第3話 看板娘のお買い物
ネクタイの先に、細い糸が出ていた。
私は机の引き出しから小さな鋏を取り、飛び出した分だけを切る。布地を指でならせば、まだほとんど分からない。
濃い紫の、柄のないネクタイだ。
よく使うものほど傷む。新しいものを買っても、結局これに手が伸びるので、予備より先にくたびれてしまった。
『また切った』
顔を上げると、アンバーが机の横に立っていた。
薄い灰色の体に紫色の瞳。娘は私の手元を見てから、首元を見る。
「少し糸が出ていただけだよ」
『前も』
「よく見ているね」
鋏を引き出しへ戻す。
ミュウツーの娘は、褒められても嬉しそうにしなかった。腕を組み、尻尾の先を一度だけ床へつける。
『新しいの、ある』
「家に何本かあるね」
『それ使えば』
「色が合わせやすくてね。これも、まだ使えるから」
娘はしばらく私を見た。
何か言いかけた気配が、頭の中へ届く。実際の言葉になる前に、それは引っ込んだ。
テレパシーで話すアンバーにも、言うのをやめることはある。何でも直接伝わるわけではない。
やがて彼女は踵を返し、応接ソファへ戻った。
その足取りが少しだけ速かったのを、私は見送っていた。
*
ナンジャモの配信から、三日が過ぎていた。
事務所の電話は、いつもよりよく鳴る。仕事の相談もあるし、看板娘を見たいという問い合わせもある。
ゴウが受話器を置き、手帳へ何か書き込んだ。
「オヤジ、またお嬢への取材の話です」
「前のところとは別?」
「へい。お写真だけでも、と」
「アンバーがどうしたいか、先に聞いておこうね。仕事の相談に来る方の邪魔にならない時間で」
「承知しやした」
配信で顔を出したからといって、娘を見世物にするつもりはない。本人が楽しめる範囲なら考えるが、会社の宣伝を優先して決めることでもなかった。
当のアンバーは、窓辺でリボンを結び直している。
先日の景品につける予定だったものをもらってから、気に入ったらしい。今日は、小さな布の鞄の持ち手につけていた。
財布や買ったものを入れるために使う鞄だ。
私と出かけるときには、あまり持っていかない。荷物を持つ役は、自然と私になるからだろう。
「どこかへ行くの?」
『買い物』
「花屋さん?」
『違う』
娘が短く答え、窓の外を見る。
誰かを待っているようだった。
ちょうどそのとき、入口から明るい声がした。
「こんちゃー! スカさん、いる?」
組員たちが顔を上げる。
「姐さん、お疲れさまです!」
「姐御、お待ちしておりました!」
「お待ちしてたの? 今日はアンバーちゃんに呼ばれたんだけど」
私は娘を見た。
アンバーはもう、ソファから立ち上がっている。
『来た』
「私、知らなかったな」
『言ってない』
「そうだね。今、初めて聞いたから」
ナンジャモが笑い、アンバーの鞄へ目を向けた。
「お、準備できてるね。どこ行こっか」
『服の店』
「服?」
思わず聞き返した。
娘がこちらを見る。
首をかしげた。
『何』
「君のものを買うのかなと思って」
『買いたいもの』
答えになっているようで、なっていない。
私は仕事の予定を思い返した。午前中の書類は、あと一枚確認すれば終わる。午後は打ち合わせが二件だが、まだ時間に余裕はあった。
「少し待ってもらえれば、私も――」
『お父さんは来ない』
返事が早かった。
ナンジャモがこちらを見て、慌てて付け足す。
「そ、そう! 今日は女子のお買い物なので!」
アンバーはうなずいた。
『二人』
「……分かったよ」
私は椅子に座り直す。
娘は、ほっとしたようにも見えた。
「楽しんできてね。欲しいものがあれば、無理のない範囲で」
『自分のお金』
「うん。足りなかったら、相談してね」
『足りる』
鞄を少し持ち上げる。
ナンジャモが、何かをこらえるように口元を緩めた。
「じゃあ、ちょっとお借りします」
「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
「ボクも楽しみだから。ね、アンバーちゃん」
『うん』
入口でゴウが扉を開ける。
「姐御、お嬢をよろしくお願いいたします」
「大丈夫、大丈夫。二人で楽しんできます!」
娘は外へ出る前に振り返った。
『お父さん。仕事』
「ちゃんとするよ」
ガラス戸が閉じる。
ピンクのリボンが、二人の背中と一緒に角を曲がって見えなくなった。
*
書類の同じ行を、三回読んだ。
金額を間違えたわけではない。文章が難しいわけでもない。ただ、確認している途中で、服の店、という短い言葉が頭へ戻ってくる。
アンバーは何を買うつもりなのだろう。
防寒着なら、まだ急ぐ時期でもない。鞄は今使っているものを気に入っている。ナンジャモの買い物へ付き合うという様子でもなかった。
私が知らないだけで、新しく欲しいものができたのかもしれない。
「オヤジ」
ゴウの声に、顔を上げる。
「そちら、さっき確認済みの方です」
手元を見る。
端に小さく、自分の筆跡で印をつけてあった。
「……ありがとう。少し考え事をしていたね」
「お嬢なら、姐さんと一緒です。ご心配なく」
「心配というほどではないよ」
それは本当だった。
アンバーは街を知っている。ナンジャモもいる。何かあれば、自分たちで対応できる二人だ。
危ないからついていきたいわけではない。
ただ、娘のことを、私はいつも知っているつもりだった。
朝に何を食べたいか。誰と話したか。帰りにどこへ寄ったか。それを全部、本人が教えてくれていたから分かっていただけなのに。
「……何を買うか、少し気になったんだ」
ゴウは神妙にうなずく。
「承知しました。聞いておりません」
「今、言ったと思うんだけど」
「へい。聞いておりません」
妙な気遣いだった。
隣の机から、別の組員が声をかける。
「オヤジ、若いもんの買い物に口出すと、嫌がられますぜ」
「口を出すつもりはないよ」
「なら、どんと構えておけばいいんです。姐さんなら、お嬢の好きなもんもご存じでしょう」
「そうだね」
私はペンを持ち直した。
アンバーには、自分で選べることが増えている。
出会った頃は、何が好きかを尋ねても、返事がなかった。何かを欲しいと言うようになり、一人で行きたい場所ができて、今は私の知らない約束までしている。
それは、喜んでいいことだ。
分かっている。
手元の別の書類へ目を移す。
今度は、きちんと最後まで読んだ。
*
同じ頃、商店街の角で、アンバーが足を止めた。
隣を歩いていたナンジャモも立ち止まる。
「どうしたの?」
『お父さん、来ないよね』
「来ないと思うよ。お仕事してるんでしょ?」
アンバーは来た道を見た。
事務所の方から、金髪の男が歩いてくる様子はない。
しばらく確かめてから、ようやく前へ向き直った。
「もしかして、スカさんには内緒のお買い物?」
『うん』
「そっか。じゃあ、ボクも秘密にしますぞ」
ナンジャモが声を少し落とす。
アンバーは鞄の持ち手を握り直した。
『ネクタイ』
「ん?」
『お父さんの。新しいの』
ナンジャモの顔から、からかうような表情が消えた。
代わりに、柔らかい笑みが広がる。
「……それで、ボクを誘ってくれたんだ」
『私、使わない。分からない』
「任せて。ボクも普段つけないけど、一緒に選ぼう」
アンバーはうなずき、さっきより少し速く歩き始めた。
*
二人が入ったのは、商店街から少し離れた服飾店だった。
仕事着を買う人も、贈り物を探す人も来る店で、入口の近くにはシャツと小物が並んでいる。ナンジャモは一度来たことがあった。
「ここなら、いろいろ見られると思う」
アンバーがガラス戸の向こうを覗く。
ネクタイは奥の棚にあった。
店員が二人に気づき、笑顔で近づいてくる。アンバーを見て一瞬足を止めたが、すぐにナンジャモへ顔を向けた。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
「プレゼント用のネクタイを見たいんだけど」
「かしこまりました。お色や、ご予算のお希望はございますか?」
ナンジャモがアンバーを見る。
アンバーは鞄から財布を出した。
『これで買えるもの』
財布を開こうとした手へ、ナンジャモがそっと自分の手を添える。
「全部見せなくて大丈夫だよ。先に、お値段を聞いてみよっか」
アンバーは一度手を止め、財布を閉じた。
店員も、アンバーの声を受け取ったらしい。驚いた顔で口を開きかけ、ナンジャモを見た。
「今の、お声は……」
「アンバーちゃん、テレパシーで話すんです。びっくりした?」
「ええ、少し。でも、お話しできるんですね」
『できる』
「では、こちらへどうぞ」
店員が棚へ案内した。
アンバーは値札を一つずつ見た。高いものも安いものも、同じように布地を眺め、触れてよいと言われてから指先を伸ばす。
「誰への贈り物なの?」
『お父さん』
「お父様に。素敵ですね」
アンバーは何も言わず、隣のネクタイへ手を伸ばした。
尻尾の先だけが、少し上がる。
ナンジャモはその動きを見て、笑いそうになったのをこらえた。
*
最初にアンバーが選んだのは、紫に金色の模様が大きく入った一本だった。
顔へ近づけ、少し離して見る。
『紫』
「うん。紫だね」
『お父さん、紫』
「そうだね。……でも、それだと組長らしさが、さらに強くなるかも」
アンバーが布地を見る。
ナンジャモも、改めて眺めた。黒いスーツと合わせた姿を思い浮かべると、受付のゴウが扉を開けている光景まで、鮮明に浮かんでしまう。
「ちょっと、貫禄が出すぎるかな」
『胡散臭い?』
「それは……ボクの口からは……」
アンバーは棚へ戻した。
次に手に取ったのは、淡い桃色だった。
「お、それは柔らかい感じでいいんじゃない?」
『ナンジャモの色』
「ボクの?」
『髪』
アンバーがナンジャモの髪とネクタイを見比べる。
ナンジャモは一瞬、スカーレットがそれをつけた姿を想像した。
自分の髪と似た色を、彼が毎日選んでくれる。
想像の先へ行きかけて、慌てて首を振った。
「うん。似た色だけど、スカさんが使いたい色かも考えようね」
『毎日、紫』
「慣れてる色がいいのかも」
アンバーはもう一度棚へ目を戻す。
真剣だった。
普段は、欲しいものを見つけると迷わない。パン屋では指をさすのが早いし、花屋では気に入った鉢を一度見たら、そこから目を離さない。
今日は、なかなか決まらなかった。
一本を選んでも、スカーレットの首元を思い返しているらしく、また別の一本を手に取る。
ナンジャモは急かさず、隣で一緒に探した。
「いつもつけてるの、少し傷んでたね」
『朝、切ってた』
「糸?」
『うん。まだ使えるって』
アンバーは指先で、ネクタイの端をそっと触る。
『新しいの、あげたら使う?』
「使うと思うよ。アンバーちゃんが選んでくれたんだもん」
『しまわない?』
「大事だから、って?」
アンバーがうなずいた。
ナンジャモは少し考えてから、笑う。
「そこは、使ってほしいって言おう。スカさん、とっときそうだし」
『言う』
返事がはっきりしていた。
店員が、小さな色見本を持って戻ってくる。
「贈る方のお洋服は、普段どのようなお色ですか?」
「黒っぽいスーツとか、濃い紫とか。シャツは白が多いです」
ナンジャモが答える。
アンバーも付け足した。
『金色の髪』
「でしたら、こちらのお色もよく合いそうですね」
差し出されたのは、深い紫の一本だった。
大きな柄はない。近くで見ると、細い斜めの線が織り込まれている。その間に、ごく細く、琥珀色の糸が入っていた。
アンバーの指が止まる。
ナンジャモは、アンバーの顔を見た。
『これ』
短い言葉だった。
だが、さっきまでとは違っていた。
「好き?」
『うん』
「スカさんにも、似合いそう」
アンバーはうなずいた。
布地へ触れた指が、もう一度ゆっくり動いた。
『私の色、少し』
ナンジャモがネクタイを見る。
深い紫の中に、小さく残る、温かい色。
アンバーという名に重なる、温かい色。
ナンジャモは黙って、選ばれた一本を見つめた。
*
値段を聞くと、アンバーの財布だけで買えるものだった。
アンバーはほっとした様子で鞄を抱え直す。
ナンジャモが声をかけた。
「ね、よかったらボクも一緒に贈っていい?」
アンバーが顔を上げた。
『お金、足りる』
「うん。足りないからじゃなくて。ボクも、スカさんにプレゼントしたいなって」
アンバーはネクタイを見た。
それから、ナンジャモの顔を見る。
しばらく考え、うなずいた。
『じゃあ、箱』
「箱?」
『これ、私。入れるの、ナンジャモ』
店員が手にしていた贈答用の箱を指す。
包みと小さなカードは、別に選べるようになっていた。
「……そっか。じゃあ、ボクはちゃんと包む方を担当します!」
『うん』
ナンジャモはその分だけ支払った。
アンバーの財布からは、アンバー自身が代金を出す。枚数を確かめる指は丁寧で、受け取ったお釣りも、その場で一度数えた。
店員が包み始める間、ナンジャモはカードを選ぶ。
明るすぎるものより、少し落ち着いた方がよさそうだった。
「何か書く?」
『使って』
「……大事なお願いだけど、カードにそれだけ?」
『毎日じゃなくてもいい』
「それも書く?」
アンバーは首を横に振った。
少し考え、もう一度口を開かずに言葉を送る。
『ありがとう』
ナンジャモの手が止まる。
アンバーはカードを見ていた。
『それも』
「うん。書こう」
二人は台の端で、小さなカードへ文字を入れた。
アンバーは細いペンを持ち、ゆっくり自分の名前を書いた。ナンジャモも、その横へ名前を添える。
でき上がったカードを、アンバーがしばらく眺めていた。
その顔を見て、ナンジャモは何も足さないことにした。
*
店を出ると、アンバーは包みを自分の鞄へ入れた。
箱がつぶれないよう、リボンをほどき、口を大きく開ける。財布と包みを分け、肩へかけ直してから歩き始めた。
「このまま戻る? 少し休んでいく?」
『休む』
「じゃあ、あそこのお店にしよっか」
通りの奥にある、小さな喫茶店だった。外の席なら、アンバーも尻尾を気にせず座れる。
店員はアンバーを見て、すぐに笑った。
「アンバーちゃん、今日はお父さんとじゃないんだね」
『ナンジャモ』
「もちろん知ってるよ。二人とも、どうぞ」
角の席へ案内される。
注文した飲み物と菓子が届くと、アンバーは鞄を膝へ置いたまま食べ始めた。
「隣に置いても大丈夫だよ」
『ここでいい』
買ったものを、手の届く場所に置きたいらしい。
ナンジャモは自分の飲み物へ手を伸ばす。
事務所から離れて二人で座るのは、久しぶりだった。アンバーと話す機会は多いが、大抵そこにはスカーレットや組員たちがいる。
アンバーは菓子を一口食べ、それから顔を上げた。
『ナンジャモ』
「ん?」
『お父さん、好き?』
ナンジャモはカップを置いた。
音が少し大きかった。
「……お。突然ですなあ」
いつもの調子で返す。
アンバーは笑わなかった。
紫色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
『聞いてる』
「うん。そうだね」
ナンジャモは袖の中で指を動かした。
冗談にすれば、きっとそのまま流せる。スカさんはスポンサーだから、紫組の皆が好きだから。どちらも嘘ではない。
けれど、聞いている相手はアンバーだった。
アンバーが知りたいのは、そういう答えではないのだろう。
ナンジャモは周りを一度見てから、声を落とした。
「……好きだよ」
アンバーの尻尾が、一度だけ動いた。
『知ってた』
「じゃあ、何で聞いたの\!?」
『言ったの、聞きたかった』
ナンジャモは片手で顔を覆った。
アンバーはその間に、また一口食べる。
急かさなかった。
カップの氷が、小さく音を立てた。
「アンバーちゃんは、どう思う?」
『何が』
「ボクが、スカさんのこと好きなの」
アンバーは少し考えた。
菓子の皿へ目を落とし、鞄の持ち手を一度握る。
『ナンジャモ来ると、お父さん休む』
「……休ませないと、働いちゃうからね」
『ご飯も食べる』
「それも、見張ってないと」
『笑う』
ナンジャモが顔を上げた。
アンバーはナンジャモを見ていた。
『ちゃんと』
その短い言葉に、ナンジャモはすぐ返事をしなかった。
スカーレットはいつも優しく笑う。
客へ、組員へ、アンバーへ。声も表情も穏やかで、相手が困っているほど、丁寧に話を聞く。
その笑顔と、不意にこぼれる笑い声が、少し違うことをナンジャモも知っていた。
何が違うのか、うまく説明はできない。
でも、アンバーも見ていたのだ。
「……ボクも、スカさんが笑ってると嬉しいよ」
『うん』
アンバーはうなずいた。
それだけだった。
母親になってほしいとも、父親をよろしくとも言わない。ただ、自分が見ていたことを話して、ナンジャモの答えを聞いた。
アンバーはもう一度、鞄へ目を落とす。
『これでも、笑うかな』
「笑うよ」
今度は、ナンジャモも迷わなかった。
「びっくりして、それから、すごく嬉しそうな顔すると思う」
アンバーの口元が、少し緩む。
ナンジャモはその顔を見て、笑った。
「ねえ、さっきの話、スカさんには――」
『言わない』
「ありがと」
『自分で言って』
「……そこ、厳しいね」
アンバーは菓子を食べ終え、空の皿を見た。
ナンジャモも、残りの飲み物へ手を伸ばした。
急いで戻らなくても、もう少し二人で過ごしていてよかった。
*
喫茶店を出た後、花屋の前で呼び止められた。
アンバーがいつも顔を出す店だ。店員が鉢を一つ持ち、ちょっと見ていって、と手招きする。
アンバーは棚へ近づき、細い葉が伸びる鉢を眺めた。
『新しいの』
「そう。小さくて、机にも置けるよ」
ナンジャモも横から覗く。
アンバーは鞄へ一度手を伸ばして、止めた。
『今日は買わない』
「珍しいね。気に入らなかった?」
『買ったから』
鞄を少し持ち上げる。
店員が、ナンジャモの顔を見た。
ナンジャモが小さくうなずくと、何となく察したらしい。
「そっか。じゃあ、また今度ね」
『うん』
アンバーは鉢をもう一度見て、棚へ戻した。
通りを歩き始めると、ナンジャモが聞く。
「あれ、欲しかった?」
『ちょっと』
「今度見に来ようよ。今日はいいお買い物できたもんね」
アンバーは鞄の持ち手を握り、うなずいた。
その顔は、店を出たときから少しも曇っていなかった。
ナンジャモは歩く速さを合わせた。
事務所へ続く道の先で、黒い作業車が角を曲がる。運転席の組員が二人に気づき、深く会釈した。
大げさに手を振ろうとしたナンジャモが、途中で動きを止める。
運転中だった。
代わりに、軽く手を上げる。
アンバーも、同じように返した。
車が遠ざかると、アンバーがぽつりと言った。
『お父さん、聞くかな』
「何を?」
『何、買ったのって』
「聞くかもね。気にしてたみたいだし」
アンバーは少し考え、歩きながらナンジャモを見上げた。
『まだ内緒』
「帰ったら、見せてあげる?」
『うん。お父さん、ソファに座らせてから』
「そっか。ちゃんとプレゼントとして渡したいんだね」
アンバーはうなずき、鞄の持ち手を握り直した。
ナンジャモは笑った。アンバーはもう、父に贈り物を渡す場面まで考えているらしかった。
*
午後の打ち合わせを一つ終えたところで、アンバーから連絡が来た。
私のスマートフォンに、短い文字が並ぶ。
もう帰る。
離れた場所でまで、娘の声がいつでも聞こえるわけではない。街で連絡を取るときには、普通に電話を使う。
返事を打つ。
分かったよ。気をつけてね。
すぐに既読がついた。
その後は、何も届かなかった。
「オヤジ、どうでした」
ゴウが書類を持ってきながら聞く。
「もう帰るそうだよ」
「買い物の方は」
「それは、聞いていないね」
彼は神妙にうなずいた。
朝からずっと、私の反応を気にしているらしい。
「……私、そんなに落ち着かなく見えたかな」
「いえ。いつも通りです」
返事が早すぎた。
私は笑って、書類を受け取った。
仕事は進んでいる。午前中よりは、きちんと手元に集中できていた。
トーマにも、最初に入ってもらう仕事と日程を伝えた。まずはコウと一緒に、催しの備品の点検から始めることになっている。ヌオーが休める場所も、先方と相談できた。
新しく働く人が来る。
娘は、友達と買い物をして帰ってくる。
どちらも、待っていれば来る話だった。
私は次の打ち合わせの資料を、順番に並べた。
*
ガラス戸が開いたのは、少し後だった。
「ただいまー!」
ナンジャモの声に、組員たちが顔を上げる。
「姐さん、お帰りなさい!」
「お嬢も、お帰りです」
アンバーが小さく手を上げた。
私は席を立つ。
「お帰り。楽しめたかな」
『うん』
「それはよかった」
鞄が少し膨らんでいる。
中身は見えなかった。
「欲しいものは、見つかった?」
『うん』
「服の店に行ったんだよね」
『うん』
そこから先が出てこない。
ナンジャモが隣で笑っていた。
「いろいろ見たよ。アンバーちゃん、すごく真剣に選んでた」
「そうなんだ」
娘へ目を戻す。
鞄の持ち手を握る指が、少しだけ動いた。
『お父さん。座って』
「ここで?」
『ソファ』
応接スペースを示される。
私は時計を確かめた。次の打ち合わせまでは、まだ少し余裕がある。
「うん。じゃあ、少しお話を聞かせてもらおうかな」
ソファへ座ると、ナンジャモも隣へ腰を下ろした。
アンバーは立ったまま、鞄をテーブルへ置く。
口を開け、箱を取り出した。
濃い色の包み紙に、細いリボン。
何かを見せてもらうつもりで待っていたので、こちらへ差し出されたとき、一瞬、意味が分からなかった。
『あげる』
娘が言った。
私は箱と、彼女の顔を見比べる。
「……私に?」
『うん』
隣のナンジャモが、小さくうなずいた。
「アンバーちゃんが、スカさんに買いたいものがあるって」
朝の、服の店、という言葉が頭へ戻る。
私を連れていかないと言ったこと。鞄を持っていたこと。何を買うのか、答えなかったこと。
全部、ここへつながった。
「開けてもいいかな」
『開けて』
私は箱を受け取った。
リボンをほどき、包み紙の端をゆっくり外す。アンバーは私の指先を見ていた。
ふたを開ける。
深い紫のネクタイが入っていた。
光の向きが変わると、細い織り目が見える。その間に、小さく温かい色が残る。
私は布地へ指を添えた。
『紫』
「うん」
『少し、私』
顔を上げる。
娘はネクタイを指さしていた。
琥珀色の糸が、ごく細く入っている。
「……本当だね」
ナンジャモが、箱の内側へ視線を向けた。
「カードもあるよ」
小さな紙を取り出す。
ありがとう。
使って。
アンバーと、ナンジャモ。
文字の大きさが違う。娘の名前は、見慣れた、少し時間をかけて書く字だった。
私はカードを一度、箱の上へ置いた。
「二人で、選んでくれたの?」
『うん』
「ネクタイはアンバーちゃん。ボクは、包むのを手伝ったんだ」
ナンジャモが言う。
娘は何も訂正せず、私を見ていた。
「……ありがとう。すごく嬉しいよ」
言い終わっても、足りない気がした。
同じ言葉を何度も重ねるのは、二人を困らせるだろう。それでも、ネクタイへもう一度目を落とすと、口元が勝手に緩んだ。
いつ使おうかと考えるより先に、明日つけたいと思った。
『使って』
「うん。明日、つけていこうかな」
『しまわないで』
「大事にすることと、しまっておくことは、別だね」
娘がうなずく。
ナンジャモは、嬉しそうに彼女を見ていた。
「似合うと思うよ。アンバーちゃん、何本も見て決めたんだから」
「そんなに考えてくれたんだ」
『お父さん、毎日使うから』
私はネクタイを指先でそっと持ち上げた。
娘が選んだものを、私が明日から使う。
それだけのことなのに、胸の奥が少し忙しかった。
アンバーは目を細めた。
その顔を見て、私も笑った。
*
「オヤジ、次の打ち合わせの――」
ゴウが顔を出し、テーブルの上を見た。
箱。包み紙。カード。私の手にある、新しいネクタイ。
彼は一度口を閉じ、それから深く頭を下げた。
「失礼しやした。お時間になりましたら、また」
「今、教えてもらって大丈夫だよ」
彼が予定を伝えている間に、隣の机から別の組員も覗く。
「お嬢がお選びに?」
『ナンジャモと』
「そいつは、いいもんをいただきましたね、オヤジ」
「うん。明日から使わせてもらうよ」
男がナンジャモへ頭を下げる。
「姐さん、ありがとうございました」
「ボクだけじゃないって。アンバーちゃんが、最初から最後までちゃんと選んだんだよ」
娘が鞄を抱え直す。
組員たちはそれ以上からかわず、それぞれの席へ戻った。
私はカードを箱へしまう。ネクタイは、一度たたみ方を確かめてから、その上へ置いた。
「今日は、私が知らないことばかりだったね」
ナンジャモがこちらを見る。
「気になってた?」
「少しね。君たちが何を買うのか、考えてしまった」
アンバーが私の袖へ手を伸ばす。
『内緒、できた』
「うん。ちゃんと驚いたよ」
娘は満足そうだった。
ナンジャモも、静かに笑っている。
私は彼女へ向き直った。
「付き合ってくれて、ありがとう。君からもらった言葉も、嬉しかった」
カードに書かれた、二人の名前を見る。
ナンジャモは少し目を伏せ、それから顔を上げた。
「……ボクも、喜んでもらえて嬉しいよ」
普段の配信より、小さな声だった。
私はうなずいた。
何かを返さなくては、と考えかけて、やめる。
今日は、もらったものを喜んでいい日なのだろう。
*
翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。
アンバーに起こされる前に、顔を洗う。髪を整え、シャツへ袖を通す。
新しいネクタイを箱から取り出した。
指に馴染む布地は、今までのものと少し違う。結び目を作り、鏡で長さを確かめて、一度結び直す。
襟元へ収まると、深い紫の中に琥珀色が見えた。
扉が開く。
アンバーが立っていた。
『起きてた』
「おはよう」
『おはよう』
娘の視線が、私の顔から首元へ移る。
そのまま、少し止まった。
「どうかな。似合ってる?」
私は鏡の前から一歩離れた。
アンバーは近づき、斜めからも確かめる。最後に正面へ戻って、うなずいた。
『うん』
「よかった。選んでくれて、ありがとうね」
娘は顎を少し上げる。
照れたときの癖だった。
『前より胡散臭くない』
「……前より、なんだね」
アンバーの尻尾が揺れた。
私も笑い、鏡へもう一度目を向ける。
いつもの朝の確認は、まだしていなかった。
眉間の力を抜くことも、口元を緩めることも。
今朝は、それでよさそうだった。
箱を片づける前に、カードだけを取り出す。
机の上の、小さな写真立ての脇へ置いた。
アンバーがその様子を見て、首をかしげる。
『それは、しまわない?』
「うん。こちらも、見えるところで使わせてもらうよ」
娘はしばらくカードを見ていた。
それから、自分で扉を開けた。
『行こう』
「今日はパン屋さん?」
『うん』
私は上着を羽織り、娘の後へ続いた。
玄関で靴を履いていると、彼女がこちらへ振り返る。
『ナンジャモにも、見せる』
「来てくれたら、見てもらおうね」
『写真送る』
「私が写るの?」
『ネクタイ』
言い切ってから、娘は少し考えた。
『お父さんも、少し』
私は笑って、首元を一度整えた。
「それなら、撮るときは教えてね」
アンバーはうなずき、朝の光の中へ出ていった。
社畜ナンジャモってネタを見て、すっごい好みだったとだけ。