六本木の温度差   作:ぷーぷ

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「前倒しになるかもしれません」
父から告げられたのは、アメリカ行きの前倒し。
ただし、二週間だけ猶予が与えられた。
見られるのは、蘭ではなくナマエ。
好きな人を逃げ道にせず、自分の足で立てるのか。
そして蘭は、迎えに行かず、連れ出さず、支えることができるのか。


最初の勝負

I. 前倒し

 

蘭とナマエの父親が会ってから、数日が過ぎた。

 

状況が劇的に変わったわけではない。

 

ナマエの携帯は、朝になると返され、夜十時には母に預ける。

学校へは母が送り、帰りは父か母が迎えに来る。

放課後にひとりでどこかへ寄ることもできない。

 

けれど、父の態度は少しだけ変わった。

 

蘭の名前を出しても、前ほど硬い顔をしなくなった。

 

許されたわけではない。

認められたわけでもない。

 

それでも、父の中で蘭は、ただの「危険な男」ではなくなっている。

 

ナマエには、それが分かった。

 

蘭は約束を破らなかった。

学校にも来なかった。

家にも来なかった。

ナマエを連れ出そうともしなかった。

 

それはきっと、父にも伝わっている。

 

だから、ほんの少しだけ思っていた。

 

このままなら。

少しずつなら。

何かが変わるかもしれない、と。

 

けれど、その期待はあっさり踏みつぶされた。

 

その日、父はいつもより早く帰ってきた。

 

玄関の音を聞いた時点で、ナマエは顔を上げた。

母もキッチンから出てくる。

 

父はリビングに入ると、鞄を置き、ネクタイも緩めないまま言った。

 

「向こうの学校から連絡があった」

 

その一言で、空気が変わった。

 

ナマエの指先が冷える。

母が先に聞いた。

 

「何の連絡?」

 

父はナマエを見た。

 

「受け入れの日程を前倒しできるそうだ」

 

意味が、すぐには入ってこなかった。

 

「……前倒し?」

 

「来月の終わりではなく、三週間後」

 

時計の針の音が、急に大きく聞こえた。

 

三週間後。

 

たったそれだけ。

 

「そんなの、急すぎる」

 

声が思ったより強く出た。

父は動じなかった。

 

「早く生活に慣れた方がいいという判断だ。こちらとしても、その方がいい」

 

「こちらって、お父さんが?」

 

「そうだ」

 

迷いのない声だった。

 

ナマエは膝の上で手を握った。

 

「この前、蘭さんと会ったのは何だったの」

 

「彼を見るためだ」

 

「見たんでしょ」

 

「見た」

 

「だったら」

 

「見た上で、判断は変わらない」

 

言葉が、胸に落ちる前に刺さった。

 

父は淡々と続けた。

 

「彼が約束を守ったことは認める。嘘をつかなかったことも、君を無理に動かそうとしなかったことも」

 

ナマエは息を止めた。

 

「だが、それでも、君を彼のいる環境に戻す判断はできない」

 

「戻すって……」

 

「君の日常は、もう大きく揺れている」

 

「揺らしたのは、お父さんたちじゃない」

 

母が小さく息を呑んだ。

 

父の表情は変わらない。

けれど、目だけが少し細くなった。

 

ナマエは止まれなかった。

 

「全部取り上げようとしたから、苦しくなったんだよ。蘭さんのせいだけじゃない」

 

「取り上げなければ、君はさらに深く関わっていた」

 

「それが悪いことだって、どうして決めるの」

 

「親だからだ」

 

即答だった。

その速さが、余計に痛かった。

 

父はナマエの気持ちを聞いていないわけではない。

聞いた上で、退けている。

 

「彼が君を大事に思っていることは分かった」

 

父は冷静に言った。

 

「だが、彼自身がまだ自分を持て余していることも分かった」

 

ナマエは言い返せなかった。

 

間違っていないからだ。

 

蘭は変わろうとしている。

逃げずにいようとしている。

でも、父から見れば、それはまだ「娘を預けられる理由」にはならない。

 

「お父さんは、最初から認める気なんてなかったんでしょ」

 

声が震えた。

 

父は少しだけ目を伏せた。

 

「認める、認めないの話ではない」

 

「じゃあ何」

 

「君を守る」

 

また、その言葉だった。

 

守る。

 

何度も聞いた。

聞くたびに、ナマエは自分の周りに壁を作られていく気がした。

 

「私がどう思うかは?」

 

「聞いている」

 

「聞くだけ?」

 

「今は、それしかできない」

 

父の声が、初めて少しだけ疲れて聞こえた。

 

「君の気持ちを聞いた上で、それでも親として違う判断をすることはある」

 

何も言えなくなった。

 

リビングに沈黙が落ちた。

 

その時、母が口を開いた。

 

「……ひとつ、提案していい?」

 

父が顔を上げる。

 

母は静かにテーブルの向こうを見た。

 

「前倒しにする理由は、このままだとナマエが不安定になるから、でしょう?」

 

父は否定しなかった。

 

「だったら、本当にそうなのかを見てからでもいいんじゃない?」

 

ナマエは顔を上げた。

 

「蘭くんが押しかけてこなかったことは、もう分かっている。約束を破らなかったことも分かっている」

 

母はそこで一度言葉を切った。

 

「でも、あなたが本当に見るべきなのは、蘭くんだけじゃないと思う」

 

父の目が動いた。

 

「ナマエが、蘭くんとつながったままでも生活を崩さずにいられるのか。学校へ行って、食べて、眠って、進路の準備も続けられるのか」

 

母の声は柔らかい。

けれど、逃げ道を作る声ではなかった。

 

「そこを見ないまま切り離してしまったら、この子は何も選べないまま連れて行かれるだけになる」

 

ナマエは息を止めた。

 

母は父を見る。

 

「二週間だけ、見ましょう」

 

「二週間?」

 

父が低く聞き返す。

 

「蘭くんを見る二週間じゃない。ナマエを見る二週間」

 

その言葉が、ナマエの胸にまっすぐ入ってきた。

 

母は味方をしてくれている。

でも、甘やかしているわけではない。

 

これは猶予ではなく、責任だ。

 

「この子が、恋愛だけで全部を壊す子なのか。それとも、好きな人がいても、自分の足で立とうとする子なのか。それを見てからでも、前倒しの判断は遅くないと思う」

 

父はしばらく黙っていた。

 

長い沈黙だった。

 

やがて、父が低く息を吐いた。

 

「……条件がある」

 

ナマエの背筋が伸びた。

 

父はひとつずつ言った。

 

「学校を休まない」

 

「はい」

 

「食事を抜かない」

 

「はい」

 

「眠る努力をする」

 

ナマエは少し詰まった。

 

夜になると、不安で眠れなくなる。

携帯を預けた後、暗い部屋で何度も蘭のことを考えてしまう。

父は、それも気づいていたのだ。

 

「……はい」

 

「進路準備を止めない」

 

「はい」

 

「彼のことだけで一日を終わらせない」

 

それが一番痛かった。

蘭を好きでいるなと言われたわけではない。

ただ、蘭だけになってはいけないと言われている。

 

ナマエは唇を噛んだ。

 

「はい」

 

「苦しくなった時、彼だけに寄りかからない。家族との話し合いを拒まない」

 

「……はい」

 

「そして」

 

父の声が、少しだけ硬くなる。

 

「彼に迎えに来てほしい、連れ出してほしいとは言わない」

 

父はまっすぐナマエを見ていた。

 

「彼との連絡自体を禁じるつもりはない。もう毎日やり取りしていることは分かっている」

 

ナマエは顔を上げた。

 

「問題は、連絡を取ることではない。その連絡で、君の生活が崩れるかどうかだ」

 

父は続けた。

 

「彼にも条件がある。君を二度とあちらの世界に関わらせないこと。こちらから引き剥がそうとしないこと。君がここで踏みとどまろうとしているなら、それを邪魔しないこと」

 

ナマエは何も言えなかった。

 

「二週間見る。その結果で、前倒しをするかどうか判断する」

 

胸の奥で、何かが小さく鳴った。

 

ーーまだ終わっていない。

 

けれど、父はすぐに現実を戻した。

 

「ただし、アメリカ行き自体は別問題だ」

 

浮きかけた希望が、そこで止まる。

 

行かなくてよくなったわけではない。

蘭と自由に会えるようになったわけでもない。

 

それでも、ゼロではなかった。

 

まだ、手を伸ばせる場所がある。

 

ナマエは拳を握った。

 

「……やる。私、やります」

 

父はナマエを見た。

 

「彼にも伝えなさい」

 

II.一緒にやる

 

十時まで、あと二十分だった。

 

部屋へ戻ると、ナマエはすぐに携帯を開いた。

 

何から言えばいいのか分からない。

でも、蘭にはちゃんと話したかった。

 

深呼吸して、画面に指を置く。

 

『アメリカのことなんですが』

 

返事はすぐ来た。

 

『うん』

 

それだけで胸が苦しくなる。

 

『前倒しになるかもしれません』

 

返信が止まった。

 

いつもなら軽く返ってくる数秒が、やけに長い。

ナマエは画面を握る指に力を入れた。

 

やがて、短く届いた。

 

『いつ』

 

『三週間後です』

 

また、間が空く。

 

『はや』

 

たった一言なのに、蘭の息が詰まったのが分かった気がした。

 

『ごめんなさい』

 

すぐに返ってきた。

 

『何でナマエが謝んの』

 

ナマエは目を伏せた。

 

『まだ決まったわけではありません』

 

『お母さんが話してくれて、二週間だけ待ってもらえることになりました』

 

『待つ?』

 

『見るって言われました』

 

『俺を?』

 

ナマエは首を振るように、すぐ打った。

 

『違います』

 

『私を、です』

 

返事は来なかった。

 

ナマエは、父に言われた条件をひとつずつ送った。

 

『蘭さんと連絡を取っていても、学校に行けるか』

 

『食事を抜かないでいられるか』

 

『眠る努力ができるか』

 

『進路の準備を続けられるか』

 

『蘭さんのことだけで一日を終わらせないでいられるか』

 

『苦しい時、蘭さんだけに寄りかからないで、家族とも話せるか』

 

打ちながら、喉の奥が詰まった。

 

文字にすると、逃げ場がなくなる。

父の条件は正しい。

正しいから、苦しい。

 

蘭を好きなまま生活を守れるか。

会えないまま、壊れずにいられるか。

好きな人を逃げ道にしないで、自分の足で立てるか。

 

それを見られる二週間。

 

ナマエは息を吐いて、続きを送った。

 

『蘭さんへの条件は、私をそちらの世界に関わらせないこと』

 

『私がここで踏みとどまろうとしているのを、邪魔しないこと』

 

送信してから、指が止まった。

 

蘭は、誰かに何かを禁じられることが嫌いだ。

奪われることも、縛られることも、たぶん誰より嫌いだ。

 

それなのに、今度は蘭が我慢しなければいけない。

 

迎えに行きたいと思っても、行かない。

連れ出したいと思っても、手を出さない。

ナマエが苦しいと言っても、自分の方へ引っ張らない。

 

そんなこと、蘭は慣れていない。

怖いのは、ナマエだけじゃない。

 

しばらくして、画面が光った。

 

『それ、ナマエだけしんどくない?』

 

胸がぎゅっと痛くなった。

蘭は、自分が会えないことより先に、ナマエが試されることを気にしている。

 

ナマエは画面を見つめた。

 

『しんどいです』

 

正直に送った。

 

怖い。

逃げたい。

蘭に迎えに来てほしいと思ってしまう夜も。

 

でも、その言葉だけは蘭に渡してしまってはいけない。

蘭が来てしまったら、全部壊れる。

 

ナマエは続けて打った。

 

『でも、私だけじゃありません』

 

『蘭さんも、会いに来ないでいてくれてます』

 

『私を連れ出さないでいてくれてます』

 

『返事が遅くても、怒らないでいてくれてます』

 

『それは、何もしていないってことじゃないです』

 

『私がここで踏みとどまれるように、支えてくれてるってことです』

 

今度の沈黙は、さっきより短かった。

 

『そっか』

 

それだけだった。

でも、ナマエには分かった。

 

蘭は、受け取っている。

ナマエの言葉を。

気持ちを。

 

ナマエはもう一度、画面を見た。

 

『私、二週間ちゃんとやります』

 

返事は少し遅れて届いた。

 

『ひとりでやれって言ってない』

 

ナマエの指が止まった。

続けて、もう一通。

 

『会えないだけでしょ』

 

そして、もう一通。

 

『一緒にやる』

 

画面が滲んだ。

 

ナマエは慌てて瞬きをした。

泣いたら、母に心配される。

十時まで、もう時間がない。

それでも、涙は勝手にこぼれそうになった。

 

蘭から次々に届く。

 

『飯食ったか聞く』

 

『寝たか聞く』

 

『学校行ったか聞く』

 

『返事遅くても待つ』

 

『しんどいって言われても、こっち来いって言わない』

 

そこで少し間が空いた。

 

『それくらいしかできないけど』

 

ナマエは画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。

 

ーーそれくらい。

 

蘭はそう言う。

 

でも、今のナマエに必要なのは、蘭が全部を壊して迎えに来ることではなかった。

ナマエが立っている場所を壊さずに、そこに立ち続けるための支えになってくれることだった。

 

蘭にとっても、それは簡単なことではない。

 

会えない。

触れられない。

守りたい相手が苦しんでいると分かっていても、力ずくで奪いに行けない。

 

蘭はきっと、そういう守り方を知らない。

 

それでも今、知らないまま始めようとしている。

 

怖くても。

自信がなくても。

自分の手で壊してしまわないように、必死で距離を測っている。

 

ナマエは震える指で送った。

 

『ありがとう』

 

返事は少し遅れた。

 

『じゃあ明日の朝、飯の写真送って』

 

ナマエは涙を拭いながら、少しだけ笑った。

 

『食事の写真ですか』

 

『食った証拠』

 

『蘭さんも送ってください』

 

『俺も?』

 

『一緒にやるんですよね』

 

少し間があった。

 

『めんど』

 

ナマエは小さく笑った。

 

『嫌なんですか』

 

『嫌とは言ってない』

 

『では、送ってください』

 

『分かった』

 

『ちゃんと食べてくださいね』

 

『それこっちの台詞』

 

ナマエは画面を見つめた。

 

会えない。

電話をしようと思えばできる。

けれど、声を聞いたら、ナマエも蘭も、今いる場所に踏みとどまれなくなる気がした。

 

三週間後には、離されるかもしれない。

 

それでも今、蘭は逃げなかった。

ただ、同じ二週間の中に入ってきた。

 

細い糸だった。

少し力を入れれば切れてしまいそうで、手を離せばすぐに見失ってしまいそうな糸。

 

それでも、蘭は自分の側でそれを離さなかった。

ナマエもまた、こちら側で必死に握り返していた。

 

その時、ドアがノックされた。

 

「十時よ」

 

母の声だった。

ナマエは慌てて涙を拭った。

 

『携帯預けます』

 

『うん』

 

『おやすみなさい』

 

『おやすみ』

 

少しして、もう一通届いた。

 

『明日からな』

 

ナマエは画面を見つめた。

 

『はい』

 

送信して、携帯を胸に押し当てる。

画面が暗くなった瞬間、二週間という時間が急に輪郭を持った。

 

朝起きること。

学校へ行くこと。

ご飯を食べること。

眠る努力をすること。

進路の準備を止めないこと。

泣きたくなっても、全部を投げ出さないこと。

 

そして、蘭を好きなまま、自分の生活を壊さないこと。

 

ナマエが、自分の足で立つための時間。

蘭が、奪うのではなく支えることを覚える時間。

 

二人が、離されるかもしれない前に、初めて同じ方向を見る時間。

期限は、たった十四日。

 

その先にあるのは、三週間後の別れか。

それとも、まだ誰も知らない別の未来か。

 

ナマエは暗くなった携帯を母に渡し、静かに息を吸った。

 

明日から、始まる。

父に許してもらうためだけの猶予ではない。

二人で掴みにいく、最初の勝負だった。

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