第4話 少し、おいたが過ぎたね
新しいネクタイをつけていると、事務所へ来る人がよく首元を見る。
似合うと言ってくれる人もいれば、誰が選んだのかを聞く人もいる。
そのたびに私が答えるより早く、アンバーが顔を上げた。
『私とナンジャモ』
今日も、青果店の奥さんにそう教えていた。
「そうなの。スカさん、よかったねえ」
「ええ。気に入っています」
娘は隣でうなずく。
贈り物をした側が、もらった側より満足そうにしている。その顔を見るのも、私にとっては嬉しいことだった。
昼前の事務所は、少し落ち着いていた。
現場の組員たちはそれぞれ出ており、受付にはゴウ。奥ではコウが午後の準備を確認している。私は翌週の人員表を直し、アンバーはソファで花屋からもらった小冊子を眺めていた。
キングとクインも、モンスターボールの中で外の話を聞いていた。
古参の二匹にとって、アンバーもミュウツーも、親戚の子供のようなものだ。だから、娘へ向けられた男の言葉を、二匹とも快く思ってはいなかった。
そのことを、私はまだ知らなかった。
そこへ、男が入ってきた。
年は二十代半ばくらい。肩に旅行用の鞄を掛け、腰にはボールを並べている。服も靴も、旅をしている者のものだった。
入口の看板を見て、彼は笑った。
「ここが紫組?」
「へい。ご相談ですか」
ゴウが立ち上がる。
男は答えず、事務所を見回した。
その目がソファで止まる。
「ああ。本当にいた」
娘が顔を上げた。
男はスマートフォンを取り出す。
ゴウが一歩、前へ出た。
「お客さん。撮影は、先にお話を通していただきたいんですが」
「写真くらい、いいだろ。配信に出てたんだし」
私はペンを置いた。
「こんにちは。代表のスカーレットです。何かご用でしょうか」
入口へ向かいながら、声を柔らかくする。
男は私の顔を見て、それから首元へ目を落とした。
「配信の社長か。ちょっと聞きたいことがあって」
「どうぞ」
「そのミュウツー、本当にあんたのポケモン?」
アンバーが冊子を閉じた。
私は彼女を一度見てから、男へ向き直る。
「名前はアンバーです。私と一緒に暮らしています」
「だから、あんたのなんだろ?」
「家族ですよ」
男は肩をすくめた。
「娘って言ってたやつね。そういう設定、受けるんだな」
受付の奥で、椅子が小さく鳴った。
コウが立ち上がっている。
私は片手を上げた。彼は動きを止めたが、男を見る目は変わらない。
「配信のために、そう呼んでいるわけではありません」
「分かった、分かった。そこはどうでもいいんだけど」
男は私の横からアンバーを見た。
珍しい道具を店頭で品定めするような目だった。
*
男はバルトと名乗った。
ナンジャモの配信を見て、遠くから来たのだという。各地を回りながらバトルをしていて、ミュウツーがいると知り、会ってみたくなったらしい。
そこまでなら、構わなかった。
実物を見て驚く人も、どんなポケモンなのか知りたがる人もいる。アンバー本人が話したければ、話せばいい。
だが、バルトは娘を見ているのに、娘へ話しかけなかった。
「どこで手に入れたんだ?」
「そのことは、お話ししていません」
「交換は? さすがに普通の条件じゃ無理だろうけど」
「考えていません」
「一応、聞いておこうと思って。持ってるだけじゃ、もったいないし」
ソファの端で、娘の尻尾が止まった。
私はバルトと応接スペースの間へ立つ。
「アンバーのことを知りたいなら、本人に聞いていただけますか」
男は、ようやく娘へ顔を向けた。
「じゃあ、バトルしようぜ」
その言い方には、質問よりも当然の予定という響きがあった。
アンバーは彼を見た。
『しない』
バルトの眉が動く。
頭へ届いた声に驚いたらしく、一瞬周囲を見回した。
「……ああ、テレパシーか。本当に喋れるんだな」
『しないって言った』
男は笑った。
「普段からそう教えてんの? いや、別に取ろうって言ってるわけじゃない。強いんだろうし、一回くらい」
私は声を少し落とした。
「断っています。今日は、お引き取りください」
バルトが私を見る。
初めて、こちらの言葉を聞いたような顔だった。
「せっかく来たのに?」
「来てくださったことと、勝負を受けるかどうかは、別のお話です」
「ジムリーダーのスポンサーっていうから、まともに戦えるのかと思ったけど」
ゴウが私の隣へ来た。
「お客さん。その辺で――」
「おいおい。怖い人が出てくるのかよ」
バルトが笑いながら一歩退く。
ゴウの拳は握られていた。だが、腕は下ろしたままだ。
私は彼へ目を向ける。
「大丈夫。ここは私が話すよ」
ゴウは息を吐き、半歩下がった。
バルトはその様子を見て、またアンバーへ視線を戻した。
「バトルさせないなら、ミュウツーじゃなくてもいいだろ。娘ごっこなら、もっとおとなしいポケモンで――」
そこで、私は口を開いた。
「そこまでにしてくれるかな」
声は大きくなかった。
男が、途中で言葉を止める。
事務所の電話が一度鳴った。コウが受け取り、奥へ移る。その音だけが、しばらく聞こえた。
私はバルトを見た。
笑顔を作り直す必要は、もう感じなかった。
「アンバーは、君が欲しい強さを見せるために、ここにいるわけじゃないんだ」
男の口元が、少しだけ固くなる。
「……そんな大げさな話か?」
「二度、断られたね」
アンバーの手が、私の袖へ触れた。
振り返ると、娘が立っていた。
『お父さん』
「うん。分かっているよ」
彼女が何を言いたいか、全部を聞いたわけではない。
けれど、袖をつかむ手の力は弱かった。止めてほしいのではなく、こちらを見てほしかったのだろう。
私はその手へ、一度自分の指を添えた。
バルトへ向き直る。
「バトルがしたいなら、私がお相手するよ」
ゴウがこちらを見た。
男も一度黙ってから、笑みを戻す。
「社長が?」
「うん」
「ミュウツーは出すんだろ?」
「アンバーは戦わないと言ったね。私の相棒たちが相手をする」
バルトは首を傾けた。
「……それでいいなら、いいけど」
「二匹ずつ。交代はなし。場所を移して、普通のルールで」
私は机へ戻り、スマートフォンを取った。
午後の予定を確認し、近くの対戦用コートへ連絡する。
怒ったからといって、店の前で技を撃ち合うわけにはいかない。
場所と時間が取れたところで、男へ目を戻した。
「少し、おいたが過ぎたね」
彼は、今度は笑わなかった。
*
コートは、商店街から少し歩いたところにあった。
観客用の柵と、技を受け止めるための設備がある。個人同士の対戦に使われる場所で、今日は午前の予約が空いていた。
ゴウには受付へ残ってもらい、コウが立ち会いに来る。
アンバーも一緒だった。
私は娘へ、無理についてこなくていいと伝えた。彼女は短く、『行く』と答えた。
コートへ着いたところで、ナンジャモの姿が見えた。
こちらへ来る途中に事務所へ寄り、話を聞いたらしい。
「スカさん」
近づいてきた声は、配信中のものではなかった。
彼女がバルトを見る。
その後ろのアンバーへ目を向け、何も言わず隣に立った。
「……大丈夫?」
『うん』
娘の返事に、ナンジャモがうなずく。
バルトは彼女に気づくと、態度を少し変えた。
「本物のナンジャモか。ちょうどいい。これ、撮ってくれない?」
「今日は、撮らないよ」
返事は速かった。
「君の配信、見て来たんだけど」
「見てくれたことには、ありがとう。でも、何でも配信するわけじゃないから」
彼女の言葉が終わると、コウが二人の間へ入り、対戦の条件を確認した。
双方二匹。交代なし。どちらかの二匹が戦えなくなるか、降参を申し出れば終了。
私はうなずいた。
コートへ足を踏み入れ、内側の地面を見る。
乾いた土。薄く砂が載り、ところどころに浅い足跡がある。前の対戦の痕跡だろう。地面を使う技には支障がない。
風は弱い。右から左へ、わずかに流れていた。
私は上着を脱ぎ、コウへ渡す。
ネクタイは外さなかった。
アンバーの視線が、一度そこへ来た。
「汚さないようにするよ」
『それより、前見て』
もっともだった。
私は二つのボールを取った。
「キング。クイン。少し、付き合ってくれるかな」
光がほどける。
紫の巨体と、青い巨体が地面へ降りた。
ニドキングは爪先で土を掻き、相手側を見る。ニドクインは一度こちらを振り返り、その後、柵の向こうへ目を向けた。
アンバーがいる。
ニドクインの目が、バルトへ戻った。
彼は鼻で笑い、二つのボールを投げた。
「メタグロス! ヘルガー!」
鋼の巨体が、低い音を立てて着地する。
四本の脚が地面へ広がり、銀色の十字の下で目が光った。
その隣へ、黒い四足のポケモンが降りる。ヘルガーは首を振り、白い骨のような突起を揺らした。口元から、熱い息が漏れる。
どちらも、よく育てられていた。
足の置き方に迷いがない。トレーナーを見る目も、指示を待つ姿勢も整っている。
私は二匹を一度見てから、バルトへ目を上げた。
「始めていいかな」
「どうぞ。そっちが受けたんだろ」
コウが片手を上げた。
柵の向こうで、何人かの足が止まる。通りがかった人たちが、顔なじみの私へ手を上げた。返す代わりに、軽く会釈する。
相棒たちへ、目を戻す。
ニドクインの腰には、小さな食べ物の袋。少しずつ口に入れ、戦いの合間に体力を戻すための、たべのこしだ。
ニドキングの身には、暗い光を宿すいのちのたま。
大きな力を引き出す代わりに、使い方によっては自分にも負担がかかる。
二匹は互いを見る。
ニドクインが、一歩だけ右へ寄る。
ニドキングが、その前へ出た。
コウの手が下りた。
「始め!」
ヘルガーが、地面を蹴った。
*
「ヘルガー、かえんほうしゃ! メタグロス、バレットパンチ!」
炎が横へ走った。
その赤い光の向こうから、鋼の巨体が突っ込んでくる。
狙いはどちらも、ニドキング。
「クイン、まもる。キング、左へ」
ニドクインが踏み出す。半透明の壁が開き、銀色の脚を受け止めた。
硬い衝突音。
ほぼ同時に、ニドキングが地面を蹴る。炎が、空いた場所を焼き抜いた。
「だいちのちから」
踏み下ろした足から、地面へ力が入る。
ヘルガーの足元が赤く脈打った。
「跳べ!」
バルトの声。
ヘルガーが飛ぶ。その直下で土が吹き上がり、黒い体を空中へ押し上げた。
避け切ってはいない。だが、急所を外している。
いい反応だった。
「クイン、ステルスロック」
光の壁が消える。
ニドクインの周囲で地面が割れ、鋭い石が浮いた。大小の破片が外へ走り、相手側のコートへ散る。
ヘルガーが着地する。
目の前を石が横切り、彼は首をひねった。爪が土を掻く。着地の場所が、半歩ずれた。
メタグロスは、まだニドクインの近くにいる。
「キング、かえんほうしゃ」
ニドキングの口が赤く染まる。
炎が、青い相棒の肩越しに放たれた。
「ヘルガー、前へ!」
黒い影が割り込んだ。
炎がその体を包む。
燃え上がった、ように見えた。
だが、ヘルガーは退かない。
口元へ赤い光が集まり、炎を受け止めた体が、さらに熱い息を吐く。
もらいび。
メタグロスに向けた炎を、味方が引き受けたのだ。
バルトが笑った。
「それくらい、こっちも考えてるんだよ!」
ヘルガーが首を下げる。
私はニドキングへ目を向けた。
「クインの後ろ」
「かえんほうしゃ!」
太い火柱が、真正面から来た。
ニドキングが退く。ニドクインは腕を交差させ、頭を下げた。
炎が、その前腕と肩をなめる。
乾いた砂が一瞬赤く照らされ、熱い風が私の頬へ届いた。
ニドクインの両足が地面を削る。
退かない。
壁を使い終えた直後だ。続けて同じ守りへ頼るより、姿勢を固めて受ける方を選んだ。
「メタグロス、サイコキネシス!」
鋼の巨体の目が光る。
ニドクインの体へ、不自然な力がかかった。炎を受け止めた肩が持ち上がる。足が、土から浮きかける。
支える相手を先に崩す。
バルトは、そこまで見ていた。
「キング。十万ボルト」
ニドキングが、青い体の脇から顔を出した。
電光が爆ぜる。
ヘルガーは避けようとした。
右には、メタグロス。左には、先ほど散った石。
ためらいは、一瞬だった。
その一瞬を、雷が貫いた。
黒い体が弾かれる。かえんほうしゃが、空へ逸れた。
炎は止まった。だが、ニドクインを持ち上げる力は、まだ消えていない。
彼女は浮いた両足を引きつけ、体勢を保った。自由に動く片腕を、ヘルガーへ向ける。
「どくびし」
腕を振った。
紫色の棘が、低い軌道で飛ぶ。
ヘルガーは前足を踏ん張り、身をひねった。数本が腹の下を抜ける。避けた棘が地面へ刺さり、残りが進む先へ散った。
メタグロスが、脚でその一部を弾き飛ばす。
鋼の体へ、毒を狙っても仕方がない。
ニドクインも、それは分かっている。
飛んだ棘と、それを避けるために変えた足の位置。
その両方が、次の狙いだった。
「キング、だいちのちから」
メタグロスの下が、脈打つ。
「まもる!」
光の壁が、鋼の巨体を囲んだ。
守りへ力を切り替えた瞬間、ニドクインを縛っていた念力がほどける。
青い体が落ちた。彼女は膝を曲げて着地し、片手を地面へつく。
地面が爆ぜる。
砂と小石が壁へぶつかり、外へ散った。
守り切っている。
ニドキングは口を閉じ、息を整えた。
私の声が届く前に、ニドクインが隣へ戻る。
二匹とも、相手を見ていた。
バルトの笑みが、少し薄くなる。
*
最初の攻めで、ニドクインは傷を受けた。
炎。サイコキネシス。どちらも軽くはない。
それでも足は安定している。守りながら二度、場を作り、相手の動きも見ていた。
彼女が小袋へ手を伸ばす。
食べ物を一口。噛み、飲み込む。
その間、ニドキングが半歩前へ出た。
相手へ背中は見せない。
バルトが手を上げる。
「今だ。ヘルガー、あくのはどう! メタグロスはサイコキネシス、ニドキングを止めろ!」
黒い波が走る。
同時に、ニドキングの足元が見えない力で軋んだ。
「キング、踏ん張って。クイン、どくびし」
紫の棘が、波の上を越える。
ヘルガーが一歩横へ動いた。
ニドクインは投げた腕を、そのまま振り抜く。
次の棘は、そちらへ。
あくのはどうの向きが変わった。黒い力がニドキングの肩をかすめ、背後の土を削る。
ニドキングは動かなかった。
サイコキネシスを、両足で受け止めている。
筋肉が盛り上がり、爪が地面へ沈んだ。
「そのまま押さえろ! ヘルガー、かみくだく!」
ヘルガーが走る。
前に立つニドキングではない。
棘を投げる腕を下ろしかけたニドクインへ、牙を向けた。
速い。
黒い体が石の間を抜ける。毒の棘を避け、青い腕へ飛びついた。
「クイン、受けて」
彼女が腕を上げる。
牙が、硬い皮膚を捕らえた。
ニドクインの足が一歩下がる。ヘルガーの後ろ足が土を掻き、首が強く振られる。
噛む力は、十分にあった。
だが、その口元へ、紫の光が滲む。
ヘルガーの動きが、わずかに鈍った。
ニドクインの皮膚にある、どくのとげ。
近づいて噛みついた相手は、それに直接触れている。
彼女は腕を引かず、逆に一歩踏み込んだ。
ヘルガーの口が離れる。
「キング、今だよ」
ニドキングが顔を上げた。
口の奥に、赤い光。
狙いはメタグロスだった。
「ヘルガー、受けろ!」
バルトの声に、黒い体が動こうとする。
ニドクインが体を寄せた。
行かせない。
その横へ、地面に残っていた棘が転がる。逃げる道を選び直した分だけ、ヘルガーが遅れた。
「かえんほうしゃ」
炎が撃ち出された。
サイコキネシスが続いていても、ニドキングの口は止められていない。
火柱が鋼へ激突した。
メタグロスの脚が滑る。
炎が四本の脚の間を抜け、背中へ巻き上がった。
ニドキングの技は、ただ熱を浴びせるものではない。
特性ちからずくが、技の付随する効果を、直接の威力へ変える。
いのちのたまが、その一撃をさらに押し上げた。
鋼の巨体が、地面を削って後退する。
サイコキネシスが途切れた。
ニドキングはすぐに動いた。
「つめて」
足が、土を蹴る。
炎の消え際へ、紫の巨体が踏み込んだ。
「メタグロス、バレットパンチ!」
銀色の脚が、一直線に伸びる。
ニドキングは止まらない。
「クイン、ステルスロック」
ニドクインが片腕を振った。
浮いていた石の一つが、鋼の脚の前へ走る。
砕けた。
石だけで、その攻撃を止めることはできない。
だが、脚が破片を押し抜く、その一瞬。
「ほのおのパンチ」
ニドキングの右拳が、赤く燃え上がる。
破片を抜けてきた脚を左腕で外へ押し、銀色の十字の下へ、炎の拳を突き上げた。
重い衝突音が、コートに響いた。
メタグロスの四本の脚が、同時に土を掻く。
ニドキングの足も滑った。
押し込む。鋼の巨体が、わずかに浮く。
バレットパンチが、紫の肩を打った。
衝撃で上体が横へずれる。
ニドキングは、そこからもう一歩、前へ出た。
メタグロスが横向きに弾かれる。
倒れ切る前に、四本の脚で着地した。地面が深く削れ、砂の塊が跳ぶ。
拳の炎が消える。
ちからずくで高めた威力に、いのちのたまの力を重ねる。この技なら、たまの反動も受けずに済む。
私は目を合わせた。
ニドキングが、牙を見せる。
まだ動ける。
「無理はしないでね」
彼は小さく鼻を鳴らした。
それから、相手へ向き直る。
ヘルガーの荒い息が、聞こえた。
*
「……特殊だけじゃないのかよ」
バルトが呟いた。
ニドキングは、答えない。
その背後へニドクインが戻る。青い腕には、噛まれた跡があった。彼女は動きを確かめ、指を一度開いて閉じる。
問題はない。
私へうなずき、それから小袋の食べ物をもう一口。
ニドキングが前へ立つ。
バルトは、それを見た。
今度は二匹の配置を、明らかに気にしている。
ヘルガーを少し下げ、メタグロスを中央へ寄せた。
「メタグロス、じしん。ヘルガー、まもる!」
鋼の脚が、地面へ叩きつけられた。
ヘルガーを光の壁が包む。
土が波を打つ。
四本の脚の下から広がった衝撃が、コート全体へ走った。
「クイン、まもる。キング、岩へ」
青い体を壁が包む。
ニドキングは、足元の石へ片足を掛けた。さっきニドクインが残した、低く浮く岩だ。
一歩。
その勢いのまま、跳ぶ。
直下で土が盛り上がり、弾けた。
岩が砕ける。
衝撃の最も強い場所を、ニドキングは空中へ抜けていた。
着地まで、長い時間はない。
「ヘルガー、追え! かえんほうしゃ!」
壁が消え、黒い口が開く。
狙いは、落ちてくる紫の体。
「キング、だいちのちから」
空中で、ニドキングが相手を見る。
ヘルガーの足元が赤く光った。
バルトが気づく。
「跳べ!」
ヘルガーが地面を蹴った。
炎を吐き始めた、その姿勢から。
下で爆発が起きる。
体が横へ弾かれ、火柱がコートの端を焼いた。
ニドキングは肩から落ち、転がる。片手をつき、すぐに立った。
着地の衝撃はある。
だが、次の動きを妨げるほどではない。
ニドクインが壁を解いた。
彼女の前の土は割れていたが、左右に残る足場はまだ平らだ。メタグロスのじしんで、ほかの道は崩れている。
それを、バルトも見る。
「ヘルガー、そっちへ!」
黒い体が、平らな場所を目指した。
毒で、呼吸が乱れている。先ほどより足も重い。
ニドクインの腕が上がる。
「どくびし」
紫の棘が、飛んだ。
ヘルガーの行く先へ。
バルトは叫ぶ。
「止まれ!」
ヘルガーが踏ん張った。
その前方へ棘が刺さる。
横には割れた地面。後ろには、鋭い石。
そして正面には、ニドキング。
彼はもう、走り始めていた。
「メタグロス、かばえ! バレットパンチ!」
鋼の巨体が、ヘルガーの前へ滑り込む。
速かった。
受けた傷を感じさせない、鋭い踏み込み。
ニドキングは、その脚を見た。
「右へ」
銀色の脚が頬の横を抜ける。
紫の体が沈んだ。
ニドキングは真正面からヘルガーへ飛びつくつもりではなかった。
守る相手がどちらへ動くか。
その反応を、見ていたのだ。
「クイン、だいちのちから」
メタグロスの片側の脚、その下へ光が集まる。
地面が噴き上がった。
鋼の巨体が傾く。
ヘルガーの前に、隙間が開いた。
ニドキングの両手の間で、青白い力が膨らむ。
「きあいだま」
至近距離だった。
ヘルガーが口を開く。
炎を吐くより先に、光の球が胸元へ撃ち込まれた。
空気が破裂した。
黒い体が後ろへ飛び、地面を二度転がる。
前足をつく。
立とうとする。
その腕が折れ、腹が土へついた。
私はニドキングへ片手を上げた。
彼は追わず、足を止める。
ヘルガーの目が閉じた。
「ヘルガー、戦闘不能!」
コウの声。
バルトが歯を食いしばった。
メタグロスは、まだ動いている。
傾いた体を戻し、二匹の間へ目を向けた。
その四本の脚が、地面へ深く入る。
強い。
ここまで受けても、勝負を投げてはいない。
私はニドクインを見た。
呼吸は乱れている。腕の痛みもあるはずだ。
彼女は私の目を見て、短くうなずいた。
ニドキングの体にも、砂と傷がついていた。いのちのたまを使って攻め続け、相手の攻撃も受けている。
二匹とも、無傷で済む勝負ではない。
だから、これ以上長くしない。
「位置を戻そう」
ニドクインが前へ出る。
ニドキングが、その肩の後ろへ寄った。
バルトの顔が変わる。
「またそれかよ。メタグロス、ニドクインを狙え! しねんのずつき!」
四本の脚が土を蹴った。
銀色の十字へ光が集まる。
鋼の巨体が、青い体を押し潰すように迫った。
「クイン、右へ。キング、ほのおのパンチ」
ニドクインが、正面からずれる。
背後にいたニドキングが、逆側へ踏み込んだ。
腰を落とし、左拳に炎を灯す。
銀色の十字の端を、燃える拳が打った。
乾いた音ではなかった。
重いもの同士が、芯まで響くような音。
足元の砂が、円を描いて吹き飛ぶ。
ニドキングの体が揺れた。
メタグロスの脚が、一歩進む。
押す力では、鋼の巨体も負けていない。
バルトが叫ぶ。
「そのまま押し切れ!」
ニドキングは牙を食いしばる。
足が、後ろへ滑った。
さらに一歩。
その足元に、石があった。
ニドクインが残した、小さな岩。
爪が掛かる。
滑りが止まる。
彼は拳を押し当てたまま体をひねり、突進の力を横へ流した。
メタグロスが、わずかに傾く。
「クイン、ステルスロック」
横から、石が飛んだ。
狙いは頭ではない。
踏ん張り直そうとした、二本の脚。
鋼が砕く。
破片が地面へ落ちる。
そこへ次の岩が来る。
支える場所を選び直した、その間に、ニドキングが拳を引いた。
後ろへ一歩。
メタグロスのすぐ前に、ニドクインがいる。
バルトの声が、コートへ響いた。
「はかいこうせん!」
メタグロスの顔の前に、白い光が凝縮する。
ニドクインは逃げなかった。
両足を広げ、地面へ爪を入れる。
「まもる」
壁が、開いた。
光線が放たれる。
コートが白く染まった。
光と光がぶつかり、甲高い音が耳へ刺さる。
ニドクインの体が、壁ごと押された。
足が土を削る。
一歩分。
もう一歩分。
彼女は腕を前へ出し、押し返す。
壁の表面へ、波紋が広がった。
ニドキングは、もう横へ動いていた。
相棒が受け止めている、その脇へ。
メタグロスの脚は、地面へ固定されている。
光線の方向を変えれば、正面のニドクインが動ける。
変えなければ、側面のニドキングが届く。
バルトが口を開いた。
次の指示は、出なかった。
「キング」
名前を呼ぶ。
ニドキングが、口を開いた。
「かえんほうしゃ」
赤い炎が、真横から撃ち込まれた。
鋼の体を包む。
はかいこうせんが、揺れた。
白い光が途切れる。
ニドクインの壁が消えた、その瞬間。
「クイン、だいちのちから」
青い足が、踏み下ろされる。
鋼の巨体の下で、地面が赤く光った。
爆発。
砂煙が膨らみ、火の光がその中へ沈む。
ニドキングが、すぐに後ろへ下がった。
ニドクインも、横へ抜ける。
二匹が並ぶ。
煙の向こうで、鋼の脚が一度、地面を叩いた。
立ち直ろうとしている。
土が崩れた。
重い音がした。
砂煙が、ゆっくりほどける。
メタグロスはコートの中央へ沈んでいた。
脚が一度動く。
その後は、動かなかった。
ニドキングが息を吐く。
ニドクインが、相棒の肩へ手を置いた。
コウが二匹の様子を確かめ、片手を上げる。
「メタグロス、戦闘不能。勝負あり!」
バルトのボールを持つ手が、下がった。
*
私は相棒たちの方へ歩いた。
ニドキングは、こちらを見ると体を起こす。いつも通りに胸を張ろうとして、途中で肩を動かした。
「そこ、痛むね」
彼は鼻を鳴らした。
「無理に隠さなくていいよ。二匹とも、よく頑張ってくれた」
ニドクインの腕を見る。
噛まれた跡は浅くない。炎を受けたところにも、痛みは残っているはずだ。
私は鞄から回復用の道具を出し、先に手当てをした。
たべのこしで戻せる分にも、限りはある。
彼女が食べ物を口に入れている間、ニドキングにも傷薬を使う。
いのちのたまは、外した。
戦いは終わっている。
その力を、これ以上借りる必要はない。
『お父さん。ちょっと、どいて』
頭の中へ、娘の声が届いた。
振り向くと、アンバーが柵の入口から歩いてくる。ナンジャモも、その少し後ろにいた。
娘は二匹の前で足を止めた。
『クイン。腕、見せて』
ニドクインが私を見る。
私はうなずいた。差し出された青い腕へ、アンバーがそっと手を添える。
『痛かったな』
ぶっきらぼうな声に、ニドクインが小さく喉を鳴らした。
娘の指先に、淡い光が集まる。
アンバーには、触れたポケモンの痛みを感じ取り、傷を癒す力がある。念力で物を動かすのとは違う、彼女が受け継いだ、もう一つの力だ。
噛まれた傷の縁が、ゆっくり寄り合っていく。
炎に傷ついた皮膚にも、光が薄く広がった。強張っていたニドクインの指がほどけ、肩が下がる。
私は、娘の横へしゃがんだ。
「アンバー。全部治そうとしなくてもいいよ」
『分かってる。できる分だけ』
こちらを見ずに答え、娘は少しだけ手の位置を変えた。
『キングも。座って』
ニドキングが素直に腰を下ろした。
さっきまで鋼の巨体と殴り合っていた相棒が、今は娘へ傷ついた肩を差し出している。
アンバーは片手をニドクインに添えたまま、もう片方の手を、その肩へ置いた。
紫の体へ、光が移る。
ニドキングが目を細めた。浅かった息が、少しずつ長くなる。
『二匹とも、動くなよ』
ニドクインが動かしていない方の手を伸ばし、娘の頭へそっと載せた。
アンバーの尻尾が、一度揺れる。
『……クインも、動くなって』
その手を払いはしなかった。
私は娘の横顔を見て、それから、二匹へ視線を戻した。
ニドキングまで腕を上げかけている。
「キング。君も撫でたいなら、終わってからにしようね」
相棒が、ゆっくり腕を下ろした。
背後でナンジャモが小さく笑う。
やがて光が薄れ、アンバーが両手を離した。
『どう?』
ニドクインは指を開き、閉じる。ニドキングも肩を動かしてから、娘へ顔を寄せた。
低い鳴き声が、二つ重なる。
アンバーはそれを聞き、少し顎を上げた。
『なら、よかった』
「ありがとう。二匹とも、楽になったね」
『頑張ってくれたから』
娘は二匹を見ていた。
私はニドキングの背中を撫でる。傷は癒えても、使った体力まで全て戻ったわけではない。あとでセンターでも診てもらい、今日はゆっくり休ませよう。
その前に、ニドキングが大きな手を娘の頭へ載せた。
今度はアンバーも、文句を言わなかった。
バルトの方から、声がした。
「……あんた、何なんだよ」
私は顔を上げた。
男はまだ、コートの向こう側に立っていた。
ヘルガーもメタグロスも、戻していない。
「会社の代表だよ」
「そういう話じゃない。普通じゃないだろ、今の」
「先に、二匹の手当てをしてあげてくれるかな」
バルトが足元を見る。
それから、慌てたようにボールを取った。
光が二匹を包む。
私はニドクインへうなずき、ニドキングも一度撫でてから戻した。二匹とも、午後の仕事は休みだ。
柵の向こうから、声が聞こえる。
「スカさん、相変わらずだねえ」
「ニドクインがいると、ほんとに崩れないな」
顔なじみの店主たちだった。
その横では、見覚えのない青年が、まだコートを見ている。
「……あの人、配信の社長?」
「そうそう。うちの店も手伝ってもらってるよ」
「仕事の話、聞きに来たんだけど……」
「終わったら聞いてみればいいじゃない」
いつもの調子の会話だった。
私はコウから上着を受け取り、袖を通す。
バルトが、こちらへ歩いてきた。
足取りは、来たときより遅かった。
*
「……ミュウツー、いらないじゃないか」
男は、低い声で言った。
私は上着の前を整えていた手を止める。
顔を見る。
バルトも、一度口を閉じた。
「いや。勝つだけなら、って話で……」
「勝つために必要かどうかで、家族を決めないよ」
男が目を逸らす。
私は続けた。
「それから、今の二匹は、よく育てられていたね。最初の連携も、炎を受ける動きも、よかった」
バルトの顔が上がる。
何か言い返しかけた。
私は、そこで言葉を切らなかった。
「その二匹が頑張っている間、君は途中から、アンバーの話も、私への文句も忘れていた」
男は黙る。
「二匹を、きちんと見てあげてくれるかな。今、一番必要なのは、センターへ連れていくことだと思うよ」
バルトがボールを見る。
手の中で、握り方が変わった。
ナンジャモが少し近づき、アンバーは私の隣に立った。
男が、その顔を見た。
さっきまでの、珍しいものを見る目ではなかった。どう話せばいいのか、分からないような顔だった。
「……悪かったよ。しつこく言って」
アンバーは、彼を見た。
『嫌だった』
男の肩が少し動く。
その声は、彼にも届いたのだろう。
『名前、ある』
バルトが一度、視線を下げる。
「……アンバー、だったな」
『うん』
娘は、それ以上言わなかった。
許したとも、気にしていないとも。
私は男へ目を向ける。
「アンバーに話があるなら、本人に聞いてほしい。断られたら、そこまでだよ」
バルトは小さくうなずいた。
私は街の方角を示す。
「センターは、あちらの通りを出れば見える。二匹を、よろしくね」
男はボールを鞄の内側へしまう。
一度こちらを見たが、何も言わず歩き出した。
コウが、その背中を目で追う。
拳を握ってはいない。
ただ、まだ表情は硬かった。
私は声をかけた。
「立ち会ってくれて、ありがとう」
「……いえ。オヤジが言ってくださって、助かりました」
「君たちが、手を出さずにいてくれたからね」
コウは一度深く息を吐き、それから頭を下げた。
*
コートに残った岩と棘を、係の人と一緒に片づけた。
こういうものをそのまま残せば、次に使う人が困る。
私は対戦前に確認した通り、壊れた地面の整備も頼み、必要な費用を精算した。仕事の電話が一本来たので、それにも返事をする。
アンバーは柵のそばで待っていた。
ナンジャモが、その隣にいる。
全部済ませて戻ると、娘がこちらを見た。
『終わり?』
「うん。待たせたね」
アンバーの視線が、私の首元へ移った。
少し近づく。
ネクタイの端をつまみ、裏側も見た。
『汚れてない』
「離れた場所にいたからね」
『ちょっと砂』
娘の指が、小さな砂粒を払う。
私は動かずに待った。
ナンジャモが隣で、ようやく笑った。
「そっち、気になってたんだ」
『これ、新しい』
「うん。大事だもんね」
アンバーはうなずいてから、手を離す。
私の顔を見る。
『お父さん』
「何かな」
『私、戦わなくていい?』
私はしゃがんだ。
立ったままでも、娘の顔は見える。だが、今は目の高さを少し近づけたかった。
「うん。君は、しないって言ったね」
『強いのにって、言われた』
「強いからって、全部の勝負を受けなくていいんだよ」
アンバーは黙っている。
その手が、一度、私の袖へ触れた。
「私がさっき勝負を受けたことと、君が断ったことは、別だよ。君が受けなかったから、代わりに戦ったわけじゃない」
娘が、顔を上げた。
紫色の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「アンバーが嫌だと言った。それを、聞いてほしかったんだ」
風が、娘の尻尾を少し揺らした。
彼女はしばらく私を見てから、うなずく。
『分かった』
「うん」
『キングとクイン、あとで撫でる』
「喜ぶと思うよ。今日は二匹とも、ゆっくり休ませようね」
私が立つと、娘は一度だけ、袖を引いた。
すぐに離す。
その代わり、歩き始める私の隣へ来た。
*
事務所へ戻ると、ゴウが立ち上がった。
「オヤジ。お疲れさまです」
「ただいま。電話は大丈夫だった?」
「へい。二件、ご相談が来てます。急ぎではありません」
彼はアンバーへ目を向ける。
言いたいことがあるようだったが、娘の顔を見て、口元を少し緩めた。
「お嬢、お帰りなさい」
『ただいま』
「飲み物、冷えてます」
『もらう』
娘は自分のソファへ戻った。
鞄を置き、小冊子を開く。
朝と同じ場所だった。
ゴウが給湯室へ向かい、コウは私の上着についた砂を見つけて払う。私は礼を言って、机の電話の記録へ目を落とした。
ナンジャモはすぐには帰らず、応接スペースへ座った。
私が椅子へ腰を下ろすと、彼女が声をかける。
「スカさん」
「うん」
「ボク、少しびっくりした」
「バトル?」
「それも。でも、声」
私はペンを置いた。
ナンジャモは、私を見ていた。
「優しいままなのに、途中から、全然違って聞こえた」
少し考える。
大きな声を出した覚えはなかった。
だが、相手にどう見えるかを、途中から考えていなかったのは確かだ。
「……怖かったかな」
「ボクに向けた言葉じゃないのは、分かってる」
彼女はそう答えた。
それから、アンバーを見る。
娘は冊子を開いたまま、こちらへ目を向けていた。
聞いている。
ナンジャモは声を少し柔らかくした。
「アンバーちゃんを、ちゃんと見てほしかったんだよね」
私はうなずく。
それだけではない。
あの目が、嫌だった。
本人の言葉を聞かず、どれほど役に立つかだけを見る目。
そこまで考えたところで、私は机の上のボールへ視線を落とした。
二匹が、休んでいる。
今、私がするべきなのは、こちらの暮らしを戻すことだった。
「二匹をセンターへ連れていったら、今日は早めに帰ろうかな」
ナンジャモが少し笑った。
「いいと思う。ボクも一緒に行っていい?」
「うん。助かるよ」
ソファから、声が届く。
『私も』
「もちろん」
娘は冊子を閉じた。
その顔は、いつも通り少しぶっきらぼうだった。
私は首元へ指を添える。
深い紫の中に、細い琥珀色。
砂は、もう残っていなかった。
アンバーが私の前へ来て、ネクタイをもう一度見る。
『似合ってる』
突然だった。
私は娘の顔へ目を戻した。
「……ありがとう」
彼女は顎を上げ、鞄を取りに戻る。
ナンジャモが横で、小さく笑っていた。
私はボールを手に取り、椅子から立った。
「じゃあ、行こうか」
今度は鏡を見なくても、普段の声が出た。
注意 アンバーとは、ミュウツー♀です。