サイラスさんの許可を得て足を踏み入れたオリハルコン製の書庫の中は、外見の無骨さに反して、驚くほど綺麗に整理整頓されていた。分類ごとにきっちりと並べられた背表紙、塵一つ落ちていない閲覧机。
「あの脳筋、もとい、一級建築士ゾンビ集団のホームに、どうしてここまで文明的な空間が存在できるんだ……?」
一瞬首を傾げたが、すぐに納得した。あの生真面目で品格の塊のような副団長・サイラスさんが、合間を縫って胃を痛めながら手入れしているに違いない。心の中で白銀の苦労人に深い敬意を表しつつ、私は目的に適った一冊の本――『神の恩恵(ファルナ)とステイタスの基礎』という分厚い手引書を見つけ出し、机に広げた。
まずは、自分の背中に刻まれたこのイカれた文字列の意味を解読せねばならない。ポケットからゼウスの爺さんに書き写してもらった羊皮紙を取り出す。
ラルゴ(13歳)
Lv.1
• 筋力:I 0
• 耐久:I 0
• 敏捷:I 0
• 魔力:I 0
【魔法】
• 【】
• 【】
【スキル】
• 【神代逃走(レグルス・フライト)】
• 『敏捷』ステータスの限界解除。
• 常時『敏捷』ステータスに超高補正。
• 『敏捷』ステータスの成長補正。
• 常時『耐久』ステータスの低下。
• 【不戦不縛(トリカブト・ルーツ)】
• 逃走時、全能力に超高補正。
• 逃走時、発展アビリティ『逃走』『隠密』『回避』を一時的に発現、および効果を補正。
• 攻撃行動時、全能力に超低下。
手引書を捲り、第二スキルによって一時発現するという三つの『発展アビリティ』の項目に目を走らせる。
• 『逃走』
逃走時に発動。文字通り追随を許さぬ『敏捷』と、尽きることのない『持久』の爆発的な上昇補正を得る。絶望的な状況下からの戦線脱出を可能とする。
• 『隠密』
隠蔽効果の極致。自身の気配、物音、および魔力(マインド)を完全に虚無へと遮断する。敵の五感や知覚探知から文字通り煙のように掻き消える。
• 『回避』
敵の攻撃を受け流す『いなし』の技術の極致。最小限の精神力と持久の消費により、敵の猛攻を永続的に躱し続ける。乱戦・長期戦における生存限界を飛躍的に引き上げる。
「……なるほどな」
これ、『逃走』以外は本来なら高レベルのベテラン冒険者がようやく一つか二つ獲得できるような超レアアビリティらしい。それをLv.1の段階で、しかも三つ同時にセット運用できるとか、性能としては破格もいいところだ。
――ただし、「逃げる時限定」という致命的な縛りを除けば、だが。
続けて他のステイタスの意味を調べ進めていくうちに、私はあのクソジジイが「ドンマイ」と聖母の目で憐れんできた理由を完全に理解した。
ただでさえペラペラなLv.1の初期段階なのに、『神代逃走』のせいで常時『耐久』に強烈な低下デバフが刺さっている。つまり、普通の冒険者なら耐えられるかすり傷でも、今の俺が喰らえば一撃で致命傷か即死。おまけに、こちらから攻撃を仕掛けようとした瞬間、全能力が地の底まで超低下する。
「あの万年発情全能クソジジイ……。この紙を渡すとき、どんな気持ちで『強く生きるんじゃぞ』とか抜かしやがった……!」
一瞬フツフツと腹が立ったが、自頭だけは無駄に良い俺のオタク脳は、すぐにこのステイタスの「真の価値」を弾き出した。
「いや、待てよ? 全く戦闘に向かない紙装甲だけど……これ、やりようによっては無敵じゃね?」
要するに「殴り合い」をしなければいいのだ。敵のヘイトを買い、攻撃を完全に『回避』し、『隠密』で翻弄しながら、世界最速の『逃走』力で戦場を引っかき回す。味方の強力なアタッカー……例えばマキシムの旦那たちの「超優秀な囮(デコイ)」に徹するなら、これほど噛み合ったビルドはない。攻撃力が死んでいるなら、味方に殴ってもらえばいい。ご都合主義のハッピーエンドを掴むためなら、泥臭く逃げ回る泥仕合なんてお手の物だ。
「本の内容から見ても、Lv.1の最初のファルナでスキルが同時に二つも発現するなんて大快挙らしいしな。そう考えれば、これ以上ないくらい幸先が良いスタートだ」
ふと、ここで一つの疑問が頭をよぎる。
前世のラノベや漫画の知識なら、こういう転生者には『異世界言語理解』だの『前世の記憶による経験値倍化』だの、転生そのものに直結したチートスキルが発現するのがお約束だ。だが、俺の背中にあるのは、現世の俺の「逃げ足の才能」と「ハッピーエンドへの執着」が形になったようなスキルだけ。転生に関連する要素は一切数値化されていない。
「……まぁ、いっか。バグって前世の記憶が消されたり、ヘラ・ファミリアに魂ごと神還しされるよりはマシだろ。とりあえず放置!」
メタ的な考察は早々に切り上げ、私は本をパタンと閉じると、別の棚へと視線を移した。
生存戦略の方向性は決まった。ならば次に確保すべきは、あの羊皮紙で綺麗に二つ分空いていた「空白のスロット」――そう、男のロマンにして、ファンタジーの醍醐味である『魔法』についてだ。
「攻撃がダメでも、補助魔法や足止め魔法があればさらに生存率が跳ね上がるはず。頼むから、俺の知ってる他作品のクソカッコいい詠唱魔法のどれかに引っかかってくれよ……!」
ラルゴは目を爛々と輝かせながら、オリハルコンの書棚の奥深くへと、さらに指先を滑らせていくのだった。
ステイタスの方向性が決まったとなれば、次は男のロマン、そしてファンタジーの華である『魔法』の調査だ。
あの羊皮紙にぽっかりと二つ空いていた空白の魔法スロット。あそこに生存率を爆上げする補助魔法や、敵の足を止めるデバフ魔法をハメ込むことができれば、俺の「世界最速の囮(デコイ)」ビルドは完全に完成する。
「ふっ、心配するな。前世で数々のラノベや漫画、ソシャゲの魔術設定を履修してきたこの俺だ。現代日本の知識とオタクの想像力をフル活用すれば、魔法の習得なんて実質イージーモード。速攻で神速の魔導士になってみせるぜ!」
そんな大いなる自信と根拠のない全能感を胸に、私は不壊の書架から『初心者でもわかる魔法入門:初歩の並行詠唱と精神力(マインド)の運用』という、いかにもビギナー向けな入門書を引っ張り出してきた。
よし、と気合を入れて机に広げ、さっそく読み始めて数十分が過ぎた。
「………………」
私は、静かに本の上に突っ伏してうつ伏せになり、うなだれた。
完全に、心が折れた。
「無理。何これ。この世界の魔法の教科書、編集した奴の脳みそゴブリンにノックされてんの……?」
最初の数ページ、本当に最初の数ステップだけは、前世のオタク知識もあってギリギリ理解できたのだ。「体内の精神力を感じ、それを神から授かった回路へと流す」という、よくある魔力コントロールの基礎の基礎だ。ここまでは良かった。完璧にイメージできた。
だが、問題はその次、ページを数枚捲った直後だった。
突然、難易度が次元の壁を飛び越えて跳ね上がったのだ。
「なんだよこれ……! 例えるなら、五十音(入門書の最初の部分)を教えてもらった次の瞬間、六法全書(中間部分)を完璧に理解しろって言われた気分だぞ! しかも『漢字は直感で読め』って本気で書いてあんじゃねぇか!!」
あまりの不親切さに、私は心の中でオリハルコンの壁に向かって絶叫した。
本に書かれている内容を意訳するとこうだ。
『精神力を感じたら、あとは己の魂の原風景を強く念じ、神聖文字(ヒエログリフ)の配列を直感で最適化させ、気合で言葉(詠唱)として出力せよ。なお、失敗すると精神力が暴走して脳が焼き切れる。健闘を祈る』
直感。気合。魂の原風景。
……ふざけるな! 体育会系の部活のシゴキかよ!
「いや、落ち着け俺。これはこの著者が致命的に説明下手なだけだ。世界最強のクランの書庫だぞ? もっと論理的で分かりやすい、現代日本の科学的アプローチに通じるような、賢いエルフ様が書いた本がきっとあるはずだ」
私は現実逃避気味に立ち上がり、別の棚から『高等魔導への歩み』『詠唱世界の構築論』といった、タイトルからして知的そうな魔法書を片っ端から引き抜いて机に積み上げた。
そして、それらを高速で読み漁り――私は完全に天を仰いだ。
「全っっっ部同じ構成じゃねぇか!!」
どの本を読んでも、どれほど分厚い専門書を開いても、事態は一ミリも変わらなかった。
基礎の基礎を解説した直後、一番肝心な「最初と中間の間の内容」が、見事なまでにすっ飛ばされている。そこには、表現のニュアンスこそ違えど、どれも揃いも揃って「そこから先は直感で何とかしろ」としか書いていないのだ。
つまり、この世界の魔法とは、理論を積み重ねて覚えるお勉強(サイエンス)ではない。神の恩恵を媒介にして、己の魂の形をそのまま外へと力ずくで引きずり出す、超感覚的な「才能の暴力」そのものだったのだ。
「前世の知識がフル活用できると思った俺がバカだったわ……。イメージを数式化するとか、そういう理屈っぽいアプローチじゃなくて、『なんかこう、いい感じに魂をドカンとさせる』みたいな世界観かよ。これ、自頭が良いとか悪いとかそういう次元の話じゃねぇぞ……!」
ハッピーエンドを掴むための第二歩目にして、早くも目の前に立ち塞がった「感覚の壁」。
攻撃力ゼロの超俊足ペラペラ男となったラルゴは、空っぽの魔法スロット二つを虚しく見つめながら、オリハルコンの机に頭を打ち付けるのだった。
直感と気合という名のゴリ押し理論に脳味噌を破壊されかけた私は、ヤケクソ気味にオリハルコンの書架の最深部を漁っていた。
すると、一番奥の棚に、明らかに他の本とは一線を画す、見るからに論理的で知性溢れる装丁の魔導書が数冊、美しく並べられているのを見つけた。
「おお……! 魔法陣の構造式に、精神力の精密なグラフ! これ、めちゃくちゃ良さげじゃん!」
五十音から六法全書へワープするような欠陥本ではない。これなら、前世の知識とこの地頭の良さをもってすれば、確実に解読して魔法スロットを埋められる! 私は狂喜乱舞しながら、その輝かしい希望の書を机に広げ――そして、三秒で真顔になった。
「…………いや、読めねぇわ」
図解は完璧。構成も完璧。しかし、それを説明するためにびっしりと書き込まれた文字の全てが、流麗すぎて逆に幾何学模様にしか見えない、見事なまでの『エルフ語』で記載されていた。
現代日本の知識があろうが地頭が良かろうが、習っていない異世界の古代言語が読めるわけがない。さすがにこの世界の魔法の修得環境はおかしいだろ、と私が頭を抱え始めたその時。
「――おや。随分と熱心に、私の私蔵書を眺めているのですね、ラルゴ」
振り返ると、そこには白銀の長髪を揺らす副団長、サイラスさんが立っていた。ゼウスの爺さんをシバき倒してきたはずなのに、服の皺一つ、髪の毛一本すら乱れていない。
私は驚きながらも、すぐに彼へ自身の疑問をぶつけてみることにした。
「あ、サイラスさん。ちょうど良かった。ちょっと聞きたいんですけど……この世界の魔法の本って、なんでどれもこれも『最初と中間の間の内容』をすっ飛ばして、直感で何とかしろって話ばかりなんですか?」
「ふむ……」
サイラスさんは私の問いに少し感心したように目を細め、静かに私の隣の椅子へと腰掛けた。
「神時代以降、神々の恩恵(ファルナ)によってエルフ以外の種族も魔法が使えるようになりました。ですが、そもそも魔法を発現できる者はその中でも少ない部類であり、尚且つその多くが『自身専用の固有魔法』なのです。つまり、他者に教えることなど元より不可能なのですよ。仮に教えられたとしても、結局は本人の主観や感覚が中心になるため、貴方が見たような『直感で何とかしろ』という内容の解説書ばかりになってしまうのです」
「なるほど、感覚派の天才が自分の感覚をそのまま書き殴ってるからか……。じゃあ、もっと論理的に魔法を研究してる研究者とかはいないんですか?」
「もちろん、学術的に研究する者も存在します。ですがね、そういった気難しい研究者たちは、基本的には凡人を相手にしたがりません。一から十まで説明する手間がかかる相手を嫌う者が多いクソ真面目な世界なのです。……そして何より、一番魔法に秀でている我らエルフも、他種族に技術を教えて自分たちの優位性が危ぶまれるのを嫌い、教えたがりませんからね」
サイラスさんは白銀の髪を軽くかき上げ、どこか冷徹に、下界の魔導の現実を突きつける。
「一から十まで体系的に魔法を教える教育機関など、エルフの里にしかありません。なまじそこで学ぶことができたとしても、やはりエルフの超感覚を中心に講義が進んでしまうため、人間の貴方たちからすれば結局は『理解しづらい』という結論に達するのですよ」
「……つまり、この世界は魔法を学ぶ初心者に絶望的に不親切ってことですね」
世界の魔導の「詰み気味な現状」を懇切丁寧に解説してくれたサイラスさんに対し、私はずっと喉の奥に引っかかっていた、最もシンプルかつ正当な疑問をぶつけてみることにした。
「なるほど、背景はよーく分かりました。……で、もう一つ質問なんですけど」
「何ですか?」
「サイラスさん、なんでこの魔法書、わざわざエルフ語で書いたんですか?」
私の問いかけに、白銀の副団長は心底心外だとばかりに片眉をピクリと跳ね上げた。
「エルフがエルフ語で自身の研究成果を記述して、何かまずいことでもあるのですか?」
「大ありですよ。だってここ、ゼウス・ファミリアのホームですよ? エルフ以外の人間の団員だって出入りするじゃないですか」
私は腕を組み、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながらサイラスさんの顔を覗き込む。
「俺の直感なんですけど……サイラスさんって、身内に対してめちゃくちゃ公平に接する人だし、エルフだけを特別扱いして人間を見下すような、頭の固い計らいをする人にはどうしても思えないんですよね。だから余計に変だなと思って」
「……クフッ」
ほんの少しだけからかうように告げると、サイラスさんは一瞬驚いたように目を見開き、それから実におかしそうに、品格溢れる笑みを零した。どうやら私の読みは、この気高きエルフの「お眼鏡」にかなったらしい。
「ふふ、よく見ていますね。ええ、確かに貴方の言う通り、私が同胞だけを利するような真似をするはずがありません。……種明かしをしましょう、ラルゴ。そもそもそれは、ただのエルフ語ではありませんよ。エルフ語の文法を元にした、私独自の暗号で記載されているのです」
「……あ、暗号?」
「ええ。ですから、たとえエルフの学者をここに連れてきて読ませたとしても、文字の並びこそ認識できても意味は一ミリも理解できない仕組みになっています。この本は私の研究途中のものでしてね。万が一にも、外部へ内容が漏洩しないように細工を施してあるのです」
(いやいや、世界最強クランのオリハルコン製シェルターに保管されてる本を、跡形もなく盗み出せるやつがこの世にいるとは思えないんだけどな……)
心の中でそう激しくツッコミを入れたが、同時に、先ほど私がこの部屋に入ろうとした瞬間に、サイラスさんが凄まじい殺気を放ちながら「神速」で現れた理由を完璧に理解した。
彼は単にホームの不審者を警戒していたのではない。この、世界を揺るがしかねない超極秘の研究成果(データ)を守るために、文字通り鍵以上のセキュリティとして部屋を監視していたのだ。
「なるほど。だから俺が触ろうとした瞬間、あんな殺意100%で飛んできたわけだ……」
納得して冷や汗を拭う私に、サイラスさんはどこか遠い目をして、白銀の長剣の柄にそっと手を置いた。
「先ほど、一から十まで教える機関はエルフの里にしかないと言いましたが……なまじそこで完璧に学んでしまったせいで、かく言う私自身も、いまだ『エルフ基準の感覚』から完全には脱却できていないのですよ。人間の脳にも適応できる論理的な構築を目指してはいますが、どうしても最後の一歩で行き詰まっていました」
そう言って、サイラスさんは沈着冷静な、しかしどこか熱を帯びた瞳で私を真っ直ぐに見つめてきた。
「ラルゴ。貴方は人間でありながら、この世界の『感覚至上主義』に違和感を覚え、極めて客観的に物事を見ようとしている。……どうですか、私のこの研究に、協力してもえませんか?」
「――へ?」
生存率を上げるために魔法を調べに来たはずが、気づけば世界最高峰の魔導剣士から「共同研究」のスカウトを受けていた。