クロニカ・モクテスマ―再臨:若き怒りの王   作:カルロス・オトメツィン・チチメカテクトリ

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第二話 神の学び舎(カルメカク)と泥まみれの神童

 リュウゼツランの鋭い棘が、ぷつりと耳たぶを貫く。

 じわりと滲み出した赤い血の玉を、私は恭しく差し出し、祭壇の香炉へと落とした。ジュッという微かな音と共に、コパル(樹脂の香)の甘く重い匂いに、鉄の臭いが混ざり合う。

 

 痛い。当然だ、生身に針を刺しているのだから。

 

 しかし、私の顔には一切の苦痛も、不満の色も浮かんでいないはずだ。ただ静かに目を伏せ、神々への感謝と畏れを体現する完璧な「敬虔なる者」の横顔を作っている。アステカの太陽神、トナティウの神話に由来するこうした供儀はこの学び舎においては立派な教育のひとつだ。

 

「……見事な作法だ。一切の淀みがない」

「ああ。夜明け前の冷水での禊(みそぎ)においても、あの幼さで誰よりも長く耐え抜いておられる。まるで、生まれながらにして神の声を聞く者のようだ」

 

 背後の暗がりから、私を監視している高位神官たちのひそひそとした囁き声が聞こえる。

 彼らの声に混じるのは、感嘆。そして、底知れぬ者に対する「畏れ」だ。

 私は心の中で冷ややかに笑いながら、静かに立ち上がり、神官たちに向かって深く頭を下げた。

 

 現在、西暦1480年。

 私が七歳の時に父アシャヤカトルに献策した「トラテロルコ商人(ポチテカ)の保護と諜報網化」から、5年が経過していた。12歳になった私は今、テノチティトランの中枢に位置する貴族学校――『カルメカク』にいる。

 

 アステカの王族や貴族(ピリ)の子弟は、一定の年齢に達すると必ずこのカルメカクに入学し、徹底的な教育を受ける。

 教育と言っても、現代日本のような生温いものではない。

 夜明け前の凍えるような湖での水浴びに始まり、自らの身体を傷つけて血を捧げる放血儀礼、歴史や暦の暗記、そして戦士としての苛烈な戦闘訓練。少しでも規律を乱せば、リュウゼツランの棘で全身を刺されるか、燻した唐辛子の煙を吸わされるという、現代なら一発で教育委員会が発狂するような虐待まがいの罰が待っている。

 

 ここはいわば、アステカの支配層を純粋培養するための「洗脳機関」だ。

 前世(一度目の生)での私は、ここで教え込まれる過酷な規律と狂信的な教義を素直に受け入れ、武勇のみを重んじる傲慢な皇子へと育ってしまった。

 

 だが、三度目の生を生きる今の私(中身は現代の歴史学者だ)にとって、このカルメカクが持つ意味は全く違っていた。

 

 (ここは、未来の帝国を動かす官僚や将軍たちの『揺りかご』であり……厄介な神官層の『巣窟』だ)

 

 アステカのトラトアニは絶対的な権力者に見えて、実はそうではない。

 神の意志を代弁する神官団や、軍を動かす有力貴族たちの支持がなければ、いとも容易く足元をすくわれる。事実、私の次代から数えて二人前の皇帝となる叔父ティソクなどは、後に貴族たちの陰謀によって毒殺される運命にある。

 

 だからこそ、私はこのカルメカクで「完璧な神童」を演じきらねばならない。

 誰よりも教義に詳しく、誰よりも自己犠牲を払い、誰よりも神を敬う。神官たちがぐうの音も出ないほどに「理想のアステカ貴族」を体現することで、彼らの権威を内側から乗っ取るのだ。

「あの方こそ、トルテカの賢者の生まれ変わりだ」と彼ら自身に言わせるために。

 

「ショコヨトル殿」

 

 ふいに、神官の一人が私に声をかけてきた。顔に黒い塗料を塗りたくった、いかにも厳格そうな男だ。

 

「本日の儀礼はこれで終了です。この後は歴史の間にて、書物(絵文書)の講義が行われます。他の子弟たちはすでに集まっておりますが」

「はい。すぐに向かいます、尊き導き手よ」

 

 私は子供らしい無垢な笑みを浮かべて頷いた。

 さあ、今日も忙しくなる。

 教室には、後に帝国の要職に就くであろう同世代の貴族の子弟たちが揃っているはずだ。彼らの中の誰が使えるか、誰が将来のガンになるか。この8年間、父の元で育ちつつある「ポチテカの情報網」から横流しさせた事前情報をもとに、値踏みをしてやらねばならない。

 

 私は血の滲む耳たぶをそっと拭い、白色の塗りで染められた石造りの回廊を歩き出した。

 

――――――

 

 ――ズキリ、と。  右の太腿に走った鈍い痛みに、第六代皇帝(トラトアニ)アシャヤカトルは微かに顔をしかめた。

 

 豪奢な羽根飾りとジャガーの毛皮に彩られた玉座に身を沈めながら、彼は忌々しげに自身の脚を見下ろした。傷の表面は塞がっているが、奥深くの肉と骨に刻み込まれたダメージは、未だに彼から戦士としての万全な力を奪い続けている。

 

(……タラスコの戦士どもめ。あの忌まわしき銅の斧の輝きは、今も夢に見る)

 

 数年前に行われた、西の強国タラスコ王国への大遠征。

 無敵を誇ったアステカ帝国の軍勢は、そこで歴史的な惨敗を喫した。黒曜石の剣(マクアウィトル)を砕く未知の金属兵器と、堅牢な防衛戦術の前に数万の兵を失い、総司令官であるアシャヤカトル自身も重傷を負って逃げ帰るという、皇帝の権威を揺るがす大失態だった。

 

 その傷が疼くたび、彼の脳裏には出陣前の、あの幼き息子の言葉が蘇るのだ。

 

『西への親征はお控えください、父上。敵は地形を熟知し、強固な防衛線を敷いています。我が軍の長大な補給線は必ず寸断され、さらに彼らの未知なる武器によって甚大な被害が出ます。今は国力を蓄え、内政を――』

 

 当時、まだ十歳にも満たなかったショコヨトルは、まるで見てきたかのようにタラスコ遠征の失敗を予言し、理路整然と出兵に反対した。神の神託などという曖昧なものではない。距離、兵站、武具の相性といった、歴戦の将軍すら舌を巻くほどの緻密な分析をもって。

 

 だが、アシャヤカトルはそれを退けた。

 皇帝として、武勇を示す必要があった。花の戦争(ショチヤオヨトル)による生贄を絶やすわけにはいかなかった。何より、幼い子供の戯言に従って軍を止めるなど、覇王としての矜持が許さなかったのだ。

 

 結果は、息子の冷酷なまでの予言通りとなった。

 

「……あの時、あやつの言葉を聞き入れておればな」

 

 誰にも聞こえないほどの声で、アシャヤカトルは自嘲の息を吐き出した。

 常に的確な献策を行い、時には己の威信を保つための逃げ道すら用意してみせる我が子。かつて提案されたトラテロルコ商人(ポチテカ)の諜報網化も、今や帝国の不可視の武器として絶大な効果を発揮し始めている。

 

 現在、その息子は貴族学校(カルメカク)で学んでいる。

 報告によれば、狂信的なまでに厳格な神官たちですら、ショコヨトルの前では平伏を余儀なくされているという。誰よりも教義を深く理解し、一切の苦痛に顔を歪めず、完璧な作法で儀式を完遂する。同年代の貴族(ピリ)の子弟たちも、みな彼に心酔し、付き従っていると。

 

(あやつは、本当に私の血を引くただの子供なのか……?)

 

 ふと、背筋に冷たいものが走るのをアシャヤカトルは感じた。  優秀すぎる。何もかもを見透かしているかのようなあの双眸と対峙するたび、歴戦の勇士であるはずの自分が、まるで無知な赤子のように感じられる錯覚に陥るのだ。  人の皮を被った、古き神霊なのではないか。そんな一抹の不安と薄気味悪さが、胸の奥底に常に付き纏っている。

 

 だが――同時に、猛烈な歓喜も湧き上がってくる。

 

(そうだ、仮に神の化身であろうと、あやつは私の子だ。次代の皇帝(トラトアニ)となるべき男だ)

 

 自らの負傷により、遠からず玉座を降りる日が来る予感がしている。次期皇帝にはおそらく自分の弟が選ばれるだろうが、その次……ショコヨトルが帝国の頂点に立つ日は、必ず来る。

 

 あの底知れぬ叡智と冷徹な計算高さをもってすれば、タラスコへの雪辱を果たし、この世界を真に統一することも夢ではない。

 

「……頼むぞ、ショコヨトル。このテノチティトランに、永遠なる栄華を」

 

 玉座の上で、偉大なる帝王は傷の痛みに耐えながら、不気味なほどに完璧な我が子の未来へと思いを馳せていた。

 

     *

 

「――世界はこれまでに四度滅びた。我々が生きるこの五番目の太陽の時代もまた、神々への供物、すなわち『血』を捧げねば滅びの運命を辿るであろう」

 

 歴史の間に響き渡る、老齢の神官(テオピシュキ)の厳格な声。

 黒く煤けた石壁に囲まれたその部屋には、無花果の樹皮(アマテ)から作られた長大な絵文書(アモシュトリ)が広げられていた。そこに描かれているのは、アステカの根幹を成す神話――「五つの太陽の伝説」である。

 

 部屋に座す数十名の貴族(ピリ)の子弟たちは、神官の言葉に熱に浮かされたように頷いている。彼らの目は「神に血を捧げるための聖戦」を信じて疑わない、狂信に満ちていた。

 

「ゆえに我々は戦わねばならぬ。太陽神(トナティウ)の渇きを癒やすため、周辺部族から生贄を獲得する花の戦争(ショチヤオヨトル)を続けるのだ。……ショコヨトル殿。貴方はこの教義を、いかにお考えか」

 

 老神官の鋭い視線が、部屋の最前列に座る私へと向けられた。

 周囲の生徒たちの視線が一斉にこちらに集まる。その中には、のちに私の右腕となるべき優秀な弟や、未来の将軍たちの顔もある。

 

 私はゆっくりと立ち上がり、絵文書(アモシュトリ)を一瞥した。

 

(神々への血の供物。……これこそが、この帝国を滅びに導く最悪の『死の病』だ)

 

 歴史学者としての私の現代知識によれば、この花の戦争(ショチヤオヨトル)による過剰な生贄の強要こそが、周辺部族に拭いがたい憎悪を植え付けた。数十年後、海を渡ってきた白人(スペイン人)たちが僅かな兵力でアステカを滅ぼすことができたのは、この憎悪を利用し、反乱軍を組織したからに他ならない。

 だから、私は皇帝の座に就くまでに、この生贄制度と武断主義を根本から解体しなければならない。

 

 だが、ここで「生贄など野蛮だからやめよう」と口にすれば、神官の反発を喰らうのは目に見えている。トゥーラのセ・アカトル・トリピツィンの二の舞はごめんだ。

 ならばどうするか。簡単だ。彼らの神学を逆手に取り、より高度な『理論』で上書きしてやればいい。

 

「尊き導き手よ、御言葉の通りです。太陽を動かすには『活力』が必要不可欠です。ですが――」

 

 私は静かに、よく通る声で紡ぎ始めた。

 

「絵文書によれば、神々は自らの血を流してこの世界を創りました。つまり神が求めているのは、単なる『死』ではなく、世界を循環させる『命の血流』そのものです。私はこう考えます。戦士の血を祭壇に注ぐことのみが、太陽を動かす手段なのでしょうか?」

 

「……何が言いたいのですかな?」

 

「帝国をひとつの巨大な身体に見立ててください。都市と都市を繋ぐ道は血管。そこを絶え間なく行き交う商人(ポチテカ)たちと、彼らがもたらす富や食糧は、帝国を循環する『血』そのものです」

 

 老神官が、わずかに目を見開いた。

 

「花の戦争(ショチヤオヨトル)による恐怖で周辺部族を縛り付けるだけでは、いつか彼らは枯渇し、帝国の血流は滞るでしょう。真に太陽神を喜ばせるのは、戦士の血に加え、帝国の血管たる『経済』を回し、すべての人々が富み栄える巨大な祭壇――すなわち、このテノチティトランを圧倒的な『豊穣の都』にすることではないでしょうか」

 

 静寂。  教室の空気が、ピンと張り詰めた。

 

 武力と生贄にしか価値を見出していなかった軍事国家の神官に対し、私は神学の皮を被せた『重商主義』と『経済による覇権』という現代の地政学をぶつけたのだ。

 

「戦いによる血は『維持』。ですが、富の循環による血は『成長』です。我々が真の覇者となるには、恐怖で搾取するだけでなく、帝国そのものを豊かにする経済の網を張り巡らせるべきです。それこそが、神々が望む真の秩序ではありませんか?」

 

「…………ッ!!」

 

 老神官はワナワナと震え、手にした杖を取り落としそうになった。  怒りではない。それは、旧来の凝り固まった神学の殻を打ち破られたことによる、圧倒的な知の暴力に対する『畏怖』の震えだった。

 

「おぉ……おぉぉ……! 血の循環、帝国の豊穣こそが神の意志……なんという、なんという深淵なる解釈だ……!」

 

 老神官はその場に崩れ落ちるように膝をつき、私に向かって深く平伏した。

 それにつられるように、周囲の貴族(ピリ)の子弟たちも次々と頭を下げる。彼らの目にはもはや、私に対する狂信的なまでの崇拝の色しか浮かんでいない。

 

 (ちょろいものだ)

 

 私は無表情を保ちながら、内心で冷たく嗤った。

 こうして少しずつ、彼らの価値観を内側から書き換えていく。数十年後、コルテスがやってくるその日までに、私はこの野蛮な軍事国家を、強靭な経済力と官僚制を持つ「近代国家」へと造り替えてみせる。

 

 血塗られた帝国の改革は、すでに始まっていた。

 




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