「パパぁ、お歌、うたって」
「ふふっ。いいよ」
暗い部屋。ベビーベッドの末っ子は夢の中。
ライチは上二人の子の肩を、順番にトントンと叩く。
―― ゆ り か ご の う た を
「……ぱぱ、だーいすき……」
眠りに落ちる寸前まで、真っ直ぐに愛を届けてくれる可愛い我が子たち。
「おやすみ……ルノ、レント、ロク。……パパも、大好きだよ」
ライチはこの寝かしつけの時間が、たまらなく大切で、好きだった。
あと何回一緒に寝てもらえるのか。数年分がとても少なく感じる。残りの回数を考えただけで、泣いてしまいそうだ。
(明日もバリバリ稼いでくるからな)
そっと部屋を出る。
明日も仕事だ。家族のために、頑張らなくては。
---
そんな日々を過ごしていたある日の午後。
ライチは業務の合間、会社の屋上で休憩をしていた。
「いい陽気だなぁ」
コーヒーマシンで淹れた甘いコーヒーが、長時間の会議を終えた頭にしみる。
(ルノは、そろそろ幼稚園が終わりかな。リノは、レントとロクを連れて、お迎えに出かける準備でもしてるかな)
子どもがいると、こんなふうにぼんやりできる時間はなかなかない。就寝中だって、いつ何が起きるか分からないのだから。
自宅で子ども達を見てくれているリノには、本当に感謝している。
(夕飯は何だろう。今日は何にもない日だけど、ケーキでも買って帰っちゃおうかな)
コーヒーを飲み終え、息を吐いた。その瞬間。
世界が、ぐにゃりと裏返った。
「……はへ?」
周りにあったものが、すべて消えた。
(ん? 貧血? 白昼夢? 心臓発作?)
何が起きたのか分からない。
だが、手は動く。身体も動く。少なくとも、死んだわけではなさそうだ。
ライチは、虹と夜空をかき混ぜたような、色とりどりの光に囲まれている。上も下も、右も左も分からない。
足元があるのかどうかすら怪しいのに、ライチはなぜか、立っていた。
――有馬、ライチ
「はい?」
反射的に返事をしてしまった。
(誰だ?)
声は耳から聞こえたのではない。頭の中に直接、概念が届いたような感覚だった。
瞬きをすると、目の前に『神だと分かる何か』がいた。
人型のような気もする。違う気もする。
姿を見て理解したというより、そこにいるものが神なのだと、なぜか分かった。
――有馬ライチは、もうすぐ死ぬ
「…………は?」
意味だけが頭へ流れ込んでくる。
もうすぐ死ぬ。
誰が?
(おれ、が?)
冗談だろう。そう言い返そうとするのに、脳は、それを真実だと告げてくる。
口がうまく動かない。
――善行を積んだ者を、別の世界へ移すことで、死から、救済する
――有馬ライチを、救済する
「ええっ? ちょ、ちょっと待ってください!」
ライチは慌てて声を上げた。
「死ぬって……俺が? それで、別の世界に移す? ……いやいや、待て待て待ってくれ、ください。俺、家族がいるんですけど!」
神らしき存在は、何も答えない。
「妻と、子どもが三人います。まだ小さいんです。俺がいなくなったら、あの子たちはどうなるんですか!?」
返事はない。
ライチは一度、息を吸った。
「そもそも、もうすぐっていうのは、いつですか? 今日? 明日? まだなら、何か方法があるかも、」
――救済は、すでに終わった
発言中に頭に押しつけられたその概念を、理解するまでに数秒かかった。
――元の世界へ戻ることはできない
「…………は?」
今度は、続く言葉が出なかった。
できない?
誰が決めた?
いや、目の前にいる“コイツ”が、決めたのか。
「お、おいっ!ふっ、ふざ、ふざけんな! 戻れない?! 救済済み?! 勝手に決めんなよ!」
声が裏返る。
「か、神サマには、お子さんがいないから分からないんでしょうけど、親なら子どもと会えなくなったら、死んだも同然なんだ!分かる? 生きる屍!ゾンビになるんだよ!ゾンビ化して転移して、それっ、意味あるか?!」
――元の世界へ戻ることはできない
――元の世界へ戻ることはできない
ライチが何を喚いても、繰り返し、同じ内容が頭に突っ込まれるのみ。
「そんな……そんなのって……」
ライチは頭を抱えた。
あの子たちは、まだ小さい。
自分がいなくなったあと、リノはどうやって三人を育てていくのだろう。
教育費だって、これからどんどんかかる。
同居している義父母だって、いつまでも元気とは限らない。
俺は、“パパ”だ。
「しっ、死体が見つからなかったら、どうなるんだよ。死亡保険、知ってるか? 死体がないと下りないんだぞ。俺が何も言わずに消えたら、リノは……子ども達は、何年も俺を待つことになるかもしれないだろ」
家族が自分を恨むかもしれない。
自分が家族を捨てたと思われるかもしれない。
そんなことだけは、絶対に、絶対に、嫌だ。
「頼むよ……。俺を戻してくれ。死体でもいいから……頼む」
ライチは、目の前の存在を見つめた。
「死ぬのは怖いよ。まだまだ生きたい。でも、家族と一緒にいられないなら……俺にとっては、救済なんかじゃないんだよ……」
沈黙。
どれくらいの時間が過ぎたのか分からない。
神は動かなかった。
やがて、頭の中に再び概念が押しつけられた。
――元の世界へ戻すことはできない
――代わりに、その強い想いを、特別な能力として授ける
「は? いやいや、能力とかじゃなくて……」
声が震えた。
「そんな力、いらねぇから、」
反論の途中に、視界が真っ白になった。
「ちょっ」
強烈な浮遊感。
胃が持ち上がるような感覚。
身体の感覚が、頭から遠ざかっていく。
そして――
――カサ
目を開けると、目の前に木々があった。
尻の下には、土。頬に、風が当たる。
「……マジかよ……。やりやがったな……」
思わず呟いた。
森だ。
見渡す限り、木。草。土。
地面についた手を、虫か何かが這った気がして、ライチは反射的に手を引っ込めた。
木々の隙間から見える空は、青と橙が混ざり合っていた。まだ日が暮れていないというのに、星がいくつも瞬いている。月が……丸い。
(まん、げつ……)
「…………」
夢であってほしい。
けれど、尻についた土の感触も、肌を撫でる風も、やけに生々しい。
「……本当に、“別の世界”なのか?」
立ち上がり、手癖で尻の汚れを払った。
いつもの動作をした途端、急に現実に引き戻されたような気がする。
(まさか、まさか。たったこれだけの出来事で、家族にもう会え)
「あああああああああっっ!!
なしなしなし!そこは今は考えちゃ駄目だ!」
チラリと家族のことを考えただけで、内臓も、脳も、全てが空洞になっていくような喪失感が襲いかかる。
心が、死んでしまう。
ライチは一旦、家族のことを考えるのをやめ、目の前の状況に集中してみた。
(落ち着こう。まず、何をすればいい?)
スマホは……会社のデスクだ。コーヒーも、財布も、鞄も、腕時計も、結婚指輪もない。
あるのは、よれたスーツと革靴。それに、お義母さんがアイロンをかけてくれたハンカチだけだった。
「まずは安全確保。水。寝る場所。それから、人を探す」
サバイバルの知識なんてない。
それでも、何も行動しないよりはマシだ。
日が暮れる前に、少しでも状況を改善しなければ。
(神様のくれた能力ってのは……)
能力……スキルとやらの概念は、転移のさなかに、脳に突っ込まれたようだ。
【父性クラフト】。父性が形になる。
【ATM】。死亡保険の代わりに、家族に送金ができる。
そして、【パパゾン】。
その名前を咀嚼した途端、ライチは一気にブチギレた。
(なんてふざけた名前だよ!くそっ!いらねぇよ、転移もスキルも!死んでもいいから戻してくれりゃいいだけの話だろ!一発ぶん殴ってやればよかった!イヤ知らずめ!腹立つ!)
ふざけた名前は、神の趣味か、ライチの性質に合わせたものか。ツッコミ代わりに、木の根っこを蹴りつける。
「ふーー……」
ライチは息と一緒に、ネガティブな気持ちを吐き出した。
(ごちゃごちゃ言っても始まらん。家族にお金を送れるなら、少なくとも、何も残せないわけじゃないんだ)
養育は、お金さえあればいいわけじゃない。
子ども達に必要なのは、“金”じゃない。
それでも。
(……何もできないよりかは……百倍、マシか)
ライチは神との邂逅を振り返りながら、少しだけ前向きになる。
道はない。
人影もない。
ひたすら木の根を避け、足元を確かめながら適当に進む。
(……これ、こっちでも遭難死、とか、ないよな? そしたら、今度は善行も積んでないから、本当に、ジ、エンド? 無駄死に?)
次第に暗くなる空。視界が悪くなっていく森。
背筋をぞわぞわとさせた、その時。
――ガササ……
「……ん?」
おもむろに、右前方の茂みが揺れた。
風か? と訝しんでるうちに、音が一気に近づいてくる。
――ガサ、ガササササッ!
「うわあっ、なんか来た!」
茂みから飛び出してきたのは、耳の長い生き物だった。
ウサギ。
……に見えた。
目が鋭く光り、口元から牙がのぞいている。キシャァァッと奇声を上げ、こちらへ飛びかかってきた。
(絶対、ただのウサギじゃない!)
三十二歳の会社員に、獰猛な野生動物と戦う術などない。
格闘技経験、なし。
武器、なし。
「ムリムリムリムリ!」
せめて鞄でもあれば、と思った瞬間。
「しゃああっ!」
横合いから人影が飛び出した。
――ボグッ!
鈍い音。
男が手にした農具が、ウサギのような魔物を横薙ぎに吹っ飛ばした。
「ふぅ、ギリ間に合ったか。……おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!助かりました……!」
「そりゃよかった」
反射的に答えてから、ライチは気づいた。
言葉が通じる。
相手の言葉が分かる。こちらの言葉も、どうやら通じているらしい。
男はがっしりとした体つきで、浅黒い肌に無精ひげ。見た目はかなりワイルドだが、こちらを見つめる目には心配そうな色が浮かんでいた。
「お前、旅の人か? ここらは小さくても獰猛なモンスターが出る。夜になる前に、泊まるところを探したほうがいいぞ」
「……そ、そうですね……」
そう答えたものの、どこへ行けばいいのかも分からない。
男は、そんなライチの様子を見て言った。
「うちは小さい村の農家だ。泊まるところがないなら、来るか? 子どもらがうるさくてもよければ、だが」
「…………子ども?」
今一番の地雷ワードに、ズキンと胸が痛んだ。
けれど、目の前の男に、それは関係ない。
今の自分に必要なのは、帰れないことを嘆く時間ではなく、明日を迎え、家族のために、できることをやることだ。
「……お願いします。本当に、助かります」
ライチは深く頭を下げた。
---
「――こぉら、シーラ!また床でやったのか!外でやってこいっつってんのに!」
男は道中、バルゴ、と名乗ってくれた。
彼の家に通されたライチは、そこで早くも異世界の洗礼を受けた。
赤子が、土の床をハイハイしている。
泥まみれで、実に楽しそうだ。
そのすぐそばで、バルゴが“あるもの”に砂をかけ、外へ掃き出していた。
「…………」
ライチは固まった。
“排泄物”だ。
赤子が、うんちの上で、ハイハイをしている……。
「……ここで、生活してるんですか」
「まぁな。村じゃ普通の家だぜ?」
「いえ、家というか……あの、赤ちゃん……」
「農家の子どもを見るのは初めてか? 子どもは土にまみれた方が、丈夫になるんだ」
バルゴは豪快に笑った。
ライチは笑えなかった。
(衛生観念が……衛の字の『ノ』もない……!)
しかも、赤子の股間には何も巻かれていない。
まさか。
(まさか、垂れ流……し?)
「……オムツは? 股間を覆うやつ。履かせ忘れ……ですよね?」
「んだそれ? 服みたいなもんか?」
「…………!」
パパ警報、発令!
きょとんとするバルゴに、脳内でアラートが鳴り響く。これはいかん。
(ちょっ、せめて、“大”だけでも……!)
「バルゴさん!いらないボロ布、ありませんか!」
「えっ? あ、ああ。ちょっと待ってろ」
バルゴが奥へ引っ込む。
戻ってきたところで布を受け取り、ライチは大急ぎで赤子の股間に巻きつけた。
もちろん、専用の布でも何でもない。スカスカの古布だ。小は通るだろうし、吸水力も期待できない。
それでも、ないよりはマシだ。
(ふわふわタオルとか……この家に、ないよなぁぁ)
「まぁ、なんだ。暗くなると油で明かりを取らなきゃならねぇし、とりあえず飯食って寝ろや。
……事情があるんだろ、その服装を見るに」
バルゴはライチのスーツと革靴を見て言った。
「ありがとう……ございます」
確かに。赤子の股間を気にしている場合ではなかった。今は、ご厚意にありがたく甘えよう。
その後続々と揃ったバルゴ一家は、みんな親切だった。
とても家族仲が良く、楽しそうだ。
家族の温かさを感じるほど、自分の家族に会えないことがグサリグサリと胸に刺さる。
それぞれの名前を紹介されたはずだが、今はちゃんと耳に入らない。
それでも、出された食事は温かかった。
味を楽しむ余裕はなかったが、食べさせてもらえるだけありがたい。
パンをちぎる手の汚れも、床の土も、シーラの濡れた股間も。
今は考えない。
ライチはぼんやりと相槌を打ちながら、一心不乱に、石パンを咀嚼した。
「――その、寝具まで……いいんですか?」
「気にすんな。こっちは敷き藁を平らにすりゃ、家族みんなで寝られるからよ」
板間に敷かれた藁と布。
虫を見つけるたびにつまんで外へ弾きながら、ライチは横になった。
(……まぁ、魔物に襲われるかもしれない森で野宿するよりは、ずっといいよな)
家族のこと。
これからのこと。
考えなければならないことは山ほどある。
それでも、頭と心は限界だったらしい。
目を閉じると、思ったよりあっさり眠りに落ちていった。
---
「(おい!ミズヨリグサが水場に溢れてやがるぞ!)」
「(誰だよ、ここに落としたのは!根付いたらどうしてくれんだ!)」
外から聞こえる怒声で、目が覚めた。
窓代わりの壁の穴から見える外は、明るい。
朝だ。
(……夢じゃ、なかったか)
まだ、夢の可能性は捨てていない。
(捨ててはいないけどさ……)
家には誰もいない。ライチはとりあえず起き上がり、声のするほうへ向かった。
村人たちが、水場のそばで何かをかき集めている。
長くて、ねばつく、ワカメのような草。
みんな、ずいぶん嫌そうな顔をしていた。
(ミズヨリ……草?)
その瞬間、脳内に無機質な声が響いた。
《パパサーチ 発動》
パパサーチ? と思うのと同時に、脳内に知識が流れ込んでくる。
[新規項目追加]:布オムツ《ミズヨリグサ仕様》
【クラフト方法】
ミズヨリグサの葉を数分煮沸して中の水分を追い出す。
その後、数時間乾燥し、展開すると出てくる、内側の吸水層を布で挟む。
吸水層の両端を布から一センチメートルほどはみ出すように配置することで、天然素材による“モレ防止ギャザー”として機能します。
【基本仕様】
・煮沸によって吸水層の余分な水分を抜くことができるので、洗濯と再利用が可能。
・吸水スピードも高く、しっかり吸水!赤ちゃんもごきげん!
【ご注意】
・ギャザー部分が劣化したら吸水層ごと交換を。
《パパの育コツメモに自動保存されました》
「…………?!」
(これが、スキル?)
人生初体験の連続だが、ライチがそれよりも気になったのは……
(オムツって言ったよな?! オムツ、オムツ!)
昨日から考えていた、あの問題を解決できるかもしれない!
ライチは喜び勇んで駆け寄った。
「バルゴさん!その草、もらえませんか!」
「おう、おはようライチ。そりゃ、いくらでもくれてやるけどよ……。根付かないように、浮かしておいてくれよ」
「ありがとうございます!」
ライチは、村人たちに混ざって、ミズヨリグサを集めた。
「よしっ。こんなもんだろ。危なかったな」
そして、作業後に、バルゴに頼んで、土間の台所を借りることにした。丁度、バルゴ一家は朝食の準備中だ。
(煮沸、煮沸……)
オムツをクラフトしようとして、ライチはさっそくつまづいてしまった。かまどの使い方が分からないのだ。
(朝ご飯のスープが煮えてるけど、火の上で鍋を吊ってるから……もう一個鍋をかけてもいいものなのか? わ、分からん……)
「……あんた、ミズヨリグサを煮て、どうすんだい? そいつは、食えたもんじゃないよ」
「あ……えっと、マーヤさん」
ライチは必死に昨日の記憶を手繰り寄せ、バルゴの妻の名前を呼んだ。マーヤはパンを持って立っている。背中には、赤ん坊のシーラを背負って、紐で固定していた。
「これを煮ると、赤ちゃんのおしっこやうんちを吸収するらしくて。やってみてもいいですか?」
「? ふ〜ん。ま、言われてみれば、寝具を毎日びっしょりにされるのは困ってたねぇ。床のものを掃き出すのも手間だし」
「ですよね!」
「昨日巻いてた布もそういうことだったんだね。ありがとね。すぐびしょびしょになっちまったから、冷える前に剥いで洗ったけど」
(……そりゃそうだよな)
吸水性のない布を巻いただけでは、どうにもならない。
マーヤはそう言って笑うと、朝ご飯のスープの横に鍋をかけ、ライチの煮沸作業を手伝ってくれた。
葉を軽く煮沸する。
取り出してみると、葉は不思議なほど萎んでいた。
「……おお。スキル、すごいな。本当に、水分が抜けるのか」
洗濯と煮沸で、吸水オムツとして再利用できる、その意味がようやくリアルに実感できた。
次は、萎んだ葉を、外の干し場に干させてもらった。
しっかり乾燥させれば、吸水層が取り出せるらしい。
「茹でたあと乾かすんだね。なら、しばらく様子見だ。ほら、朝メシ、食べな。冷めちまうよ」
マーヤにそう呼ばれると、自分も子どもになったような心地になる。
「はい!」
返事をして、ライチは家の中に戻った。
---
朝食を終えると、バルゴは畑仕事に出かける支度を始めた。
「おう、行ってくるぜ。ライチを頼んだ」
「はいな。いってらっしゃい」
何気ない、いつものやり取り。
その光景を見ていると、またチラリと家族のことを思い出してしまう。
リノも、今ごろは家事をしているだろうか。
ルノとレントは、ちゃんと朝ご飯を食べただろうか。ロクは、泣いていないだろうか。
思いを打ち消すように、ライチは立ち上がった。
「マーヤさん。俺、何か手伝えることがあればやります。掃除とか、掃除とか!」
「はは。じゃあ、掃除と水汲みをお願いしようかな。ティモとエルノが行くから、一緒に行ってきてちょうだい」
「水汲み?」
家の隅には、大きな水瓶が置かれていた。
底には、澄んだ水が少し残っている。
そばには木の柄杓と、浅い桶。
バルゴの息子たちのティモとエルノが、それぞれ木のバケツを持って立っていた。
「水汲みって、毎日やってるの?」
「うん。オレたちの仕事なんだ!」
兄のティモが、胸を張って答えた。
エルノも、小さなバケツを両手でしっかり抱えている。
「どのくらいの時間がかかる?」
「んーと……お腹すいてきちゃうくらい!」
「……ざっくり二時間ってとこか」
ライチは、思わず口元を引き締めた。
---
井戸は、家から少し歩いた先にあった。
広場の中央にある共同井戸には、すでに村人が何人も並んでいる。
すぐ横の水場では、女性たちが洗い物や洗濯をしていた。
冷たい水で布をこする音。かすかな笑い声。
のどかな朝の風景だ。
(洗い物はここでやって、飲み水は運んで家に持ち帰るのか)
ティモとエルノは慣れた手つきで水を汲み、バケツを抱えた。
ライチも手伝おうと持ち上げたが、予想以上の重さに肩が沈んだ。
(重っ……!)
これを、子どもが毎日運んでいるのか。
二人の後ろ姿を見ていると、ふと、ルノとレントの顔が浮かんだ。同じくらいの年頃だ。
あの子たちは、今ごろ何をしているのだろう。
家族に会いたい。
何をしていても、急に顔がよぎってしまう。毎日、子どものことしか考えていないと言っても過言のないような脳みそだ。昨日の今日で、すぐに変わるわけもなく。
ライチはその度に、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
(……いかんいかん。今は水汲みに集中!)
首を振って、水を見る。その時、ライチの頭に、ふと疑問が浮かんだ。
「……この水、子どもが飲んでも大丈夫なのか?」
《パパサーチ 起動》
次の瞬間、頭の中に情報が流れ込んできた。
《山の綺麗な井戸水:
慣れていればそのままでも飲めるが、乳幼児には湯冷ましにしてからの使用が望ましい》
「……おお。なるほど」
水そのものは、飲用できるらしい。
(こういうことも分かるのか。これは、便利だな)
――水汲みは、大人のパワーにより、思ったより早く終わった。
「こんなに早く終わったの、はじめて!」「はじめて!」
「じゃあ、ぼくたちは薪拾いに行ってくる!」「木の実も見つけてくる!」
二人は嬉しそうにかごを背負って、駆け出していった。
その背中を見送りながら、ライチは小さく息を吐いた。
(……よく働くなぁ)
「……よし。俺も」
掃除を終えたら、ミズヨリグサのオムツづくりの、続きをやろう。
ライチは柄の短いほうきを手に取る。
何かをしていないと、思考が引っ張られてしまう。
もう二度と、家族には会えない。
それは、どうしたって変えられない現実なのかもしれない。
でも、我が子のパパとして、できることまで失ったわけじゃない。
今はそれだけを胸に、目の前の仕事に取りかかった。