「……なぁ、よくよく考えたらよ」
場を支配する圧倒的な戦慄の中、腕を組んでガタガタと震えていた一人の幹部団員が、何かに気づいたように顔を跳ね上げた。
「アイツ、サイラスの雷撃を食らう前……一番最初にラルゴに声をかけた時、なんて言ってたっけ?」
その問いに、隣にいた団員が記憶を呼び起こし、ごくりと喉を鳴らす。
「確か……『あのさ、ラルゴくん』って……」
「「「「あ、精神崩壊(煩悩の消失)する前兆は最初から出てたァァァァァッッ!!!!」」」」
全方位から、本日一番の悲鳴に似た叫びが上がった。
そう、今しがた「生まれたての赤ん坊」のような目で床に正座しているその男は、普段であれば新入りに対して「おいクソガキ!」「そこの下っ端!」とドスの利いた声で呼びつけるのが当たり前の、荒くれ者中の荒くれ者だったのだ。
それが、魔法を受けた直後の時点で、すでに口調が非の打ち所がないほど丁寧な言葉に変貌していた。
「サイラスの旦那の雷撃で聖人になったんじゃねぇ……! ラルゴのヒールが直撃した瞬間から、アイツのドスケベ精神の消失カウントダウンは始まってたんだ!!」
「一度でもあの高位治癒(ヒール)を浴びちまったら、男としての
世界最強の怪物たちが、Lv.1の子供であるラルゴを本気で「お化け」を見るような目で見て一歩、また一歩と後ずさり始める。
そんな中、白銀の副団長サイラスだけは、フッと自嘲気味に息を吐くと、手元の羊皮紙をトントンとペンで叩いた。
「なるほど、言葉遣いの
「は、はい!?」
「ゼウス様を連れてきなさい。 あの万年発情全能クソジジイに貴方の【不屈の福音】をぶち込み、天界の絶対王としての品格が何秒持続するか、今すぐ正確なデータを計測します」
「うわあああ! サイラスさん、最高神の
ラルゴが冷や汗を流しながら、ゼウスが居る方へと視線を向ける。サイラスもまた、白銀の長髪を揺らしながら、絶対的な捕食者の目でそちらを鋭く睨み据えた。
――が。
「……おや?」
サイラスが周囲の気配を魔力探知(サーチ)するが、ホームのどこを探しても、あの能天気で不埒な主神の気配が、影も形も存在しない。
「……チッ、逃げましたか、あの発情ジジイ。マキシムに大黒柱へ縛り付けられていたはずですが、縄を解かれた一瞬の隙を突いて、世界の果て(女湯の方向)へ全力で逃亡を図ったようですね。私の目が届かないうちに逃がしてしまうとは、一生の不覚です……!」
サイラスは白銀の長剣の柄をギリィ……と握り締め、心底悔しそうに美貌を歪めた。全能神ゼウス、その男としてのドスケベな危機察知能力だけは、神々の王にふさわしい神速の域に達していたらしい。
「仕方ありません。主神のデータは後回しです。では、代わりに周りにいる貴方たちの中から、次の被験者を――」
サイラスが、冷徹な実験を継続すべく、ギラリと光る目で後ろへと振り返った。
――が。
「…………誰もいませんね」
「あ、本当に誰もいないわ」
ラルゴとサイラスの目の前には、昨日新築されたばかりの、ピカピカで誰もいない玄関で空っぽな空間が広がっていた。
さっきまで大バカ騒ぎをしていたはずの数十人の第一級冒険者は、サイラスがゼウスの不在に舌打ちをしたわずか数秒の隙に、『一部のまともな団員』を除いて、全員が脱兎のごとく逃走していた。
世界一の『逃げ足』を誇るスキルを宿したはずのラルゴですら、その逃亡の初速を一切視認できないレベルの超スピード。
「おいおい……! 世界最強のゼウス・ファミリアが、Lv.1の新入りの治癒魔法から本気で命懸けの逃走劇をキメてんじゃねぇよォォォォッッ!!!!」
静まり返った新築のホームの前で、ラルゴの至極真っ当なツッコミだけが虚しく響き渡るのだった。
「……ハァ。本当に、揃いも揃って規律も品格もあったものではありませんね」
誰もいなくなった広大な新築ホームの食堂で、サイラスは額を押さえながら深い、深い、脳の髄まで染み渡るようなため息をついた。その視線が、食堂の隅にポツンと残っていた「数少ない、逃げ出さなかった団員たち」へと向けられる。
「ザルド、そしてパール。貴方たち二人が残ってくれて助かりました。我がファミリアにおける数少ない『理性の防波堤』よ」
声をかけられたのは、十九歳にして既にLv.5の領域に達している、どこか求道者のような静かな覇気を纏う大柄な少年ザルド。
そしてもう一人は、サラサラとした金髪に中華風の武術服を纏い、上品にお茶をすすっている美しきエルフ、Lv.4のパール・オリヴァーだった。
「当然ですよ、サイラス副団長。あのような品性のない逃亡劇、エルフの品格に悖ります。……どうも、ラルゴさん、改めてよろしくお願いいたしますね」
パールが物腰柔らかに、極上の知性派スマイルをラルゴに向ける。ラルゴは心の中で(うわぁ、金髪細身の中華風エルフ聖人だ! 絶対に普段はめちゃくちゃ冷静なのに、前衛スイッチ入るとジャンプの格闘漫画のラスボスに豹変するバグキャラだこれ!)と大興奮しつつも、居住まいを正して頭を下げた。
「あ、よろしくお願いします! 本日と言うか昨日から入団したラルゴ、十三歳です!」
「ザルドだ。よろしくな、ラルゴ。……で、サイラス、俺たちは、この新入りの面倒を見ろってことか?」
ザルドが落ち着いた声で尋ねると、サイラスは冷徹な目で頷いた。
「ええ。ラルゴの魔法は破格ですが、現状は一発撃てば即マインドダウンを起こす『欠陥燃費(クソビルド)』です。一刻も早く実戦でレベルを上げ、精神力(マインド)の総量を増やさねば使い物になりません。幸い、我がファミリアのバカどもが恐怖のあまり逃げ出したおかげで、今ならダンジョンの予定が丸々空いています。ザルド、パール。二人でラルゴを連れて、ダンジョンへレベリングに行ってきなさい」
「レベリング! ついに俺も初ダンジョンですか!」
目を輝かせるラルゴだったが、サイラスはフッと不敵な笑みを浮かべ、剣の柄でラルゴの胸元を小突いた。
「喜ぶのは早いですよ。二人に引率してもらう前に、貴方のその『異常極まりないステイタス』について、正確に共有しておきなさい。……さあ、羊皮紙を見せるのです」
「へいへい」
ラルゴはポケットからゼウスの爺さんに書いてもらったステイタス紙を取り出し、ザルドとパールの前に広げた。
「ええと、僕のステイタスなんですけど……実は、戦闘能力が完全に終わってまして」
二人が羊皮紙を覗き込む。そこに書かれていたのは、二つのあまりにも尖りすぎたスキルだった。
【 神代逃走(レグルス・フライト)】
• 『敏捷』ステータスの限界解除。
• 常時『敏捷』ステータスに超高補正。
• 『敏捷』ステータスの成長補正。
• 常時『耐久』ステータスの低下。
【不戦不縛(トリカブト・ルーツ)】
• 逃走時、全能力に超高補正。
• 逃走時、発展アビリティ『逃走』『隠密』『回避』を一時的に発現、および効果を補正。
• 攻撃行動時、全能力に超低下。
「……おいおい、なんだこれは」
流石のザルドも、その紙を凝視したまま顔を引きつらせた。
「攻撃しようとすると全能力が地の底まで落ちて、常時ペラペラの紙装甲。その代わり、逃げる時だけは世界最速……。攻撃力ゼロ、逃走力無限の、完全なる『神速の囮(デコイ)』ビルドじゃねぇか……!」
「まぁ……なんと合理的に歪んだ魂の形なのでしょう」
パールも丁寧な言葉遣いのまま、本気で驚いたように目を丸くしている。
そこへ、サイラスが白銀の長剣の鯉口をカチャリと鳴らし、室内の温度を下げるような冷徹な声で付け加えた。
「ザルド、パール。ダンジョンでのレベリングの際、ラルゴのスキルの検証も徹底的に行うのです。特に、逃走時に一時発現するという『隠密』『回避』の効果が、Lv.5のザルドやLv.4のパールの攻撃に対してどこまで通用するのか……。彼を極限状態まで追い詰めて、その『逃げ足の限界値』を正確に計りなさい」
「え、ちょっと待って副団長!? 今さらっと『二人の攻撃に対してどこまで通用するか』って言いましたよね!?」
ラルゴが冷や汗をダラダラと流しながら叫ぶ。
「当然でしょう? モンスターの攻撃だけでは正確なデータが取れません。身内の第一級冒険者が『本気で殺す気で放った一撃』を、その逃走スキルでどこまで躱しきれるか……。それこそが、三大クエストで貴方を前線に立たせるための必須条件です」
「検証っていう名の、ガチの処刑じゃねぇかァァァァッッ!!!!」
ラルゴの悲痛なツッコミが響く中、パールは温和に微笑みながら「構いませんよ、ラルゴさん。私が責任を持って、貴方のその神速の足を『磨り潰す』勢いで追い回して差し上げましょう」と、普段の聖人の姿のまま、うっすらと戦闘時の凶暴な片鱗を覗かせるのだった。
こうして、攻撃力ゼロ・逃走力無限の少年ラルゴの初陣は、モンスターだけでなく「身内の化け物先輩」からも命懸けで逃げ回るという、最悪の鬼ごっこダンジョンレベリングから始まることになるのだった。
*******
――ひどく、冷たく張り詰めた空気が、ダンジョンの薄暗い石壁の間に満ちていた。
先ほどまでのホームでの喜劇的な空気は、漆黒の深淵へと完全に消え去っている。ここにあるのは、一歩足を踏み外せば確実な「死」へと直結する、迷宮という名の絶対的な修羅の国だ。
ラルゴは右手に一本の短規格のナイフを握り締め、低く構えていた。刃の表面に、鈍い燐光がギラリと反射する。
正面から迫るモンスターの凶刃。ラルゴは自身の宿したスキルを脳内で極限まで研ぎ澄まし、肉体の全細胞をアジリティへと変換した。
シュッ、と空気を切り裂く音が響く。
ラルゴは寸分の狂いもない最小限の挙動でその猛攻を紙一重で完全に回避し、すれ違いざまにナイフの刃を敵の強靭な皮膚へと滑らせた。キィン、と硬質な火花が散る。
(……チッ、やっぱり、モンスターには効き目が薄いな……!)
ラルゴは冷徹に、そして極めて真剣に現状の状態を思考の海で弾き出していた。
こちらから刃を振るい、能動的な『攻撃行動』へと移ったその瞬間、第二スキル【不戦不縛】の凄まじい呪い(デバフ)が発動し、自身の全ステータスが地の底まで超低下する。
(俺の絶対的な優位性は、逃走時限定の『回避』と『敏捷』のみ……)
冷静な分析。しかし、現実はあまりにも過酷だった。
どれほど神速の逃げ足があろうとも、ここは四方を閉ざされた迷宮だ。ラルゴの制服のあちこちはすでにボロ雑巾のように裂け、皮膚には生々しい裂傷が刻まれている。これまでの乱戦の中ですでに何回かの直接攻撃を受け、持ち込んでいたすべてのハイポーションを使い切っていた。
回復手段はゼロ。一発掠れば、耐久デバフの刺さっているLv.1の肉体は確実に消し飛ぶ。
ラルゴの額から、タラリと冷たい汗が流れ落ち、床の石畳に吸い込まれた。後が無い。完全に、生存の限界の崖っぷちに立たされている。
「おおおォォォッ!!」
ラルゴは生存への執念を爆発させ、再び神速の残像を残して地を蹴った。超俊敏な動きでモンスターの視界を極限まで翻弄し、死角からナイフを正確に突き立てる。しかし、やはりデバフの乗った一撃では、敵の強固な生命力を削りきるには致命的に威力が足りない。
(一撃で足りないというのなら――その十倍の十撃を叩き込めばいいだけだ!!)
オタク脳の限界を超えた逆転のロジック。
ラルゴは自身の脆弱な腕力を超加速の速度(システム)で補い、モンスターの巨体に向けて凄まじい速度のナイフラッシュを全弾叩き込んだ。
閃光のような連続刺突。一撃一撃の効き目は薄い。しかし、肉肉しい確かな手応えと共に、刃は確実に、ミリ単位でモンスターの肉を裂き、ダメージを蓄積させていく。
背後で見守っていたザルドやパールが、その少年のあまりにも無謀で、しかし狂気的な執念の戦いぶりに表情を強張らせ、今すぐ自身と変われと心配そうに声を掛けてくるが、その制止の言葉は今のラルゴの耳には一瞬たりとも届かなかった。周囲の雑音を完全にシャットアウトし、ただ目の前の命の奪い合いだけに意識を完全同期させる。
その直後、モンスターの巨大な爪が、ラルゴの脇腹を容赦なく引き裂いた。
ドスッ、と鈍い衝撃がラルゴの身体を襲う。
しかし、ラルゴはその一撃を完全に無視した。 激痛に意識をそらされることなく、むしろ肉体が破壊されるその一瞬の隙を利用して、文字通り肉を切らせて骨を断つ最短の軌道で、モンスターの懐の奥深くへと強引に潜り込む。
「これで、終わりだァァァッッ!!!!」
ナイフを逆手に持ち替えたラルゴは、敵の胸部の奥で怪しく脈打つ魔石に向けて、己の全質量を乗せた刃を突き立て、力任せにそれを粉砕した。
パリィィィンッ!!!
硝子が割れるような甲高き破壊音と共に、モンスターの巨体が黒い灰へと霧散していく。
ラルゴはナイフを持ったまま、激しい呼吸で肩を揺らし、血の海と化したダンジョンの最前線に、一人の冒険者として厳然と立ち尽くすのだった。