事務所の扉に、新しい張り紙が貼られていた。
紫の太い文字で、組員募集。
その下に、住み込み相談可。経験不問。まずは組長まで。
私は鞄を持ったまま、しばらく眺めた。
「……これ、誰が作ってくれたのかな」
「自分です、オヤジ!」
受付の男が勢いよく立ち上がった。眉に傷があり、肩幅は扉の半分ほどもある。名前はゴウ。電話の取次ぎと客への気配りにかけては、安心して任せられる組員だ。
「先週、人を増やしたいとおっしゃってたんで。字は大きい方が見やすいかと」
「ありがとう。読みやすいね」
「へい!」
「ただ、社員募集にしてもらっていいかな」
ゴウは張り紙を見た。
首をかしげ、少し考えてから私を見る。
「……同じことでは?」
「私たちにはね。初めて見る人には、少し違うかもしれないよ」
隣でアンバーが腕を組んでいた。
『組長まで』
「そこも、採用担当まで、にしようね」
『お父さん』
「うん。担当は私だけど」
娘は納得したらしく、ガラス戸を開けた。
灰色の背中と紫の尻尾が事務所の奥へ消える。ドアを押さえたゴウが、気まずそうに頭をかいた。
「すみません。姐さんの配信に映る前に、直しやす」
「よろしくね。仕事内容も書いておこうか」
紫組が何をする会社か、張り紙から一切分からない。それがいちばんの問題だった。
今日はナンジャモがうちの仕事を紹介する配信を行う。
先週から準備を進めていた企画だ。会社の宣伝と、商店街で行われる小さな催しの紹介。その裏で働く人やポケモンにも、少し目を向けてもらおうという話になっている。
最初に事務所で会社を紹介し、昼前に商店街へ出る。午後は広場で、ポケモンと一緒にできる仕事の実演をする予定だった。
普段の業務に支障が出ないよう、机の位置は昨晩少しだけ変えてある。
変えた結果、私の椅子が窓際へ追いやられ、応接テーブルの周りだけが妙に広くなった。
アンバーはいつものソファを確かめ、満足そうに座る。
『私のは、そのまま』
「一番いい席は、動かさないことになったみたいだね」
私の机には、封筒が三つ積まれていた。
配信前に確認を済ませたい。鞄を置き、上着の前を整えてから、最初の封筒を開く。
そのとき、入口で小さな声がした。
「あの……募集を見たんですけど」
私は顔を上げた。
扉の前に立っていたのは、まだ少年の面影が残る青年だった。大きなリュックを両肩に掛け、畳んだ紙を握っている。
その後ろには、青いポケモンが一匹。
ヌオーが、ガラス戸に顔を近づけていた。
*
「こちら、仕事を紹介してもらえるところですよね」
「はい。働く場所をお探しですか?」
入口へ出て尋ねると、青年はすぐにうなずいた。
「昨日、商店街で聞いて。ポケモンも一緒でいいって」
「仕事によりますが、ご相談できますよ。どうぞ」
青年は看板を見上げ、貼り直す前の張り紙を見た。
小さく息をのむ。
ゴウが慌てて張り紙を剥がした。
「今、直すところです。どうぞ、中へ」
青年の表情は、あまり変わらなかった。
その間にヌオーが一歩入る。戸の縁へ腹をこすり、立ち止まり、それからもう一歩。
青年が頭を下げた。
「すみません。動くのが、ちょっと遅くて」
「急がなくて大丈夫ですよ」
扉を押さえたまま待つ。
ヌオーはようやく通り抜けて、こちらを見上げた。笑っているようにも、何も考えていないようにも見える顔だ。
「おはよう」
声をかけると、前足を少し上げた。
応接スペースに案内する。アンバーが立ち上がり、ソファの端へ移った。
『おはよう』
青年の肩が跳ねた。
「今、何か……」
「アンバーがご挨拶したんです。テレパシーで話すので、少し驚かれたかもしれませんね」
彼は娘を見た。
動きが止まる。
次に私を見る。
「ミュウツー……」
「はい。うちの娘です。アンバー、こちらは仕事の相談に来てくれた方だよ」
『知ってる。聞いた』
青年は、もう一度娘へ視線を戻した。
「すごい……」
アンバーは否定も肯定もせず、ヌオーを見下ろす。
ヌオーも見上げていた。
しばらく、どちらも動かない。
『こっち』
娘が足元を指すと、ヌオーはゆっくり進み、ソファの横に腰を下ろした。
青年が申し訳なさそうに笑う。
「すみません。人の家でも、すぐ座っちゃって」
「立ち仕事をするために来たわけではありませんから」
彼にも椅子を勧めた。
「まずは、お名前を聞かせてもらえますか」
*
トーマ。十八歳。
少し前からヌオーと二人で旅をしていて、旅費を貯めるため、この街で働きたいのだという。
出してくれた紙は履歴書だった。文字は丁寧で、ところどころに消した跡がある。書けることを探して、何度も見直したらしい。
「宿は決まっていますか?」
「今は安い宿に。長く泊まるなら、別の場所を探さないといけないんですけど」
「分かりました。まず、仕事の希望を聞かせてください」
「何でもやります」
返事は早かった。
「荷物運びでも、掃除でも。あまり経験はないですけど、言われたことはちゃんとやるので」
私は履歴書を机へ置く。
「苦手なことや、避けたいことはありますか?」
「……ないです」
少し間があった。
そこを急いで埋めないよう、私はお茶を一口飲んだ。
「こちらも、合う仕事を紹介したいんです。無理に全部できると言わなくて大丈夫ですよ」
トーマは膝の上の手を握った。
足元で、ヌオーが彼を見ている。
「……前に、荷物を運ぶ仕事をしたんです」
「うん」
「こいつも手伝っていいって言われたので、出したんですけど。遅くて、邪魔だって」
ヌオーの頭へ手が伸びる。
「僕も、急かしちゃって。箱を落として、中の物を壊して。それで、次からは来なくていいって」
青年の声は、最後だけ小さくなった。
ヌオーは撫でられるまま、目を細めている。
「この子は、怪我をしませんでしたか?」
「はい。箱も、重くはなかったので」
「君は?」
「僕も、大丈夫です」
「それならよかった」
先に、そこを確認した。
弁償や契約については必要なら後で聞ける。今、彼が話しているのは、それだけのことではないのだろう。
「ポケモンと一緒にできる仕事があるって聞いて、来たんです。でも、また同じことになったらと思って」
ヌオーがのんびり口を開けた。
トーマは困った顔で笑った。
「……こんな調子なので」
アンバーの尻尾が止まる。
娘はヌオーの顔を覗き込み、それから私を見た。
『箱、持つの好きじゃないって』
トーマが目を丸くした。
私は娘を見る。
「話してくれたの?」
『聞いた』
娘は、自分の言葉をテレパシーで送れる。ポケモンの気持ちも、人間より細かく受け取れる。だが、何も聞かずに相手の内側を覗くのは、うちでは禁止だ。
今は、ヌオーの方も彼女へ顔を向けていた。
『冷たい水は、好き』
「それは、知ってます」
トーマが小さく笑う。
『待つのも平気』
私は手元の予定表へ目を落とした。
午後の催しで、ちょうど補助を探している仕事があった。
「今日は時間に余裕がありますか?」
「はい」
「それなら、見学していきませんか。君にも、この子にも、合いそうな仕事があります」
トーマはすぐに返事をせず、ヌオーを見た。
丸い顔が、彼を見上げる。
「……見ても、いいんですか」
「もちろん。仕事の内容を知ってから、働きたいかどうか決めてください」
説明を聞く顔に、少しだけ力が戻った。
私は履歴書を一度、彼へ返した。
「今日は、預かるところまでにしないでおきますね。帰るときに、もう一度相談しましょう」
トーマは紙を受け取り、両手で丁寧に畳んだ。
*
見学のために来てくれた二人を紹介すると、組員たちは一斉に顔を上げた。
「トーマです。今日は、お世話になります」
「おう。分かんねえことがあったら聞け」
「気負うんじゃねえぞ。最初から全部できる奴はいねえ」
「うちで最初に電話取ったとき、兄貴、会社名噛んでましたもんね」
「お前は伝票を裏表逆に印刷しただろうが」
トーマが慌てて二人を見比べる。
私は声をかけた。
「昔の失敗を紹介してくれるのはいいけど、喧嘩にはしないでね」
「失礼しやした、オヤジ」
二人そろって頭を下げる。
トーマは戸惑った顔のまま、それでも少し笑った。
その足元へ、ヌオーがゆっくり追いつく。
待っていたゴウが、扉の角を手で押さえた。
「ここ、ぶつけんなよ。ゆっくりでいい」
ヌオーは前足を上げ、同じ速度で通り抜けた。
*
ナンジャモが到着したのは、そのすぐ後だった。
「こんちゃー! みんな、準備どう?」
「姐さん、お疲れさまです!」
「姐御、こちらへ!」
いつもの挨拶に、トーマが背筋を伸ばす。
彼女を見て、口が開いた。
「ナンジャモさん……?」
「お? 初めましての人がいる!」
「仕事の相談に来てくれたトーマ君。今日は見学してもらうことになったんだ」
「なるほどなるほど。ボクはナンジャモ! って、知ってくれてるみたいだね」
「配信、見てます」
「ありがとー! 今日はその裏側も見られますので、よかったら楽しんでって!」
声をかけられた青年が、深く頭を下げる。
ナンジャモは足元のヌオーにも目を向けた。
「君も一緒なのね。……いい顔してますなあ」
ヌオーが口を開ける。
アンバーは横でうなずいた。
『待つの、得意』
「おお。ボクは苦手かも。配信始まる前とか、そわそわしちゃう」
『知ってる』
「見抜かれてる!」
彼女は笑ってから、私へ進行表を渡した。
今日の配信は、紫組の日常を紹介するものだ。強いバトルを見せる企画ではないし、仕事の相談に来た人を勝手に映すものでもない。
トーマに、見学だけならカメラの外にいてもいいと伝えると、彼はほっとした顔をした。
机の書類を片づけ、受付の電話は別の場所へ寄せる。
ゴウが新しい張り紙を持ってきた。
社員募集。
下には荷物運び、店舗応援、催しの設営と、仕事の種類も書かれている。
「いいね。分かりやすくなったよ」
「へい。組員ってのは、ひとまず抜きました」
「ひとまずでなく、ずっとそれでお願いね」
ナンジャモが私の横から覗き込んだ。
「前、何て書いてあったの?」
『組長まで』
娘が短く伝える。
彼女はゴウと私を見比べた。
「……ボク、配信の紹介文に『安心して働ける会社』って書いちゃったんだけど」
「安心して働けるよ。呼び方が少し独特なだけで」
「うん、知ってる。視聴者には、頑張って伝えようね」
頑張らないと伝わらないらしかった。
*
カメラの前で、ナンジャモの表情が変わる。
「あなたの目玉をエレキネット! 何者(なにもん)なんじゃ? ナンジャモです! おはこんハロチャオー!」
大きな袖を広げ、カメラへ身を乗り出す。
「ナンジャモの~? ドンナモンジャTVの、時っ間っだぞー!」
いつもよりよく通る声に、オフィスの空気まで明るくなった。
彼女がカメラへ向かい、私の立つ位置を手で示す。
「今日はボクの配信を応援してくれている、紫組さんに来ております! 名前を聞いて、怖い人たちの集まりだと思ったそこのあなた! まだ帰っちゃだめですぞ!」
画面を確認している担当が、手元の端末を少し持ち上げた。
コメントが流れている。
看板が強い。入口の人も強い。事務所なのに絶対何かある。
私はカメラへ会釈した。
「代表のスカーレットです。今日は、私たちが普段している仕事を見ていただければと思います」
「スカさんって呼ばれてるんだよね?」
「ええ。街では、その名前で呼んでいただくことが多いですね」
「ボクもそう呼んでおります。では、まずどんな会社なのか教えて!」
私はなるべく短く、仕事の種類を説明した。
店で忙しい時間帯だけ働く人。荷物の搬入を手伝う人。催しの準備と片づけをする人。地域によっては、畑の作業を手伝うこともある。
依頼に合う人数を調整し、慣れた人と初めての人を組ませる。ポケモンが一緒に働く場合は、その子ができることも確認する。
「私たちが全部をするというより、困っている人と、力を貸せる人をつなぐ仕事ですね」
「なるほど! じゃあ、ここに来れば何でもやってもらえる?」
「できないことは、できないとお伝えしますよ」
ナンジャモがこちらを見た。
私は続ける。
「無理に引き受けてしまうと、頼んでくださった方も、働く人も困りますから」
「大事! 皆さん、今のところ覚えておいてね!」
画面の向こうで、相槌のようなコメントが流れる。
続いて組員たちを紹介した。
ゴウはカメラの前へ進み、直立する。
「受付を任されてます、ゴウです。何かお困りのことがあれば、遠慮なくお申しつけください」
きちんとした挨拶だった。
私が小さくうなずいた、その直後。
「オヤジに言っていただけりゃ、こっちで話をつけますんで」
ナンジャモが笑顔のまま、ゴウへ向き直った。
「話をつけるっていうのは、日程と人数を相談するってことです!」
「へい。その通りです、姐さん」
コメントの流れが速くなった。
娘がソファからこちらを見ている。
尻尾が、面白そうに揺れていた。
*
アンバーの紹介へ移ると、コメント欄の様子が一段と変わった。
見た目についての驚きに混じって、知っている名前が流れる。
彼女はナンジャモの配信に、以前も顔を出したことがあった。常連の視聴者には、紫組の看板娘として覚えられている。
それでも、初めて見る人は毎回驚く。
「では、こちらがアンバーちゃん!」
ナンジャモがソファの横へ座る。娘は少し体を動かして、尻尾を脇へ寄せた。
「スカさんの娘さんで、ミュウツーです。初めての人、二度見しても大丈夫。ボクも最初はびっくりしました」
『今は?』
「今は、今日どんなおやつ食べたか気になる」
『まだ』
「そっか。じゃあ、この後のお楽しみだね」
私には聞こえているし、近くにいるスタッフにも届いている。
しかし、アンバーの声は音ではない。
マイクには入らないので、画面の向こうにはナンジャモだけが返事をしているように見える。字幕をつける係の組員が、娘の言葉を端末へ打ち込んでいた。
「アンバーちゃんは、テレパシーで話しております。ボクたちには、頭の中へ声が届いてるんだよ。配信で聞こえない分は、ボクがお伝えします!」
娘がカメラを見る。
手を上げた。
『こんにちは』
「こんにちは、だって。アンバーちゃん、今日は何してた?」
『面接』
私は目を閉じかけた。
「お父さんの面接を、そばで見ていたんだよね」
『私も聞いた』
「ヌオーにね」
ナンジャモが声を上げて笑う。
「アンバーちゃんも、お仕事のお手伝いしてたんだね!」
『お父さんだけだと、分からないことある』
「それはそうだね。助かったよ」
娘は満足した様子でうなずいた。
画面では、父親に厳しい、しっかり者、というコメントが続いている。
その中に、実際にはどういう関係なのか、という質問があった。
ナンジャモが私を見る。進行表にはない質問なので、答えるかどうか確かめてくれたのだろう。
私はうなずいた。
「事情があって、昔、この子を引き取りました。それから一緒に暮らしています」
アンバーがこちらを向く。
「だから、私にとっては娘です。普段はあまりボールにも入れず、こうして一緒に過ごしています」
『たまに入る』
「長く移動するときとかね」
『お父さん、運転長いと黙るから』
「話しかけても、いいんだよ」
『邪魔しない』
返事が短かった。
私は娘の顔を見る。
目が合うと、彼女は少しだけ顎を上げた。照れたとき、そうする癖がある。
ナンジャモが優しく笑った。
「アンバーちゃんも、スカさんのこと気にかけてるんだね」
『普通』
字幕を打つ組員まで、笑っていた。
*
午前の配信をいったん区切り、商店街へ移る準備をした。
カメラが止まると、組員たちは少しずつ肩の力を抜く。ゴウは自分の挨拶を思い返しているらしく、顎をさすっていた。
「オヤジ、自分、何か変なこと言いましたか」
「仕事内容は、よく伝わったと思うよ」
「でしたらよかったです」
細かい言い回しは、後で相談しよう。
カメラの外で見ていたトーマが、私の方へ近づいてきた。
「……話してること、普段と同じなんですね」
「私たちが?」
「はい。配信だから、もっと違う感じになるのかと」
私は周りを見る。
ゴウは電話を取り、別の組員は午後の搬入先へ連絡している。アンバーはソファの上に忘れた袋を取りに戻っていた。
「仕事のやり方まで変えたら、明日から困ってしまうからね」
トーマが小さく笑う。
私の隣へヌオーが来て、立ち止まった。
「この子も、移動して大丈夫かな」
「はい。歩くの、遅いですけど」
「今日は急がなくていいよ。荷物は先に運んでもらっているから」
商店街までは歩いていくことにした。
トーマはヌオーをボールへ戻そうとして、途中で手を止めた。足元の青い顔を見てから、ボールを腰へ戻す。
「一緒に歩こうか」
ヌオーが前足を上げた。
玄関で待っていたアンバーは、私たちを見ると、歩く速さを少し落とした。
*
商店街の広場では、午後の催しの準備が進んでいた。
子ども向けの遊びが中心で、輪投げ、簡単な工作、ポケモンとのふれあい。うちが担当するのは、その設営と運営の補助だ。
ナンジャモは到着してすぐ、担当者へ挨拶をした。撮影する場所を確認し、スタッフと一緒に広場を回っている。
私はトーマを、日陰に置かれた細長い台へ案内した。
浅い水路がついている。手前から水を流すと、小さな船が奥へ進む仕組みだった。子どもたちが紙や木の板で船を作り、ここで浮かべる。
水は下の桶に集めて、もう一度使う。
「午後は、ここを見てもらう人を探していたんだ」
担当の組員を紹介した。細い目に短く刈った髪、声は低いが、説明するときは相手の顔をよく見る男だ。
「コウといいます。よろしく」
トーマが頭を下げる。
コウは手元の桶を示した。
「水が多すぎると船がひっくり返る。少なすぎると進まねえ。子どもが船を置いたら、ゆっくり流す。途中で止まったら、そこで一度待つ」
「待つんですか」
「船を直したいこともあるんでな。急かすと手ぇ突っ込んでくる」
水路を囲む線と、立つ場所も教える。
トーマは、ヌオーと台を見比べた。
「……水を流す仕事」
「うん。持ち上げる速さより、様子を見て待てることが大切なんだ」
彼は少しだけ前へ出た。
ヌオーもついてくる。
「ヌオー、水、出せる?」
青い顔が上を向いた。
コウが空の桶を置き、ここへ少しだけ、と示す。
ヌオーの口から細い水が出た。
桶の底に当たり、跳ねた水がトーマの靴へかかる。彼は一瞬身を引いてから、笑った。
「いつもより、弱くできたんだ」
ヌオーはそのまま、水を出している。
コウが手を上げた。
「そこまででいい」
トーマが止めるよう伝えると、水が止まった。
「午後は、こういう仕事を実際に見てもらえるよ。今なら、体験用の船で試すこともできるけど、やってみたい?」
私は彼へ聞いた。
トーマはすぐには答えなかった。
足元へしゃがみ、ヌオーと目を合わせる。
「どう? 僕は、やってみたいんだけど」
ヌオーが顔を近づける。青年の手へ、丸い口元が少し触れた。
アンバーは何も言わず、横から見ていた。
彼は立ち上がった。
「……やってみます」
コウが、小さな船を二つ渡す。
「じゃあ、まずは誰もいねえとこで、ゆっくりな」
*
最初の船は、すぐ横を向いた。
水は細かったが、当たる場所が近すぎた。船の頭へまともにかかってしまったらしい。
「ごめん。もう一回」
トーマが船を置き直す。
次は水が弱すぎて、真ん中で止まった。
彼は少し焦り、ヌオーへ顔を向ける。
「もっと、強く。あ、そこじゃなくて、奥に――」
水が増える。船が横の壁へぶつかり、傾いた。
トーマの肩が上がった。
「違うって。もう少し、早く止めて……」
ヌオーが彼を見る。
水が止まる。
青年の口も、途中で閉じた。
私は台の向こうから声をかけた。
「一度、休もうか」
「すみません。すぐできるようにするので」
「うん。でも、今はまだ練習だからね」
コウが桶を置き、こぼれた水を拭き取った。
ヌオーは動かない。
トーマの手が、腰のボールへ伸びかける。
「……やっぱり、別の仕事の方が」
「君は、どうしたい?」
先に、それを聞いた。
青年が私を見る。
私は声を急がせないようにした。
「この子と一緒にやってみたいなら、方法を変えてみよう。嫌なら、今日はやめてもいいんだよ」
彼は台へ目を戻した。
「一緒に、やりたいです」
「それなら、もう一度相談しようか」
ヌオーへも向き直る。
アンバーが隣にしゃがんだ。
『何が分からなかった?』
頭の中へ娘の声が届く。
ヌオーは口を開け、前足を少し動かした。私には細かい意味まで分からない。トーマも、その様子をじっと見ている。
娘がこちらを見た。
『いっぱい、言われた』
短い説明だった。
トーマがまばたきをする。
『出して。強くして。向き変えて。止めて。どれか分からないって』
青年の顔が、少し赤くなった。
「……僕が、慌てたから」
「慌てると、そうなることはあるね」
私は水路の端を指した。
「水を流す位置を、一つ決めてみようか。向きは変えなくていいように。言葉も、始める合図と、止める合図だけにしよう」
コウがテープを持ってきた。ヌオーが立つ位置と、狙う場所に印をつける。
水を出し始めるときは片手を上げる。止めるときは両手を上げる。
水の量は、まず桶で確かめて決めた。
トーマは説明を終えると、ヌオーの返事を待った。
ヌオーが前足を上げた。
今度は、それを見てから台へ向き直った。
*
船が動き始めた。
さっきより遅い。だが、向きはまっすぐだった。
トーマが片手を上げ、ヌオーは印へ向かって水を流す。
船が真ん中を過ぎたところで、青年は一度こちらを見かけた。途中で思い直したらしく、視線をヌオーへ戻す。
急がせる言葉はなかった。
奥の受け皿へ船が着く。
両手が上がる。
水が止まった。
「……できた」
青年の声は小さかった。
ヌオーが彼を見る。
トーマはしゃがみ、その頭へ両手を置いた。
「できたね」
口元が、少し震えていた。
コウは船を取り、次の一つを渡す。
「その調子で、もう一回やってみるか」
「はい」
返事が、今度ははっきり聞こえた。
数回繰り返してから、私は少し離れた場所へ移った。
ナンジャモが待っている。
いつから見ていたのか、カメラはまだ止めたままだった。
「……今の、映さなくてよかった?」
「うん。今日は見学に来てもらっているからね」
「そっか」
彼女が台の方を見る。
トーマは船を置く前に、ヌオーへ顔を向けていた。青い顔が上がるのを、きちんと待っている。
「スカさん、ああいうとき、声変わらないんだね」
「変えた方がよかったかな」
「違う。焦ってる人に、もっと焦らせる感じにならないなって」
私は少し考えた。
できると言えば、頼まれる。言われた通りに動けば、認めてもらえる。
そう思っていた頃の自分が、頭の隅に浮かんだ。
顔や場所まで思い出しかけて、止めた。
「何をするのか、分からないまま頑張らせたくはないんだよ」
ナンジャモは私を見た。
一度うなずき、それ以上は聞かなかった。
代わりに、持っていた飲み物を渡してくれる。
「スカさんも休憩。今日は説明する係なんだから」
「ありがとう」
彼女の袖が、私の手に少し触れた。
*
午後の配信では、予定通り仕事の実演を紹介した。
重い荷物を運ぶとき、ニドキングが持ち上げ、ニドクインが通路を確認する。段差の前では一度止まり、受け取る組員と目を合わせてから渡す。
ナンジャモがカメラの前で声を上げた。
「力持ちなら、何でも一人でやっちゃえばいいと思ってた人! ボクも昔、ちょっと思ってました。でも、周りを見る人も必要なんだね!」
ニドキングは少し得意げに胸を張った。
ニドクインに肩を叩かれ、次の荷物へ向き直る。
サーナイトとエルレイドは、割れやすい物の並べ方を見せた。支える役と受け取る役。簡単な動きだが、どちらかが先走ると、かえって扱いにくくなる。
最後に、水を使う仕事を紹介する。
ナンジャモがこちらを見る。
私はトーマへ尋ねた。
「紹介はコウが担当するけど、後ろで見ていてもらっていいかな。映りたくなければ、別の場所でも大丈夫だよ」
青年は少し考えた。
「……見ていたいです。映るのも、大丈夫です」
もう一度確かめてから、カメラを向けてもらう。
コウが仕組みを説明し、ヌオーに水を流してもらった。合図を出すのはトーマだ。先ほど決めた位置と動きは変えない。
船が、ゆっくり進む。
ヌオーが、ゆっくり首を動かす。
受け皿まで届いて、青年の両手が上がった。
ナンジャモが拍手した。
「無事到着! こちらのヌオーさん、すごく丁寧なお仕事です!」
ヌオーはカメラへ顔を向けた。
何もせず、そのまま数秒。
「……この、間がいいですなあ」
スタッフが笑う。
トーマも笑った。
画面に流れる文字には、かわいい、ずっと見ていられる、といった言葉が並んでいた。
さっきまで、この子の遅さを謝っていた青年が、その横で少しだけ胸を張る。
私はカメラの外で、次の船を置いた。
*
配信を終え、催しが始まった。
トーマは本番の運営には入らず、コウの横で見学を続けた。子どもが船を直す間、どのくらい待つのか。水がこぼれたら、先に何をするのか。見ているうちに、質問も増えていった。
ヌオーは台の後ろの日陰で休んでいる。
アンバーも隣へ座った。二匹とも、動かずに子どもたちを眺めていた。
同じ速さで過ごせる相手が、できたらしい。
夕方、事務所へ戻ると、トーマが畳んだ履歴書を出した。
「ここで、仕事を紹介してもらいたいです」
私は受け取る前に、彼の顔を見た。
「今日の仕事が、気に入った?」
「はい。でも、それだけじゃなくて」
彼は足元へ視線を落とした。
ヌオーも見上げる。
「できないことを、言っていいんだって分かったので」
私はうなずいた。
「うん。言ってもらった方が、私たちも助かるよ」
希望する曜日と時間、旅を再開したい時期を確認する。仕事の候補を二つ挙げ、明日もう一度、条件を説明することにした。
履歴書を受け取ると、トーマは頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ゴウが入口で手を上げた。
「おう。明日も待ってるぞ」
トーマは扉の前で一度止まり、ヌオーを待った。
青い体がゆっくり追いつく。
急かす声はなかった。
*
片づけを終えたナンジャモが、私の机へ端末を持ってきた。
「今日の配信、評判よかったよ」
「それはよかった。仕事のことも伝わったかな」
「伝わってる。……けどね」
画面を見せられる。
『社長、優しそうすぎて逆に胡散臭いw』
『あの笑顔で「少しお話ししましょうか」って言われたら終わりだと思う』
『アンバーちゃんかわいい。お父さんにだけ容赦ないの好き』
『ミュウツーがソファでおやつ待ってる会社、初めて見た』
『うちの街にも紫組あるけど、ヤクザじゃなかったのか……』
『分かる。店の前で黒服が荷物下ろしてて、ずっとそうだと思ってた』
『姐さんの言うことは全員聞くの、解釈一致』
私はしばらく画面を見た。
優しそうに見えるようにしている。それは確かだ。
ただ、その結果、かえって怖がられるとは思っていなかった。
「……私、そんなに胡散臭かったかな」
「違う違う! 優しそうなのは伝わってるって!」
「その先に、何かあると思われているみたいだけど」
ナンジャモは口元を袖で隠した。肩が小さく揺れている。
窓辺から、アンバーがこちらを見た。
『私、かわいい』
「うん。そこは、よく伝わっているね」
『お父さんも、頑張る』
「今日は頑張ったつもりだったんだけどな」
ナンジャモがとうとう笑い声を上げた。
「でもほら、ちゃんと仕事のこと聞いてくれてる人もいるから!」
画面を少し進め、指で示す。
『ポケモン連れでも相談できるなら、一度行ってみたい』
『うちの店の繁忙期も頼めるのかな』
『今日見た支社の人に、今度はちゃんと挨拶するわ』
『ヌオーのところ、うちの子と一緒に見てた。ああいう働き方もあるんだね』
その下には、地元の人らしい書き込みもあった。
『紫組、うちのじいちゃんの店も手伝ってくれてるよ。見た目はあれだけど、いい人たちです』
私は画面から顔を上げた。
「……それなら、よかった」
ナンジャモも笑いを収め、うなずく。
「ね。スカさんたちが普段やってること、見てもらえたんだよ」
もう一度、コメントへ目を戻す。
まだ怖がっている人もいるし、冗談なのか本気なのか分からない感想も多い。
それでも、明日、扉の前で立ち止まる人が一人でも減るなら、今日の配信には十分意味があった。
アンバーがソファからこちらへ歩いてくる。
『お父さん』
「何かな」
『ヌオー、明日も来る?』
「うん。トーマ君と一緒にね」
『そっか』
それだけ言って、娘は窓辺へ戻った。
尻尾の先が、いつもより少し高く上がっている。
ナンジャモが隣で小さく笑った。
「アンバーちゃんも、気に入ったみたいだね」
「待っていてくれる友達は、貴重だからね」
「スカさんも、そういう人?」
彼女を見る。
仕事中の明るさとは少し違う顔だった。
私は答えを探してから、うなずいた。
「なるべく、そうでいたいと思っているよ」
ナンジャモは何か言いかけ、結局、笑った。
「じゃあ、ボクもまた来るね」
「うん。いつでも」
窓の外では、商店街の灯りが一つずつつき始めていた。
ゴウが入口の張り紙をまっすぐに直す。
社員募集。
その下に書かれた、まずはご相談ください、の文字が、夕方の光で少し明るく見えた。
ちなみに今回のは案件配信じゃなくて普通にナンジャモ側から配信ネタにさせてーと頼まれたので、会社イメージを改善する為にOKしてます。
結果は……まぁ、良かったのでは?