紫組に、ただいま   作:只野至

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注意 特に意味はありませんが原作キャラ×オリキャラのカップリングっぽいネタが出てきます。


第3話 看板娘のお買い物

第3話 看板娘のお買い物

 

 ネクタイの先に、細い糸が出ていた。

 

 私は机の引き出しから小さな鋏を取り、飛び出した分だけを切る。布地を指でならせば、まだほとんど分からない。

 

 濃い紫の、柄のないネクタイだ。

 

 よく使うものほど傷む。新しいものを買っても、結局これに手が伸びるので、予備より先にくたびれてしまった。

 

『また切った』

 

 顔を上げると、アンバーが机の横に立っていた。

 

 薄い灰色の体に紫色の瞳。娘は私の手元を見てから、首元を見る。

 

「少し糸が出ていただけだよ」

 

『前も』

 

「よく見ているね」

 

 鋏を引き出しへ戻す。

 

 ミュウツーの娘は、褒められても嬉しそうにしなかった。腕を組み、尻尾の先を一度だけ床へつける。

 

『新しいの、ある』

 

「家に何本かあるね」

 

『それ使えば』

 

「色が合わせやすくてね。これも、まだ使えるから」

 

 娘はしばらく私を見た。

 

 何か言いかけた気配が、頭の中へ届く。実際の言葉になる前に、それは引っ込んだ。

 

 テレパシーで話すアンバーにも、言うのをやめることはある。何でも直接伝わるわけではない。

 

 やがて彼女は踵を返し、応接ソファへ戻った。

 

 その足取りが少しだけ速かったのを、私は見送っていた。

 

     *

 

 ナンジャモの配信から、三日が過ぎていた。

 

 事務所の電話は、いつもよりよく鳴る。仕事の相談もあるし、看板娘を見たいという問い合わせもある。

 

 ゴウが受話器を置き、手帳へ何か書き込んだ。

 

「オヤジ、またお嬢への取材の話です」

 

「前のところとは別?」

 

「へい。お写真だけでも、と」

 

「アンバーがどうしたいか、先に聞いておこうね。仕事の相談に来る方の邪魔にならない時間で」

 

「承知しやした」

 

 配信で顔を出したからといって、娘を見世物にするつもりはない。本人が楽しめる範囲なら考えるが、会社の宣伝を優先して決めることでもなかった。

 

 当のアンバーは、窓辺でリボンを結び直している。

 

 先日の景品につける予定だったものをもらってから、気に入ったらしい。今日は、小さな布の鞄の持ち手につけていた。

 

 財布や買ったものを入れるために使う鞄だ。

 

 私と出かけるときには、あまり持っていかない。荷物を持つ役は、自然と私になるからだろう。

 

「どこかへ行くの?」

 

『買い物』

 

「花屋さん?」

 

『違う』

 

 娘が短く答え、窓の外を見る。

 

 誰かを待っているようだった。

 

 ちょうどそのとき、入口から明るい声がした。

 

「こんちゃー! スカさん、いる?」

 

 組員たちが顔を上げる。

 

「姐さん、お疲れさまです!」

 

「姐御、お待ちしておりました!」

 

「お待ちしてたの? 今日はアンバーちゃんに呼ばれたんだけど」

 

 私は娘を見た。

 

 アンバーはもう、ソファから立ち上がっている。

 

『来た』

 

「私、知らなかったな」

 

『言ってない』

 

「そうだね。今、初めて聞いたから」

 

 ナンジャモが笑い、アンバーの鞄へ目を向けた。

 

「お、準備できてるね。どこ行こっか」

 

『服の店』

 

「服?」

 

 思わず聞き返した。

 

 娘がこちらを見る。

 

 首をかしげた。

 

『何』

 

「君のものを買うのかなと思って」

 

『買いたいもの』

 

 答えになっているようで、なっていない。

 

 私は仕事の予定を思い返した。午前中の書類は、あと一枚確認すれば終わる。午後は打ち合わせが二件だが、まだ時間に余裕はあった。

 

「少し待ってもらえれば、私も――」

 

『お父さんは来ない』

 

 返事が早かった。

 

 ナンジャモがこちらを見て、慌てて付け足す。

 

「そ、そう! 今日は女子のお買い物なので!」

 

 アンバーはうなずいた。

 

『二人』

 

「……分かったよ」

 

 私は椅子に座り直す。

 

 娘は、ほっとしたようにも見えた。

 

「楽しんできてね。欲しいものがあれば、無理のない範囲で」

 

『自分のお金』

 

「うん。足りなかったら、相談してね」

 

『足りる』

 

 鞄を少し持ち上げる。

 

 ナンジャモが、何かをこらえるように口元を緩めた。

 

「じゃあ、ちょっとお借りします」

 

「こちらこそ。付き合ってくれてありがとう」

 

「ボクも楽しみだから。ね、アンバーちゃん」

 

『うん』

 

 入口でゴウが扉を開ける。

 

「姐御、お嬢をよろしくお願いいたします」

 

「大丈夫、大丈夫。二人で楽しんできます!」

 

 娘は外へ出る前に振り返った。

 

『お父さん。仕事』

 

「ちゃんとするよ」

 

 ガラス戸が閉じる。

 

 ピンクのリボンが、二人の背中と一緒に角を曲がって見えなくなった。

 

     *

 

 書類の同じ行を、三回読んだ。

 

 金額を間違えたわけではない。文章が難しいわけでもない。ただ、確認している途中で、服の店、という短い言葉が頭へ戻ってくる。

 

 アンバーは何を買うつもりなのだろう。

 

 防寒着なら、まだ急ぐ時期でもない。鞄は今使っているものを気に入っている。ナンジャモの買い物へ付き合うという様子でもなかった。

 

 私が知らないだけで、新しく欲しいものができたのかもしれない。

 

「オヤジ」

 

 ゴウの声に、顔を上げる。

 

「そちら、さっき確認済みの方です」

 

 手元を見る。

 

 端に小さく、自分の筆跡で印をつけてあった。

 

「……ありがとう。少し考え事をしていたね」

 

「お嬢なら、姐さんと一緒です。ご心配なく」

 

「心配というほどではないよ」

 

 それは本当だった。

 

 アンバーは街を知っている。ナンジャモもいる。何かあれば、自分たちで対応できる二人だ。

 

 危ないからついていきたいわけではない。

 

 ただ、娘のことを、私はいつも知っているつもりだった。

 

 朝に何を食べたいか。誰と話したか。帰りにどこへ寄ったか。それを全部、本人が教えてくれていたから分かっていただけなのに。

 

「……何を買うか、少し気になったんだ」

 

 ゴウは神妙にうなずく。

 

「承知しました。聞いておりません」

 

「今、言ったと思うんだけど」

 

「へい。聞いておりません」

 

 妙な気遣いだった。

 

 隣の机から、別の組員が声をかける。

 

「オヤジ、若いもんの買い物に口出すと、嫌がられますぜ」

 

「口を出すつもりはないよ」

 

「なら、どんと構えておけばいいんです。姐さんなら、お嬢の好きなもんもご存じでしょう」

 

「そうだね」

 

 私はペンを持ち直した。

 

 アンバーには、自分で選べることが増えている。

 

 出会った頃は、何が好きかを尋ねても、返事がなかった。何かを欲しいと言うようになり、一人で行きたい場所ができて、今は私の知らない約束までしている。

 

 それは、喜んでいいことだ。

 

 分かっている。

 

 手元の別の書類へ目を移す。

 

 今度は、きちんと最後まで読んだ。

 

     *

 

 同じ頃、商店街の角で、アンバーが足を止めた。

 

 隣を歩いていたナンジャモも立ち止まる。

 

「どうしたの?」

 

『お父さん、来ないよね』

 

「来ないと思うよ。お仕事してるんでしょ?」

 

 アンバーは来た道を見た。

 

 事務所の方から、金髪の男が歩いてくる様子はない。

 

 しばらく確かめてから、ようやく前へ向き直った。

 

「もしかして、スカさんには内緒のお買い物?」

 

『うん』

 

「そっか。じゃあ、ボクも秘密にしますぞ」

 

 ナンジャモが声を少し落とす。

 

 アンバーは鞄の持ち手を握り直した。

 

『ネクタイ』

 

「ん?」

 

『お父さんの。新しいの』

 

 ナンジャモの顔から、からかうような表情が消えた。

 

 代わりに、柔らかい笑みが広がる。

 

「……それで、ボクを誘ってくれたんだ」

 

『私、使わない。分からない』

 

「任せて。ボクも普段つけないけど、一緒に選ぼう」

 

 アンバーはうなずき、さっきより少し速く歩き始めた。

 

     *

 

 二人が入ったのは、商店街から少し離れた服飾店だった。

 

 仕事着を買う人も、贈り物を探す人も来る店で、入口の近くにはシャツと小物が並んでいる。ナンジャモは一度来たことがあった。

 

「ここなら、いろいろ見られると思う」

 

 アンバーがガラス戸の向こうを覗く。

 

 ネクタイは奥の棚にあった。

 

 店員が二人に気づき、笑顔で近づいてくる。アンバーを見て一瞬足を止めたが、すぐにナンジャモへ顔を向けた。

 

「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」

 

「プレゼント用のネクタイを見たいんだけど」

 

「かしこまりました。お色や、ご予算のお希望はございますか?」

 

 ナンジャモがアンバーを見る。

 

 アンバーは鞄から財布を出した。

 

『これで買えるもの』

 

 財布を開こうとした手へ、ナンジャモがそっと自分の手を添える。

 

「全部見せなくて大丈夫だよ。先に、お値段を聞いてみよっか」

 

 アンバーは一度手を止め、財布を閉じた。

 

 店員も、アンバーの声を受け取ったらしい。驚いた顔で口を開きかけ、ナンジャモを見た。

 

「今の、お声は……」

 

「アンバーちゃん、テレパシーで話すんです。びっくりした?」

 

「ええ、少し。でも、お話しできるんですね」

 

『できる』

 

「では、こちらへどうぞ」

 

 店員が棚へ案内した。

 

 アンバーは値札を一つずつ見た。高いものも安いものも、同じように布地を眺め、触れてよいと言われてから指先を伸ばす。

 

「誰への贈り物なの?」

 

『お父さん』

 

「お父様に。素敵ですね」

 

 アンバーは何も言わず、隣のネクタイへ手を伸ばした。

 

 尻尾の先だけが、少し上がる。

 

 ナンジャモはその動きを見て、笑いそうになったのをこらえた。

 

     *

 

 最初にアンバーが選んだのは、紫に金色の模様が大きく入った一本だった。

 

 顔へ近づけ、少し離して見る。

 

『紫』

 

「うん。紫だね」

 

『お父さん、紫』

 

「そうだね。……でも、それだと組長らしさが、さらに強くなるかも」

 

 アンバーが布地を見る。

 

 ナンジャモも、改めて眺めた。黒いスーツと合わせた姿を思い浮かべると、受付のゴウが扉を開けている光景まで、鮮明に浮かんでしまう。

 

「ちょっと、貫禄が出すぎるかな」

 

『胡散臭い?』

 

「それは……ボクの口からは……」

 

 アンバーは棚へ戻した。

 

 次に手に取ったのは、淡い桃色だった。

 

「お、それは柔らかい感じでいいんじゃない?」

 

『ナンジャモの色』

 

「ボクの?」

 

『髪』

 

 アンバーがナンジャモの髪とネクタイを見比べる。

 

 ナンジャモは一瞬、スカーレットがそれをつけた姿を想像した。

 

 自分の髪と似た色を、彼が毎日選んでくれる。

 

 想像の先へ行きかけて、慌てて首を振った。

 

「うん。似た色だけど、スカさんが使いたい色かも考えようね」

 

『毎日、紫』

 

「慣れてる色がいいのかも」

 

 アンバーはもう一度棚へ目を戻す。

 

 真剣だった。

 

 普段は、欲しいものを見つけると迷わない。パン屋では指をさすのが早いし、花屋では気に入った鉢を一度見たら、そこから目を離さない。

 

 今日は、なかなか決まらなかった。

 

 一本を選んでも、スカーレットの首元を思い返しているらしく、また別の一本を手に取る。

 

 ナンジャモは急かさず、隣で一緒に探した。

 

「いつもつけてるの、少し傷んでたね」

 

『朝、切ってた』

 

「糸?」

 

『うん。まだ使えるって』

 

 アンバーは指先で、ネクタイの端をそっと触る。

 

『新しいの、あげたら使う?』

 

「使うと思うよ。アンバーちゃんが選んでくれたんだもん」

 

『しまわない?』

 

「大事だから、って?」

 

 アンバーがうなずいた。

 

 ナンジャモは少し考えてから、笑う。

 

「そこは、使ってほしいって言おう。スカさん、とっときそうだし」

 

『言う』

 

 返事がはっきりしていた。

 

 店員が、小さな色見本を持って戻ってくる。

 

「贈る方のお洋服は、普段どのようなお色ですか?」

 

「黒っぽいスーツとか、濃い紫とか。シャツは白が多いです」

 

 ナンジャモが答える。

 

 アンバーも付け足した。

 

『金色の髪』

 

「でしたら、こちらのお色もよく合いそうですね」

 

 差し出されたのは、深い紫の一本だった。

 

 大きな柄はない。近くで見ると、細い斜めの線が織り込まれている。その間に、ごく細く、琥珀色の糸が入っていた。

 

 アンバーの指が止まる。

 

 ナンジャモは、アンバーの顔を見た。

 

『これ』

 

 短い言葉だった。

 

 だが、さっきまでとは違っていた。

 

「好き?」

 

『うん』

 

「スカさんにも、似合いそう」

 

 アンバーはうなずいた。

 

 布地へ触れた指が、もう一度ゆっくり動いた。

 

『私の色、少し』

 

 ナンジャモがネクタイを見る。

 

 深い紫の中に、小さく残る、温かい色。

 

 アンバーという名に重なる、温かい色。

 

 ナンジャモは黙って、選ばれた一本を見つめた。

 

     *

 

 値段を聞くと、アンバーの財布だけで買えるものだった。

 

 アンバーはほっとした様子で鞄を抱え直す。

 

 ナンジャモが声をかけた。

 

「ね、よかったらボクも一緒に贈っていい?」

 

 アンバーが顔を上げた。

 

『お金、足りる』

 

「うん。足りないからじゃなくて。ボクも、スカさんにプレゼントしたいなって」

 

 アンバーはネクタイを見た。

 

 それから、ナンジャモの顔を見る。

 

 しばらく考え、うなずいた。

 

『じゃあ、箱』

 

「箱?」

 

『これ、私。入れるの、ナンジャモ』

 

 店員が手にしていた贈答用の箱を指す。

 

 包みと小さなカードは、別に選べるようになっていた。

 

「……そっか。じゃあ、ボクはちゃんと包む方を担当します!」

 

『うん』

 

 ナンジャモはその分だけ支払った。

 

 アンバーの財布からは、アンバー自身が代金を出す。枚数を確かめる指は丁寧で、受け取ったお釣りも、その場で一度数えた。

 

 店員が包み始める間、ナンジャモはカードを選ぶ。

 

 明るすぎるものより、少し落ち着いた方がよさそうだった。

 

「何か書く?」

 

『使って』

 

「……大事なお願いだけど、カードにそれだけ?」

 

『毎日じゃなくてもいい』

 

「それも書く?」

 

 アンバーは首を横に振った。

 

 少し考え、もう一度口を開かずに言葉を送る。

 

『ありがとう』

 

 ナンジャモの手が止まる。

 

 アンバーはカードを見ていた。

 

『それも』

 

「うん。書こう」

 

 二人は台の端で、小さなカードへ文字を入れた。

 

 アンバーは細いペンを持ち、ゆっくり自分の名前を書いた。ナンジャモも、その横へ名前を添える。

 

 でき上がったカードを、アンバーがしばらく眺めていた。

 

 その顔を見て、ナンジャモは何も足さないことにした。

 

     *

 

 店を出ると、アンバーは包みを自分の鞄へ入れた。

 

 箱がつぶれないよう、リボンをほどき、口を大きく開ける。財布と包みを分け、肩へかけ直してから歩き始めた。

 

「このまま戻る? 少し休んでいく?」

 

『休む』

 

「じゃあ、あそこのお店にしよっか」

 

 通りの奥にある、小さな喫茶店だった。外の席なら、アンバーも尻尾を気にせず座れる。

 

 店員はアンバーを見て、すぐに笑った。

 

「アンバーちゃん、今日はお父さんとじゃないんだね」

 

『ナンジャモ』

 

「もちろん知ってるよ。二人とも、どうぞ」

 

 角の席へ案内される。

 

 注文した飲み物と菓子が届くと、アンバーは鞄を膝へ置いたまま食べ始めた。

 

「隣に置いても大丈夫だよ」

 

『ここでいい』

 

 買ったものを、手の届く場所に置きたいらしい。

 

 ナンジャモは自分の飲み物へ手を伸ばす。

 

 事務所から離れて二人で座るのは、久しぶりだった。アンバーと話す機会は多いが、大抵そこにはスカーレットや組員たちがいる。

 

 アンバーは菓子を一口食べ、それから顔を上げた。

 

『ナンジャモ』

 

「ん?」

 

『お父さん、好き?』

 

 ナンジャモはカップを置いた。

 

 音が少し大きかった。

 

「……お。突然ですなあ」

 

 いつもの調子で返す。

 

 アンバーは笑わなかった。

 

 紫色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。

 

『聞いてる』

 

「うん。そうだね」

 

 ナンジャモは袖の中で指を動かした。

 

 冗談にすれば、きっとそのまま流せる。スカさんはスポンサーだから、紫組の皆が好きだから。どちらも嘘ではない。

 

 けれど、聞いている相手はアンバーだった。

 

 アンバーが知りたいのは、そういう答えではないのだろう。

 

 ナンジャモは周りを一度見てから、声を落とした。

 

「……好きだよ」

 

 アンバーの尻尾が、一度だけ動いた。

 

『知ってた』

 

「じゃあ、何で聞いたの\!?」

 

『言ったの、聞きたかった』

 

 ナンジャモは片手で顔を覆った。

 

 アンバーはその間に、また一口食べる。

 

 急かさなかった。

 

 カップの氷が、小さく音を立てた。

 

「アンバーちゃんは、どう思う?」

 

『何が』

 

「ボクが、スカさんのこと好きなの」

 

 アンバーは少し考えた。

 

 菓子の皿へ目を落とし、鞄の持ち手を一度握る。

 

『ナンジャモ来ると、お父さん休む』

 

「……休ませないと、働いちゃうからね」

 

『ご飯も食べる』

 

「それも、見張ってないと」

 

『笑う』

 

 ナンジャモが顔を上げた。

 

 アンバーはナンジャモを見ていた。

 

『ちゃんと』

 

 その短い言葉に、ナンジャモはすぐ返事をしなかった。

 

 スカーレットはいつも優しく笑う。

 

 客へ、組員へ、アンバーへ。声も表情も穏やかで、相手が困っているほど、丁寧に話を聞く。

 

 その笑顔と、不意にこぼれる笑い声が、少し違うことをナンジャモも知っていた。

 

 何が違うのか、うまく説明はできない。

 

 でも、アンバーも見ていたのだ。

 

「……ボクも、スカさんが笑ってると嬉しいよ」

 

『うん』

 

 アンバーはうなずいた。

 

 それだけだった。

 

 母親になってほしいとも、父親をよろしくとも言わない。ただ、自分が見ていたことを話して、ナンジャモの答えを聞いた。

 

 アンバーはもう一度、鞄へ目を落とす。

 

『これでも、笑うかな』

 

「笑うよ」

 

 今度は、ナンジャモも迷わなかった。

 

「びっくりして、それから、すごく嬉しそうな顔すると思う」

 

 アンバーの口元が、少し緩む。

 

 ナンジャモはその顔を見て、笑った。

 

「ねえ、さっきの話、スカさんには――」

 

『言わない』

 

「ありがと」

 

『自分で言って』

 

「……そこ、厳しいね」

 

 アンバーは菓子を食べ終え、空の皿を見た。

 

 ナンジャモも、残りの飲み物へ手を伸ばした。

 

 急いで戻らなくても、もう少し二人で過ごしていてよかった。

 

     *

 

 喫茶店を出た後、花屋の前で呼び止められた。

 

 アンバーがいつも顔を出す店だ。店員が鉢を一つ持ち、ちょっと見ていって、と手招きする。

 

 アンバーは棚へ近づき、細い葉が伸びる鉢を眺めた。

 

『新しいの』

 

「そう。小さくて、机にも置けるよ」

 

 ナンジャモも横から覗く。

 

 アンバーは鞄へ一度手を伸ばして、止めた。

 

『今日は買わない』

 

「珍しいね。気に入らなかった?」

 

『買ったから』

 

 鞄を少し持ち上げる。

 

 店員が、ナンジャモの顔を見た。

 

 ナンジャモが小さくうなずくと、何となく察したらしい。

 

「そっか。じゃあ、また今度ね」

 

『うん』

 

 アンバーは鉢をもう一度見て、棚へ戻した。

 

 通りを歩き始めると、ナンジャモが聞く。

 

「あれ、欲しかった?」

 

『ちょっと』

 

「今度見に来ようよ。今日はいいお買い物できたもんね」

 

 アンバーは鞄の持ち手を握り、うなずいた。

 

 その顔は、店を出たときから少しも曇っていなかった。

 

 ナンジャモは歩く速さを合わせた。

 

 事務所へ続く道の先で、黒い作業車が角を曲がる。運転席の組員が二人に気づき、深く会釈した。

 

 大げさに手を振ろうとしたナンジャモが、途中で動きを止める。

 

 運転中だった。

 

 代わりに、軽く手を上げる。

 

 アンバーも、同じように返した。

 

 車が遠ざかると、アンバーがぽつりと言った。

 

『お父さん、聞くかな』

 

「何を?」

 

『何、買ったのって』

 

「聞くかもね。気にしてたみたいだし」

 

 アンバーは少し考え、歩きながらナンジャモを見上げた。

 

『まだ内緒』

 

「帰ったら、見せてあげる?」

 

『うん。お父さん、ソファに座らせてから』

 

「そっか。ちゃんとプレゼントとして渡したいんだね」

 

 アンバーはうなずき、鞄の持ち手を握り直した。

 

 ナンジャモは笑った。アンバーはもう、父に贈り物を渡す場面まで考えているらしかった。

 

     *

 

 午後の打ち合わせを一つ終えたところで、アンバーから連絡が来た。

 

 私のスマートフォンに、短い文字が並ぶ。

 

 もう帰る。

 

 離れた場所でまで、娘の声がいつでも聞こえるわけではない。街で連絡を取るときには、普通に電話を使う。

 

 返事を打つ。

 

 分かったよ。気をつけてね。

 

 すぐに既読がついた。

 

 その後は、何も届かなかった。

 

「オヤジ、どうでした」

 

 ゴウが書類を持ってきながら聞く。

 

「もう帰るそうだよ」

 

「買い物の方は」

 

「それは、聞いていないね」

 

 彼は神妙にうなずいた。

 

 朝からずっと、私の反応を気にしているらしい。

 

「……私、そんなに落ち着かなく見えたかな」

 

「いえ。いつも通りです」

 

 返事が早すぎた。

 

 私は笑って、書類を受け取った。

 

 仕事は進んでいる。午前中よりは、きちんと手元に集中できていた。

 

 トーマにも、最初に入ってもらう仕事と日程を伝えた。まずはコウと一緒に、催しの備品の点検から始めることになっている。ヌオーが休める場所も、先方と相談できた。

 

 新しく働く人が来る。

 

 娘は、友達と買い物をして帰ってくる。

 

 どちらも、待っていれば来る話だった。

 

 私は次の打ち合わせの資料を、順番に並べた。

 

     *

 

 ガラス戸が開いたのは、少し後だった。

 

「ただいまー!」

 

 ナンジャモの声に、組員たちが顔を上げる。

 

「姐さん、お帰りなさい!」

 

「お嬢も、お帰りです」

 

 アンバーが小さく手を上げた。

 

 私は席を立つ。

 

「お帰り。楽しめたかな」

 

『うん』

 

「それはよかった」

 

 鞄が少し膨らんでいる。

 

 中身は見えなかった。

 

「欲しいものは、見つかった?」

 

『うん』

 

「服の店に行ったんだよね」

 

『うん』

 

 そこから先が出てこない。

 

 ナンジャモが隣で笑っていた。

 

「いろいろ見たよ。アンバーちゃん、すごく真剣に選んでた」

 

「そうなんだ」

 

 娘へ目を戻す。

 

 鞄の持ち手を握る指が、少しだけ動いた。

 

『お父さん。座って』

 

「ここで?」

 

『ソファ』

 

 応接スペースを示される。

 

 私は時計を確かめた。次の打ち合わせまでは、まだ少し余裕がある。

 

「うん。じゃあ、少しお話を聞かせてもらおうかな」

 

 ソファへ座ると、ナンジャモも隣へ腰を下ろした。

 

 アンバーは立ったまま、鞄をテーブルへ置く。

 

 口を開け、箱を取り出した。

 

 濃い色の包み紙に、細いリボン。

 

 何かを見せてもらうつもりで待っていたので、こちらへ差し出されたとき、一瞬、意味が分からなかった。

 

『あげる』

 

 娘が言った。

 

 私は箱と、彼女の顔を見比べる。

 

「……私に?」

 

『うん』

 

 隣のナンジャモが、小さくうなずいた。

 

「アンバーちゃんが、スカさんに買いたいものがあるって」

 

 朝の、服の店、という言葉が頭へ戻る。

 

 私を連れていかないと言ったこと。鞄を持っていたこと。何を買うのか、答えなかったこと。

 

 全部、ここへつながった。

 

「開けてもいいかな」

 

『開けて』

 

 私は箱を受け取った。

 

 リボンをほどき、包み紙の端をゆっくり外す。アンバーは私の指先を見ていた。

 

 ふたを開ける。

 

 深い紫のネクタイが入っていた。

 

 光の向きが変わると、細い織り目が見える。その間に、小さく温かい色が残る。

 

 私は布地へ指を添えた。

 

『紫』

 

「うん」

 

『少し、私』

 

 顔を上げる。

 

 娘はネクタイを指さしていた。

 

 琥珀色の糸が、ごく細く入っている。

 

「……本当だね」

 

 ナンジャモが、箱の内側へ視線を向けた。

 

「カードもあるよ」

 

 小さな紙を取り出す。

 

 ありがとう。

 

 使って。

 

 アンバーと、ナンジャモ。

 

 文字の大きさが違う。娘の名前は、見慣れた、少し時間をかけて書く字だった。

 

 私はカードを一度、箱の上へ置いた。

 

「二人で、選んでくれたの?」

 

『うん』

 

「ネクタイはアンバーちゃん。ボクは、包むのを手伝ったんだ」

 

 ナンジャモが言う。

 

 娘は何も訂正せず、私を見ていた。

 

「……ありがとう。すごく嬉しいよ」

 

 言い終わっても、足りない気がした。

 

 同じ言葉を何度も重ねるのは、二人を困らせるだろう。それでも、ネクタイへもう一度目を落とすと、口元が勝手に緩んだ。

 

 いつ使おうかと考えるより先に、明日つけたいと思った。

 

『使って』

 

「うん。明日、つけていこうかな」

 

『しまわないで』

 

「大事にすることと、しまっておくことは、別だね」

 

 娘がうなずく。

 

 ナンジャモは、嬉しそうに彼女を見ていた。

 

「似合うと思うよ。アンバーちゃん、何本も見て決めたんだから」

 

「そんなに考えてくれたんだ」

 

『お父さん、毎日使うから』

 

 私はネクタイを指先でそっと持ち上げた。

 

 娘が選んだものを、私が明日から使う。

 

 それだけのことなのに、胸の奥が少し忙しかった。

 

 アンバーは目を細めた。

 

 その顔を見て、私も笑った。

 

     *

 

「オヤジ、次の打ち合わせの――」

 

 ゴウが顔を出し、テーブルの上を見た。

 

 箱。包み紙。カード。私の手にある、新しいネクタイ。

 

 彼は一度口を閉じ、それから深く頭を下げた。

 

「失礼しやした。お時間になりましたら、また」

 

「今、教えてもらって大丈夫だよ」

 

 彼が予定を伝えている間に、隣の机から別の組員も覗く。

 

「お嬢がお選びに?」

 

『ナンジャモと』

 

「そいつは、いいもんをいただきましたね、オヤジ」

 

「うん。明日から使わせてもらうよ」

 

 男がナンジャモへ頭を下げる。

 

「姐さん、ありがとうございました」

 

「ボクだけじゃないって。アンバーちゃんが、最初から最後までちゃんと選んだんだよ」

 

 娘が鞄を抱え直す。

 

 組員たちはそれ以上からかわず、それぞれの席へ戻った。

 

 私はカードを箱へしまう。ネクタイは、一度たたみ方を確かめてから、その上へ置いた。

 

「今日は、私が知らないことばかりだったね」

 

 ナンジャモがこちらを見る。

 

「気になってた?」

 

「少しね。君たちが何を買うのか、考えてしまった」

 

 アンバーが私の袖へ手を伸ばす。

 

『内緒、できた』

 

「うん。ちゃんと驚いたよ」

 

 娘は満足そうだった。

 

 ナンジャモも、静かに笑っている。

 

 私は彼女へ向き直った。

 

「付き合ってくれて、ありがとう。君からもらった言葉も、嬉しかった」

 

 カードに書かれた、二人の名前を見る。

 

 ナンジャモは少し目を伏せ、それから顔を上げた。

 

「……ボクも、喜んでもらえて嬉しいよ」

 

 普段の配信より、小さな声だった。

 

 私はうなずいた。

 

 何かを返さなくては、と考えかけて、やめる。

 

 今日は、もらったものを喜んでいい日なのだろう。

 

     *

 

 翌朝、いつもより少し早く目が覚めた。

 

 アンバーに起こされる前に、顔を洗う。髪を整え、シャツへ袖を通す。

 

 新しいネクタイを箱から取り出した。

 

 指に馴染む布地は、今までのものと少し違う。結び目を作り、鏡で長さを確かめて、一度結び直す。

 

 襟元へ収まると、深い紫の中に琥珀色が見えた。

 

 扉が開く。

 

 アンバーが立っていた。

 

『起きてた』

 

「おはよう」

 

『おはよう』

 

 娘の視線が、私の顔から首元へ移る。

 

 そのまま、少し止まった。

 

「どうかな。似合ってる?」

 

 私は鏡の前から一歩離れた。

 

 アンバーは近づき、斜めからも確かめる。最後に正面へ戻って、うなずいた。

 

『うん』

 

「よかった。選んでくれて、ありがとうね」

 

 娘は顎を少し上げる。

 

 照れたときの癖だった。

 

『前より胡散臭くない』

 

「……前より、なんだね」

 

 アンバーの尻尾が揺れた。

 

 私も笑い、鏡へもう一度目を向ける。

 

 いつもの朝の確認は、まだしていなかった。

 

 眉間の力を抜くことも、口元を緩めることも。

 

 今朝は、それでよさそうだった。

 

 箱を片づける前に、カードだけを取り出す。

 

 机の上の、小さな写真立ての脇へ置いた。

 

 アンバーがその様子を見て、首をかしげる。

 

『それは、しまわない?』

 

「うん。こちらも、見えるところで使わせてもらうよ」

 

 娘はしばらくカードを見ていた。

 

 それから、自分で扉を開けた。

 

『行こう』

 

「今日はパン屋さん?」

 

『うん』

 

 私は上着を羽織り、娘の後へ続いた。

 

 玄関で靴を履いていると、彼女がこちらへ振り返る。

 

『ナンジャモにも、見せる』

 

「来てくれたら、見てもらおうね」

 

『写真送る』

 

「私が写るの?」

 

『ネクタイ』

 

 言い切ってから、娘は少し考えた。

 

『お父さんも、少し』

 

 私は笑って、首元を一度整えた。

 

「それなら、撮るときは教えてね」

 

 アンバーはうなずき、朝の光の中へ出ていった。




社畜ナンジャモってネタを見て、すっごい好みだったとだけ。
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