妖精達と両想い 作:シューティングクエーサードラゴン
「行けない……な……」
口から漏れ出た言葉は、静まり返った六畳間の空気に吸い込まれるように消えていった。
枕元のスマホの画面には、午前七時四十五分を示すデジタル文字。会社の始業時間は過ぎており、着信音とバイブレーションが容赦なく鳴り響いていた。無断欠勤――頭では分かっているのに、指一本すら動かすことができなかった。
布団から起き上がろうとするだけで、胃のあたりが固く絞り上げられ、冷や汗が背中を伝う。心臓が壊れた時計のように激しく脈打っていた。
――俺は、どうしてこうなってしまったんだろう。
配属されたのは、納期と予算と職人たちの板挟みになる「施工管理」の現場だった。
もともと要領が良い方ではない。頭の回転が遅く、一つのことをこなすので精一杯なのに、現場からは次々と膨大な指示やトラブルの報告が飛んでくる。
「おい、ここの図面どうなってんだよ!」
「材料がまだ届いてねぇぞ! お前の段取りが悪いんだよ!」
毎日、怒声と怒鳴り声に晒される日々。事務所に戻れば山積みの事務作業が待っている。エクセルを開いても文字がただの記号にしか見えず、簡単な書類作成ですら何時間もかかった。焦って間違った指示を出し、現場を混乱させてはさらに激しく怒鳴られる。職人たちからは呆れられ、「使えない奴」というレッテルがどんどん自分を追い詰めていった。
そして何より、現場の空気が耐えられなかった。
プレハブの狭い休憩室に充満する、濃く重いタバコの煙。いがらっぽい臭いが喉の奥まで突き刺さり、息をするのも苦しかった。ピリピリとした緊迫感とヤニの臭いが漂うその空間にいるだけで、精神の残りカスがすり減っていくようだった。
心はとっくに限界を迎えていた。うつ病と診断され、ついにその朝、糸がプツリと音を立てて切れた。俺の足は完全に会社へ向かうことを拒絶したのだ。
◇
カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、俺はフローリングの床にぼんやりと寝転がっていた。
テレビの画面だけが、青白い光を部屋に投げかけている。何気なく点けていたのは、アニメ『FAIRY TAIL(フェアリーテイル)』だった。
「……可愛いな」
ぼんやりとした意識の中で、画面に映る女の子たちを見て、ポツリと呟いた。
特にメインヒロインであるルーシィ・ハートフィリアは、思わず目を奪われる存在だった。抜群のプロポーションと大人の色気、そして等身大の可愛らしさが奇跡的なバランスで融合している。画面の中で魅力的に動く彼女の姿は、殺伐とした現実で擦り切れた俺の心に、ほんの少しだけ温かい癒やしを与えてくれた。
画面の向こうでは、仲間たちのために傷つきながらも、最後には強大な敵を打ち破り、絶対に勝利を掴む主人公たちの姿が描かれている。どれほど絶望的なピンチに陥っても、最後にはハッピーエンドという「勝ちが確定している」世界。
「フェアリーテイルか……」
乾いた笑いが口元から漏れる。
現実のような理不尽も、自分の要領の悪さも存在しない世界。あんな風に最後には勝ちが確定している漫画みたいな世界だったら、どれほど楽なんだろうな……。努力が報われて、仲間が手を差し伸べてくれて、最後には必ず笑える――そんなご都合主義の物語に、今の俺はすがりついていたかった。
頭の奥が重く鈍く痛み、思考が徐々に深い霧の向こうへ引っ込んでいく。
心身ともに疲れ切った脳が、これ以上の現実を処理することを完全に拒絶した。
「……楽に……なりたい……な……」
最後の気力を振り絞って呟いた瞬間、視界が急激に歪み、重力が何倍にもなったかのように体が床へと沈み込んでいく。
「――っ」
音もなく、俺の体は冷たい床の上にパタリと倒れ込んだ。
遠ざかっていく意識の中で、テレビから流れる賑やかな魔法ギルドの物語だけが、やけに優しく、遠く響いていた。
◇
どこまでも続く純白の世界だった。
上下も左右も感覚を失うような真っ白な空間のただ中に、一つの木目調のデスクと二脚の椅子がポツンと置かれている。
そして、目の前の机に座っていたのは――言葉を失うほど美しすぎる金髪の女神だった。
透き通るような白銀に近い金髪がサラリと肩にこぼれ落ち、現実のものとは思えない神聖な輝きを放っている。
「お疲れ様です。なんと言うか……上手く生きられないみたいですね」
女神は穏やかな笑みを浮かべ、優しく俺を見つめて言った。その声は、擦り切れた脳の奥深くまで心地よく染み渡っていく。
「俺は……死んだのか?」
擦れ声で問いかけると、女神は首を少しだけ横に振った。
「いいえ、そんな事はありません。ですが……時間の問題だったかもしれませんね。貴方の人生があまりにも悲惨で、見ていられなくなって介入させていただきました。一応これで『終わり』扱いになりますが、よろしいですか?」
自分のこれまでの人生が頭を駆け巡る。施工管理の現場で怒鳴られ続けた日々、タバコの煙が充満する苦痛な休憩室、要領の悪さに絶望した毎朝。あの暗闇に戻ることに、何の未練もなかった。
「……ああ……構わない」
「そう言うと思いました。では、この人生は一旦終わりにさせていただきますね」
女神はそう言うと、手元にあった綺麗な装飾の筆を取り、羊皮紙のような紙にさらさらと何かを書き始めた。こちらの質問の必要事項でも記入しているのだろうか。
静寂の中、カリカリと筆の音だけが響く。すると、女神はフッと小さく悪戯っぽく微笑んだ。
「ふふっ、危ないところでした。自殺していたら皆地獄行きですから。まあ……現代日本人なんて、殆どが地獄行き確定ですけどね……」
さらりと告げられた衝撃的な言葉に、俺の背筋に冷たいものが走る。
「……俺はどうなるんだ? やっぱり地獄か?」
身を乗り出して尋ねる俺に、金髪の女神は優しく、そしてどこか楽しそうに目を細めた。
「ふふっ、そうですね。本来ならそうなっていたかもしれません。ですが――特別にお情けをかけてあげます」
「実は貴方を転生させてあげようと思います。折角ですから、いい人生も味わって欲しくて」
「…………」
俺は完全に無言になった。言葉が全く出てこない。
新しい人生? そんなことを言われても、不安しか湧いてこなかった。要領が悪く、仕事も人間関係も失敗ばかりだった俺だ。どこへ行ったって、どんな世界に生まれたって、結局うまくやれる自信なんて一微塵も持てなかった。
「ふふっ、貴方には想像出来ないみたいですね。このまま転生させても、結果は変わらなさそうです」
俺の情けない沈黙と諦めきった表情を見抜いたのか、女神は可笑しそうに、けれどどこか慈しむように目を細めた。
「そうですね……貴方の好きな世界に転生させてあげましょう」
女神はそう言うと、手元にあった分厚い本のページをパラパラと軽やかにめくり始めた。俺の記憶や思いを直接読み取っているのだろう。
「ふむふむ、なる程……ちょっとこのまま行かせるにはハード過ぎる世界ですね……」
本から目を離した女神が思案するように顎に指をあてる。
あのアニメの世界――凶悪な魔導士や巨大なモンスターが暴れ回り、魔法が日常として存在する激動の世界。現実の施工管理すら満足にこなせず押し潰された俺が、何の力もなく放り出されれば、一瞬で惨めな結末を迎えるのは目に見えている。
「そうですね……」
女神がスッと片手を宙にかざした。
すると、何もない真っ白な空間に輝く光の粒子が集まり、一基の巨大な装置が姿を現した。
どこか親しみのあるカプセルトイ――ガチャガチャの形をしているが、その重厚な台座と透明なドームは神聖なオーラを纏い、七色に煌めいている。
「特別にガチャを引かせて差し上げましょう。3回回せるガチャなんですよ」
女神は楽しそうに微笑みながら、巨大なガチャの横へと軽やかな足取りで向かった。
「さあ、これでどんな力を手に入れるか……貴方の運次第です」
「因みにどの世界に転生するんだ?」
意を決して尋ねると、女神は悪戯っぽくクスッと笑った。
「ふふっ、貴方が好きなアニメの『フェアリーテイル』です」
「え……」
俺は絶句した。
無理だ。絶対に無理だ。あの世界は恐ろしい魔法や暴力が日常茶飯事で飛び交う世界だぞ……?
施工管理の仕事すらまともにこなせず怒鳴られてばかりだった俺ごときじゃ、仲間と絆を深めるとかできる以前に、要領が悪すぎて使えない奴だと見捨てられるのがオチだ。下手をすれば敵か仲間の踏み台になって、惨めな最後を迎える未来しか見えない。
あんな魅力的で眩しいヒロインたちと仲良くなるなんて、夢のまた夢どころの話じゃない。
(行きたくないな……絶対現場より過酷じゃねえか……)
心の中で青ざめている俺の様子を察したのか、女神は「ん、ん」と小さく咳払いをして、ガチャの機械をポンポンと叩いた。
「そのためのガチャなんですよ。早く引いてみてください。もう転生先は決まってるんですから」
有無を言わせぬ女神の圧に押され、俺は諦めて言われるがままにレバーを回した。
ゴトン、と重厚な音を立てて出てきたのは――銀色のボールだった。
カプセルを開けると、中から浮き出た文字を読む。
『……ドラゴニック・アビリティ……?』
「そ、そのガチャは……!」
それを見た女神が、目を見開いて声を裏返させた。
「知ってるのか?」
「はい! それはドラゴンと同じレベルの力を持つことができる、強力な銀レアガチャです! 貴方の身体はドラゴンと同等の莫大な魔力、そして恐ろしいほどの肉体強度になります!」
言い終わると同時に、銀の玉が眩い光を放って弾けた。
光が俺の全身を包み込む。瞬時に全身の細胞が組み替わっていくような熱い感覚――。
光が収まると、視界の位置が明らかに高くなっていた。182、3cmほどまで背が伸び、たるんでいた身体中の筋肉が一気に引き締まる。そして何より、腹の底から湧き上がってくる、溢れんばかりの白銀の力。これが……『魔力』というヤツなのだろうか。身体が軽い。以前のひ弱な自分とはまるで別物だ。
「んんっ、つ、次のガチャを引いてください!」
どこか興奮気味の女神に促され、俺は二回目のレバーを回した。
今度出てきたのは――眩しく輝く金の玉だった。
『ルックスレベルマックス……?』
「す、凄いです! 完璧な強運ですね……!」
金の玉が強い光を放ち、俺の顔全体を優しく包み込む。
「ちょっとこれを見てください!」と女神が差し出してきた手鏡を覗き込むと、思わず息をのんだ。
そこに映っていたのは、誰もが息を呑むような超絶イケメンだった。
彫りの深さ、整いすぎた目鼻立ち、凛とした眉根。原作の最終章で美しく成長したルーシィやエルザ、さらにはあの絶世の美女であるアイリーンとすら完璧に釣り合うレベルの、圧倒的なルックスが完成していた。
「ふ、ふつくしい……っ」
女神がうっとりと頬を染めながら、小さく感嘆の声を漏らす。そしてハッと我に返ると、期待に満ちた瞳で俺を見つめた。
「んんっ、最後のガチャを引いてください……!」
「もう十分じゃね?」
俺は思わずそう溢していた。これだけ恵まれた肉体と莫大な魔力、そして超絶イケメンのルックスまで手に入れたんだ。正直、これ以上欲を張って変な外れ能力を引くのが嫌だった。
「んん、駄目ですよ、最後まで引いてください!」
「ええ……」
「駄目です、さあっ!」
女神に押し切られ、俺は仕方なく最後のレバーを回した。
ゴトン――と重い音を立てて転がり出てきたのは、なんと本日二度目となる眩い……金の玉だった。
お……これはいい予感がするぞ。
カプセルを開け、浮かび上がった英単語をじっと見つめる。
『……ミューチュアル・ラブ(Mutual Love)……?』
どういう意味だっけ?
「こ、これは金レアの中でも最高級の能力です……!」
興奮を隠しきれない様子の女神に、俺は首を傾げた。
「どんな能力なんだ?」
愛に関する能力だとはなんとなく察しがつくが、英語がからっきし駄目な俺にはそれ以上の細かい意味が分からなかった。
「か、簡単に言うと、好きな人と両想いになれる特典です」
「両想い?」
「はい。貴方はこれから『FAIRY TAIL』の世界に転生します。そこで貴方が好きになった女の子は、貴方からその子へ向けた愛と同じ分だけ、貴方を愛するようになります」
「なんだよそれ、凄すぎないか!?」
思わず声を張り上げてしまった。要領が悪く、自分に自信なんて何一つ持てなかった俺が、好きになった相手と必ず相思相愛になれるなんて……。
「ええ……こんな能力を引けるなんて、貴方は本当に幸せものですね」
女神は頬を紅潮させ、感心したように微笑んだ。
しかし、俺はふと頭に浮かんだ疑問を口にしてみる。
「因みに……最初は恋愛対象として見てなかったけど、途中で好きになったキャラに対してはどうなるんだ?」
「その場合は、貴方が好きになったタイミングでその子と心がシンクロします。安心してください」
好きになったタイミング、か……。
物語の序盤は、まだ彼女たちもどこか幼かったり、ドタバタなギルドの仲間としての印象が強かったりする。恋愛的な意味で意識し始めるのはもっと先かもしれない。つまり、最初から強制的に発動するわけではなく、俺の気持ちが動いた瞬間に初めて結ばれるということか。
「女神様、つまりは……俺で言うと、この特典は物語の中期あたりから発動するって認識でいいのか?」
「ふふっ、そうですね。その認識で合っていると思いますよ」
女神は納得したように頷くと、優しく微笑みながら俺の目の前へと歩み寄ってきた。
「――そろそろ時間ですね」
そう告げられた瞬間、足元から溢れ出した温かな光が、俺の全身を優しく包み込んでいく。
「では行ってきてください、フェアリーテイルの世界へ」
「女神様……本当に、ありがとう……!」
施工管理の現場で擦り切れ、諦めかけていた俺の人生。
光の中で薄れゆく意識の中、俺は感謝を込めて叫んでいた。
次に目を覚ます時、そこには憧れていた魔法と絆の世界――そして、愛すべき仲間たちが待っているはずだ。