目の前にある分厚い魔導書――サイラスさんが名付けた痛々しい中二病タイトル、『終焉のクロニクル:果てなき世界への反逆者が行きつく魔法の極意』の表紙へ、私はついに手をかけた。
これを作った本人が重度の邪王真眼発病者である以上、中を開けば「我が深淵なる漆黒の波動が云々」といった凄まじい精神攻撃が待ち受けているに違いない。前世の黒歴史ノートを直視する時のような、最大級の覚悟と諦めを胸に、私はゆっくりと最初のページを押し開いた。
「…………え?」
だが、視界に飛び込んできた記述を目にした瞬間、私は盛大に困惑することになった。
そこに綴られていたのは、予想を遥かに裏切る、極めて緻密で論理的な文章だった。
『回復魔法の原理と応用』
中二病の「ち」の字も、邪王真眼の「じゃ」の字もない。
傷ついた肉体の構造から、損傷した組織の修復、出血の抑制、魔力を用いた治癒の仕組みに至るまで、その内容は驚くほど体系的にまとめられていた。
回復魔法を発動する際に必要な精神力の扱い方、治癒対象を認識するためのイメージ形成、魔力の適切な配分と制御。さらには、傷の深さや損傷の種類によって異なる治癒の方法まで、豊富な図解とともに丁寧に解説されている。
そこには、回復という現象を曖昧な奇跡で片づけず、可能な限り理論的に解明しようとした研究者の執念が詰まっていた。
「サイラスさん……これ、外見と中身のギャップが凄まじいっていうか。……めちゃくちゃ知的で、完璧に洗練された教本なんですけど」
「……当然です。私はいつだって大真面目ですよ。さあ、講釈はいいですから読み進めなさい」
表情を一切変えることなく、優雅に紅茶のカップを口元へと運ぶ白銀の副団長。
どうやら、タイトルだけはどうしても自身の気高き美意識――もとい、中二病を抑えきれなかったらしい。しかし、その中身は彼が積み上げてきた本物の知性の結晶だった。
(……タイトルで損しすぎだろ、この本)
とはいえ、内容が本物であるなら文句はない。私は余計な邪念を捨て、改めてページへと視線を落とした。
文字を目で追うごとに、脳の奥底が心地よく、それでいて強烈に刺激される感覚があった。
最初は、単純に説明が分かりやすいのだと思っていた。傷口が塞がる仕組み、損傷した肉体が修復される過程、回復魔法が働きかける対象と、治癒によって生じる変化。それらが順序立てて説明されているため、今まで曖昧だった回復魔法の仕組みが、驚くほど滑らかに脳に染み込んでいく。
これまで読んできた魔法の入門書にありがちだった、「基礎は教えるが、肝心なところは直感で何とかしろ」という理不尽な投げっぱなしも一切ない。何を意識し、どう魔力を扱い、どのようなイメージを描けばよいのか。必要な知識が、美しく整列して並んでいた。
ところが、数ページを読み進めたあたりから、私は小さな違和感を覚え始めた。
理解の速度が、妙に早すぎる。
書かれている知識を頭の中で整理するよりも先に、その意味が「感覚」として身体に染み込んでくるのだ。
傷ついた肉体の状態を思い描けば、どこに異常があるのかが直感で分かる。治癒の手順を読めば、魔力がどのように作用し、何を補えばよいのかが自然と脳裏に浮かぶ。文章を追うたび、それまで曖昧だった概念が明確な輪郭を持ち、具体的な映像として頭の中に広がっていった。
(すごいな、これ……。まるで頭の中に直接、言葉やロジックが流し込まれているみたいだ)
図解に視線を向ければ、傷ついた組織と魔力の流れが立体的に浮かび上がる。説明を読めば、文章だけでは伝えきれないはずの治癒の生々しい感覚まで、なぜか理解できてしまう。
まるで、この魔導書そのものが、私の脳へ直接知識を同期させているかのようだった。
私はページをめくる手を止められなかった。むしろ、続きを知りたいという本能的な欲求が、めくるたびに強くなっていく。
数ページ、数十ページ。
どれほど時間が経ったのだろう。
周囲の音が、少しずつ遠のいていった。
サイラスさんがそこにいることも、薫り高い紅茶の匂いも、椅子に腰掛けている自分の身体の感覚すらも、徐々に曖昧になっていく。
(……あれ?)
頭が、ぼんやりする。
眠気とは違う。意識そのものが、どこか深い精神の澱へと引きずり込まれていくような感覚。
それでも、目は文字を追い続ける。
文章の意味が霧散するどころか、むしろ理解は加速度的に深まっていた。魔導書に記された回復魔法の知識が、濁流となって頭の中へ流れ込んでくる。
傷を癒やすということは、どういうことなのか。
損傷した肉体を、どのように本来の状態へと巻き戻すのか。
そして、そのために必要な魔力を、どう御せばよいのか。
すべてが、最初から知っていた当たり前の知識であるかのように、私の中で融解していく。
やがて、文字の羅列は意味を保ったまま光の奔流へと変わり、私の意識は完全に現実から切り離された。
* * *
深い、深い、潜在意識の底。
そこに、私の記憶が浮かび上がる。
現代日本で過ごした、ごくありふれた退屈な日常。
貪るように読み耽った、数え切れないほどの物語。
そして、その中で出会った理不尽な悲劇の数々。
懸命に生きたのに報われなかった者。
大切な人を守れず、涙を流した者。
ほんの少し何かが違っていれば、幸せになれたかもしれない者たち。
――俺は、どうしてそんな物語に惹かれていたんだ?
悲しい話が好きだったからか?
違う。悲劇そのものを望んでいたわけじゃない。
なら、何を望んでいた?
悲劇の先にある救いか?
失われたものを取り戻し、傷ついた者たちが再び笑えるような結末か?
……そうだ。
俺は、そんな物語が見たかった。
そして、この世界に転生した。
迷宮都市オラリオ。華やかな冒険の舞台であると同時に、命が簡単に失われる凄惨な世界。
初めてその現実を知った時、俺は何を思った?
怖かった。
自分の無力さを思い知らされた。
物語の中なら簡単に乗り越えられるはずの困難が、現実では取り返しのつかない悲劇になることを知った。
それで、どうしたかった?
……目の前で誰かが傷つくのを、見たくなかった。
でも、俺に何ができる?
攻撃力はない。
圧倒的な敵を倒す力もない。
世界中の人々を救うなんて、大それたことを成し遂げられるほど万能でもない。
なら、諦めるのか?
手の届かない場所で誰かが苦しんでいても、自分には関係ないと目を逸らすのか?
違う。
せめて、手の届く範囲にいる人くらいは救いたい。
目の前で倒れた人に手を伸ばしたい。
失われかけた命を繋ぎ止めたい。
傷ついた誰かが、もう一度自分の足で歩き出せるようにしたい。
そのためには、何が必要だ?
傷つける力か?
敵を倒す力か?
……いや、今の俺が欲しいのは、そんな力じゃない。
傷を癒やす力。
痛みを和らげ、命を繋ぎ、絶望しか残されていないような瞬間に、まだ終わりじゃないと示せる力。
回復魔法。
俺が本当に欲しかったのは、それなのか?
――そうだ。
けれど。
本当に、それだけなのか?
誰かを救いたい。
そのために力が欲しい。
それは間違いない。
だが、もし誰かを救うために、自分自身がすべてを失うことになったら?
救いたかった人を救えず、後悔だけが残ったら?
ようやく手に入れた大切なものを、理不尽な運命に奪われたら?
俺は、それでも平気だと言えるのか?
……言えるわけがない。
俺だって、失いたくない。
救えなかったと後悔したくない。
大切な人たちと一緒に笑っていたい。
誰かの幸せを願う一方で、自分自身の幸せだって諦めたくない。
それは、身勝手な願いなのだろうか?
他人を救いたいと言いながら、本当は自分が後悔したくないだけなのか?
誰かの笑顔を守りたいと言いながら、その笑顔の隣に自分もいたいだけなのか?
……そうかもしれない。
善意だけでできた、綺麗な願いじゃない。
恐怖もある。
喪失への怯えもある。
自分が望む未来を手放したくないという、身勝手な欲望だってある。
それでも――それが何だ?
誰かを救いたい。
自分自身も幸せになりたい。
どちらか一つを選ばなければならない理由なんて、どこにある?
俺は、誰かを救うために自分の幸せを諦めたくない。
かといって、自分が幸せになるために、目の前で苦しんでいる人を見捨てたくもない。
なら、両方を望めばいい。
できるかどうかなんて、今は分からない。
どこまで手を伸ばせるのかも分からない。
それでも、最初から諦める必要はないはずだ。
――俺は、何を望んでいる?
この手が届く範囲にいる人たちを救いたい。
できることなら、一人でも多くの人に生きていてほしい。
そして、救った人たちと一緒に笑える未来を迎えたい。
それが、俺の願いだ。
もう、目を逸らすことはできなかった。
俺が何を望み、何を恐れ、何を手に入れたいと願っているのか。
自分自身に問いかけるたび、その答えが少しずつ明確になっていく。
そして――その答えが、一つの可能性へと結びつこうとしていた。
傷ついた肉体を癒やす力。
失われかけた命を繋ぐ力。
もう一度、前を向くための時間を与える力。
なぜ、その力が欲しい?
答えは、もう分かっている。
俺は、救いたいからだ。
――お前の『本質(ねがい)』は、しかと受け取った。
どこか懐かしい声が、魂の奥底から響いた。
その瞬間、散らばっていた知識と記憶が、一つに繋がっていく。
傷ついた肉体を癒やすとは、どういうことなのか。
魔力をどのように扱い、何をイメージすれば、その奇跡を実現できるのか。
そして、自分はなぜ、その力を求めているのか。
もう、迷う必要はなかった。
俺の願いは、確かにここにある。
誰かを救いたい。
自分自身も幸せになりたい。
そのどちらも、諦めない。
私の本質が、一つの『魔法』として形を成そうとしていた。
* * *
ハッと気づけば、魔導書のページから文字がすべて消えてそこに残されていたのは、何も記されていない真っ白なページだけだった。
深く遠のいていた意識が、オリハルコンの冷たい床の感触とともに、急速に現実へと引き戻される。
私は、自分が机に突っ伏したまま、寝ていたことに気がついた。
「……っは、あ、……す、すげぇ、な、これ……」
「大丈夫ですか、ラルゴ」
サイラスさんが心配そうに覗き込んできた。
私は呼吸を整えながら、手元の白紙になった魔導書をサイラスさんに見せる。
「サイラスさん、これ。文字が全部消えました」
「……完全に魔導書が役目を終えましたね」
サイラスさんは流れるような動作で立ち上がると、白銀の長剣をカチャリと鳴らした。
ちょうどその時、遠くの廊下から「マキシム! サイラス! 頼むからもう大工仕事の刑だけは勘弁してくれぇぇ!」という、全能神の情けない悲鳴が不壊の部屋まで響いてくる。
「ちょうどいいタイミングですね。マキシムに柱へ括り付けられ、髭を毟られている最中の主神から直接【更新】を毟り取って差し上げます。ラルゴ、貴方もついて来なさい」
「へいへい。あの爺さんに、俺の魔法をとっとと発現してもらいに行きますか!」
「……魔法が発現しているかどうかは、わかりませよ?」
私は服を着直すと、白紙に戻った魔導書を抱え、サイラスさんの後に続いて部屋を出た。
こうして、私は自分の背中に初の魔法を刻み込むべく、お仕置き真っ最中の主神ゼウスの元へと、軽い足取りで向かうのだった。