「……コホン。皆さん、そろそろ本題に戻りましょうか」
談話室に響いたのは、いつもながら涼やかで、しかし若干疲労の色が混じったサイラスの声だった。彼はレグナ様の手元から俺をさりげなく遠ざけると、乱れた書類を整え、再び長机の中央へと視線を巡らせた。先ほどまでの騒々しさが嘘のように、その表情にはいつもの冷静沈着な副団長の顔が戻っている。
「待遇面に関しては、これで一応の合意としましょう。ほかに何かご意見や確認しておきたいことはありますか? 特になければ、次の議題に移りたいと思います」
サイラスさんの凛とした問いかけに、レグナ様もメディアルナさんも、特に反論や追加の意見を挟むことはなかった。ゼウス側のマキシム団長やザルドさんも静かに頷いている。
「了解しました。では、次の議題へと進みます」
サイラスさんは手元の羊皮紙をめくり、その白銀の瞳を鋭く細めた。
「次の議題は、ラルゴの魔法【不屈の福音(リザレクション・レジスタンス)】についてです」
「これまでの短期間での使用、および昨晩からの事象を論理的に整理した結果、この魔法にはいくつか極端な特徴と、未だ解明されていない部分が多く存在することが分かりました。まずは現在確認されている特徴を列挙します」
サイラスさんは羽ペンでトントンと机を叩きながら、流麗に解説し始めた。
【不屈の福音(リザレクション・レジスタンス)】は、発動時に対象者の周囲へ固有の音を響かせると同時に、エルフの大聖樹と同質の神聖な光を放射するという特徴を持つ。発動時に確認されている音は、清澄な『ベルの音』と重厚な『鐘の音』の二種類であり、その違いによって精神浄化の効果範囲が明確に変化する。
『ベルの音』が鳴った場合、精神浄化の効果は使用者本人のみに限定して発現する。一方、『鐘の音』が鳴った場合には、使用者本人だけでなく、その周囲にいる者すべてに精神浄化の効果が及ぶ。
このように、魔法の発動時に響く音の種類によって精神浄化の適用範囲が変化することは確認されているが、ベルと鐘が切り替わる根本的な条件や仕組みについては、現時点では解明されていない。
「――ただし。この『精神浄化』の副次効果以外に、音の変転が一体どのような意味を持つのか、現段階では不明な点が多いのも事実です」
サイラスさんは一度言葉を区切ると、円卓の対面に座るヘラ・ファミリアの副団長へと視線を向けた。
「メディアルナさん、貴方に質問です」
サイラスさんの鋭い知性派の目が光る。
「ラルゴがメーテリアさんに【不屈の福音】を使用した際、病室には重厚な『鐘の音』が出たと聞いてます。その瞬間、周囲にいた貴方たちに、精神浄化以外の『広範囲治癒魔法』のような効果は発生していませんでしたか?」
その問いに対し、メディアルナさんは仮面の奥から静かに、しかし明確に首を横に振った。
「いいえ、サイラス君。周囲に対する直接的な治癒効果は、一切確認できませんでしたわ」
メディアルナさんは淡々と当時の状況を分析する。
「確認できたのは、あくまで精神的な安定、すなわち『精神浄化』の効果だけです。しかも、その効果自体も、対象を完全に浄化するような強力なものでは決してありませんでした」
「……と言うと?」
「そうね……。メーテリアが目の前であれほど元気になったという感動もありましたが、あの鐘の音を聞いた瞬間、周囲の者たちが『周囲に対して、もう少し優しく接してもいいのではないか』と、ほんの少しだけ心が穏やかになり、慈愛の気持ちが大きくなった程度。少なくとも、周囲の人間の傷が塞がったり、体調が直接作用して回復するような『治癒効果』は万象統御のスキルを通しても確認できませんでした」
「なるほど……。肉体への直接干渉ではなく、あくまで精神の安定、ですか」
サイラスさんは深く顎を引くと、今度はすぐ隣に座る、十三歳の少年へと向き直った。
「続いて、術者であるラルゴ、貴方に確認します」
「へ、へい?」
「貴方が実際に魔法を唱えた際、ザルドたちの前で『ベル』が鳴った時と、メーテリアさんの前で『鐘』が鳴った時で、術者本人しか感知し得ない体感的な違いはありませんでしたか?」
俺は、あの病室での恐ろしい違和感を思い出して少し身震いした。
「ええと……。マインドの消費だけじゃなくて、体力(スタミナ)までごっそり根こそぎ持っていかれたこと以外は、特に違いは感じませんでした。ただ、とにかく身体が死ぬほど重くなったっていうか、妙な疲労感があったのは確かです」
「ふむ、燃費の悪化が精神だけでなく肉体(体力)の領域にまで侵食した、と……」
サイラスさんはペンを走らせ、さらに質問を重ねた。
「では、アルフィアに使用した時と、メーテリアさんに使用した時で、何か条件的な違いはありましたか? 貴方の『治癒願望』の向け方に、何か変化があったのではないですか?」
「違い、ですか……」
俺は少し腕を組んで、二人の美幼女の顔を脳内で並べてみた。
「うーん、アルフィアさんの時と違って、メーテリアさんは俺の目から見ても、分かるくらい体調が悪そうに、今にも消えちゃいそうに見えたんです。だから、僕のオタク脳……じゃなくて魂が、『この悲劇のヒロインを本気で救いたい!』って最大値のブーストをかけちゃったんだと思います。でも、それ以外に明確な違いを感じたわけじゃないですよ」
「対象の『負傷・病状の深刻さ』、そしてそれに対する術者の『願望の深度』……。これらが鐘の音のトリガー、あるいは負荷の増大に関わっている可能性がありますね」
ラルゴとメディアルナさんの証言をすべて聞き終えたサイラスさんは、しばらくの間、手元の書類を見つめたまま深く考え込んでいた。
(……やはり、これまでの限定的な情報だけでは、この【不屈の福音】の真の効果や発動条件、そして『ベルと鐘』の決定的な違いについて、まだ不明な点が多すぎる。下界の常識を超えた高位治癒魔法……生兵法で三大クエストの最前線に投入するには、あまりにもリスクが高すぎる)
数秒の沈黙の後、サイラスさんは顔を上げ、メディアルナさんに対して極めて真剣な提案を投げかけた。
「メディアルナ副団長。提案があります。――今後は、メーテリアさんの治療を継続するだけでなく、ラルゴのこの魔法についての『解析』にも、貴方たちのファミリア側として全面的に協力していただけないでしょうか」
「解析協力、ですか?」
「ええ。魔法そのものの隠された性質、発動条件、そして精神消費と体力消耗の明確な仕組みを詳しく調べることは、ラルゴの安全なレベリングのためだけでなく、今後のメーテリアさんの持続的かつ劇的な治療にも、必ずや大きな利益をもたらすはずです」
サイラスさんのあまりにも合理的で、かつお互いの利益を見据えた完璧な提案。
それを聞いたメディアルナさんは、仮面の奥でフッと満足げに唇を吊り上げた。
「……素晴らしい提案です、サイラス君。我がヘラ・ファミリアとしても、メーテリアの命綱である彼の魔法を、未解明のままにしておくつもりはありません。」
メディアルナは隣に座るレグナへと視線を向ける。
「ヘラ・ファミリアとして、全面的に協力いたします。研究環境、解析設備、必要な人員についても、可能な限り提供しましょう問題ありませんかレグナ?」
「あら、当然じゃない。メーテリアの治療に関わることなのよ? 協力しない理由なんてないわ」
レグナ様も、満足げに頷いた。
「ラルゴ、安心しなさい。アンタの身体に無茶をさせるような研究は認めないわ。必要なら私が直接監視してあげる」
(……いや、レグナ様が直接監視する方が、別の意味で恐ろしいんですけど!?)
俺は笑顔のまま、そっと背筋を伸ばした。
「感謝します。では、公式な協力体制の確認はここまでとしましょう。次の議題へ移ります。議題は、ラルゴ自身の今後の教育方針と育成についてです」
サイラスは白銀の髪を軽く揺らし、円卓の端に座るザルドとパールへと視線を向けた。
「パール、ザルド。ラルゴの初探索の様子について、まだ詳細を聞いていません。戦闘能力や実戦での適応について、貴方たちの客観的な評価を聞かせてください」
副団長からの至極まっとうな質問。しかし、それを投げかけられた第一、二級冒険者の二人は、揃ってもの凄く、それこそドブ川の底を覗き込むかのような渋い顔をした。
沈黙の後、パールが額を押さえながら、地の底から響くような声で口を開いた。
「……サイラス副団長。単刀直入に申し上げます。あのラルゴという者は……こと『攻撃面』に限って言えば、オラリオに存在するすべての冒険者の中でも、文字通り最弱と言って間違いありません」
「最弱……? スキルの弱体化があるとはいえ、そこまで酷かったのですか?」
サイラスさんが怪訝そうに片眉を跳ね上げると、今度はザルドさんがガシガシと頭を掻きむしりながら、血涙を流さんばかりの形相で言葉を重ねた。
「酷い? ハハ、サイラス。そんな生易しい言葉で表せるレベルじゃねぇんだよ……!」
ザルドさんは大きく深呼吸をすると、談話室の全員に聞こえるように、あの無駄に壮絶だった初陣の全貌を語り始めた。
「いいか、よく聞け。あいつがダンジョンの第一階層で、最初に出会ったモンスター……壁からポロッと這い出てきたばかりの、生まれたての一体のゴブリン(最弱)を相手にな……あろうことか、まるまる三十分もの死闘(泥仕合)を繰り広げやがったんだよ!」
「…………」
「持参していたすべてのハイポーションを使い切り、最終的にはなんとか魔石を砕いて勝利したものの、あいつ自身はボロ雑巾のようになって、あやうく白目を剥いて死にかける瀕死の状態にまで追い込まれてやがったんだ!」
その衝撃的な報告が響き渡った瞬間。
円卓に座っていたマキシム団長、サイラスさん、最恐の女帝レグナ様、そして副団長メディアルナさんの四人は、一斉に言葉の意味を理解できずに、彫刻のように完全に固まった。
世界最強のファミリアの幹部たちの脳内算盤が、「第一階層のゴブリン一体に三十分」という、およそ下界のバグとしか思えない数式を処理しきれずにフリーズしているのだ。
そんな驚愕の渦中、当のラルゴ本人は、至って真面目な顔で胸を張って主張した。
「いやいや皆さん、誤解しないでください! あのゴブリンは、間違いなく物語の序盤のボス級のオーラを放っていた強化種です! だって僕の神速のナイフラッシュを全弾耐えて、不敵な咆哮を上げて僕の肉体を削ってきたんですよ!?」
「……強化種……?」
ラルゴのブレないドヤ顔の発言を受け、最近は世界の命運を賭けた深層の決死圏ばかりを主戦場にし、上層どころか中層のモンスターとすら長年まともに戦闘していなかったマキシム団長やレグナ様たちは、ふと一つの疑問を抱いた。
「マキシム。まさかとは思うけれど、私たちが知らないうちにダンジョン上層の環境が激変して、ゴブリンの戦闘能力が昔より跳ね上がっている……なんてことはないかしら?」
「あ、ああ、レグナ。Lv.1のなりたてが三十分もかかるゴブリンなんて、神代の前(千年前)の記憶を探しても存在しねぇ。今の第一階層は、ベヒーモスの幼体でも湧き出る魔境になてるんじゃねぇか……?」
大真面目に第一階層の驚異について議論を始めようとする世界のトップ二人の化物。
それに対し、パールは静かに、しかし冷酷極まりないジト目をラルゴへと向けながら、彼らの妄想をばっさりと否定した。
「……お二人とも、現実逃避はそこまでにしてください。第一階層のゴブリンは、昔と何一つ変わっていません。ただの最弱の雑魚です」
パールは、はぁ……とため息をつくと、ラルゴの致命的な欠陥について話題を展開し始めた。
「そもそも、ラルゴさん自身の戦闘技能は、スキル(攻撃時の能力低下)を抜きにしても、最初から『皆無』に等しいのです」
「技能が、皆無?」
サイラスさんが問いかけると、ザルドさんが腕を組み、ラルゴが能動的に攻撃するときの決定的な「特徴」をこれ見よがしに挙げ連ねた。
「ああ。あいつがナイフを構えて攻撃を仕掛ける際、姿勢のすべてにおいて、必ず致命的に腰が引けてるんだよ。おまけに刃を突き立てるその瞬間、恐怖で目を細め、相手(ゴブリン)から完全に目を背けるような仕草をしていやがる」
ザルドの指摘に、パールも品格をかなぐり捨てたジト目で補足する。
「そう。ラルゴさんの行動すべてが、最初から『逃走』を前提としたものになっているのです。こちらから攻撃を仕掛けているはずなのに、足の踏み込みや重心の基本が、完全に『いつでも後ろに飛び退いて逃げられる姿勢』になっている。つまり、攻撃すること自体に本能レベルで慣れておらず、どんなに泥臭い命の奪い合いの戦闘においても、頭のてっぺんから爪先まで、逃げることを最優先に脳内構築しているのですよ」
そこまで事情を聞いたマキシム団長とレグナ様は、なるほどな、と大雑把に頷き合い、実に世界最強の脳筋と蛮族らしい解決策を悪びれもなく提案した。
「なんだ、ただの経験不足か! なら話は簡単だ! ひとまず、次からのダンジョン探索で、モンスターの群れのド真ん中にラルゴを直接放り込んでおけばいい! 死に物狂いになれば、嫌でも実戦経験を積んで勝手に強くなるだろ、ガハハ!」
「ええ、名案ねマキシム。モンスターたちの牙の檻に放り込んで、その安い逃げの姿勢を一から叩き直してあげるといいわ」
(この脳筋と蛮族女帝!! 俺の耐久力が常時デバフで削られてること、完全に忘れてるだろ!? モンスターの群れに放り込むって、それは育成じゃなくて処刑だ! 俺のステータスを見てから物を言え!!)
ラルゴは席の端っこで滝のような冷や汗を流しながら、内心で世界最強のトップ二人に盛大に悪態を吐いた。一発掠れば耐久デバフで即死するペラペラ男を、モンスターの群れにノーガードでデリバリーするなんて正気の沙汰ではない。100%ただの処刑である。
すると、ザルドさんもまた、深い、深いため息を吐きながらマキシム団長の提案に口を挟んだ。
「……マキシム、レグナ団長。実は俺もパールも、最初は同じような方法を試そうと考えていたんですよ」
「えっ、ザルドさん!? 俺たちの身内の絆はそんなに薄かったの!?」
ラルゴが驚愕に目を丸くする横で、ザルドさんは力なくかぶりを振り、実際にその方法をやっても「意味がない」理由を冷徹に解説した。
「だがな、無駄なんだよ。ラルゴのやつは、モンスターの群れに放り込んだところで、戦闘経験を積むどころか、スキルをフル稼働させて、ノーダメージのまま完璧に逃走に徹する可能性が極めて高い」
「なんだと……?」
マキシム団長が驚いて眉をひそめると、ならばとさらに脳筋らしい斜め上の提案を重ねた。
「だったらよぉ、ザルド! 逃げ切れないほど大量の、それこそ通路全体を隙間なく埋め尽くすほどの大量のモンスターを集めれば問題ないだろ!」
「マキシム......数を増やしたところで意味がない」
ザルドは、ラルゴのスキルに秘められたバグじみた性能の実態を突きつけた。
「現状、ラルゴがまともに倒せるのはゴブリン程度だ。だが、そのゴブリンが通路に何百体、何千体いようとも、あいつの神速の逃げ足と『隠密』『回避』があれば、ただの障害物競争のごとかすり抜けて逃げ切れるだけの異常なステイタスがすでにある。……そして、逆に、ラルゴがどうしても逃げ切れないような上位のモンスターはな……」
ザルドさんはそこで一度言葉を切り、冷酷な現実を叩きつけた。
「レベル差の問題で、あいつが爪の先ほどもダメージを通せない、絶対に倒せない相手なんだよ! つまり、単純にモンスターの数を増やしたところで、あいつの『攻撃能力を鍛えること』には繋がらねぇんだ!」
戦う才能は皆無。だけど、逃げる才能だけが世界の天井を置き去りにして突き抜けている。
ザルドさんのその見事な論理的説明を聞いたレグナ様とメディアルナさんは、驚いた様子で目を見開き、これまでの出来事の決定的な「矛盾」について一斉に確認した。
「……ちょっと待ちなさい、ザルド、パール」
ザルドのあまりにも絶望的な報告を聞き、ヘラ・ファミリアの団長レグナ様が、不思議そうに美しい首を傾げて口を挟んだ。
「話の前提が、少しおかしくないかしら? あなたたち二人は、その新入りのラルゴを『引率』して、周りのモンスターを討伐しながら安全に中層へと進んでいたのではないの?」
「……レグナ団長。その、あまりにも常識的な疑問に対する答えですが」
パールは額を押さえたまま、完全に魂の抜けたジト目で冷酷な真実をのたまった。
「実際には、全くの逆だったのですよ。私たちは、彼を先導して道を示していたわけではありません。ただただ、目の色を変えて煙のように逃げ回るラルゴを、私たち二人が追いかけていたのです」
「「――は?」」
レグナ様とメディアルナさんの声が綺麗にハモった。
「つまり、ラルゴは第一階層でゴブリン一体相手にハイポーションを全損させた、泥仕合の直後……。そこから先は一切のモンスターとの戦闘を完璧に避け続け、誰の力も借りず、ただの単独(ソロ)で中層の十三階層まで一気に到達していた、ということです」
「「…………」」
再び、談話室からすべての音が消失した。
世界最恐の女帝と魔女の脳内算盤が、本日何度目か分からないバグを起こして完全にフリーズする。
「おいおい、待て待て! それはいくらなんでも可笑しすぎるだろ!」
頭をガシガシと掻きながら、マキシム団長が信じられないといった様子で声を荒らげた。
「第一階層のゴブリン最弱一体に三十分もかけるような最底辺の戦闘力だぞ!? そんなLv.1のガキが、道中の強力な中層モンスターから一切ダメージを受けずに、ノーダメージで十三階層まで駆け抜けるなんて、冒険者としての常識が崩壊してんじゃねぇか!」
「……えへん! いやぁ、そこまで本気で驚かれると、流石の僕も照れちゃいますね!」
驚愕に震える化物先輩たちを前に、席の端っこでラルゴは、実に見事なフンスと胸を張って鼻を高くした。
「やっぱり、二百年に一人の天才ヒーラーにして、オラリオ最速(自称)としての才能が、初日からフルスロットルで開花しちゃったってわけですよ! ザルドさん、パールさん、もっと褒めてくれてもいいんですよ!」
「……調子に乗るな、このドブネズミが」
パールの金髪が激しく揺れ、戦闘時特有の冷徹なジト目がラルゴの眉間を貫いた。
「確かに、あなたの宿した【神代逃走】と【不戦不縛】の相乗効果は、バグとしか呼べないほど異常です。逃走能力、および敵の攻撃を受け流す『回避』の精度だけに限定すれば、Lv.1の段階でありながら、すでにレベル3相当の領域に達している。それは客観的な事実として認めましょう」
パールは一度言葉を区切ると、これ以上ないほど露骨に声を低くして釘を刺した。
「ですが、それはあくまで『全力で逃げ回っている時』に限った話です。冒険者として総合的に優れているわけでは断じてありません。そもそも、第一階層のゴブリン一体に三十分も費やしたその致命的な『攻撃能力の皆無さ』にいたっては、改善の余地どころか一から脳みその改造が必要なレベルの欠陥ですからね」
「ひぇっ、キレ味が相変わらず容赦ない……!」
ラルゴが冷や汗を流して縮こまる横で、マキシム団長は腕を組み、顎をさすりながら新たな疑問を口にした。
「いや、パール、ザルド。俺が引っかかってるのは、その逃げ足の速さじゃねぇんだよ。……『道』だ」
「道、ですか?」
「ああ。ダンジョンってのは、上層だろうが複雑に入り組んだ巨大な迷宮だ。初見の冒険者が足を踏み入れれば、確実に何度も道に迷って行き止まりにぶち当たる。それが普通だ。……なぁ、ザルド。あいつ、昨日逃げ回ってる間、一度でも道を間違えたり、行き止まりで足を止めたりしたか?」
マキシムのその極めて鋭い指摘に、ザルドはハッとしたように目を見開いた。
「いや……そういえば、あいつ、迷宮の分かれ道に差し掛かるたびに、コンマ数秒の迷いもなく最短のルートを、直角に曲がって爆走し続けていたな……」
「そうでしょう。それはおかしいのですよ、マキシム」
ここで、それまで静かにペンを走らせていたサイラス副団長が顔を上げ、白銀の瞳を限界まで鋭く細めた。隣のメディアルナ副団長も、仮面の奥でギラリと瞳を輝かせる。
「中層の十三階層は、視界が極めて悪く、複雑に入り組んだ巨大な岩場の迷宮です。通路の死角、岩陰、あるいは天井の闇の中にまで、モンスターが息を潜めて奇襲の機会を狙っている、極めて危険な決死圏。……ですが、ラルゴの背中にあるスキルや魔法の記述には、敵の位置を事前に察知する『魔力探知』や『気配察知』に類するスキルは、一文字も刻まれていませんでした」
サイラスさんは冷徹に自身の考えを組み立て、長机をトントンと指先で叩いた。
「逃走能力や回避能力がどれほど高くとも、それは『敵に襲われた後』に発揮される物です。死角からの一撃や、待ち伏せされている危険な遭遇そのものを、事前に完璧に回避し続けることは、理論上に不可能なはず。……ザルド、パール、貴方たちから見て、昨日の彼の進路選択は、どう見えていましたか?」
パールの顔から、戦闘時の凶暴性が完全に消え失せ、本物の驚愕がその美貌に差した。
「……まるで、この迷宮の構造と、どこにどのモンスターが何体配置されているか、そのすべてを『最初から知っていた』かのような、あり得ない精度の先読みでした。わざと壁を叩いて音を立て、モンスターのヘイトを私たちに押し付けるルートだけを、正確に選択し続けていたのです」
異常なまでの危険予測能力。
談話室に集った両ファミリアの幹部全員の、鋭く、冷徹な、そして底知れない探求の視線が、一斉に中央に座る黒髪の少年へと集中した。
「おい、ラルゴ。テメェ、昨日の探索で、一体何を頼りにしてモンスターの位置を把握してやがった?」
ザルドが地の底から響くような声で直接尋ね、円卓の全員が息を詰めてその答えを待った。