――14階層への道の手前。
下層へと続くその暗い下り階段の直前で、これまで弾丸のごとき勢いで爆走していたラルゴの肉体が、物理法則を完全に無視したかのようにピタリと急停止しました。
神速の慣性すら置き去りにしたそのあまりにも不自然な制動に、追走していたザルドとパールの二人は、思わずその場に踏みとどまり、怪訝そうに眉をひそめます。
「……おい、ラルゴ? 急にどうした。中層の怖さがようやく骨身に染みたか?」
ザルドが声をかけましたが、ラルゴからの返答はありません。
ただ、ラルゴはその細身の全身を、まるで極寒の地に放り出されたかのようにガタガタと激しく震えさせていたのです。 その横顔は、これまでの鬼ごっこで見せていたおふざけや軽薄さが完全に消え失せ、見たこともないほどの驚愕と、魂の底からの本物の恐怖に支配されていました。
「ラルゴさん……?」
パールの戦闘時特有の凶暴な目が、その異様な様子を察してスッと細められた――その、次の瞬間でした。
「――ひっ、ひぃぃぃぃぃっっ!!! 無理無理無理、絶対無理やばいって!!!!」
ラルゴは悲鳴とも咆哮ともつかない叫び声を上げると、地面を爆破せんばかりの勢いで踏み込み、あろうことか、今まで下ってきたはずの道を、これまでの神速をさらに一段階ぶっち切るほどの「異常な超速度」で猛然と逆走し始めたのです!
「なっ……!? おい待てコラッ!!」
流石にこの一連の挙動はおかしい。ザルドとパールは一瞬で冒険者としての最高警戒スイッチを入れ、逃げるラルゴの進路を神速の連携で塞ぐと、その襟首と両腕を力ずくでガシッと掴み取り、その場に組み伏せるようにして拘束しました。
「放せ! 放してくれザルドさん! パールさん!! 死ぬ、今ここにいたら確実に死ぬゥゥゥッ!!」
掴まれたまま、狂ったように暴れて逃げようとするラルゴ。ザルドはその胸ぐらを強く揺さぶり、地の底から響くような声で事情を聞き出そうと詰め寄ります。
「落ち着けラルゴ! 一体何を見た! 何が来るってんだ!!」
「いいから今すぐ逃げろって言ってんだろォォォッ!! 理屈も何もクソ食らえだ! 1階層のゴブリンとはワケが違う、あれは、物語の終盤にしか出てこないような――下界の理不尽の化け物そのものだァッッ!!!!」
ラルゴが喉を血に染めながら絶叫した、まさにその直後でした。
――ゾクッ。
ザルドとパールの背筋に、同時に言葉にできないほどの凶悪な「悪寒」が奔りました。
空気の温度が一瞬にして凍りつき、肺腑に流れ込む酸素がドロリとした鉛のように重くなる。数々の死線を潜り抜けてきたLv.5のザルド、そしてLv.4のパール。世界最強のファミリアに所属する二人の歴戦の「本能」が、最大級の警報を脳内で爆音の如く鳴り響かせます。
(……来る。下の層から、何かが信じられない化け物が……!!)
それは、中層のモンスターなどという生易しい気配では断じてない。圧倒的な「破壊の意志」を孕んだ暴力の気配。
ドッッッッッッ!!!!!!!
凄まじい地鳴りのような爆音と共に、14階層へと続く下り階段の手前の岩場が、内側から激しく大爆発を起こして木っ端微塵に吹き飛びました。
もうもうと立ち込める黒煙を切り裂いて現れたのは、世界の破滅を告げる古代の怪物――などでは断じてなかった。
「ギリギリ人間」と判断できるレベルでボロ雑巾のように血まみれになった、漆黒のローブを纏う男たち。彼らはオラリオの治安を脅かす闇派閥(イヴィルス)の幹部と思われる重鎮たちだったが、今やその扱いは家畜以下だった。
彼らの襟首を、まるでゴミ袋でも掴むかのようにぞんざいに引っ掴み、煙の中からゾロゾロと歩み出てきたのは――息を呑むほどに美しい、しかし完全武装を施した『ヘラ・ファミリア』の美女団員たちである。
「まったく、不快極まりないわね。下層へ行く途中でこんなドブネズミどもの不意打ちに遭うなんて、今日の運勢は最悪だわ」
「本当に。私たちの宮殿(ホーム)のような完璧な秩序を乱す害虫は、跡形もなく磨り潰すに限るわ」
闇派閥の幹部を引きずりながら、日常の買い物帰りの主婦のような気軽さで凄惨な愚痴をこぼす最恐神の眷族たち。
その光景を目撃した瞬間、ザルド、パール、そしてラルゴの三人は一瞬にして全身の血の気が完全に引いた。 1階層のゴブリン相手の泥仕合など、この世の楽園だったと思えるほどの圧倒的な絶望。神の領域に最も近い「世界最恐」の軍勢が、今まさに目の前に君臨していた。
(見つかったら確実にひき肉どころか分子レベルで消滅させられる……!)
ラルゴは野生の勘と発展アビリティ『隠密』をフル活用し、ザルドたちの袖を引いて音もなく上層へとバックステップで逃げ出そうとした。
――しかし、その瞬間。
ドォォォォォンッッッッ!!!!
三人のまさに目と鼻の先の地面が、凄まじい衝撃波と共に木っ端微塵に大爆発した。
「ひぇっ!?」
あまりの恐怖にラルゴが硬直して後ろを振り返ると、そこには黒煙の奥から優雅に歩み出てくる、息を呑むほどに気高くて美しい一人の女性の姿があった。
ヘラ・ファミリア団長、人類史上最高レベル8の【万物統べる暴君(レガリア)】――女帝レグナ。
彼女は完璧な品格を湛えた、それはそれは恐ろしい満面の笑みを浮かべながら、手の中でその辺で拾った適当なダンジョンの石を、お手玉のようにひょいひょいと弄んでいた。
「あら、ゼウスのところのマシな部類の汚らわしい男たちじゃない。……私という美少女を目の前にして、挨拶もなしに煙のように消え失せようとするなんて、随分と失礼な態度をとってくれるじゃないの?」
(……ダンジョンの石って、投げつけると、着弾した瞬間にTNT火薬並みの威力で大爆発する代物なの!?)
ラルゴは冷や汗を滝のように流しながら、あまりの異常事態に必死で現実逃避を試みた。しかし、レグナの纏う、全世界の光を吸い込むかのような漆黒の覇気が、三人の肉体を完全にロックオンして逃走の選択肢をへし折る。
「勘違いしないで頂戴? 私のように穏やかで、慈愛に満ちた温厚な人でなければ、今の一撃で貴方たちの体を貫いて「自主規制」して、「自主規制」を「自主規制」に「自主規制」しているところよ?」
レグナがニコリと微笑むと、背後に控える美女団員たちが、さらに目を爛々と輝かせながら、女帝以上の凄惨なお仕置き方法を口々に囁き始めた。
「団長、甘いですわ。その小汚い脳筋どもの「自主規制」で、オラリオのメインストリートで「自主規制」にして晒し者にするべきです」
「私の魔法で「自主規制」で、「自主規制」が「自主規制」て耳から噴き出すまで「自主規制」して、その薄汚いプライドごと磨り潰して差し上げましょう」
「「「……っ!!!!」」」
世界最強のLv.5とLv.4、そして二百年に一人の天才(自称)の三人は、一切の迷いもなく、コンマ0.1秒の神速大工ワークを超える速度で、その場に一斉に膝を突き、完璧な姿勢で正座をして深々と頭を下げた。 下界の頂点に立つ捕食者たちを前に、男のプライドなど1ミクロンも残っていなかった。
「……不快ね。誰が私の前で、そんな汚らわしい下側の視点から見上げることを許したかしら? 目障りよ」
レグナの冷徹な一言が下された瞬間、ザルドとパールの二人は、生存本能のままに自身の頭を床の硬質な岩盤へと凄まじい力で叩きつけ、そのまま自力で地面の奥深くへと頭部を埋没させた。文字通りのダチョウ並みの土下座である。
「自分で埋まるなんて、本当に小賢しくて不愉快な男たちね。……その程度の浅い穴で、私の気が済むとでも思っているの?」
レグナは完璧な気品を湛えたまま、一切の話し合いを挟まずに、その美しい足でザルドとパールの頭頂部を容赦なく踏み抜いた。
ドゴォォォォォンッッッッ!!!!
「ぶふぇっ!?」
「あぁっ!?」
人類史上最高レベル8の「世界最高峰の暴力」が容赦なく炸裂する。13階層の頑強な岩盤がまるで豆腐のように容易く砕け散り、第一、二級冒険者の二人は、頭からスイカ割りの如き勢いで完全にダンジョンの地面へと深く埋められた。
もはや地面から出ているのは、下半身とピクピクと痙攣する足だけ。昨日新築されたホームの柱よろしく、見事な一対の「肉体大黒柱」としてダンジョンに強制建築されてしまったのだ。
(あ、なるほど……。これが、『王の威光を前にした人間の末路』ってやつか……)
ラルゴは完全に思考を放棄し、頭を岩に埋めた先輩二人の横で、両手を膝に置いたまま「無の境地」に至っていた。
静まり返った13階層の岩場。
頭を埋めてピクピクしているザルドとパールを冷ややかな目で見下ろしていた女帝レグナとヘラ・ファミリアの美女団員たちの鋭い視線が、最後にぽつんと一人、無の境地で正座し続けている黒髪の少年――ラルゴの姿をじっと見つめた。
「……あなた、見慣れない顔ね。誰かしら?」
下半身だけを地面から突き出して痙攣しているザルドとパールを完全に無視し、女帝レグナが漆黒の瞳でラルゴを鋭く射すくめた。背後に控えるヘラ・ファミリアの美女幹部たちからも、一斉に肌を刺すような冷徹な視線が注がれる。
(ここで一文字でも間違えたら、俺の肉体が『自主規制』にされる……!)
ラルゴは前世の知識を総動員し、下界の絶対強者に対する最大級の敬意をその身に宿した。姿勢を正したまま、これ以上ないほど流麗で完璧な敬語を使い、深々と頭を下げる。
「お初にお目にかかります、レグナ様。私の名前はラルゴ、歳は十三歳にございます。実は、二日前にこちらのゼウス・ファミリアへと正式に入団いたしました、ただの新人にございます」
「二日前……?」
レグナは美貌の眉をピクリと跳ね上げると、手の中のダンジョンの石をひょいと弄びながら、昨晩の「騒音に対する軽い注意(殺戮)」の記憶を脳内で巻き戻し始めた。
「おかしいわね。昨日、アンタ達の小汚いホームへ騒音の注意(殺戮)をしに行った際、私たちに対して失礼な態度をとった団員をミンチ一歩手前までクラッシュしたけれど……私の視界に、あなたのような子供は一人も存在しなかったわよ」
レグナの纏う漆黒の覇気が、一瞬にして数倍の濃度へと跳ね上がった。周囲の空気がミキミキと音を立てて凍りつく。
「あなた……婚姻の女神たるヘラ様の眷属たる、わたくしを前にして、その安い口で『嘘』を叩き込んだのかしら?」
「ひっ……!?」
つい最近、Lv.1のなりたて、しかも常時耐久デバフの刺さっているラルゴの肉体は、その絶対的な『圧』を受けただけで、心臓が自ら停止を願い出るレベルで生存を完全に諦めかけた。 白目を剥きかけ、今世はここで打ち切りになる未来を覚悟した、その刹那――。
「――待ちなさい、レグナ」
レグナの後ろに控えていた、仮面を被り冷徹な雰囲気を纏うヘラ・ファミリアのダークエルフの女性が、スッと前に進み出て口を開いた。
「そういえば昨晩、ゼウス様たちを磨り潰している最中、一人の酔っ払いが『今日は可愛い新入りの歓迎会なんだよぉ!』と口走っていたのを思い出しましたわ。おそらく、その歓迎会の主役がこの少年なのでしょう。昨晩の襲撃時、この子は別の部屋でマインドダウンを起こして眠っていた、とサイラス君から報告を受けております」
そのダークエルフの冷徹な、しかし100%事実に基づいた完璧なフォローが入った瞬間、ラルゴの周囲の空気(生存確率)が劇的に一変した。
(お、おおお……! なんだあの黒髪細身の仮面をつけたダークエルフの先輩は……! 昨晩、うちのバカ先輩たちをミンチにしていた悪魔のはずなのに、今の俺から見たら完全に後光が差して見える……ッ!)
ラルゴは無の境地から一転、涙を流さんばかりの熱い瞳で、そのダークエルフを「下界に降臨した本物の救済の女神」として魂の底から猛烈に崇拝し始めた。
「ああ、女神様……! 貴方様のお名前を今すぐ不壊の金庫室の壁に刻み込みたい……!」
「……あなた、少し気持ち悪いわね」
ダークエルフの少し引いたようなジト目を向けられる中、女帝レグナはフンと鼻を鳴らし、手の中の石をポイと捨てた。
「なるほど、あの騒音の主役がアンタだったわけね。……いいわ、ラルゴ。嘘でないなら首を刎ねる理由は無いけれど……」
レグナは地面から生えているザルドとパールの下半身(大黒柱)を一瞥すると、再び不敵で傲慢な笑みをラルゴへと向けた。
「あなたが騒音の原因って事になるのよね? ならそれ相応の償いをして貰わないとね?」
女帝レグナのその一言に、ラルゴの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。生存確率が上がったと思った次の瞬間にこれである。やはり修羅の国の王、理不尽で不条理な話の通じる相手ではない。
(あ、ダメだ、ミンチになる未来しか残されてねぇ……!)
ラルゴが冷や汗を流しながら絶望しかけた、まさにその時だった。
ゾクリと、背後からレグナの放つ覇気とは全く異なる、極限まで研ぎ澄まされた冷徹な「殺すことのできる何か」の気配が、空間の酸素を凍らせるように吹き抜けた。
「何かしら??」
レグナが漆黒の瞳を鋭く細めた瞬間、団員の隙間から放たれたのは、不可視にして超高密度の『音』の衝撃波。
直撃すればLv.1の肉体など一瞬で霧散するであろうその不可視の特攻魔法を、しかしレベル8の女帝は「不快ね」と呟きながら、まるで鬱陶しい羽虫でも払うかのように片手でバチィン!! と叩き、完全に無効化してみせた。
大気が爆裂したような風圧の中、団員達の奥から歩み出てきたのは、まだ六歳ほどの幼い少女(アルフィア)だった。
しかし、その身に纏うのは、他を一切寄せ付けない「才能の怪物」の圧倒的な威容。まだLv.1のなりたてであるはずの彼女は、オラリオ最恐の女帝を真っ直ぐに睨み据え、不快げに声を響かせた。
「……レグナ。いつまでそんな下らない
「あら、アルフィア。随分と生意気な口を叩いてくれるじゃない。年上に対する、そしてファミリアの団長に対する最低限の『敬意』について、その歪んだ精神を一から叩き直してあげましょうか?」
「どうでもいい。そんなことより、早くホームに帰らせろ。メーテリアが待っている」
アルフィアが冷淡に言い放つと、レグナは「はぁ……」と、本日一番の、婚姻の女神の女王らしからぬ大雑把なため息を漏らした。どうやら、どれほど傍若無人な暴君であっても、ファミリアの至宝であり、何よりあの愛すべき「メーテリアの双子の姉」である幼きアルフィアの言葉を、完全に無視することはできないらしい。
「仕方ないわね。メーテリアを待たせるわけにはいかないわ」
レグナはため息交じりに、再びツンと顎を引いて正座するラルゴへと向き直った。
(お、おおお……!? もしかして、このままお咎めなしで解放される……!? ありがとう幼女さん! 君のその最高に尖ったシスコンに救われた!!)
ラルゴが無の境地の中で狂喜乱舞し、心の中で全力のガッツポーズを決めた、まさにその刹那。
「そういう訳だから、ラルゴ。今すぐ、ここで、その相応の償いをしなさい」
「――は?(絶望)」
レグナは完璧な女王の微笑みを浮かべたまま、無慈悲な判決を下した。解放されるどころか、光速でデッドラインに連戻されている。
「ま、待ってください! 償いと言われましても、僕には攻撃力もありませんし、お金もありません! 唯一、自分にできることと言えば……その、『治癒魔法(ヒール)』の御業くらいしか残されていないのですが……!」
ラルゴがガタガタと震えながら、生存のための最後のカード(二百年に一人の逸材)を涙目で提示した。
すると、それまで冷徹に控えていたヘラ・ファミリアの美女団員たちが、一斉に驚いたように美貌の目を丸くした。
「あら……? 治癒魔法ですって?」
「男のヒューマンでヒーラー(治癒師)だなんて、下界でも随分と珍しいものを引き当てたのね、ゼウス様は」
ざわつく最恐の乙女たち。レベル8の暴君レグナと、冷淡な「才能の怪物」アルフィアの鋭い視線が、ラルゴの魔法の価値を値踏みするように、ギラリと輝くのだった。
一日お休みします。