ゼウスの爺さんの私室を出て、私はホームの一階最奥へと向かった。
教えられた場所に到着すると、そこには「書庫」という牧歌的な響きからはあまりにもかけ離れた、異様な光景が広がっていた。
「……何これ。ホームの中に、核シェルターでも建造されてんの?」
思わず、前世の語彙で呟いてしまう。
そこは、壁から天井、果ては床に至るまで、鈍い輝きを放つ超希少鉱物『オリハルコン』で埋め尽くされていた。ヘラ・ファミリアの暴君たちが、どれほど狂った火力で本拠地を更地にしようとも、絶対に無傷で焼け残る仕組みになっているという不壊の金庫室。その隣に併設された書庫もまた、同じ不壊の金属でガッチリと囲まれていたのだ。
なんというか、歴史あるファミリアの風情もへったくれもない。ただただ「絶対に壊してなるものか」という、ヘラに対する執念と防衛本能だけが視覚化されたような場所で、何とも言えない奇妙な気持ちにさせられる。
さらに、地頭だけは妙に良い私の観察眼が、一つの違和感を捉えた。
その書庫というか金庫の分厚い扉には、鍵穴の類が一切見当たらなかったのだ。
「おいおい、防犯意識まで更地にされたのか? いくらなんでも不用心すぎるだろ……」
世界最強のファミリアだからと慢心しているのだろうか。私は呆れながら、オリハルコンの扉に手をかけ、中に入ろうとした。
――その、瞬間だった。
「ひっ……!?」
いきなり、全身の毛穴が総毛立ち、ガタガタと身体が震え出した。
頭のてっぺんから爪先まで、冷水を一気に浴びせられたかのような凄まじい悪寒。本能が、魂が、「一歩でも動けば死ぬ」と、最大級の警報を脳内で鳴り響かせている。先ほどゼウスの爺さんから感じた『神の圧』とはまた違う、静かで、冷徹で、極限まで研ぎ澄まされた刃のような殺気が、私の背中を完全にロックオンしていた。
「――そこまでです、泥棒猫。それ以上その扉に触れるというのであれば、容赦なくその腕を切り落としますよ」
背後から、鼓膜を心地よく震わせる、非の打ち所がないほどに美しく凛とした宮廷言葉が聞こえてきた。
しかし、その声に込められた覇気は、周囲の空気を完全に凍らせている。
私は錆びついた人形のように、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、白銀の長髪を揺らす、息を呑むほどに美しいエルフの青年だった。その佇まいからは、圧倒的な知性と品格が溢れ出ている。しかし、その手にある白銀の長剣は、沈着冷静な瞳とともに私を鋭く射すくめていた。
ゼウス・ファミリア副団長、サイラス。
「何やら不穏な気配がすると思えば、このような子供が紛れ込んでいるとは。我がファミリアの本拠地も、随分と舐められたものですね」
そう言って冷たく私を睨みつけたサイラスだったが、すぐにふぅ、と美貌を曇らせて深いため息をついた。
「全く……他の団員たちは一体何をやっているのですか。世界最強などとおだてられて脳みそまで筋肉に置き換わったのか、それとも揃いも揃って昼食の肉の配分で揉めてでもいるのですか。私が何度『防犯のために門番を配置しなさい』と言っても、誰も聞きゃしない。門番すら満足に機能……いえ、満足に配置すらされていないなど、ファミリアとしての品格を疑います。本当に、あの一括りにされた問題児どもは……」
氷のような殺気の隙間から、溜まりに溜まったリアルな中間管理職の愚痴がポロポロと溢れ出てくる。どうやらこの美しい副団長様は、組織内数少ない頭脳派として、普段から「門番すら置かない脳筋たち」を相手に相当な苦労を強いられているらしい。
サイラスが再び静かに歩を進めてくる。愚痴をこぼしつつも、その一歩ごとに周囲の殺気は確実に濃縮されていく。
ここで私は、ようやく理解した。
この扉に、鍵なんて最初から必要ないのだ。なぜなら、門番を置かなくても、この領域に侵入しようとする命知らずな盗人がいれば、この白銀の怪物(副団長)が影も残さず消滅させるだけなのだから。鍵よりも確実で、鍵よりも凶悪なセキュリティがそこにはあった。
「ま、待って! タイム! タイムです! 俺は泥棒じゃありません! 今日、正式に入団を認められた新入りのラルゴです! ゼウスの爺さんに、ここの書庫で勉強してこいって言われて来たんです!」
パニックになりつつも、私は大慌てで両手を挙げて今日入ったばかりの新入りであることを必死に訴えた。
「……ゼウス様が、入団を?」
私の必死の訴えに、サイラスは美貌の眉をピクリと動かした。
じっと私を観察し、私の話を聞いていたサイラスだったが、次の瞬間、周囲を包んでいた凍てつくような殺気が、嘘のように静かに霧散した。
「え、あ、あれ……?」
急な体感温度の変化に、私は困惑しながらも恐る恐る尋ねた。
「あの……どうして今ので信じてくれたんですか?」
「神でなくとも、人の嘘くらいは見抜けますよ。それに、ゼウス様に聞いてみて、もし貴方が嘘をついていたなら、その時はその場で斬ればいいだけの話ですからね」
「いや物騒だな! ――でも、もしその確認の間に、俺が逃げ出したらどうするんですか?」
私がそう問い返すと、サイラスは静かにこちらを見つめ、ただ一言、冷ややかな声音で返した。
「……出来ると思いますか?」
「…………」
そこには、先ほどのような肌を刺すような『圧』は無かった。敵意も、害意も、一切感じられない。
それなのに、私の本能が、私の全細胞が「不可能だ」と告げていた。
もし私が一歩でも不審な動きを見せれば、その瞬間に私の視界は文字通り光速で回転し、自分の胴体を床から見上げる羽目になる。悪意を介さない純粋な『実力差』という名の絶対的な壁。私は冷や汗を流しながら、このエルフの青年もまた、世界最高峰の化け物の一角なのだと魂の底から理解させられた。
しかし、サイラスの顔から緊迫感が消えたわけではなかった。むしろ、別のベクトルで、もの凄くドスの利いた覇気が、その美しい笑顔の裏からジワジワと染み出し始めたのである。
「なるほど、事情は察しました。貴方が今日入った団員であるというのは事実のようですね。ですが……副団長である私に、一切の断りもなく、このような子供を勝手に入団させるとは……」
サイラスはニコリと、それはそれは美しい、しかし目が一切笑っていない、周囲の空気を完全に凍らせる笑顔を浮かべた。
「あのクソジジイ……また勝手に頭数を増やして、覗き計画の頭数にでも入れるつもりでしょうか。他の連中が使えないからと、新入りまでそっちの方面で教育するつもりなら……少し、お灸を据える必要がありますね」
どうやら、主神が勝手に人事権を発動した上に、門番も置かない団員たちの不届きな日常の記憶がフラッシュバックして、副団長様の堪忍袋の緒が完全にぶち切れたらしい。
「マキシム! そこにいるのでしょう! 主神がまた勝手な真似をしました、その大剣で今すぐあのジジイを部屋の柱に括り付け、大工仕事の刑に処しなさい!!」
「ガハハハ! よっしゃ任せろサイラス! 今日こそあのジジイの髭を全部毟ってやる!」
どこからともなく現れた、Lv.7のバケモノ団長マキシムが、大剣を担いでゼウスの部屋へと猛ダッシュで消えていった。間もなくして、遠くの廊下から「ヒェッ!? なぜ儂の動向がサイラスにバレておるんじゃぁぁっ!?」という、全能神の情けない悲鳴が響き渡る。
私は冷や汗を流しながら団長を見送り、恐る恐る、目の前の白銀のエルフに声をかけた。
「あの……サイラスさん、でしたっけ? 俺、ここの書庫、使っても問題ないですかね……?」
「ええ、構いませんよ、ラルゴ」
サイラスは何事もなかったかのように、凛とした美しい宮廷言葉に戻って微笑んだ。
「主神がやらかしたことと、貴方には何の関係もありませんからね。我がファミリアの他の馬鹿どもと違って、貴方はしっかりと言葉が通じる方のようですし。中にある資料は好きに使いなさい。オラリオの基礎、あるいは背中のステイタスの意味を、一から学んでおるといいでしょう」
「ありがとうございます!」
私は深く一礼すると、今度こそ、鍵のいらないオリハルコンの扉を押し開けた。
こうして私は、ゼウス・ファミリアの唯一の良心(ただし怒らせると一番怖い)であるサイラスの許可を得て、ついに世界の知識が集まる書庫へと足を踏み入れるのだった。