「よ、余計なことを言うな、メーテリア! 私はダンジョンでこの雑音の魔法をすでに受けたから、もう大丈夫だ!」
それまで借りてきた猫のように静かにしていたアルフィアが、突然顔を真っ赤にして二人の間に割り込んできた。そのオッドアイの瞳を激しく揺らし、小さな手をぶんぶんと振る姿は、完全にただの慌てふためく姉のそれだった。
「その、この雑音の妙な力で……今日は、今までにないほど体調がすぐれているのだ。だから私は後回しでいい。お前は早く、その……」
普段の冷淡な「才能の怪物」の面影はどこへやら、口を尖らせて必死に言い訳をするアルフィアを見て、メーテリアさんは驚いたように一瞬目を丸くした。だが次の瞬間、まるで自分のことのように、これ以上ないほど嬉しそうにその白い顔を輝かせた。
「まぁ……! 本当に? よかった……本当によかったわ、アルフィア……っ。あ、うっ……げほっ、……う、うぇっ……」
「メーテリア!?」
喜びが限界を超えて興奮しすぎたのか、メーテリアさんの細い肩が激しく跳ね上がり、突然苦しそうにえずき始めた。
その瞬間、部屋の「猫被り聖女モード」が音を立てて崩壊した。
「メーテリア! 落ち着きなさい、深呼吸よ!」
「おい、誰か今すぐ最高級の氷水を持ってきなさい!」
「メディアルナ、あのジジイの金庫から毟り取った特効薬はどこだ!?」
女帝レグナ様が形振り構わずベッドへ飛びつき、仮面のメディアルナさんが部屋の棚を神速でひっくり返し、アルフィアにいたっては俺のことなど完全に忘れてメーテリアさんの背中を涙目で優しくさすりだす。
さらに、部屋の壁際に控えていた他の美女団員たちまでもが「メーテリア、気を確かに!」「誰かお医者様を――あ、ここにゼウスのクソガキがいたわね!」と、一斉に形相を変えて大パニックに陥っていた。世界最恐を誇るヘラ・ファミリアの化物幹部から下級構成員にいたるまでの全軍勢が、一人の少女の拒絶反応一つで、完全に余裕を無くして右往左往している。
「……はぁ、はぁ、……大丈夫、大丈夫よ。みんな、心配させてごめんなさいね。……もう、落ち着いたから」
メーテリアさんは胸に手を当て、まだ青白い顔のまま、それでも安心させるようにいつもの優しい微笑みをみんなへと向けた。吹けば飛ぶような脆弱な身体。だけど、その場を包む嵐のような焦燥を、彼女の一言がまた静かに凪へと戻していく。
みんなが安堵の息を漏らす中、俺はダボダボの袖をぐっと捲り上げ、一歩前へと踏み出した。
「……メーテリアさん。僕の魔法、掛けさせてもらってもいいですか?」
メーテリアさんは俺を見上げ、その澄んだ瞳に確かな信頼の光を宿した。部屋の奥に控える他の団員たちも、息を詰めてその瞬間を注視している。そして、メーテリアさんはベッドの上で小さく居住まいを正すと、深々とその白い頭を下げた。
「はい。……よろしくお願いします、ラルゴさん」
俺は一呼吸置き、彼女の冷たくて、今にも消えてしまいそうなほど小さな尊き少女の手を、自身の両手で包み込むようにそっと握りしめた。
意識を集中させる。脳裏に浮かぶのは、この世界で出会った最高にバカで、最高に温かい仲間たちの姿。そして、目の前で過酷な運命に抗いながら生きている、この少女の笑顔を守りたいという、純度100%の傲慢な執念――『治癒願望(エゴ)』だ。
(応えてくれよ、俺の魂……!!)
刹那、背中の『神の恩恵(ファルナ)』が、まるで燃え盛る業火を流し込まれたかのように、すさまじい熱を帯びていくのを感じた。皮膚が焼け焦げるのではないかと思うほどの、圧倒的な神秘の起動。
俺は魂の底から魔力を絞り出し、そのトリガーとなる言葉を、静かに、しかし力強く紡ぎ出した。
「『――この手が届くすべての生に、果てなき抗戦の残響を』」
背中から溢れ出た万能の光が、ダボダボのシャツを透過して部屋全体を白銀の世界へと変えていく。
俺はまっすぐにメーテリアさんの目を見つめ、その奇跡の名前を叫んだ。
「――【不屈の福音(リザレクション・レジスタンス)】!!!!」
チリィィィン……!!!
どこまでも清澄な、世界を祝福するような鈴の音が、他の全団員が見守る日溜まりの病室に鳴り響いた。
――場面は変わり、夕暮れ時のゼウス・ファミリアの本拠地(ホーム)。
ダンジョン13階層の地面にスイカ割りの如き勢いで頭から埋め込まれ、一対の肉体大黒柱として完全放置されていたザルドとパールの二人は、ヘラ・ファミリアがラルゴを拉致した後にしばらくしてようやく意識を取り戻し、ほうほうの体でホームへと帰還していた。
広大な食堂の扉を開けると、そこには朝方にラルゴの恐怖の「聖人化ヒール」から脱兎のごとく逃げ出していた団員たちが、何事もなかったかのようにすっかり戻っており、賑やかに夕食をとっている真っ最中だった。
満身創痍のザルドは、食堂の雛壇にいた副団長サイラスの元へと歩み寄り、重苦しい口を開いた。
「……サイラス。大変なことになった。新入りのラルゴが、ヘラ・ファミリアに拉致された」
その瞬間、ガヤガヤと喧騒に満ちていた食堂が、水を打ったようにピタリと静まり返った。
世界最強の怪物たちが、一斉に箸やジョッキを止め、重痛い沈黙が場を支配する。
「……嘘、だろ?」
一人の団員がぽつりと呟き、そのままガタガタと肩を震わせ始めた。
「惜しい、本当に惜しいやつを亡くした……ッ!」
そう言って、大の男がボロボロと涙を流して机に突っ伏した。
「まだ十三歳だぞ!? あんなに若いのに、よりによってあのヒステリー美女軍団の手に落ちるなんて……!」
別の団員が、この世の終わりかのような深い憐れみの目を天に向ける。
「おい、泣くな! 俺たちがいつまでもシクシク悲しんでいたら、天界で見守っているラルゴのやつに笑われちまうぞォォォッ!!」
涙を袖でゴシゴシと拭いながら、力強く仲間に活を入れる者。
「ちくしょう……! 俺、あいつともっと一緒に、女湯覗きの作戦会議とか……色んな冒険がしたかったよぉ……!」
嗚咽を漏らしながら、拳を強く握りしめる者。
「ラルゴのやつ、ジジイを脅した時はあんなに不敵に笑ってやがったのによ……。まさか、入団早々に天に帰るなんてな……」
遠い目をしながら、わずか数時間前のラルゴとの思い出を走馬灯のように思い返し、目頭を熱くする者。
食堂全体の雰囲気が、一瞬にしてラルゴがすでに死んだ前提(お葬式モード)で、フルスロットルで進行し始めた。
「――って、待て待て待てテメェらァァァァッッ!!!!」
さすがに耐えかねたザルドが、額に青筋を浮かべて地鳴りのようなツッコミを炸裂させた。
「拉致されたって言っただろーが!! なんで勝手に死んだことにして供養始めてんだよ!! あいつがうちに来てからまだ、たったの二日しか経ってねぇわッ!!碌な思い出もないだろ!!」
ザルドの至極真っ当な怒号が響く中、雛壇に佇む白銀の副団長サイラスは、一切表情を変えることなく、ゴミを見るかのような極限まで蔑んだ目で、嘆き悲しんでいる団員たちを一瞥した。そして、その美しい唇から、冷徹極まりない真実の弾丸を淡と言い放った。
「……茶番はそこまでにしなさい、この不届きな大根役者どもが。ザルド、パールの言う通りです。貴方たちがそこまで白々しくラルゴの死(仮)を悼んでいる理由など、私には完全に透けて見えていますよ」
サイラスは腕を組み、冷たく目を細める。
「貴方たち……ラルゴのあの【不屈の福音】による『煩悩リセット(ドスケベ浄化バフ)』を自身に使われたくないから、助けに行く気が最初からゼロなだけでしょう」
ピキィィィン……!!!
副団長様のLv.7クラスの頭脳を誇る彼からの内情暴露(愚痴)に、食堂のゾンビ共が一斉に硬直した。
そうなのだ。彼らにとって、ヘラ・ファミリアに拉致されたラルゴを奪還しに行くということは、すなわち「世界最強のドスケベ精神を根底から磨り潰す悪魔の聖者」を、自らの手でホームへ連れ戻すという、文字通りの自殺行為に他ならなかった。
「……あ、いや。俺、ちょっと明日、深層のレアアイテムのドロップを狙いに行かなきゃなんねぇのを思い出したわ」
「お、おう、俺もだ。世界のために、一刻も早くレベルを上げねばならんからな」
サイラスに見透かされた瞬間、団員たちはガタガタと不自然に肩を揺らしながら、一斉に席を立ち始めた。
「よし、野郎ども! ラルゴの仇(生きてる)を討つためにも、今すぐダンジョンに行く準備だァァァッッ!!」
「「「「お、おうッ!! 命懸けのレベリングだァァァッッ!!!」」」」
驚異的な手のひら返し。世界最強のゼウス・ファミリアの構成員たちは、新入りの救出作戦を100%うやむやにするため、信じられないほどの神速の手際で荷物をまとめ、そそくさとダンジョン深層へ引きこもるための準備へと文字通り「逃走」していくのだった。
団員たちが「命懸けのレベリング」という名の最悪な現実逃避でダンジョンへの準備をしていく中、副団長サイラスだけは完全に冷静だった。
「ザルド、パール。あの脳筋のクズどもは放っておきなさい。私たちはこれから、ヘラ・ファミリアの本拠地へ向かう準備をします」
サイラスは慣れた手つきで、隣の暴君たちを一時的にでも懐柔するための「貢物(最高級のエルフの茶葉や特製菓子)」を棚から取り出し、同じくエルフのパールと共に手際よく箱に詰め始めた。世界最強ファミリアのナンバー2の主たる業務が、隣のヤクザ組織への至高の御機嫌伺い(外交)であるという、胃の痛くなるような現実がそこにあった。
その横で、ようやく頭のタンコブが引き始めたザルドが、腕を組んで険しい表情で考え事をしていた。ヘラ・ファミリアがなぜラルゴをあれほど神速で拉致したのか、その根本的な理由を測りかねていたのだ。
「……なぁ、パール。やっぱりおかしいだろ。ラルゴのあの『高位治癒魔法』の特異性なんて、まだ外には一文字も漏れてねぇはずだ。仮に何かの間違いで知られたとしても、あのプライドの塊のヘラが、他所のファミリアの、しかもLv.1の下っ端をわざわざ拉致するなんて大層な真似までするとは思えねぇ」
ザルドの至極まっとうな疑問に、貢物のリボンを綺麗な蝶結びにしながらパールが品格溢れる目を向けた。
「ええ、私も最初はそう思いました。ですが、私たちが目覚めた時、粉砕された岩盤の近くに、ヘラ副団長であるメディアルナさんの置き手紙がナイフで突き立てられていたのです。そこには簡潔に、『この少年は我が団員の治療に必要不可欠であるため、一時的に身柄を拘束(拉致)する』と記載されていました」
「治療だと……?」
ザルドはさらに眉をひそめ、ガシガシと頭を掻いた。
「怪我人の治療なら、オラリオトップのミアハやディアンケヒトの医療系ファミリアに金を積んで頼るのが普通だろ。そもそも、あのヘラ・ファミリアにだって、高位の回復魔法を使えるヒーラーはそれなりに揃っていたはずじゃねぇか」
そこへ、最高級の貢物箱を美しく包み終えたサイラスが、深く、脳の髄まで染み渡るような中間管理職のため息をついて会話に入ってきた。
「ザルド、それは通常の怪我や病気であれば、の話です。……以前の会合で、メディアルナさんから聞いた話です」
サイラスは白銀の髪を軽く揺らし、極めて重い声音で語り始める。
「ヘラ・ファミリアには、最近入団した『アルフィア』と『メーテリア』という、瓜二つの双子の団員が在籍しています。……そして彼女たちは二人とも、生まれつき下界のあらゆる医術が通用しない『不治の病』を宿しているのです」
「不治の病……」
ザルドが息を呑む。
「ええ。ミアハやディアンケヒトの神々ですら治療の糸口を探している最中だそうです。メディアルナさんからは以前、エルフの森の『大聖樹の枝』を煎じて飲ませることで、辛うじて発作の症状を和らげるくらいしかできないと、苦渋に満ちた相談を受けていました。私自身、何かエルフの古文書に治療の方法がないか、蔵書を調べてほしいと頼まれたことすらあったのです」
サイラスはそこで言葉を区切り、手元の羊皮紙――ラルゴの魔法効果が書かれた紙へと鋭い視線を落とした。
「そして、ラルゴの宿した【不屈の福音(リザレクション・レジスタンス)】は、劣化なしで大聖樹の魔力をその場に出す『高位治癒魔法』……。つまり、大聖樹の枝を煎じた泥水とは比較にならない純度で、彼女たちの病魔に直接干渉できる、下界で唯一の治療方法の可能性があり、おそらく13階層での不慮の遭遇の際、ラルゴのやつが何らかの拍子で、その力を彼女たちの前で見せつけてしまったのでしょう。あのメディアルナさんやレグナが、なりふり構わず奪い去るのも当然の帰結です」
「なるほどな……。点と線が繋がりやがった。あいつ、初ダンジョンでどんだけ最高難度の特級地雷を踏み抜いてんだよ……」
ザルドが呆れ果てて天を仰いだ。
サイラスが「そういうわけですから、主神ゼウスは頼りになりません、ラルゴを救出、あるいは共同研究の契約へ――」と言葉を続けようとした、まさにその瞬間だった。
――ひえぇぇぇぇぇぇえええええッッッッ!!!!!!
「お、お前……! 化けて出やがったなァァァァッッ!!!!」
それは、先ほどまで「天界のラルゴに笑われるぞ!」などと涙を流し、今まさにダンジョン深層へ引きこもるために荷物をまとめていた団員たちの、裏返った野太い悲鳴だった。