「まずはこちらを」
メルカトがライチの背後で、浄化の露、と呼んだ容器を手に取る。
「あれ? 灰汁から? 油を最初に揉み込んで、汚れを浮かせるやつは?」
脳内メモでは、最初に油を揉み込んで、汚れを浮かせていたような。
「色々試してみたんですが、元々たっぷりと油が塗り込まれている貴族や富裕層の頭に、更に油を塗り込むと、灰汁がいくらあっても足りなくて。ですので、注意書きに“油分と反応させて洗浄する液なので、油分が足りない方は、先に『星光の蜜』で汚れを浮かせてください”と書くことにさせてもらいました」
「そっか。確かに。スタートが油まみれだもんな」
「今回は、貴族向けと同じ手順でさせてもらいますね」
そう言って、メルカトは蓋を開ける。その瞬間、ふわりと香草と花の香りがした。
「……マジですか。灰汁のにおい、全然しないじゃん」
「ええ。ブドウの枝の灰を使い、少しでも香りをよくしてます。あと、灰が混じらないようにかなり濾し取りました。香りも、灰特有の、“炭”や、“焚き木”のような匂いと打ち消し合うように、調整してあります」
メルカトが手のひらに少量出して、後ろから頭皮になじませてくれる。
「灰汁に触れると手先がぬるぬるする、この成分で、頭の油分が溶けてさっぱりするんでしたよね」
「そう、その通り」
油汚れといえばアルカリ性洗剤だ。泡立ちこそ現代のシャンプーには遠く及ばないが、揉み込んでもらっているうちに頭皮のベタつきがみるみるうちにすっきりしてくる。元々油っ気が貴族ほどないライチは、すぐにキシキシとしてきた。
「……うん」
「どうです?」
「バッチリ。ちゃんと洗えてる」
一度お湯で流したあと、次に、まろみの清水、をかけられる。メルカトの指が、優しくライチの髪に通される。
「……おお」
するりと、きしみがなくなった。酸性水により、アルカリ性の成分が中和されたようだ。
「指通りがよくなった。いい感じ」
「よかったです」
メルカトの声が、少しだけ弾んだ。
頭の酸性水を流し、身体は自分で綺麗にする。
身体を洗い終えると、湯船に浸かったままのライチの頭を、メルカトが布でタオルドライしてくれる。何度も何度も乾いた布で拭かれているうちに、かなり髪も乾いてきた。
そして、最後の仕上げに、星光の蜜、を取り出した。
「『星光の蜜』には、銀粉を仕込みました」
メルカトが少量を手に出す。ハーブのような良い香りのする透明な油と一緒に、銀色にきらめく粒が見えた。
「ヘアケアに銀粉! ほんとに入れたんだ」
完全に不要、というか、なんなら不純物なのに。
「中身だけでは、どうしても普通の油や水に見えてしまいますからね。
何かしら、特別なものが入っていると分かる仕掛けが必要かなと」
「そうだな、原材料がバレるまでが商機だもんな」
日本で言えば、高級化粧品の容器に金箔が使われているようなものかもしれない。いや、あれは保湿とか血行促進に良いって、広告で言っていたか。
毛先に油が揉み込まれると、爽やかで高級な、非常に良い香りがふわりと残る。
メルカトは、最後に、丁寧に櫛で髪を整えてくれた。
ライチは大満足で湯船から上がり、最終チェックで、自分の髪に何度か触れる。
「……うん。サラッサラ!いい匂い!完璧!最高!」
メルカトが、その整った綺麗な目を輝かせる。
「よかったです」
そのまま、笑顔で容器を指す。
「こちら、残ったものは売り物にならないので、置いていきますね。長髪の方用が五回分ほど入っているので、まだほぼ満量残っています。よかったらご自身で使ってください。
販売前の品物なので、くれぐれも、他の人には見つからないように、個人で使ってくださいね」
「わっ、大事に使うよ。ありがとう」
(……とは言っても、俺はいつもの普通の灰汁と酸性水で充分なんだよな。俺なんかより、女性が使った方が……あ、でもそうか、販売前にバレるのは禁止だもんな……)
少し考えると、すぐにライチに名案が浮かんだ。
(あっ!アルフィアーナさんにあげよう!すでに秘密も共有しまくってるし、ヘアケア製品なら、喜んでくれるはず!)
早速明日の朝、日頃の感謝を込めて、お菓子と一緒に持っていこう。
うんうん、と頷きながら、髪を触って最終チェックをする。
髪に触れた手のひらが、キラキラと光っている。
「あっ……強いて言うなら、最後、髪を触った手に銀粉がついてくるのが気になるかな。子どもの目や口に入らないようにって注意がいるかも」
メルカトがハッと息を呑む。
「その視点はなかったです。……そうか、健康被害があっては大変ですものね。
お子さんのいるご家庭には、銀粉なしか、銀粉のない上澄みを使っていただくようにしてみます」
「うんうん。まぁ、貴族の人は、直接お子さんを抱っこしないかも?だけど。子どもって、ママの化粧品とか気を付けないと、舐めたり、目にこすりつけたりしちゃうから。
――ほら、鉛とか、身体につくと大変だろ」
ライチが何気なく続けた言葉に、メルカトは怪訝な顔をした。
「鉛……ですか? 高級食器などで、よく、使われていますけど……あっ、あと、ワインの酸味消しに入れたり」
「えっ、ひっ、ひえ……」
今なにか……とても、恐ろしい話が聞こえたような気が……。
「お、俺の知ってる話では……鉛のおしろいを子どもが舐めて、鉛中毒という病気になることがあったよ。大人だって長く摂取すると危険なんだ。
ここでも、不審死の一つは、その食器とか酸味消しだったり……するかも」
「…………」
メルカトが固まる。
「鉛って、口や鼻から入って、身体にじわじわ蓄積するんだ。長く摂取すると、身体を壊したり、子どもの成長に影響したり……。
俺の知る限りでは、飲食物に触れるところには、鉛を使わないのが普通だったよ」
メルカトが、しばらく呆然とまばたきを繰り返す。
「……え、と、それは……さすがに、ライチさんの言うことでも、信じがたいですね……」
メルカトは、鉛の隔離が簡単ではない理由をライチに教えてくれた。
「第一に、鉛入りのうわぐすりをかけた食器や、鉛を使った器具は、貴族や富裕層が好む高級品なんです。代々大切にしているものもあるでしょう。それを、もう使うなとは、とても……」
「代々……」
「第二に、いくつかのワイン工房では、鉛の鍋でブドウ果汁を煮詰める、“サパシロップ”を作ります。酸味を減らして、甘味を増せば高値で売れる……昔からの製法ですから、急に変えろと言えば、反発はかなり大きいでしょう」
「鉛鍋で煮たシロップを、ワインの甘味に……」
「第三に、鉛は、融点が低く加工しやすいので、使えなくなれば、金属を扱う工房にも大反発をくらうと思います」
「金属工房から大反発……」
(ワインに鉛シロップ、食器も鉛……こ、これはヤバい、俺自身も結構摂取しちゃってるっぽいぞ……)
ライチの目ではどれが鉛入りか分からないし、薄めワインはなんなら毎日水の代わりのように飲んでいる。
(……俺、大丈夫なのか?)
非常に恐ろしい。
「――ちょっと、さすがにこれは話が大きすぎるので……鉛の件に関しては、ヘアケアのことが落ち着いてから考えてみますね」
メルカトが、気持ちを切り替えたような表情で口を開いた。
「植物や害獣あたりで実験してみれば、毒性が証明できるかもしれませんし。
鉛を入れた水を飲ませたネズミと、普通の水を飲ませたネズミで違いが出れば、見た目にも分かりやすいですものね」
メルカトは、ひとまず目の前のヘアケア製品に集中すると決めたようだ。
「うん、そうしておこうか……。うっかりヘアケアのついでにヤバい箱を開けてしまった……なんか、ごめん」
いえいえ、とメルカトは首を振った。
「本当のことなら一大事ですし、うちの家族の寿命にも関わりますから。逆に、ありがとうございます、ですよ。
健康被害も気になるので、ひとまず、どなたかの不調の噂を聞いたら、鉛を遠ざけるように伝えてみます。
あとは、『鉛水を飲んだ犬がしばらくして死んだ。花も、鉛水につけると妙な枯れ方をするぞ。毒ではないか』などの噂を各方面から流すとか。ちょっと、裏で動いてみますね」
「す、すごい、さすがメルカトすぎる」
“さすメル”だ。なんて頼もしい。
確かに、花にもネズミにも悪いが、まだ科学的に証明できない時代では、それが一番いいのかもしれない。父親として、命に重さをつけたくはないが、どうせ害獣として駆除されているものなら……と、目を瞑るしかない。
あとは、それこそお偉いさんの不調が実際に回復する……なんて例が、一番の実証になるだろう。