サイラスさんの後に続いて、オリハルコンの部屋から長い廊下へと足を踏み出す。
コツ、コツ、と二人の足音が響く中、前を歩くサイラスさんが振り返ることなく、静かな声で私に問いかけてきた。
「……ラルゴ。少し気になっていたのですが、あの魔導書(グリモア)には、一体どのような内容が記載されていたのですか?」
「え?」
私は歩きながら、一瞬きょとんとしてしまった。
何を言っているのだろう、このエルフの副団長は。自分で魂を込めて編み上げ、不壊の金庫室の隣に厳重に保管していた本じゃないか。
なぜ自分が書いた内容を私に聞くのか意図が分からなかったが、私は記憶に新しいその記述をそのまま思い出しながら、とりあえず素直に答えることにした。
「ええと……確か、最初のページには『回復魔法の原理と応用』って書いてありましたよ。傷口が塞がる仕組みとか、組織の修復プロセスとか、めちゃくちゃ論理的で分かりやすい専門書でした」
「『回復魔法』、ですか……」
サイラスさんは歩調を緩めることなく、得心がいったように小さく頷いた。
「なるほど。もし本当にあなたに魔法が発現していたとするならば、それはおそらく回復系の魔法でしょうね」
淡々と先を促すサイラスさんの横顔を見て、私の脳内に、どうしても拭えない一つの疑問が浮かび上がった。
私は小走りで彼の斜め後ろに並び、その美しい横顔を見上げながら尋ねる。
「あの、サイラスさん。ちょっと疑問なんですけど……」
「何ですか?」
「さっき部屋で、魔導書を読む前の俺に言ってましたよね。『貴方のその歪なステイタスから、一体どんな逃げるためだけの魔法が飛び出すのか興味がある』って」
「ええ、言いましたね。あなたのスキルは完全にそっちの方面へ尖りきっていますから」
「だったら、なんで『回復魔法』の魔導書を俺に渡したんですか? 囮や逃走に特化させたいなら、俊足をさらに引き上げる補助魔法とか、幻影を生み出す魔法のほうが、俺のステイタスにはよっぽど噛み合ってたと思うんですけど……」
私のそのまっとうな疑問に対して、サイラスさんは廊下の角を曲がりながら、フッと自嘲気味に息を吐いた。
「そもそも、私はあの魔導書に何が記述されているのか、その内容を知らないのですよ」
「……は? 自分で作ったんですよね?」
「自分で作った魔導書だからといって、内容が分かるとは限りません。魔導書というものは、その本の回路が他者の精神と同期し、誰かが読もうと『観測』して初めて、読む者の資質に応じた文字へと姿を変えるのです。ですから、製作者である私から見れば、あの本の中身はただの複雑な魔法陣や幾何学的な模様の羅列にしか認識できません」
「じゃあ……俺が読むまで、あれが回復魔法の本になるかどうかも分からなかったってことですか?」
「その通りです。魔導書はあなたの内なる願望を鏡のように映し出し、回復魔法の形式へと内容を組み替えたのでしょう」
信じられない下界の神秘の仕様に、私は目を丸くした。あの緻密な細胞レベルのロジックや丁寧な図解すら、その場で自動生成されたものだったのだ。
となると。私は喉の奥から変な汗が這い上がってくるのを感じながら、恐る恐る口を開いた。
「サイラスさん。じゃあ、ひょっとして……あの魔導書の『タイトル』も、サイラスさんには認識できていなかったんですか?」
「ええ、当然です。あなたが顔をしかめるまで、どのような文字列が浮かんでいたのかすら知りません」
「……本当の本当に、一文字も?」
「はい。ですが、あなたのあの嫌そうな反応から察するに、おそらく……いつものように、とてもおかしなタイトルになっていたのでしょう?」
サイラスさんは前を向いたまま、どこか遠い目をして、ため息混じりに淡々と告げた。
「なぜかは知りませんが、魔導書というものは、題名だけは例外なくすべて奇妙で、おかしなタイトルへと自動変換される仕様なのです。私が過去に作った物も、読んだ人間が例外なく全員、顔を真っ赤にして笑い転げ回るか、私を不審な目で見るかの二択でしたからね。……本当に不条理なシステムです」
「…………」
歩きながら、私は凄まじい罪悪感の波に襲われ、言葉を失った。
(サイラスの旦那、本当に、本当にすみませんでした……っ!!!)
私は心の中で、五体投地せんばかりの勢いで白銀の副団長に深く、深く謝罪した。
重度の邪王真眼発病者だの、十四歳の黒歴史ノート量産型だの、よくもまあそこまで心の中でボロクソに罵倒していたものである。彼はただ、純粋に論理的な魔導を追及していただけで、あの狂った中二病タイトル『終焉のクロニクル:果てなき世界への反逆者が行きつく魔法の極意』を生成したのは、世界の不条理なシステムのせいだったのだ。完全に、私の言いがかりである。
私はサイラスさんへの謝罪を心の中でしながら白紙に戻った魔導書をぎゅっと抱き締め、主神の元へ行く。
廊下の先から響く情けない悲鳴を頼りに、私とサイラスさんは主神ゼウスのいる場所へとたどり着いた。
案の定、そこには大黒柱にガッチリと括り付けられたゼウスの爺さんと、その前で「次はどこを毟ってやろうか」とニヤニヤしながら拳骨を鳴らすマキシムの旦那の姿があった。
「マ、マキシム! サイラス! 頼むからもう大工仕事の刑だけは勘弁してくれぇぇ! 儂はただ、我がファミリアの将来を憂いて新入りを――」
「往生際が悪いですよ、ゼウス様」
サイラスさんは冷徹な足取りで近づくと、白銀の長剣の柄に手をかけたまま、有無を言わせぬ絶対的な威圧感とともに言い放った。
「その見苦しい言い訳はそこまでにしなさい。新入りのラルゴが魔導書の読了を終えました。今すぐそのファルナを【更新】するのです」
「な、なんじゃと……!? もう読んだのか!?」
ゼウスの爺さんは、一瞬で世界の王たる鋭い眼光を取り戻し、縛られたまま私の顔を凝視した。そして「おいマキシム、縄を解けい!」と叫ぶ。マキシムの旦那が慣れた手つきで縄をほどくと、爺さんは「よし、別室へ行くぞ」と、いつになく真面目な顔で私を促した。
通された個室。私は上着を脱ぎ、ゼウスの爺さんに背中を向けてベッドにうつ伏せになった。
「では、
爺さんが自身の指先を小さく傷つけ、神の血を私の背中へと落とす。
その瞬間、背中が爆発するような熱を帯びた。潜在意識の底、あの光の濁流の中で完全に構築されていた『神秘』が、神聖文字(ヒエログリフ)となって私の肉体へと刻み込まれていく。空白だった魔法枠が、明確な意味を持つ文字列によって力強く塗り潰されていく確かな感覚があった。
「……ほう。これは、また随分と面白いものを引きずり出したのぅ」
爺さんが背中の文字をサラサラと羊皮紙に書き写していく。
更新を終え、手渡されたその紙に記載されていた私の初の固有魔法は、以下の通りだった。
【不屈の福音(リザレクション・レジスタンス)】
• 詠唱呪文:『この手が届くすべての生に、果てなき抗戦の残響を』
• 効果:
• 高位治癒魔法。
• 直接接触をした対象、及び自身へ効果発動。
•
•
• 負傷が深刻であるほど、治癒速度を上昇。
• 発動時、術者と対象の毒、呪い、弱体化、魅了、精神汚染に対する抵抗力(レジスト)を付与。
「ガハハハ! 治癒願望をそのまま上乗せ(ブースト)にする治癒魔法か! 傷が深いほど速度が上がるとは、まさにお主の『しぶとさ』がそのまま形になったような魔法じゃな!」
ゼウスの爺さんは羊皮紙を眺めながら、実におかしそうに声を上げて笑った。
効果は文句なしに最強だ。「目の前の人を救いたい」「自分も幸せになりたい」という私の我が儘な本質が、これ以上ないほど完璧に落とし込まれている。毒や呪いだけでなく、魅了や精神汚染にまで抵抗力を付与できるのは、精神攻撃が飛び交うこの世界において破格の性能と言っていい。
「それにしても、ラルゴよ。お主、男のヒーラー(治癒師)とは、また珍しいものを引き当てたのぅ」
「え、男のヒーラーってそんなに珍しいんですか?」
私が上着を着直しながら首を傾げると、ゼウスの爺さんは白髭を撫でながら、ふむ、と頷いた。
「下界において、治癒の資質を持つ者は基本的には優しき心を持つ女性や、精霊の愛し子たるエルフに偏るからの。特に『男の人間(ヒューマン)』で、ここまで高位の治癒魔法を最初から発現させる者など滅多におらん。儂がファミリアを率いてきた千年の歴史の中でも、今までに五人くらいしか見たことがないレベルじゃ」
「――五人!?」
私はその具体的な数字に、ごくりと喉を鳴らした。
千年の歴史を持つ世界最強のクランで、たったの五人。地頭の良い私のオタク脳が、その希少価値を瞬時に計算し、弾き出す。
「千年間で五人ってことは……単純計算で、二百年に一人の逸材ってことじゃん! 凄いな俺! 天才のスカウト大成功じゃん!」
私はグッと拳を握り締め、己の宿した規格外の才能に鼻を高くした。
攻撃力はゼロ。耐久力もペラペラ。だけど、世界一の逃げ足を持ち、二百年に一人の超希少な回復魔法を持つ男。
「よーし、この二百年に一人の天才っぷり、さっそくサイラスさんに報告して驚かせてやるとするか!」
私が鼻高々と個室の扉へ手をかけようとした瞬間、後ろからゼウスの爺さんが「待て待て、ラルゴよ」と不敵な笑みを浮かべて引き留めてきた。
「どうせなら、もっと面白い『余興』をやらんか?」
「余興? 何ですかそれ、面白そうじゃん」
「もうそろそろ晩飯の時間じゃろ? 団員たちが全員食堂に集まる。そこで新入りの自己紹介を兼ねて、お主のその素晴らしい新魔法と『詠唱』を盛大に披露してやるのじゃ! ガハハ、盛り上がるぞぉ!」
「お、いいね! 掴みとしては最高じゃん。さすがジジイ、エンタメが分かってるねぇ!」
私はお祭り騒ぎのノリで快諾した。自頭は良いはずなのに、なぜか主神のバカな行動と同調してしまうらしい。
二人でニヤニヤしながら個室の外へ出ると、そこには腕を組んだサイラスさんが、非の打ち所がない美しい佇まいで待っていた。
「ゼウス様、更新は終わりましたか。……ラルゴ、何ですかそのしまりのない顔は」
「サイラスの旦那! 今から食堂で、俺の自己紹介を兼ねた『魔法お披露目の余興』をやるってジジイが決めたんで、行ってきます!」
私がサムズアップして伝えると、サイラスさんはこれ以上ないほど露骨に「嫌そうな顔」を浮かべた。美しい眉が不快げにひそめられ、白銀のハイエルフの品格が一時的に危機を迎える。
「……はぁ、またそんな低俗な悪ふざけを。主神も新入りも、本当に知性という言葉をダンジョンに置いてきたのですか」
冷たく突き放すサイラスさんだったが、すぐにふぅ、と小さくため息をつき、自分を納得させるように呟いた。
「……いえ、しかし。あなたがこれからこのホームで一緒に暮らしていく仲間であるのは事実です。荒くれ者どもと親睦を深めるきっかけとして、そのような騒ぎも……確かに、必要悪、かもしれませんね」
真面目で苦労人な副団長様は、組織の潤滑油としての機能を脳内で論理的に補完し、渋々と余興を容認してくれた。
そして、三人で賑やかな食堂へと向かって歩き出そうとした、その時。
サイラスさんが私の肩をガシッと掴み、廊下の壁へと押し付けんばかりの勢いで顔を近づけてきた。
「いいですか、ラルゴ。くれぐれも、脳筋にだけはなるなと念を押しおきます」
「え、のうきん?」
「バカな行動をするのは、子供の悪戯として多少は目を瞑りましょう。ゼウス様と覗きの計画を立てるのも、後でまとめて大工仕事の刑に処すだけですから構いません。ですが、脳筋になることだけは、断じて許しません」
サイラスさんの美しい顔が、これまでにないほど必死な、切実極まりない色に染まっていた。力説するその口調からは、すさまじい執念と、中間管理職としてのリアルな悲痛さがひしひしと伝わってくる。
「せっかく我がファミリアに、一から十まで言葉が通じる『理論的に話せる者』が入ってきたのです。その希少な知性派が、あの周りの筋肉だるまどもに毒されて『なんかいい感じにドカンとやればいい』などと言い出す脳筋に成り下がるなど、私は絶対に避けたいのです! 分かりましたね!?」
「あ、はい……! ロジック、大事にします……っ!」
二百年に一人のヒーラーという事実よりも、「まともな会話ができる部下が欲しい」という副団長様の切実な魂の叫びに気圧され、私は全力で頷いた。
「それと、おめでとうございます、ラルゴ。紆余曲折ありましたが、無事に魔法が発現したようで何よりです。これからはその魔法を、下界救済とあなた自身の願いのために正しく使いなさい」
「サイラスさん……ありがとうございます!」
こうして私は、サイラスさんの熱い