親と学校に知られ、ナマエの日常は少しずつ管理されていく。
それでも蘭は、奪いに来ない。逃げもしない。
ただ、ナマエが返せる時間に合わせて連絡を続ける。
会えないことは、終わりではない。
二人は初めて、壊さないための繋がり方を覚えていく。
I. 細い糸
朝になっても、世界は元に戻らなかった。
ナマエはほとんど眠れないまま目を開けた。
枕元の携帯を手に取る。
通知はない。
最後に残っているのは、夜のやり取りだった。
『会いたくないわけじゃありません』
『分かってる』
その「分かってる」が、本当なのか分からない。
蘭は、怖くなると離れる。
だから、分かったかどうかより、遠ざかることの方が怖かった。
階下から、食器の音がした。
いつもの朝の音。
制服に着替え、リビングに降りると、父と母はすでに食卓についていた。
朝食はいつも通りに並んでいる。
父が新聞を畳む。
「今日、学校へはお母さんが送る」
ナマエの手が止まった。
「……ひとりで行けます」
「送る。帰りも迎えに行く」
母が静かに続けた。
「先生にも連絡してあります」
「先生にも?」
「あなたの安全のためよ」
安全。
昨日から、その言葉ばかりだった。
守るため。
あなたのため。
けれど、その中にナマエの気持ちは入っていなかった。
父が言った。
「彼とは終わりにしなさい」
ナマエは反射的に首を振った。
「嫌です」
母が息を呑む。
父の表情は変わらない。
「嫌でもだ」
「私の気持ちは関係ないの?」
「関係ある」
父は即答した。
「関係あるからこそ、今止めている」
ナマエは言葉に詰まった。
「君が本気で何も感じていない相手なら、ここまで強く止める必要はない。だが、昨日の君を見て分かった。アメリカの話をした時、君が最初に口にしたのは学校でも受験でもなく、彼のことだった」
ナマエは唇を噛んだ。
ーー蘭さんは。
たしかに、そう言った。
自分でも分かっている。
もう、蘭は自分の生活の外側にいる人ではなかった。
母が苦しそうに言う。
「好きな人ができることは悪いことじゃない。でも、あなたを危ない方へ連れていく相手なら、親として止める」
「蘭さんは、連れていってなんか……」
言いかけて、止まった。
六本木のクラブ、天竺の集会、幹部飲み会、イザナの指。
頭を掠める。
父は静かに言った。
「彼が君に優しいことと、彼のいる世界が危険であることは別だ」
あまりにも正しかった。
正しいから、苦しかった。
朝食はほとんど喉を通らなかった。
母の車で学校へ向かう間、車内は静かだった。
学校の近くで車が停まる。
「放課後、迎えに来るから」
「……はい」
「勝手に帰らないでね」
「分かってます」
母は少し黙ってから、ナマエの名前を呼んだ。
「お母さんたちは、あなたを苦しめたいわけじゃないの」
「分かってる」
「今は恨んでもいい。でも、あなたが無事でいてくれることの方が大事なの」
胸が痛んだ。
ナマエは何も言えず、車を降りた。
学校に入ると、すぐに担任に呼び止められた。
小さな面談室には、担任と生活指導の教師がいた。
怒っている顔ではなかった。
心配している顔だった。
それが、昨日の両親と同じで、余計に息苦しい。
「最近、放課後に校門付近で会っていた男性のことです」
担任が言った。
「あなたを責めたいわけではありません。ただ、学校としても見過ごせない状況です」
生活指導の教師が続ける。
「校門付近に外部の男性が頻繁にいる。複数の生徒から不安の声も出ています」
「蘭さんは....彼は、学校に何かしたわけじゃありません」
思わず言うと、先生は静かに頷いた。
「そうですね。でも、あなたが未成年の生徒である以上、学校には安全配慮の責任があります」
また、正しい言葉だった。
安全。
配慮。
保護。
どれも間違っていない。
なのに、その正しさがナマエを少しずつ追い詰めていく。
「しばらくの間、放課後は保護者のお迎えを確認してから下校してもらいます。校門付近でその男性を見かけた場合、保護者と警察に連絡する可能性もあります」
「警察……?」
声がかすれた。
「必要であれば、です。あなたを守るためです」
昼休み、ナマエは人の少ない階段の踊り場で携帯を開いた。
指先が震える。
『今日、学校に来ないでください』
返事は来ない。
一分。
二分。
『学校? 親?』
短い文字から、蘭の緊張が伝わった。
『両方です』
『先生から、学校の近くに来ないようにって』
『来たら警察に連絡されるかもしれません』
送ってから、ナマエは唇を噛んだ。
蘭を傷つけている気がした。
蘭は何も悪くない、とは言えない。
けれど、そんなふうに扱われていい人でもなかった。
返事は少し遅れた。
『分かった』
また、その言葉。
ナマエは急いで打った。
『会いたくないからじゃありません』
『蘭さんを悪者にしたくないからです』
しばらくして、返事が来る。
『もう悪者でしょ』
その文字を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
親にとって。
学校にとって。
報告書の中で。
蘭はもう、悪者だった。
ナマエがどれだけ違うと言っても、その構図は変えられない。
でも、ナマエにとっては違う。
それだけは、伝えたかった。
『私にとっては違います』
予鈴が鳴る。
戻らなければならない。
少しして、短く返ってきた。
『じゃあ今日は行かない』
ナマエは息を吐いたと同時に、胸が痛んだ。
すぐに、もう一通届く。
『でも連絡は返して』
その文字で、涙がこぼれそうになった。
蘭が、逃げていない。
会えないなら終わりにするのではなく、繋がる場所を残そうとしている。
ナマエは震える指で返した。
『返します』
『ちゃんと返します』
返事はなかった。
放課後、母の迎えで帰る時、ナマエは校門の外を見てしまった。
蘭はいなかった。
当たり前だ。
来ないでと言ったのは自分だ。
それでも探してしまう。
あの背の高い影。
壁にもたれる姿。
片手を上げる仕草。
どこにもいなかった。
帰宅して部屋に上がると、携帯が震えた。
『帰った?』
蘭だった。
『帰りました』
『親いる?』
『母がいます。父は夜です』
ナマエは少し迷ったあと、打った。
『親に、アメリカに行くように言われました』
長い沈黙。
『いつ』
たった二文字。
でも、その奥にあるものが怖かった。
『来月の終わりには、と言われました』
また沈黙。
『決定?』
『親はそのつもりです』
ナマエは画面を見つめた。
行きたくない。
蘭と離れたくない。
でも、それを言えば蘭を縛る気がした。
それでも、言わずにはいられなかった。
『私は行きたくありません』
送った瞬間、涙が落ちた。
返事はしばらく来なかった。
ようやく届いた文字は、短かった。
『分かった』
また、その言葉。
胸が冷たくなる。
けれど、続けてもう一通届いた。
『今は何もすんな』
『どういう意味ですか』
『親に逆らうな』
蘭は分かっている。
今、衝動で動けば、ナマエの立場がもっと悪くなる。
学校へ行けば、親と警察に連絡される。
家に行けば、取り返しがつかなくなる。
だから、行かない。
だから、動かない。
それは逃げではなく、踏みとどまりなのかもしれない。
『蘭さんは、それでいいんですか』
『いいわけない』
その文字を見た瞬間、涙が止まらなくなった。
『でも、今動いたら終わる』
ナマエは唇を噛んだ。
『じゃあ、どうすればいいですか』
『連絡返して』
昨日と同じ言葉。
でも、今度は少し違って見えた。
『会えなくても、返して』
蘭が、繋がろうとしている。
距離を置くのではなく、怖くても、会えなくても、そこだけは切らないようにしている。
ナマエは泣きながら打った。
『返します』
『絶対に返します』
少しして、蘭から返ってきた。
『俺も返す』
ただ、連絡を返す。
それだけ。
でも今の二人には、それが精一杯だった。
II. 逃げない努力
その夜、父が帰ってから、再び家族で話し合いになった。
留学先。
手続き。
学校への連絡。
携帯の管理。
外出制限。
父は冷静に説明し、母は時々言葉を補った。
ナマエはほとんど黙っていた。
反抗しなかった。
ーー親に逆らうな。
蘭の言葉が頭に残っていたからだ。
ここで泣き叫んでも、何も変わらない。
むしろ、悪くなる。
話の終わりに、父が言った。
「しばらく携帯は夜十時以降預かる」
ナマエは顔を上げた。
「……どうして」
「夜間の連絡を避けるためだ」
母が苦しそうに言う。
「完全に取り上げるわけではないの。朝には返すわ」
十時。
それまでに、蘭に連絡しなければ。
部屋に戻ると、すぐに送った。
『夜10時以降、携帯を預けることになりました』
すぐに返事が来た。
『マジか』
その文字に、少しだけ笑いそうになった。
こんな状況なのに、蘭の言葉が少しだけいつも通りだった。
『朝と、昼休みと、放課後少しなら返せます』
『分かった』
『その時間に送る』
夜の人だった蘭が、ナマエの狭くなった時間に合わせようとしている。
それが、泣きたくなるほど嬉しかった。
十時が近づく。
ナマエは最後に迷って、打った。
『蘭さん』
『何』
『離れないでください』
送った瞬間、心臓が痛いほど鳴った。
重いと思われるかもしれない。
困らせるかもしれない。
でも、言わずにはいられなかった。
やがて、画面に文字が浮かぶ。
『逃げない努力するって言ったでしょ』
ナマエの目から涙がこぼれた。
完全な約束ではない。
でも、蘭の精一杯だった。
『ナマエも逃げんなよ』
ナマエは泣きながら笑った。
『逃げません』
十時になる直前、母が部屋に来た。
「携帯、預かるわね」
ナマエは画面を閉じる。
「……はい」
携帯を渡すナマエの泣きはらした真っ赤な目をみて、母は少しだけためらった。
「ごめんね」
謝られると、余計に苦しい。
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
蘭と繋がるものが、急に消えたようだった。
それでも、最後の言葉だけは残っている。
ーー逃げない努力する。
ーーナマエも逃げんなよ。
細くても、まだ繋がっている。
朝になれば、携帯は戻ってくる。
昼休みには連絡できる。
放課後にも少しだけ。
それだけを頼りに、ナマエは夜を越えようとした。
その頃、蘭も携帯を見つめていた。
十時を過ぎてから、携帯は震えない。
分かっている。
携帯を預けたのだ。
それでも、画面を見てしまう。
蘭はソファに沈み、天井を見上げた。
ーー逃げない努力。
自分で送った言葉が、胸に残っていた。
絶対に離れない、と言うには、自分がまだ信用できない。
迎えに行く、と言えば、ナマエをもっと追い詰める。
親から奪う、と言えば、全部壊れる。
だから、努力。
みっともない。
でも、それが今の本気だった。
「兄貴」
竜胆が部屋に入ってきた。
「ナマエちゃん?」
「親にバレた」
竜胆の顔から笑みが消える。
「学校にも話行ってる。俺のことも調べられてる」
「マジ?......まあ、親から見たらアウトだよね」
「知ってる」
蘭は目を閉じた。
「アメリカ行かせるって。来月の終わり」
「……は?」
竜胆はしばらく黙ったあと、低く言った。
「兄貴。行くなよ」
蘭が顔を上げる。
「どこに」
「家とか、学校とか」
蘭は笑った。
「俺が何すると思ってんの」
「分かんないから言ってんの」
竜胆の顔は真剣だった。
「今行ったら、ナマエちゃんの立場終わるよ」
「分かってる」
「ほんとに?」
蘭の声が低くなる。
「俺が行ったら、あいつが悪くなる。学校にも親にも、やっぱり危ない男だって証明するだけだろ。だから行かない」
言葉にするたび、胸の奥が軋んだ。
行かないことが、守ることになる。
そんな守り方は、蘭が一番苦手なものだった。
奪う方が簡単だ。
乗り込む方が簡単だ。
邪魔なものを壊す方が、よほど簡単だ。
でも、それをすればナマエが壊れる。
竜胆が小さく言った。
「兄貴、変わったね」
蘭は笑わなかった。
「変わってねえよ」
「変わったよ。前なら、もうとっくに行ってた」
たぶん、そうだった。
でも今は、ナマエの立場を考えている。
ナマエがこれ以上傷つかない方法を考えている。
それが、自分でも気持ち悪いほどだった。
「竜胆」
「ん?」
「俺、どうしたらいいと思う」
竜胆は驚いた顔をした。
「……俺に聞く?」
「聞いてんじゃん」
竜胆は少し考えた。
「今は、動かない。でも、消えない」
「消えない?」
「うん。ナマエちゃんが今いちばん怖いの、兄貴がまた距離置くことだと思う。会えないなら連絡する。返せる時間に合わせる。約束守る。変に強がって、じゃあ別れよ、とか言わない」
「言わねえよ」
「兄貴なら言いそうだから」
蘭は言い返せなかった。
竜胆は続けた。
「あと、ナマエちゃんの親を敵にしない方がいい。本当に大事なら、これ以上敵にならない方がいい」
殴れない。
奪えない。
脅せない。
笑ってごまかせない。
自分の得意なものが、何も使えない。
残っているのは、待つことと、言葉を返すことだけ。
「最悪」
蘭が呟くと、竜胆は少し笑った。
「恋って感じ」
蘭はクッションを投げた。
けれど、否定はしなかった。
翌朝、ナマエが携帯を取り戻すと、蘭からメッセージが届いていた。
『おはよ』
たった三文字。
それを見た瞬間、ナマエは泣きそうになった。
蘭が、ちゃんと朝に送ってくれた。
ナマエが返せる時間に。
『おはよう』
すぐに返事が来た。
『学校、気をつけて』
ナマエは返した。
『今日も逃げません』
『俺も』
その日から、二人は細い糸のような連絡を続けた。
蘭は学校にも家にも来なかった。
放課後、ナマエが外を探してしまうことも分かっていたのか、時々「行ってない」とだけ送ってきた。
父とも少しずつ話した。
車の中で、父が聞く。
「彼とは今日も連絡を取ったのか」
「取った」
「隠さないんだな」
「隠すと、もっと悪くなると思うから」
「何を話した」
「学校の外に出ないこと。お父さんが迎えに来ること。家に帰ったら連絡すること」
「会う約束は」
「してない」
「彼は学校の近くに来ると言ったか」
「言ってない。本当」
父はしばらく黙った。
「彼は、今のところ君の立場を悪くする行動はしていないんだな」
ナマエは息を止めた。
「……うん」
「そうか」
それだけだった。
でも、ナマエには大きかった。
父が初めて、蘭の行動をひとつだけ事実として認めた気がした。
母にも言った。
「蘭さんといた時間まで、悪いものにしないでほしい」
母はすぐには頷かなかった。
けれど、否定もしなかった。
「あなたがそう思っていることは、覚えておく」
決定は変わらない。
アメリカ行きも、外出制限も、携帯の管理も続く。
それでも、ナマエの言葉は少しずつ、家の中に落ちていった。
数日後、留学先とのオンライン面談が行われた。
画面の向こうの女性は穏やかだった。
現地での生活、学校のサポート、滞在先のこと。
父も母も真剣に聞いている。
誰も悪意で動いていない。
それなのに、ナマエの胸はどんどん狭くなっていく。
「ナマエさんは、海外での生活に不安はありますか?」
画面の向こうから聞かれた。
英語が不安。
生活が不安。
学校が不安。
それも嘘ではない。
でも、一番の不安はそこではなかった。
ナマエは少し黙ってから、言った。
「自分の意思で決めたことではないまま、行くことです」
部屋の空気が変わった。
父は表情を動かさず、母は目を伏せた。
画面の女性は、少しだけ表情を柔らかくした。
「それは大きな不安ですね。実際に行くのはナマエさんです。納得できないまま進むことには、当然不安があると思います」
否定されなかったことに、ナマエは驚いた。
「不安なことは、言葉にしていきましょう。海外での生活が、誰かに決められた罰のようになってしまうと、とてもつらいですから」
—罰。
その言葉に、胸が締めつけられた。
どこかで、そう思っていた。
蘭と出会った罰。
親に嘘をついた罰。
危ない場所へ行った罰。
蘭を好きになった罰。
面談後、父は言った。
「思っていることを言えたのは、よかった」
ナマエは父を見た。
怒られると思っていた。
「でも、決定は変わらないんでしょ」
父は少しだけ目を伏せた。
「現時点では」
「現時点?」
「出発の準備は進める。だが、君が何を不安に思っているのかは、こちらも聞く」
救いなのか。
ただの猶予なのか。
ナマエには分からなかった。
父は続けた。
「彼のことも含めて、だ」
ナマエは息を止めた。
「蘭さんのこと?」
「そうだ。認めると言っているわけではない。だが、君がそこまで大事だと言うなら、君の中で彼がどういう存在なのかは、親として知る必要がある」
その夜、ナマエは蘭に伝えた。
『父が、蘭さんのことも聞くと言いました』
返事はすぐには来なかった。
『俺のこと話すの?』
『たぶん』
『悪く言われるよ』
『分かっています。でも、私が何も言わないと、報告書の中の蘭さんだけになります』
長い沈黙。
『無理すんな』
やめろとは言わない。
でも、無理するなと言う。
それが、今の蘭の優しさだった。
『蘭さんとの時間まで、悪いものにされたくないんです』
返事は少し遅れて届いた。
『そういうこと言うなよ』
続けて、もう一通。
『会いたくなるだろ』
ナマエは画面を見つめたまま、胸を押さえた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
二人は、壊れない繋がり方を覚え始めていた。
けれど、携帯の文字だけでは届かない場所がある。
ナマエが守ろうとしている蘭。
父が危険だと判断した灰谷蘭。
その二人が、本当に同じ人間なのか。
父は、確かめようとしている。
そして蘭も、もう逃げられない。
細い糸の先で、次に待っているのは――
父と灰谷蘭が、初めて向き合う日だった。