紫組に、ただいま   作:只野至

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ポケモンバトルってどう文字化すればいいんだ。


第4話 少し、おいたが過ぎたね

第4話 少し、おいたが過ぎたね

 

 新しいネクタイをつけていると、事務所へ来る人がよく首元を見る。

 

 似合うと言ってくれる人もいれば、誰が選んだのかを聞く人もいる。

 

 そのたびに私が答えるより早く、アンバーが顔を上げた。

 

『私とナンジャモ』

 

 今日も、青果店の奥さんにそう教えていた。

 

「そうなの。スカさん、よかったねえ」

 

「ええ。気に入っています」

 

 娘は隣でうなずく。

 

 贈り物をした側が、もらった側より満足そうにしている。その顔を見るのも、私にとっては嬉しいことだった。

 

 昼前の事務所は、少し落ち着いていた。

 

 現場の組員たちはそれぞれ出ており、受付にはゴウ。奥ではコウが午後の準備を確認している。私は翌週の人員表を直し、アンバーはソファで花屋からもらった小冊子を眺めていた。

 

 キングとクインも、モンスターボールの中で外の話を聞いていた。

 

 古参の二匹にとって、アンバーもミュウツーも、親戚の子供のようなものだ。だから、娘へ向けられた男の言葉を、二匹とも快く思ってはいなかった。

 

 そのことを、私はまだ知らなかった。

 

 そこへ、男が入ってきた。

 

 年は二十代半ばくらい。肩に旅行用の鞄を掛け、腰にはボールを並べている。服も靴も、旅をしている者のものだった。

 

 入口の看板を見て、彼は笑った。

 

「ここが紫組?」

 

「へい。ご相談ですか」

 

 ゴウが立ち上がる。

 

 男は答えず、事務所を見回した。

 

 その目がソファで止まる。

 

「ああ。本当にいた」

 

 娘が顔を上げた。

 

 男はスマートフォンを取り出す。

 

 ゴウが一歩、前へ出た。

 

「お客さん。撮影は、先にお話を通していただきたいんですが」

 

「写真くらい、いいだろ。配信に出てたんだし」

 

 私はペンを置いた。

 

「こんにちは。代表のスカーレットです。何かご用でしょうか」

 

 入口へ向かいながら、声を柔らかくする。

 

 男は私の顔を見て、それから首元へ目を落とした。

 

「配信の社長か。ちょっと聞きたいことがあって」

 

「どうぞ」

 

「そのミュウツー、本当にあんたのポケモン?」

 

 アンバーが冊子を閉じた。

 

 私は彼女を一度見てから、男へ向き直る。

 

「名前はアンバーです。私と一緒に暮らしています」

 

「だから、あんたのなんだろ?」

 

「家族ですよ」

 

 男は肩をすくめた。

 

「娘って言ってたやつね。そういう設定、受けるんだな」

 

 受付の奥で、椅子が小さく鳴った。

 

 コウが立ち上がっている。

 

 私は片手を上げた。彼は動きを止めたが、男を見る目は変わらない。

 

「配信のために、そう呼んでいるわけではありません」

 

「分かった、分かった。そこはどうでもいいんだけど」

 

 男は私の横からアンバーを見た。

 

 珍しい道具を店頭で品定めするような目だった。

 

     *

 

 男はバルトと名乗った。

 

 ナンジャモの配信を見て、遠くから来たのだという。各地を回りながらバトルをしていて、ミュウツーがいると知り、会ってみたくなったらしい。

 

 そこまでなら、構わなかった。

 

 実物を見て驚く人も、どんなポケモンなのか知りたがる人もいる。アンバー本人が話したければ、話せばいい。

 

 だが、バルトは娘を見ているのに、娘へ話しかけなかった。

 

「どこで手に入れたんだ?」

 

「そのことは、お話ししていません」

 

「交換は? さすがに普通の条件じゃ無理だろうけど」

 

「考えていません」

 

「一応、聞いておこうと思って。持ってるだけじゃ、もったいないし」

 

 ソファの端で、娘の尻尾が止まった。

 

 私はバルトと応接スペースの間へ立つ。

 

「アンバーのことを知りたいなら、本人に聞いていただけますか」

 

 男は、ようやく娘へ顔を向けた。

 

「じゃあ、バトルしようぜ」

 

 その言い方には、質問よりも当然の予定という響きがあった。

 

 アンバーは彼を見た。

 

『しない』

 

 バルトの眉が動く。

 

 頭へ届いた声に驚いたらしく、一瞬周囲を見回した。

 

「……ああ、テレパシーか。本当に喋れるんだな」

 

『しないって言った』

 

 男は笑った。

 

「普段からそう教えてんの? いや、別に取ろうって言ってるわけじゃない。強いんだろうし、一回くらい」

 

 私は声を少し落とした。

 

「断っています。今日は、お引き取りください」

 

 バルトが私を見る。

 

 初めて、こちらの言葉を聞いたような顔だった。

 

「せっかく来たのに?」

 

「来てくださったことと、勝負を受けるかどうかは、別のお話です」

 

「ジムリーダーのスポンサーっていうから、まともに戦えるのかと思ったけど」

 

 ゴウが私の隣へ来た。

 

「お客さん。その辺で――」

 

「おいおい。怖い人が出てくるのかよ」

 

 バルトが笑いながら一歩退く。

 

 ゴウの拳は握られていた。だが、腕は下ろしたままだ。

 

 私は彼へ目を向ける。

 

「大丈夫。ここは私が話すよ」

 

 ゴウは息を吐き、半歩下がった。

 

 バルトはその様子を見て、またアンバーへ視線を戻した。

 

「バトルさせないなら、ミュウツーじゃなくてもいいだろ。娘ごっこなら、もっとおとなしいポケモンで――」

 

 そこで、私は口を開いた。

 

「そこまでにしてくれるかな」

 

 声は大きくなかった。

 

 男が、途中で言葉を止める。

 

 事務所の電話が一度鳴った。コウが受け取り、奥へ移る。その音だけが、しばらく聞こえた。

 

 私はバルトを見た。

 

 笑顔を作り直す必要は、もう感じなかった。

 

「アンバーは、君が欲しい強さを見せるために、ここにいるわけじゃないんだ」

 

 男の口元が、少しだけ固くなる。

 

「……そんな大げさな話か?」

 

「二度、断られたね」

 

 アンバーの手が、私の袖へ触れた。

 

 振り返ると、娘が立っていた。

 

『お父さん』

 

「うん。分かっているよ」

 

 彼女が何を言いたいか、全部を聞いたわけではない。

 

 けれど、袖をつかむ手の力は弱かった。止めてほしいのではなく、こちらを見てほしかったのだろう。

 

 私はその手へ、一度自分の指を添えた。

 

 バルトへ向き直る。

 

「バトルがしたいなら、私がお相手するよ」

 

 ゴウがこちらを見た。

 

 男も一度黙ってから、笑みを戻す。

 

「社長が?」

 

「うん」

 

「ミュウツーは出すんだろ?」

 

「アンバーは戦わないと言ったね。私の相棒たちが相手をする」

 

 バルトは首を傾けた。

 

「……それでいいなら、いいけど」

 

「二匹ずつ。交代はなし。場所を移して、普通のルールで」

 

 私は机へ戻り、スマートフォンを取った。

 

 午後の予定を確認し、近くの対戦用コートへ連絡する。

 

 怒ったからといって、店の前で技を撃ち合うわけにはいかない。

 

 場所と時間が取れたところで、男へ目を戻した。

 

「少し、おいたが過ぎたね」

 

 彼は、今度は笑わなかった。

 

     *

 

 コートは、商店街から少し歩いたところにあった。

 

 観客用の柵と、技を受け止めるための設備がある。個人同士の対戦に使われる場所で、今日は午前の予約が空いていた。

 

 ゴウには受付へ残ってもらい、コウが立ち会いに来る。

 

 アンバーも一緒だった。

 

 私は娘へ、無理についてこなくていいと伝えた。彼女は短く、『行く』と答えた。

 

 コートへ着いたところで、ナンジャモの姿が見えた。

 

 こちらへ来る途中に事務所へ寄り、話を聞いたらしい。

 

「スカさん」

 

 近づいてきた声は、配信中のものではなかった。

 

 彼女がバルトを見る。

 

 その後ろのアンバーへ目を向け、何も言わず隣に立った。

 

「……大丈夫?」

 

『うん』

 

 娘の返事に、ナンジャモがうなずく。

 

 バルトは彼女に気づくと、態度を少し変えた。

 

「本物のナンジャモか。ちょうどいい。これ、撮ってくれない?」

 

「今日は、撮らないよ」

 

 返事は速かった。

 

「君の配信、見て来たんだけど」

 

「見てくれたことには、ありがとう。でも、何でも配信するわけじゃないから」

 

 彼女の言葉が終わると、コウが二人の間へ入り、対戦の条件を確認した。

 

 双方二匹。交代なし。どちらかの二匹が戦えなくなるか、降参を申し出れば終了。

 

 私はうなずいた。

 

 コートへ足を踏み入れ、内側の地面を見る。

 

 乾いた土。薄く砂が載り、ところどころに浅い足跡がある。前の対戦の痕跡だろう。地面を使う技には支障がない。

 

 風は弱い。右から左へ、わずかに流れていた。

 

 私は上着を脱ぎ、コウへ渡す。

 

 ネクタイは外さなかった。

 

 アンバーの視線が、一度そこへ来た。

 

「汚さないようにするよ」

 

『それより、前見て』

 

 もっともだった。

 

 私は二つのボールを取った。

 

「キング。クイン。少し、付き合ってくれるかな」

 

 光がほどける。

 

 紫の巨体と、青い巨体が地面へ降りた。

 

 ニドキングは爪先で土を掻き、相手側を見る。ニドクインは一度こちらを振り返り、その後、柵の向こうへ目を向けた。

 

 アンバーがいる。

 

 ニドクインの目が、バルトへ戻った。

 

 彼は鼻で笑い、二つのボールを投げた。

 

「メタグロス! ヘルガー!」

 

 鋼の巨体が、低い音を立てて着地する。

 

 四本の脚が地面へ広がり、銀色の十字の下で目が光った。

 

 その隣へ、黒い四足のポケモンが降りる。ヘルガーは首を振り、白い骨のような突起を揺らした。口元から、熱い息が漏れる。

 

 どちらも、よく育てられていた。

 

 足の置き方に迷いがない。トレーナーを見る目も、指示を待つ姿勢も整っている。

 

 私は二匹を一度見てから、バルトへ目を上げた。

 

「始めていいかな」

 

「どうぞ。そっちが受けたんだろ」

 

 コウが片手を上げた。

 

 柵の向こうで、何人かの足が止まる。通りがかった人たちが、顔なじみの私へ手を上げた。返す代わりに、軽く会釈する。

 

 相棒たちへ、目を戻す。

 

 ニドクインの腰には、小さな食べ物の袋。少しずつ口に入れ、戦いの合間に体力を戻すための、たべのこしだ。

 

 ニドキングの身には、暗い光を宿すいのちのたま。

 

 大きな力を引き出す代わりに、使い方によっては自分にも負担がかかる。

 

 二匹は互いを見る。

 

 ニドクインが、一歩だけ右へ寄る。

 

 ニドキングが、その前へ出た。

 

 コウの手が下りた。

 

「始め!」

 

 ヘルガーが、地面を蹴った。

 

     *

 

「ヘルガー、かえんほうしゃ! メタグロス、バレットパンチ!」

 

 炎が横へ走った。

 

 その赤い光の向こうから、鋼の巨体が突っ込んでくる。

 

 狙いはどちらも、ニドキング。

 

「クイン、まもる。キング、左へ」

 

 ニドクインが踏み出す。半透明の壁が開き、銀色の脚を受け止めた。

 

 硬い衝突音。

 

 ほぼ同時に、ニドキングが地面を蹴る。炎が、空いた場所を焼き抜いた。

 

「だいちのちから」

 

 踏み下ろした足から、地面へ力が入る。

 

 ヘルガーの足元が赤く脈打った。

 

「跳べ!」

 

 バルトの声。

 

 ヘルガーが飛ぶ。その直下で土が吹き上がり、黒い体を空中へ押し上げた。

 

 避け切ってはいない。だが、急所を外している。

 

 いい反応だった。

 

「クイン、ステルスロック」

 

 光の壁が消える。

 

 ニドクインの周囲で地面が割れ、鋭い石が浮いた。大小の破片が外へ走り、相手側のコートへ散る。

 

 ヘルガーが着地する。

 

 目の前を石が横切り、彼は首をひねった。爪が土を掻く。着地の場所が、半歩ずれた。

 

 メタグロスは、まだニドクインの近くにいる。

 

「キング、かえんほうしゃ」

 

 ニドキングの口が赤く染まる。

 

 炎が、青い相棒の肩越しに放たれた。

 

「ヘルガー、前へ!」

 

 黒い影が割り込んだ。

 

 炎がその体を包む。

 

 燃え上がった、ように見えた。

 

 だが、ヘルガーは退かない。

 

 口元へ赤い光が集まり、炎を受け止めた体が、さらに熱い息を吐く。

 

 もらいび。

 

 メタグロスに向けた炎を、味方が引き受けたのだ。

 

 バルトが笑った。

 

「それくらい、こっちも考えてるんだよ!」

 

 ヘルガーが首を下げる。

 

 私はニドキングへ目を向けた。

 

「クインの後ろ」

 

「かえんほうしゃ!」

 

 太い火柱が、真正面から来た。

 

 ニドキングが退く。ニドクインは腕を交差させ、頭を下げた。

 

 炎が、その前腕と肩をなめる。

 

 乾いた砂が一瞬赤く照らされ、熱い風が私の頬へ届いた。

 

 ニドクインの両足が地面を削る。

 

 退かない。

 

 壁を使い終えた直後だ。続けて同じ守りへ頼るより、姿勢を固めて受ける方を選んだ。

 

「メタグロス、サイコキネシス!」

 

 鋼の巨体の目が光る。

 

 ニドクインの体へ、不自然な力がかかった。炎を受け止めた肩が持ち上がる。足が、土から浮きかける。

 

 支える相手を先に崩す。

 

 バルトは、そこまで見ていた。

 

「キング。十万ボルト」

 

 ニドキングが、青い体の脇から顔を出した。

 

 電光が爆ぜる。

 

 ヘルガーは避けようとした。

 

 右には、メタグロス。左には、先ほど散った石。

 

 ためらいは、一瞬だった。

 

 その一瞬を、雷が貫いた。

 

 黒い体が弾かれる。かえんほうしゃが、空へ逸れた。

 

 炎は止まった。だが、ニドクインを持ち上げる力は、まだ消えていない。

 

 彼女は浮いた両足を引きつけ、体勢を保った。自由に動く片腕を、ヘルガーへ向ける。

 

「どくびし」

 

 腕を振った。

 

 紫色の棘が、低い軌道で飛ぶ。

 

 ヘルガーは前足を踏ん張り、身をひねった。数本が腹の下を抜ける。避けた棘が地面へ刺さり、残りが進む先へ散った。

 

 メタグロスが、脚でその一部を弾き飛ばす。

 

 鋼の体へ、毒を狙っても仕方がない。

 

 ニドクインも、それは分かっている。

 

 飛んだ棘と、それを避けるために変えた足の位置。

 

 その両方が、次の狙いだった。

 

「キング、だいちのちから」

 

 メタグロスの下が、脈打つ。

 

「まもる!」

 

 光の壁が、鋼の巨体を囲んだ。

 

 守りへ力を切り替えた瞬間、ニドクインを縛っていた念力がほどける。

 

 青い体が落ちた。彼女は膝を曲げて着地し、片手を地面へつく。

 

 地面が爆ぜる。

 

 砂と小石が壁へぶつかり、外へ散った。

 

 守り切っている。

 

 ニドキングは口を閉じ、息を整えた。

 

 私の声が届く前に、ニドクインが隣へ戻る。

 

 二匹とも、相手を見ていた。

 

 バルトの笑みが、少し薄くなる。

 

     *

 

 最初の攻めで、ニドクインは傷を受けた。

 

 炎。サイコキネシス。どちらも軽くはない。

 

 それでも足は安定している。守りながら二度、場を作り、相手の動きも見ていた。

 

 彼女が小袋へ手を伸ばす。

 

 食べ物を一口。噛み、飲み込む。

 

 その間、ニドキングが半歩前へ出た。

 

 相手へ背中は見せない。

 

 バルトが手を上げる。

 

「今だ。ヘルガー、あくのはどう! メタグロスはサイコキネシス、ニドキングを止めろ!」

 

 黒い波が走る。

 

 同時に、ニドキングの足元が見えない力で軋んだ。

 

「キング、踏ん張って。クイン、どくびし」

 

 紫の棘が、波の上を越える。

 

 ヘルガーが一歩横へ動いた。

 

 ニドクインは投げた腕を、そのまま振り抜く。

 

 次の棘は、そちらへ。

 

 あくのはどうの向きが変わった。黒い力がニドキングの肩をかすめ、背後の土を削る。

 

 ニドキングは動かなかった。

 

 サイコキネシスを、両足で受け止めている。

 

 筋肉が盛り上がり、爪が地面へ沈んだ。

 

「そのまま押さえろ! ヘルガー、かみくだく!」

 

 ヘルガーが走る。

 

 前に立つニドキングではない。

 

 棘を投げる腕を下ろしかけたニドクインへ、牙を向けた。

 

 速い。

 

 黒い体が石の間を抜ける。毒の棘を避け、青い腕へ飛びついた。

 

「クイン、受けて」

 

 彼女が腕を上げる。

 

 牙が、硬い皮膚を捕らえた。

 

 ニドクインの足が一歩下がる。ヘルガーの後ろ足が土を掻き、首が強く振られる。

 

 噛む力は、十分にあった。

 

 だが、その口元へ、紫の光が滲む。

 

 ヘルガーの動きが、わずかに鈍った。

 

 ニドクインの皮膚にある、どくのとげ。

 

 近づいて噛みついた相手は、それに直接触れている。

 

 彼女は腕を引かず、逆に一歩踏み込んだ。

 

 ヘルガーの口が離れる。

 

「キング、今だよ」

 

 ニドキングが顔を上げた。

 

 口の奥に、赤い光。

 

 狙いはメタグロスだった。

 

「ヘルガー、受けろ!」

 

 バルトの声に、黒い体が動こうとする。

 

 ニドクインが体を寄せた。

 

 行かせない。

 

 その横へ、地面に残っていた棘が転がる。逃げる道を選び直した分だけ、ヘルガーが遅れた。

 

「かえんほうしゃ」

 

 炎が撃ち出された。

 

 サイコキネシスが続いていても、ニドキングの口は止められていない。

 

 火柱が鋼へ激突した。

 

 メタグロスの脚が滑る。

 

 炎が四本の脚の間を抜け、背中へ巻き上がった。

 

 ニドキングの技は、ただ熱を浴びせるものではない。

 

 特性ちからずくが、技の付随する効果を、直接の威力へ変える。

 

 いのちのたまが、その一撃をさらに押し上げた。

 

 鋼の巨体が、地面を削って後退する。

 

 サイコキネシスが途切れた。

 

 ニドキングはすぐに動いた。

 

「つめて」

 

 足が、土を蹴る。

 

 炎の消え際へ、紫の巨体が踏み込んだ。

 

「メタグロス、バレットパンチ!」

 

 銀色の脚が、一直線に伸びる。

 

 ニドキングは止まらない。

 

「クイン、ステルスロック」

 

 ニドクインが片腕を振った。

 

 浮いていた石の一つが、鋼の脚の前へ走る。

 

 砕けた。

 

 石だけで、その攻撃を止めることはできない。

 

 だが、脚が破片を押し抜く、その一瞬。

 

「ほのおのパンチ」

 

 ニドキングの右拳が、赤く燃え上がる。

 

 破片を抜けてきた脚を左腕で外へ押し、銀色の十字の下へ、炎の拳を突き上げた。

 

 重い衝突音が、コートに響いた。

 

 メタグロスの四本の脚が、同時に土を掻く。

 

 ニドキングの足も滑った。

 

 押し込む。鋼の巨体が、わずかに浮く。

 

 バレットパンチが、紫の肩を打った。

 

 衝撃で上体が横へずれる。

 

 ニドキングは、そこからもう一歩、前へ出た。

 

 メタグロスが横向きに弾かれる。

 

 倒れ切る前に、四本の脚で着地した。地面が深く削れ、砂の塊が跳ぶ。

 

 拳の炎が消える。

 

 ちからずくで高めた威力に、いのちのたまの力を重ねる。この技なら、たまの反動も受けずに済む。

 

 私は目を合わせた。

 

 ニドキングが、牙を見せる。

 

 まだ動ける。

 

「無理はしないでね」

 

 彼は小さく鼻を鳴らした。

 

 それから、相手へ向き直る。

 

 ヘルガーの荒い息が、聞こえた。

 

     *

 

「……特殊だけじゃないのかよ」

 

 バルトが呟いた。

 

 ニドキングは、答えない。

 

 その背後へニドクインが戻る。青い腕には、噛まれた跡があった。彼女は動きを確かめ、指を一度開いて閉じる。

 

 問題はない。

 

 私へうなずき、それから小袋の食べ物をもう一口。

 

 ニドキングが前へ立つ。

 

 バルトは、それを見た。

 

 今度は二匹の配置を、明らかに気にしている。

 

 ヘルガーを少し下げ、メタグロスを中央へ寄せた。

 

「メタグロス、じしん。ヘルガー、まもる!」

 

 鋼の脚が、地面へ叩きつけられた。

 

 ヘルガーを光の壁が包む。

 

 土が波を打つ。

 

 四本の脚の下から広がった衝撃が、コート全体へ走った。

 

「クイン、まもる。キング、岩へ」

 

 青い体を壁が包む。

 

 ニドキングは、足元の石へ片足を掛けた。さっきニドクインが残した、低く浮く岩だ。

 

 一歩。

 

 その勢いのまま、跳ぶ。

 

 直下で土が盛り上がり、弾けた。

 

 岩が砕ける。

 

 衝撃の最も強い場所を、ニドキングは空中へ抜けていた。

 

 着地まで、長い時間はない。

 

「ヘルガー、追え! かえんほうしゃ!」

 

 壁が消え、黒い口が開く。

 

 狙いは、落ちてくる紫の体。

 

「キング、だいちのちから」

 

 空中で、ニドキングが相手を見る。

 

 ヘルガーの足元が赤く光った。

 

 バルトが気づく。

 

「跳べ!」

 

 ヘルガーが地面を蹴った。

 

 炎を吐き始めた、その姿勢から。

 

 下で爆発が起きる。

 

 体が横へ弾かれ、火柱がコートの端を焼いた。

 

 ニドキングは肩から落ち、転がる。片手をつき、すぐに立った。

 

 着地の衝撃はある。

 

 だが、次の動きを妨げるほどではない。

 

 ニドクインが壁を解いた。

 

 彼女の前の土は割れていたが、左右に残る足場はまだ平らだ。メタグロスのじしんで、ほかの道は崩れている。

 

 それを、バルトも見る。

 

「ヘルガー、そっちへ!」

 

 黒い体が、平らな場所を目指した。

 

 毒で、呼吸が乱れている。先ほどより足も重い。

 

 ニドクインの腕が上がる。

 

「どくびし」

 

 紫の棘が、飛んだ。

 

 ヘルガーの行く先へ。

 

 バルトは叫ぶ。

 

「止まれ!」

 

 ヘルガーが踏ん張った。

 

 その前方へ棘が刺さる。

 

 横には割れた地面。後ろには、鋭い石。

 

 そして正面には、ニドキング。

 

 彼はもう、走り始めていた。

 

「メタグロス、かばえ! バレットパンチ!」

 

 鋼の巨体が、ヘルガーの前へ滑り込む。

 

 速かった。

 

 受けた傷を感じさせない、鋭い踏み込み。

 

 ニドキングは、その脚を見た。

 

「右へ」

 

 銀色の脚が頬の横を抜ける。

 

 紫の体が沈んだ。

 

 ニドキングは真正面からヘルガーへ飛びつくつもりではなかった。

 

 守る相手がどちらへ動くか。

 

 その反応を、見ていたのだ。

 

「クイン、だいちのちから」

 

 メタグロスの片側の脚、その下へ光が集まる。

 

 地面が噴き上がった。

 

 鋼の巨体が傾く。

 

 ヘルガーの前に、隙間が開いた。

 

 ニドキングの両手の間で、青白い力が膨らむ。

 

「きあいだま」

 

 至近距離だった。

 

 ヘルガーが口を開く。

 

 炎を吐くより先に、光の球が胸元へ撃ち込まれた。

 

 空気が破裂した。

 

 黒い体が後ろへ飛び、地面を二度転がる。

 

 前足をつく。

 

 立とうとする。

 

 その腕が折れ、腹が土へついた。

 

 私はニドキングへ片手を上げた。

 

 彼は追わず、足を止める。

 

 ヘルガーの目が閉じた。

 

「ヘルガー、戦闘不能!」

 

 コウの声。

 

 バルトが歯を食いしばった。

 

 メタグロスは、まだ動いている。

 

 傾いた体を戻し、二匹の間へ目を向けた。

 

 その四本の脚が、地面へ深く入る。

 

 強い。

 

 ここまで受けても、勝負を投げてはいない。

 

 私はニドクインを見た。

 

 呼吸は乱れている。腕の痛みもあるはずだ。

 

 彼女は私の目を見て、短くうなずいた。

 

 ニドキングの体にも、砂と傷がついていた。いのちのたまを使って攻め続け、相手の攻撃も受けている。

 

 二匹とも、無傷で済む勝負ではない。

 

 だから、これ以上長くしない。

 

「位置を戻そう」

 

 ニドクインが前へ出る。

 

 ニドキングが、その肩の後ろへ寄った。

 

 バルトの顔が変わる。

 

「またそれかよ。メタグロス、ニドクインを狙え! しねんのずつき!」

 

 四本の脚が土を蹴った。

 

 銀色の十字へ光が集まる。

 

 鋼の巨体が、青い体を押し潰すように迫った。

 

「クイン、右へ。キング、ほのおのパンチ」

 

 ニドクインが、正面からずれる。

 

 背後にいたニドキングが、逆側へ踏み込んだ。

 

 腰を落とし、左拳に炎を灯す。

 

 銀色の十字の端を、燃える拳が打った。

 

 乾いた音ではなかった。

 

 重いもの同士が、芯まで響くような音。

 

 足元の砂が、円を描いて吹き飛ぶ。

 

 ニドキングの体が揺れた。

 

 メタグロスの脚が、一歩進む。

 

 押す力では、鋼の巨体も負けていない。

 

 バルトが叫ぶ。

 

「そのまま押し切れ!」

 

 ニドキングは牙を食いしばる。

 

 足が、後ろへ滑った。

 

 さらに一歩。

 

 その足元に、石があった。

 

 ニドクインが残した、小さな岩。

 

 爪が掛かる。

 

 滑りが止まる。

 

 彼は拳を押し当てたまま体をひねり、突進の力を横へ流した。

 

 メタグロスが、わずかに傾く。

 

「クイン、ステルスロック」

 

 横から、石が飛んだ。

 

 狙いは頭ではない。

 

 踏ん張り直そうとした、二本の脚。

 

 鋼が砕く。

 

 破片が地面へ落ちる。

 

 そこへ次の岩が来る。

 

 支える場所を選び直した、その間に、ニドキングが拳を引いた。

 

 後ろへ一歩。

 

 メタグロスのすぐ前に、ニドクインがいる。

 

 バルトの声が、コートへ響いた。

 

「はかいこうせん!」

 

 メタグロスの顔の前に、白い光が凝縮する。

 

 ニドクインは逃げなかった。

 

 両足を広げ、地面へ爪を入れる。

 

「まもる」

 

 壁が、開いた。

 

 光線が放たれる。

 

 コートが白く染まった。

 

 光と光がぶつかり、甲高い音が耳へ刺さる。

 

 ニドクインの体が、壁ごと押された。

 

 足が土を削る。

 

 一歩分。

 

 もう一歩分。

 

 彼女は腕を前へ出し、押し返す。

 

 壁の表面へ、波紋が広がった。

 

 ニドキングは、もう横へ動いていた。

 

 相棒が受け止めている、その脇へ。

 

 メタグロスの脚は、地面へ固定されている。

 

 光線の方向を変えれば、正面のニドクインが動ける。

 

 変えなければ、側面のニドキングが届く。

 

 バルトが口を開いた。

 

 次の指示は、出なかった。

 

「キング」

 

 名前を呼ぶ。

 

 ニドキングが、口を開いた。

 

「かえんほうしゃ」

 

 赤い炎が、真横から撃ち込まれた。

 

 鋼の体を包む。

 

 はかいこうせんが、揺れた。

 

 白い光が途切れる。

 

 ニドクインの壁が消えた、その瞬間。

 

「クイン、だいちのちから」

 

 青い足が、踏み下ろされる。

 

 鋼の巨体の下で、地面が赤く光った。

 

 爆発。

 

 砂煙が膨らみ、火の光がその中へ沈む。

 

 ニドキングが、すぐに後ろへ下がった。

 

 ニドクインも、横へ抜ける。

 

 二匹が並ぶ。

 

 煙の向こうで、鋼の脚が一度、地面を叩いた。

 

 立ち直ろうとしている。

 

 土が崩れた。

 

 重い音がした。

 

 砂煙が、ゆっくりほどける。

 

 メタグロスはコートの中央へ沈んでいた。

 

 脚が一度動く。

 

 その後は、動かなかった。

 

 ニドキングが息を吐く。

 

 ニドクインが、相棒の肩へ手を置いた。

 

 コウが二匹の様子を確かめ、片手を上げる。

 

「メタグロス、戦闘不能。勝負あり!」

 

 バルトのボールを持つ手が、下がった。

 

     *

 

 私は相棒たちの方へ歩いた。

 

 ニドキングは、こちらを見ると体を起こす。いつも通りに胸を張ろうとして、途中で肩を動かした。

 

「そこ、痛むね」

 

 彼は鼻を鳴らした。

 

「無理に隠さなくていいよ。二匹とも、よく頑張ってくれた」

 

 ニドクインの腕を見る。

 

 噛まれた跡は浅くない。炎を受けたところにも、痛みは残っているはずだ。

 

 私は鞄から回復用の道具を出し、先に手当てをした。

 

 たべのこしで戻せる分にも、限りはある。

 

 彼女が食べ物を口に入れている間、ニドキングにも傷薬を使う。

 

 いのちのたまは、外した。

 

 戦いは終わっている。

 

 その力を、これ以上借りる必要はない。

 

『お父さん。ちょっと、どいて』

 

 頭の中へ、娘の声が届いた。

 

 振り向くと、アンバーが柵の入口から歩いてくる。ナンジャモも、その少し後ろにいた。

 

 娘は二匹の前で足を止めた。

 

『クイン。腕、見せて』

 

 ニドクインが私を見る。

 

 私はうなずいた。差し出された青い腕へ、アンバーがそっと手を添える。

 

『痛かったな』

 

 ぶっきらぼうな声に、ニドクインが小さく喉を鳴らした。

 

 娘の指先に、淡い光が集まる。

 

 アンバーには、触れたポケモンの痛みを感じ取り、傷を癒す力がある。念力で物を動かすのとは違う、彼女が受け継いだ、もう一つの力だ。

 

 噛まれた傷の縁が、ゆっくり寄り合っていく。

 

 炎に傷ついた皮膚にも、光が薄く広がった。強張っていたニドクインの指がほどけ、肩が下がる。

 

 私は、娘の横へしゃがんだ。

 

「アンバー。全部治そうとしなくてもいいよ」

 

『分かってる。できる分だけ』

 

 こちらを見ずに答え、娘は少しだけ手の位置を変えた。

 

『キングも。座って』

 

 ニドキングが素直に腰を下ろした。

 

 さっきまで鋼の巨体と殴り合っていた相棒が、今は娘へ傷ついた肩を差し出している。

 

 アンバーは片手をニドクインに添えたまま、もう片方の手を、その肩へ置いた。

 

 紫の体へ、光が移る。

 

 ニドキングが目を細めた。浅かった息が、少しずつ長くなる。

 

『二匹とも、動くなよ』

 

 ニドクインが動かしていない方の手を伸ばし、娘の頭へそっと載せた。

 

 アンバーの尻尾が、一度揺れる。

 

『……クインも、動くなって』

 

 その手を払いはしなかった。

 

 私は娘の横顔を見て、それから、二匹へ視線を戻した。

 

 ニドキングまで腕を上げかけている。

 

「キング。君も撫でたいなら、終わってからにしようね」

 

 相棒が、ゆっくり腕を下ろした。

 

 背後でナンジャモが小さく笑う。

 

 やがて光が薄れ、アンバーが両手を離した。

 

『どう?』

 

 ニドクインは指を開き、閉じる。ニドキングも肩を動かしてから、娘へ顔を寄せた。

 

 低い鳴き声が、二つ重なる。

 

 アンバーはそれを聞き、少し顎を上げた。

 

『なら、よかった』

 

「ありがとう。二匹とも、楽になったね」

 

『頑張ってくれたから』

 

 娘は二匹を見ていた。

 

 私はニドキングの背中を撫でる。傷は癒えても、使った体力まで全て戻ったわけではない。あとでセンターでも診てもらい、今日はゆっくり休ませよう。

 

 その前に、ニドキングが大きな手を娘の頭へ載せた。

 

 今度はアンバーも、文句を言わなかった。

 

 バルトの方から、声がした。

 

「……あんた、何なんだよ」

 

 私は顔を上げた。

 

 男はまだ、コートの向こう側に立っていた。

 

 ヘルガーもメタグロスも、戻していない。

 

「会社の代表だよ」

 

「そういう話じゃない。普通じゃないだろ、今の」

 

「先に、二匹の手当てをしてあげてくれるかな」

 

 バルトが足元を見る。

 

 それから、慌てたようにボールを取った。

 

 光が二匹を包む。

 

 私はニドクインへうなずき、ニドキングも一度撫でてから戻した。二匹とも、午後の仕事は休みだ。

 

 柵の向こうから、声が聞こえる。

 

「スカさん、相変わらずだねえ」

 

「ニドクインがいると、ほんとに崩れないな」

 

 顔なじみの店主たちだった。

 

 その横では、見覚えのない青年が、まだコートを見ている。

 

「……あの人、配信の社長?」

 

「そうそう。うちの店も手伝ってもらってるよ」

 

「仕事の話、聞きに来たんだけど……」

 

「終わったら聞いてみればいいじゃない」

 

 いつもの調子の会話だった。

 

 私はコウから上着を受け取り、袖を通す。

 

 バルトが、こちらへ歩いてきた。

 

 足取りは、来たときより遅かった。

 

     *

 

「……ミュウツー、いらないじゃないか」

 

 男は、低い声で言った。

 

 私は上着の前を整えていた手を止める。

 

 顔を見る。

 

 バルトも、一度口を閉じた。

 

「いや。勝つだけなら、って話で……」

 

「勝つために必要かどうかで、家族を決めないよ」

 

 男が目を逸らす。

 

 私は続けた。

 

「それから、今の二匹は、よく育てられていたね。最初の連携も、炎を受ける動きも、よかった」

 

 バルトの顔が上がる。

 

 何か言い返しかけた。

 

 私は、そこで言葉を切らなかった。

 

「その二匹が頑張っている間、君は途中から、アンバーの話も、私への文句も忘れていた」

 

 男は黙る。

 

「二匹を、きちんと見てあげてくれるかな。今、一番必要なのは、センターへ連れていくことだと思うよ」

 

 バルトがボールを見る。

 

 手の中で、握り方が変わった。

 

 ナンジャモが少し近づき、アンバーは私の隣に立った。

 

 男が、その顔を見た。

 

 さっきまでの、珍しいものを見る目ではなかった。どう話せばいいのか、分からないような顔だった。

 

「……悪かったよ。しつこく言って」

 

 アンバーは、彼を見た。

 

『嫌だった』

 

 男の肩が少し動く。

 

 その声は、彼にも届いたのだろう。

 

『名前、ある』

 

 バルトが一度、視線を下げる。

 

「……アンバー、だったな」

 

『うん』

 

 娘は、それ以上言わなかった。

 

 許したとも、気にしていないとも。

 

 私は男へ目を向ける。

 

「アンバーに話があるなら、本人に聞いてほしい。断られたら、そこまでだよ」

 

 バルトは小さくうなずいた。

 

 私は街の方角を示す。

 

「センターは、あちらの通りを出れば見える。二匹を、よろしくね」

 

 男はボールを鞄の内側へしまう。

 

 一度こちらを見たが、何も言わず歩き出した。

 

 コウが、その背中を目で追う。

 

 拳を握ってはいない。

 

 ただ、まだ表情は硬かった。

 

 私は声をかけた。

 

「立ち会ってくれて、ありがとう」

 

「……いえ。オヤジが言ってくださって、助かりました」

 

「君たちが、手を出さずにいてくれたからね」

 

 コウは一度深く息を吐き、それから頭を下げた。

 

     *

 

 コートに残った岩と棘を、係の人と一緒に片づけた。

 

 こういうものをそのまま残せば、次に使う人が困る。

 

 私は対戦前に確認した通り、壊れた地面の整備も頼み、必要な費用を精算した。仕事の電話が一本来たので、それにも返事をする。

 

 アンバーは柵のそばで待っていた。

 

 ナンジャモが、その隣にいる。

 

 全部済ませて戻ると、娘がこちらを見た。

 

『終わり?』

 

「うん。待たせたね」

 

 アンバーの視線が、私の首元へ移った。

 

 少し近づく。

 

 ネクタイの端をつまみ、裏側も見た。

 

『汚れてない』

 

「離れた場所にいたからね」

 

『ちょっと砂』

 

 娘の指が、小さな砂粒を払う。

 

 私は動かずに待った。

 

 ナンジャモが隣で、ようやく笑った。

 

「そっち、気になってたんだ」

 

『これ、新しい』

 

「うん。大事だもんね」

 

 アンバーはうなずいてから、手を離す。

 

 私の顔を見る。

 

『お父さん』

 

「何かな」

 

『私、戦わなくていい?』

 

 私はしゃがんだ。

 

 立ったままでも、娘の顔は見える。だが、今は目の高さを少し近づけたかった。

 

「うん。君は、しないって言ったね」

 

『強いのにって、言われた』

 

「強いからって、全部の勝負を受けなくていいんだよ」

 

 アンバーは黙っている。

 

 その手が、一度、私の袖へ触れた。

 

「私がさっき勝負を受けたことと、君が断ったことは、別だよ。君が受けなかったから、代わりに戦ったわけじゃない」

 

 娘が、顔を上げた。

 

 紫色の瞳が、まっすぐこちらを見る。

 

「アンバーが嫌だと言った。それを、聞いてほしかったんだ」

 

 風が、娘の尻尾を少し揺らした。

 

 彼女はしばらく私を見てから、うなずく。

 

『分かった』

 

「うん」

 

『キングとクイン、あとで撫でる』

 

「喜ぶと思うよ。今日は二匹とも、ゆっくり休ませようね」

 

 私が立つと、娘は一度だけ、袖を引いた。

 

 すぐに離す。

 

 その代わり、歩き始める私の隣へ来た。

 

     *

 

 事務所へ戻ると、ゴウが立ち上がった。

 

「オヤジ。お疲れさまです」

 

「ただいま。電話は大丈夫だった?」

 

「へい。二件、ご相談が来てます。急ぎではありません」

 

 彼はアンバーへ目を向ける。

 

 言いたいことがあるようだったが、娘の顔を見て、口元を少し緩めた。

 

「お嬢、お帰りなさい」

 

『ただいま』

 

「飲み物、冷えてます」

 

『もらう』

 

 娘は自分のソファへ戻った。

 

 鞄を置き、小冊子を開く。

 

 朝と同じ場所だった。

 

 ゴウが給湯室へ向かい、コウは私の上着についた砂を見つけて払う。私は礼を言って、机の電話の記録へ目を落とした。

 

 ナンジャモはすぐには帰らず、応接スペースへ座った。

 

 私が椅子へ腰を下ろすと、彼女が声をかける。

 

「スカさん」

 

「うん」

 

「ボク、少しびっくりした」

 

「バトル?」

 

「それも。でも、声」

 

 私はペンを置いた。

 

 ナンジャモは、私を見ていた。

 

「優しいままなのに、途中から、全然違って聞こえた」

 

 少し考える。

 

 大きな声を出した覚えはなかった。

 

 だが、相手にどう見えるかを、途中から考えていなかったのは確かだ。

 

「……怖かったかな」

 

「ボクに向けた言葉じゃないのは、分かってる」

 

 彼女はそう答えた。

 

 それから、アンバーを見る。

 

 娘は冊子を開いたまま、こちらへ目を向けていた。

 

 聞いている。

 

 ナンジャモは声を少し柔らかくした。

 

「アンバーちゃんを、ちゃんと見てほしかったんだよね」

 

 私はうなずく。

 

 それだけではない。

 

 あの目が、嫌だった。

 

 本人の言葉を聞かず、どれほど役に立つかだけを見る目。

 

 そこまで考えたところで、私は机の上のボールへ視線を落とした。

 

 二匹が、休んでいる。

 

 今、私がするべきなのは、こちらの暮らしを戻すことだった。

 

「二匹をセンターへ連れていったら、今日は早めに帰ろうかな」

 

 ナンジャモが少し笑った。

 

「いいと思う。ボクも一緒に行っていい?」

 

「うん。助かるよ」

 

 ソファから、声が届く。

 

『私も』

 

「もちろん」

 

 娘は冊子を閉じた。

 

 その顔は、いつも通り少しぶっきらぼうだった。

 

 私は首元へ指を添える。

 

 深い紫の中に、細い琥珀色。

 

 砂は、もう残っていなかった。

 

 アンバーが私の前へ来て、ネクタイをもう一度見る。

 

『似合ってる』

 

 突然だった。

 

 私は娘の顔へ目を戻した。

 

「……ありがとう」

 

 彼女は顎を上げ、鞄を取りに戻る。

 

 ナンジャモが横で、小さく笑っていた。

 

 私はボールを手に取り、椅子から立った。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 今度は鏡を見なくても、普段の声が出た。




注意 アンバーとは、ミュウツー♀です。
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