豪奢で重厚な廊下の最奥。世界のあらゆる理不尽と暴力を煮詰めたような【ヘラ・ファミリア】の本拠地において、そこだけが不自然なほどの静寂と、どこか日溜まりのような温かさに満ちていた。
メディアルナさんが大扉に手をかけ、仮面の奥から俺を静かに見据える。
「ラルゴ君。この扉の向こうが、私たちのすべてを賭けて守るべき至宝――メーテリアの病室です。粗相のないように」
「わ、分かってますって。これでも空気読むことと逃げ足の速さには定評があるんですから……」
俺はダボダボに余ったクソジジイの血痕付きシャツの袖を必死に手繰り寄せながら、ごくりと喉を鳴らした。背後からは、アルフィアが「もし妹を怯えさせるような真似をしてみろ。その瞬間に貴様の四肢を同時に粉砕してやる」という無言の覇気を常時全開で背中に突き立ててきている。
カチャリ、と静かに扉が開いた。
白を基調とした、驚くほど広大で清潔な部屋。窓からはオラリオの美しい街並みが一望でき、風に揺れる白いカーテンの向こう、豪奢なベッドの上に、その少女はちょこんと座っていた。
濁りのない純白の髪。優しく垂れ下がった大きな瞳。のちの主人公ベル・クラネルの遺伝子の源流に間違いない美少女――メーテリアがいた。
部屋の中には、すでに他の美女団員たちや、世界最恐の団長レグナ様の姿があった。
だが……何かが、致命的におかしい。
(……え? 待って。本当にここヘラファミリアのホームにいるのか俺……!?)
ダンジョン13階層であれほど狂暴な殺意を撒き散らし、ザルドさんたちをスイカ割りの如き勢いで地面に踏み抜いたはずのレグナ様たちが、まるで別人のような、どこまでも穏やかで慈愛に満ちた聖母のような雰囲気をまとっているのだ。
それどころか、後ろにいたあのツンツンシスコン幼女のアルフィアまでもが、トゲを抜かれた小鳥のように柔らかいオーラを放っている。部屋全体が、まるで教会の絵画のような優しさに包まれていた。一瞬、別のファミリアのホームに迷い込んだかと思うほどの完璧な「猫被り(聖女モード)」である。
そんな異様な光景に俺が脳内パニックを起こしていると、ベッドの上のメーテリアさんが優しく小首を傾げ、おっとりとした口調で俺を指差した。
「――アルフィア、メディアルナさん。おかえりなさい。……そのお隣にいる、ゼウス様の古いお洋服を着た男の子はだあれ?」
天使の微笑みで誰なのか聞いてくるメーテリアさん。
達者な口をフル稼働させ、「あ、どうも! ゼウスファミリアの新入りのラルゴです!」と、ごく普通に、爽やかに答えようとした――その、刹那だった。
ゾクゥゥゥゥゥッッッッッッッ!!!!!!!
突然、オラリオの地の底の、さらに深層の最暗黒へ叩き落とされたかのような、極寒の絶対零度の寒気が俺の全身を貫いた。
見れば、メーテリアさんから死角になる位置にいる周りの団員たちと――アルフィア、女帝レグナ、そして副団長メディアルナの三人が、メーテリアさんに絶対に気づかれないように、俺一人だけにターゲットを絞り、殺意1000%の超ド級の圧を容赦なくブチ込んできていたのだ。
「ひっ……!?」
レグナ様は聖母の笑みを浮かべたまま、目の奥だけで「もし子を不安にさせたら、今すぐアンタの全細胞を磨り潰すわよ」と語り。
アルフィアは小さな手を俺の心臓に向けながら、網膜が焼け焦げそうな怒りの眼光で睨みつけている。
(あ、ダメだこれ。脳内で勝手に幻聴が聞こえる……!!)
五感がバグったのか、俺の脳内には、ハッキリと彼女たちの冷酷な総意が幻聴となって鳴り響いていた。
『――おい、クソガキ。下手なこと口走ったら、その瞬間に肉体どころか魂も消滅させるぞ』
姿勢を正し命がけの自己紹介をするラルゴ。
「は、初めまして……! ゼ、ゼウス・ファミリアに新しく入れていただきました、ラルゴと申します! よろしくお願いします!」
ターゲット指定型の殺意1000%デバフを背中に浴びながら、俺は声の震えを必死に噛み殺し、人生で一番爽やかなビジネススマイルを張り付かせた。ここで噛んだり、怯えて奇声を上げたりした瞬間に、俺の13年の短い人生の幕が下りる。その絶対的な確信があった。ダボダボのゼウスの血痕付きシャツの袖の中で、手汗が尋常じゃない勢いで噴き出していく。
そんな俺の命懸けの限界全力お調子者ムーブを見て、ベッドの上の少女は、ぱっと花が咲くような、どこまでも無垢で愛らしい笑みを浮かべた。
「ふふ、ゼウス様のお仲間さんなんですね。私はメーテリア。アルフィアの、双子の妹です。これからよろしくお願いしますラルゴさん」
メーテリアさんはそう言って、頭を深く下げた。
改めて、俺はその少女――メーテリアさんの姿を正面から見つめた。
(……細い、なんてレベルじゃない……)
彼女の身体は、驚くほど華奢だった。
長らく病床にあるためだろう、肌は健康的な白さではなく、どこか透明に透き通ってしまいそうなほど青白い。その純白の髪が、心なしか彼女の儚さをより一層引き立てていた。
常時耐久デバフ持ちの俺が言うのもアレだが、彼女の肉体は、まさに「吹けば飛ぶほど脆弱」という言葉がこれ以上なく似合っていた。ただそこに存在し、呼吸をして、生きているということ。その営み自体が、奇跡の綱渡りであるかのようにすら思える、壊れ物のような状態。
――なのに。
そんな過酷な現実を、彼女の存在は、微塵も感じさせなかった。
向けられる大きな瞳は、どこまでも澄み渡り、世界中のあらゆる悪意や理不尽をすべて包み込んで溶かしてしまうような、圧倒的な慈愛に満ちていた。見つめられているだけで、ダンジョンで削られた精神の摩耗も、さっきメディアルナさんに飲まされたドブカブトムシ液のトラウマも、すべてがすうっと消えていくような錯覚さえ覚える。
(っていうか……脳が, バグる……!!)
何が一番脳にバグを生じさせているかって、彼女の顔立ちやパーツの配置が、俺のすぐ後ろで「いつでもお前の心臓を握り潰せる」と言わんばかりの超重力圧を放っているシスコン幼女・アルフィアと、文字通り『瓜二つ』だからだ。
見た目は完全にアルフィア。
親しみやすさと神聖さを煮詰めたような美少女。
なのに、中身は世界の汚れをすべて浄化する聖母。
さっき廊下で「貴様の四肢を同時に粉砕してやる」と冷徹にのたまう、冷酷残忍な『才能の怪物』の顔を見た直後に、全く同じ顔から「これからよろしくお願いしますラルゴさん」なんて天使の聖音を紡がれた日には、認知不協和を起こして頭が真っ白になりそうだった。
と同時に、俺は心底からの疑問に囚われていた。
(本当に、ここ【ヘラ・ファミリア】のホームなのか……!? メーテリアさん、本当にあの女帝レグナ様とかの身内なのか……!?)
世界の暴力、理不尽、理不尽、および理不尽を煮詰めて、さらに凶暴な殺意でトッピングしたような、あの世界最恐の最悪軍団。
その最深部に、これほどまでに純粋で、慈愛に満ちた本物の聖女が、ぽつんと一人で座っている。
この異常なほどの優しさと温かさは、彼女が意図して作っているものではない。彼女の魂そのものが、周囲の「化物たち」を、強制的に『猫被り(聖女モード)』にさせてしまうほどの、絶対的な清らかさを持っているのだ。
俺が呆然と見惚れて(脳内フリーズして)固まっていると、メーテリアさんが不思議そうに小首を傾げた。
「あの、ラルゴさん。今日はどうしてここにきてくれたの? ゼウス様の御用かしら」
メーテリアさんは大きな瞳をさらに優しく細め、おっとりと尋ねてきた。そのあまりにも無垢な問いかけに、俺は背中に受けている殺意のレーザーを必死に無視しながら答える。
「あ、いえ! 実は僕、最近『治癒魔法』が発現しまして……。メーテリアさんの体調が優れないと伺ったので、その治療のために参りました!」
「私の、治療……?」
メーテリアさんは少し驚いたように丸い目を見開いた。それから、俺のダボダボの血痕付きシャツと、その奥でガタガタと小刻みに震えている膝へ、そっと視線を落とす。
「あの……ラルゴさん。もしかして、アルフィアやレグナさんたちが、無理やりあなたをここに連れてきたんじゃないかしら……? 怖い思いをさせてしまっていたら、ごめんなさいね」
あまりにも的確、かつこちらの身を心から案じてくれる慈愛の言葉。
その瞬間、俺の脳内には強烈なツッコミ(本音)が駆け巡った。
(無理やりなんてレベルじゃねぇよ!! 13階層から音速の電撃拉致をキメられて、火炎石の首輪つけられて、ドブカブトムシ液飲まされて、服を果物ナイフで強制パージされたんだよ!! 100%凶悪な人身売買だよ!!)
喉の奥まで出かかったその真実を、今すぐこの聖女の前にぶちまけて、全力で保護を求めたかった。
――が。
ゾクゥゥゥゥゥッッッッッッッ!!!!!!!
刹那、部屋の酸素が完全に消失した。
メーテリアさんからは見えない死角で、女帝レグナ様が優雅に、しかし指先で「今すぐ否定しなさい、さもなくば肉体と魂は消滅よ」と空気をミキミキと鳴らし、副団長のメディアルナさんは仮面の奥から「余計なことを口走れば、次の一瞬であなたの存在自体をなかったことにします」という絶望的な圧をかけてくる。アルフィアに至っては、両手でいつでも俺の首をへし折る構えを取っていた。
全方位、360度から襲いかかる「今すぐ全力で否定しろ」という、世界最恐の化物先輩たちからの殺意10000%の脅迫。
本当にヘラ・ファミリアって何なんだ。全員が脳筋とシスコンを極めたヤクザ組織じゃねぇか。
普通なら、ここで「いやぁ、アルフィアさんたちには優しくエスコートされましたよ!」と、達者な口で完璧なビジネス嘘(保身)をのたまうところだ。前世のオタク高校生なら、生き残るために光速で魂を売る。
――だけど。
目の前で、吹けば飛ぶほど華奢な身体を揺らし、本気で俺を心配してくれているメーテリアさんの濁りのない瞳を見つめていると、なぜか、この子にだけは『汚い嘘』をつくのが、猛烈に嫌だった。
「……大丈夫ですよ、メーテリアさん。僕は、アルフィアさんに『頼まれて』ここに来たんです。だから、何も心配いりません」
嘘じゃない。13階層で、あのプライドの塊のアルフィアが、小さな頭を下げて俺に「頼む、妹を救ってくれ」と懇願したのだ。その事実だけを抜き出して、俺はまっすぐに微笑んだ。
背後で、アルフィアからの殺気混じりの覇気が、ほんの一瞬だけ、気恥ずかしそうに揺らいだ気がした。
「アルフィアが……? そう、姉が私以外の人にお願い事をするなんて……。ありがとう、ラルゴさん」
メーテリアさんは嬉しそうに胸に手を当て、それから、何かを思いついたように、きゅっと真剣な表情になって俺の手を握り返してきた。その手のひらは、ひどく冷たくて、やっぱり今にも消えてしまいそうに脆い。
「ねぇ、ラルゴさん。もし本当に、あなたの魔法が私を癒してくれる素敵な力なのだとしたら……。お願い、私より先に、アルフィアにその魔法を掛けてあげて」
「え……? アルフィアさんに、ですか?」
予想外の提案に、俺は思わず後ろの幼女を振り返った。アルフィアもまた、オッドアイの目を大きく見開いて呆然としている。
「いつも私の病気のことを自分のことみたいに苦しんで……毎日、たくさん無理をしているの。私のせいで、いつも悲しい顔ばかりさせてしまうから。だから、私よりも、大好きなアルフィアを一番に癒してあげてほしいの」
自分が生きるのだってやっとの、吹けば飛ぶようなペラペラな肉体なのに。
今にも病魔に蝕まれて消えそうなはずなのに、彼女の口から出るのは、どこまでも自分ではなく『他者の幸せ』を願う言葉だけだった。
(……本当に、なんなんだよ、この人)
俺はそっと天を仰ぎ、魂の底から戦慄した。
それなのに、このメーテリアという少女の宿す慈愛は、そんなヘラファミリアの狂った常識すらも一瞬で置き去りにしてしまうほど、あまりにも尊く、あまりにも純粋で、美しすぎるあり方だった。