃったの!?」
『みんな言ってる』
「君は、名前で呼んであげようね」
ナンジャモが袋を置く。アンバーの分には、小さなデザートまでついていた。
私が財布を出すと、彼女は大げさに首を振った。
「今日はボクがおごるって。いつもお世話になってますので!」
「じゃあ、次は私が用意するね」
「そのときは、一緒に買いに行こうよ」
「うん。何がいいか教えてね」
彼女は一度口を開けて、それから閉じた。
向かいでアンバーが、尻尾をゆっくり揺らす。
『一緒に行くのがいいんだって』
「アンバーちゃん!」
ナンジャモの声が少し高くなった。
私は娘を見た。
「気持ちを勝手に覗いてはだめだよ」
『見てない。顔』
ナンジャモは袖で口元を隠した。
「……とりあえず、食べよ?」
うなずいて、弁当のふたを開ける。
アンバーには、テレパシーで言葉を送る力のほかに、相手の気持ちを感じ取る力もある。傷ついたポケモンを癒すこともできる。
その力は、私にとって特別な意味を持つものだった。
だが、使えるからといって、いつでも使っていいわけではない。娘にも、そう話している。彼女自身も、人から何でも知られていると思われるのは嫌らしい。
今の指摘が本当に顔だけを見た結果なら、父親よりずっと観察力がある。
「オヤジ、こちらに目を通していただけますか」
組員が書類を持ってきた。
「ありがとう。今――」
「それ、急ぎ?」
ナンジャモが顔を上げる。
「いえ、
「じゃあ、スカさんにご飯食べさせてあげて」
「失礼しやした!」
書類が速やかに撤収された。
「私が頼むより、よく聞いてくれるね」
「スカさんが何でもすぐ引き受けるからでしょ」
『そう』
娘までうなずく。
私は逃げるように箸を取り直した。
「さて、ご飯にしようか」
隣でナンジャモが笑った。
*
昼食後、来週の配信で使う会場と、必要な人数を相談した。
彼女は画面に映る部分だけでなく、その裏で動く人のこともよく考える。休憩の取り方や搬入の時間まで確認し、無理な予定には自分から修正を入れた。
組員たちが彼女を慕うのは、名前が売れているからだけではない。
「この時間なら、撤収の人も間に合う?」
「うん。ただ、車を一台増やした方がよさそうだね」
「じゃ、それでお願い。必要な費用も出して」
見積もりに追記したところで、電話が鳴った。
商店街の催しを準備している担当者からだった。午後の風が思ったより強くなり、道路標識サイズの大きめな案内板が倒れそうだという。
「今、子どもたちは近くにいますか?」
「まだ始まってないから、大丈夫。でも、倒して壊すと困るし……」
「触らずに待っていてください。こちらで見ます」
予定表を確認する。
午後の班はもう出発していた。今いる組員は電話と受付の担当。もう一人は、支社と人員の入れ替えを調整している最中だ。
設営場所までは歩いて数分。私が行くのが早い。
「ごめんね、ナンジャモ。少しだけ、席を外してもいいかな」
「いいけど、人がいないの?」
「近いから、私が見てくるよ。続きは戻ってからでも大丈夫?」
「もちろん。ボクも行く。会場の人に顔出しときたいし」
私は上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。奥に置いてある作業着へ着替える。
鏡の前で整えたスーツも、半日でハンガーへ戻ることになった。
工具箱を取ると、アンバーが立っていた。
『行く』
「風で物が飛ぶかもしれないから、近づきすぎないでね」
『お父さんも』
「気をつけるよ」
二つのボールを手に取り、受付へ声をかける。
「電話をお願いね。何かあれば、すぐ連絡して」
「へい、オヤジ。お気をつけて」
*
広場では、飾りつけの旗が音を立てていた。
問題の案内板は、催しの入口付近に設置された大きなものだった。支柱は安定しているが、後からつけた飾りが風を受け、全体を揺らしている。
担当者が駆け寄ってきた。
「スカさん、ごめんね。うちで飾りを増やしたら、こんなことに」
「怪我をした人がいなくてよかったです。まず、周りを空けていただけますか」
工具箱を置いて、二匹を出す。
ソウブレイズとグレンアルマ。ともに炎の力を持つが、こんな場所で使うのは当然、別の得意分野だ。
「ソウブレイズ、向こうから人が入らないよう見ていてね。グレンアルマは、板を支えてくれるかな」
二匹が動く。
グレンアルマは案内板の背へ回り、支柱を支えた。ソウブレイズは両腕の刃が人に触れないよう、通路の端で体の向きを変える。
事情を聞いたナンジャモも、近くに集まった子どもたちへ声をかけた。
「はいはーい、こっちで待ってようね。今、スカさんたちがお仕事中なので!」
子どもの視線が彼女へ向く。その隙に私は留め具を外し、余分な飾りを下ろした。
脚の重りを足し、支柱を確認する。風が吹いても、先ほどのようには揺れなくなった。
「これで一度、様子を見てください。風がもっと強くなったら、板は屋内へ移しましょう」
「助かった。やっぱりスカさんに頼めば安心だね」
礼を言われ、工具を片づける。
振り返ると、アンバーが足元のリボンを拾っていた。飛ばされたものを、一つずつ袋へ入れている。
必要なら念力でまとめられるはずだが、今はしゃがんで拾う方を選んだらしい。
近くの子どもが真似して、紙の飾りを持ってくる。
「アンバーちゃん、これも?」
『うん。ありがとう』
子どもは頭に届いた返事にも驚かず、また一枚拾いに走った。
娘がこちらを見た。
『終わった?』
「うん。手伝ってくれてありがとうね」
ナンジャモが、その横でにこにこしていた。
「スカさん、作業着も似合うよね」
「汚れても気にならないから、楽ではあるね」
「そういう話じゃなくて」
娘が小さく首をかしげる。
『また顔』
「アンバーちゃん、今は実況しなくていいから!」
*
事務所へ戻ると、ミナさんが待っていた。
午前中とは違い、入口で迷った様子はない。足元には、小さなパモがいる。
「早速、また来てしまって。お礼を言いたくて」
「棚は大丈夫でしたか?」
「はい。きれいに置いていただいて。部屋も片づいたので、この子を迎えに行けたんです」
パモが彼女の足へ寄り、アンバーを見上げる。
娘は少し離れたところでしゃがんだ。見慣れない相手には、大きい体が怖いこともある。
『こんにちは』
ミナさんも声を受け取ったらしく、笑った。
「この子にも、話してるんですか?」
「ええ。ちゃんと、ご挨拶しているようですよ」
パモが一歩近づく。
アンバーはそのまま待った。伸ばした手の匂いを確かめられ、指先に小さな前足が触れる。
私は工具箱を棚へ戻した。
ミナさんが受付の男へ頭を下げる。
「さっきは、皆さんにも失礼な態度を取ってしまって」
「とんでもない。こちらこそ、驚かせちまいました。慣れねえ街で、お困りならいつでもどうぞ」
「ありがとうございます」
男は照れたように、眉の傷を指でかいた。
差し入れの菓子を取り出すと、アンバーがこちらへ顔を向ける。
「これは、ニドキングとニドクインにいただいたんだよ」
『分かってる』
一拍置いて、娘が付け足した。
『一個もらえるか、聞く』
「じゃあ、二匹が良いって言ったらね」
隣でナンジャモが吹き出す。
つられて私も笑った。口元の形も、声の柔らかさも、確認する暇はなかった。
アンバーは目を細め、それからパモへ向き直る。
「来る前は、どうしようって思ってたんです。知らない街で、誰に頼めばいいかも分からなくて」
「そういうときは、遠慮なく声をかけてください」
「はい。……ここに来てよかったです」
私はうなずいた。
机の電話が鳴る。組員が受話器を取って、いつもより少し柔らかい声で会社名を告げた。
窓の外では、風がまだ旗を揺らしている。
明日から仕事を始める人。午後の現場へ向かう人。友達と小さく挨拶を交わしている娘。
戻ってきた私の椅子には、ハンガーに掛けた上着と、まだ返事をしていない書類があった。
ナンジャモが隣から、見積書を差し出す。
「スカさん、続き、お願いしていい?」
「うん。待っていてくれて、ありがとう」
椅子を引いて、彼女の方へ向ける。
アンバーの声が、頭の中へ届いた。
『お父さん』
「何かな」
『明日も、パン屋さん行く』
私はペンを持ったまま、娘を見た。
「今度は、五分早く起きようね」
『お父さんがね』
事務所に笑い声が広がった。
とりあえず主人公のセットをチャッピーに入力して書かせてみた。実験。