「おい、ラルゴ。テメェ、昨日の探索で、一体何を頼りにしてモンスターの位置を把握してやがった?」
ザルドの地の底から響くような問いかけに、談話室の全員が息を詰め、中央に座る黒髪の少年へと鋭い視線を集中させた。世界最強の幹部たちの目は、まるで未知のオーパーツを解き明かそうとするかのように、ギラギラと輝いている。
しかし、当の本人は特に気負う様子もなく、何でもないことのように説明を始めた。
「え? ああ、あれですか。……なんて言うか、逃げている最中は、自分を追いかけてくる相手の位置が何となく感覚で分かるんですよ」
「……なるほど。そういうことですか」
ラルゴの感覚的な説明を聞いた副団長サイラスが、人差し指を顎に当てて思考を巡らせる。
「おそらく、発展アビリティの【逃走】と【回避】が、それぞれ異なる形で作用しているのでしょう」
サイラスは白銀の髪を軽く揺らしながら、それぞれの能力の性質を紐解いていく。
「まず、【逃走】は追跡者から逃れるための能力です。文字どおり、追随を許さぬ俊敏性と持久力を得ることで、絶望的な状況からの離脱を可能にする。そして【回避】は、敵の攻撃を最小限の動作で受け流し、回避し続けるための能力です。ただ、今回興味深いのは、その二つが同時に発現している点です」
そこで一度言葉を区切り、サイラスは少し考えるように目を細めた。
「【逃走】によって、追跡者との距離や方向を見失わないための感覚が生じている可能性があります。一方、【回避】は実際に迫ってくる攻撃に対する反応や身体操作を極限まで高める。両者が同時に作用することで、逃走中の状況把握や反応速度に、何らかの相乗効果が生まれているのかもしれません」
「確かに理屈は分かるが……サイラス、そんな話は聞いたことがねぇぞ?」
マキシムがガシガシと頭を掻く。
それに対し、サイラスは冷静に首を横に振った。
「当然です。そもそも【逃走】と【回避】は、どちらも通常であればレベル4に到達して、ようやく選択・習得できる発展アビリティです。この二つを同時に発現させ、さらに逃走時に極端な補正を受ける冒険者など、少なくとも私の知る記録には例がありません。これまで明確な効果として確認されていなかった現象が起きている可能性は十分にあるでしょう」
「なるほど。両方を同時に運用したから、普通なら確認できなかった現象が出てきたわけですか……」
パールの品格あるエルフの瞳が、驚愕に見開かれる。
ただし、厳密にはラルゴが【逃走】と【回避】を通常の発展アビリティとして習得しているわけではない。【不戦不縛】の効果によって、逃走中に一時的に発現させているのだ。
その特殊な状態だからこそ、通常の冒険者では見られない現象が起きているのかもしれない。
「あとは、正確な地図が頭に浮かぶわけじゃないんですけど、逃げている最中は周囲の様子が普段より極端に分かりやすくなるんですよ」
「周囲の様子、ですか?」
「はい。なんか普段より五感が鋭くなるというか……。逃げるために必要な情報を、無意識に拾っている感じです」
ラルゴは、昨日の逃走中に頼りにしていた情報を思い出しながら説明を続ける。
「例えば、自分の足音や壁を叩いた音の反響から通路の広さや形状、先に空間があるかどうかを推測したり、モンスターの咆哮や足音、地面を伝わる振動から移動している相手の方向や大まかな距離を判断したりですね。床に残された足跡や擦れた跡などから、最近その場所を何かが通った可能性や群れの移動状況を推測することもあります。そうやって集めた断片的な情報を組み合わせながら、分岐点ごとに自分の生存確率が少しでも高そうな経路を選んで進んでいたんです」
「……なるほど」
サイラスは静かに頷いた。
「もちろん、何でも分かるわけじゃありません。音が届かない場所に何かが潜んでいたら分かりませんし、足跡も残さず移動する相手なら判断材料がありません。だから、その場で得られた情報から危なそうな場所を避けていただけです」
「つまり、貴方はダンジョンの全構造を把握していたわけではない。音や振動、痕跡などから得られる情報を逐一処理し、その都度、自分にとって最も安全と思われる経路を選択していたということですね」
サイラスは深く頷くと、ラルゴの背中に刻まれた二つのスキルと、これまでの行動を照らし合わせるように思考を巡らせた。
「……少し整理しましょう。まず、第一スキル【神代逃走】と第二スキル【不戦不縛】の効果についてです。これらは未来予知や危険察知といった超常の能力そのものを与えているわけではない。追跡者との位置関係を感覚的に把握できるとしても、それはあくまで逃走中に生じる何らかの感覚的な作用でしょう。周囲の状況については、本人の五感と判断力によって情報を集めていると考えるのが妥当です」
そこでサイラスは、ザルドとパールへ視線を向けた。
「……ザルド、パール。貴方たちが彼を追跡していた時、ラルゴの動きはどう見えていましたか?」
「……そうだな」
ザルドが腕を組み、昨日の爆走劇を思い返しながら、実際に追跡した時の様子を語り始めた。
「あいつ、ただがむしゃらに逃げてたわけじゃねぇ。迷宮の分岐点に差し掛かるたびに、あえてナイフの柄で岩壁を『ガンッ! ガンッ!』って激しく叩いていたな」
「ええ、その通りです」
パールもジト目をわずかに和らげ、真剣な表情で言葉を重ねた。
「ラルゴさんは、自分からわざと物音を立てることで、死角に潜んでいる中層モンスターたちの反応を引き出していたように見えました。咆哮や足音が返ってくれば、それを手掛かりに敵の位置や数を大まかに推測できます。その反応を利用して、危険が少なそうなルートを選んでいたのでしょう」
パールはそこで一度言葉を区切り、サイラスへと視線を向けた。
「つまり、追跡してくる私たちについては、スキルによる逃走時の補正もあって、背後の位置や方向を感覚的に把握していた。そして、前方に広がる未知の迷宮については、自身の五感と状況判断能力をフル活用して情報を集めていた、ということですね」
「……なるほど。そういうことか」
ザルドが何かに気づいたように目を見開いた。
「まさかテメェ、あの爆走の最中に、意図的に音の反響を確かめて周囲の迷宮構造を把握していたのか!?」
「まあ、そうですね。壁を叩けば音が返ってきますから。通路の先が広いのか狭いのか、何となく判断できますし」
「つまり、音の反響を利用した周囲の確認を、あの速度で走りながらやっていたってのか……!?」
「いやいや、そんな大層なものじゃないですよ。単純に音の返り方を確かめていただけです」
ラルゴは軽く手を振り、さらりと付け加えた。
「まあ、嫌がらせが七割で、マップ把握が三割くらいです!」
「嫌がらせの方が圧倒的に多いじゃねぇか、このクソガキがァッ!!」
ザルドの咆哮が談話室に響き渡った。
「いやぁ、そ、そんなことないですよ! 生き残るための必死のライフハックですって!」
俺が最高に気まずそうな顔で目を逸らす中、ザルドは額の青筋をピキピキと震わせたまま、さらにドスの利いた声で円卓に両手を突き、ラルゴの顔を覗き込んできた。
「……成る程な。あいつのやってた神速先読みの種明かしは分かった。だがよ、ラルゴ」
「だったら、あの14階層の手前で、テメェが急停止して脱兎のごとく逆走し始めたのは一体何なんだ?
モンスターの物音や足音の反響なら理屈は通る。だが、あの時下から上がってきたのは、隠密性すら怪物級のヘラ・ファミリアの軍勢と、レベル8の女帝レグナだぞ。
Lv.1のクソガキが、そんな天災の気配を事前に察知できるわけがねぇだろーが!!」
ザルドの至極真っ当な指摘に、レグナ様やメディアルナさんも「確かにそうね……」と不思議そうに小首を傾げた。あの時、彼女たちは闇派閥をお仕置きし(殺戮)ながら完全に不意打ちのタイミングで進軍していたのだ。通りすがりのゼウスの下っ端に、事前に察知されるようなヘマをした覚えはない。
幹部全員の鋭い視線が再び集中する中、ラルゴは肩をすくめ、実に神妙な面持ちで語り始めた。
「いや、それに関しては、本当に俺自身もさっぱり理由が分かんないんですよ。ただ……」
「ただ、何ですか?」
サイラスがペンを構えたまま先を促す。ラルゴはあの瞬間の、全身の血液が完全に凍りついたような絶対的な死の恐怖を思い出して、ガタガタと肩を震わせた。
「あの階段の手前に差し掛かった瞬間、俺の『生存本能』が、脳内で拡声器持って『今すぐ全力で逃げろォォォ!! ここにいたら一瞬で消滅するぞォォォッッ!!!!』って魂の底から大絶叫してたんですよ。理論や理屈とかそんなものじゃ断じてないです。知覚センサーが、本能のデッドラインを強制起動させたんです!」
ラルゴがヤケクソ気味に熱弁すると、談話室は一瞬、妙な静寂に包まれた。
「……なるほど。危機を予知する超常の能力ではなく、常時耐久デバフという『一発掠れば即死する肉体』を宿した結果、脳と魂が異常なまでに研ぎ澄まされ、天災クラスの絶対的な捕食者(レグナ団長たち)の接近を野生の勘だけで察知した、と……」
サイラスさんは手元の羊皮紙に異常な生存本能と凄まじい速度で書き込みながら、心底呆れ果てたため息をついた。
「理論の欠片もない、完全にただの『究極の臆病者(ビビリ)』が極まっただけの副産物ですね。これ以上ないほどに我がファミリアの恥さらしですが、こと生存確率においてはこれほど噛み合ったステータスはありません。」
「ガハハハハ! いいじゃねぇかサイラス! 要するに、世界一ペラペラで臆病なガキが、死にたくねぇ一心で世界一の逃げ足と野生の勘を開花させたってわけだろ! 最高に潔いバカじゃねぇか!」
女帝レグナ様が、興味津々に漆黒の瞳を細めて俺を見つめた。
「――ねえ、サイラス。これだけ本人の口から面白い話を聞かされたのだもの。そろそろ、そのステータスの実物を私たちの目で直接確認させてもらってもいいかしら?」
それまで楽しそうに話を聞いていた女帝レグナ様が、漆黒の瞳を妖しく輝かせながら、隣のサイラス副団長へと視線を向けた。
「ひっ……!?」
その一言に、ラルゴは椅子の上でガタッと飛び上がって胸元を必死にガードした。昨日、監禁部屋でメディアルナに果物ナイフ一本で服を芸術的なまでに細切れにされ、ベッドへ強引に組み伏せられたあの強烈なトラウマが光速で脳裏にフラッシュバックしたのだ。
「ま、待ってください! また服をパージされるのは御免ですよ!」
「あら、誤解しないで頂戴? ラルゴ」
メディアルナさんが仮面の奥から静かで落ち着いた、品格のある声を響かせる。
「今回はそんな野蛮な真似はいたしません。貴方はもう私たちにとって『身内』です。意味もなく身内に乱暴なことなどしません」
(いや、昨日思いっきり拉致監禁してドブカブトムシ液飲ませた時点で十分乱暴だからな!? ってか、すでに完全に身内判定になってることに恐怖を覚えるわチクショウ!)
ラルゴは引きつったビジネススマイルを張り付かせたまま、隣のサイラス副団長へと恐る恐る視線を向けた。
「あの……サイラスさん。これ、二人にステータスを見せちゃっても問題ないですかね……?」
「ええ、構いませんよ、ラルゴ」
サイラスさんは白銀の髪を軽く揺らし、流麗な動作で頷いた。
「レグナ団長とメディアルナ副団長は、メーテリアさんの治療を継続するための正式な『共同研究パートナー』です。ファミリアの規律としても情報共有に一切の不都合はありませんし、貴方の安全面についても、私が責任を持って保証しますからね」
「分かりました。サイラスさんがそう言うなら……」
ファミリアの頭脳であるサイラスのお墨付きが出たことで、ラルゴは諦めてポケットから、昨晩ゼウスの爺さんに泣きつかれて更新してもらったばかりの最新のステータス紙を取り出し、円卓の上へと広げた。
「実は、俺自身も昨晩は眠気が限界で、更新後の数値をちゃんと見てないんですよね……」
ラルゴがそう呟くと、マキシム団長、サイラスさん、パール、ザルドの四人も「ほう」と身を乗り出し、全員で後ろから覗き込むようにして羊皮紙へと視線を集中させた。
そこに記載されていたラルゴの最新ステータスは、以下の通りであった。
ラルゴ(13歳)
Lv.1
• 力 :I 0→2
• 耐久:I 0→2
• 器用:I 0→7
• 敏捷:I 0→92
• 魔力:I 0→8
【魔法】
•【不屈の福音(リザレクション・レジスタンス)】
• 詠唱呪文:『この手が届くすべての生に、果てなき抗戦の残響を』
• 効果:
• 高位治癒魔法。
• 直接接触をした対象、及び自身へ効果発動。
• 治癒願望を魔力変換。
• 治癒願望の丈により効果向上。
• 負傷が深刻であるほど、治癒速度を上昇。
• 発動時、術者と対象の毒、呪い、弱体化、魅了、精神汚染に対する抵抗力(レジスト)を付与。
•【】
【スキル】
【 神代逃走(レグルス・フライト)】
• 『敏捷』ステータスの限界解除。
• 常時『敏捷』ステータスに超高補正。
• 『敏捷』ステータスの成長補正。
• 常時『耐久』ステータスの低下。
【不戦不縛(トリカブト・ルーツ)】
• 逃走時、全能力に超高補正。
• 逃走時、発展アビリティ『逃走』『隠密』『回避』を一時的に発現、および効果を補正。
• 攻撃行動時、全能力に超低下。
「…………っ!?」
レグナとメディアルナの身体が、同時に明確に、凍りついたようにフリーズした。
レグナにとってはこれがラルゴのステータスを初めて確認する機会であり、メディアルナさんも昨日監禁部屋で一度見たとはいえ、初陣で得た経験値(エクセリア)が反映された最新の数値を見るのはこれが初めてだった。
そして、ラルゴ本人を除いた、その場にいる両ファミリアの幹部全員の鋭い視線が、ただ一つの『異常な数値』へと強烈に引き寄せられ、釘付けになった。
「な、何よこれ……! いくらなんでも、偏り方がおかしすぎるじゃない……!?」
世界最恐の女帝レグナ様の美しい顔が、驚愕と戦慄に染まっていく。
ラルゴが注目したのは魔法やスキルの破格の文言だったが、世界の頂点に立つ冒険者たちが息を呑んだのは、その上にある基本的な『成長値』の欄だった。
力はわずかに2。耐久も2。器用は7、魔力は8。これらは初陣を終えたばかりのLv.1のなりたてとしては、極めて一般的で、むしろ微笑ましいほどに低い数値だ。
――しかし。敏捷の項目だけが、初期値の0から、たった一度の探索で【92】という狂った数値まで爆跳ねしていた。
「おいおい……! 初陣の、それもたったの『ゴブリン一体』を倒しただけの経験値だぞ……!? 一日の成長で、敏捷だけがここまでピンポイントで限界突破するなんて、千年の歴史の記録を探しても絶対に存在しねぇぞ……!」
マキシム団長がガタガタと椅子の音を立てて驚愕し、ザルドさんも頭を抱えて絶句している。
「……なるほど。これが【神代逃走】の『成長補正』と限界解除の実態、そして我がファミリアの二人に追い回された結果ですか」
サイラスさんは白銀の髪をかき上げ、冷徹にそのバグを納得しようとした。
「ザルドとパールによる猛追。常時耐久デバフの刺さった肉体で『一発でも掠れば即死する』という本物の恐怖が、彼の背中にある逃走特化のスキルと完璧にかみ合い、敏捷の経験値だけを異常なまでの高効率で全吸収(ブースト)したのでしょう」