好きなら、そばに置きたい。
好きなら、自分の世界を見せたい。
けれど蘭が選んだのは、その逆だった。
今目の前にある小さな光を消さないために。
[b:I 生活を守る]
二週間は、静かに始まった。
携帯を返される時間まで、ただ待つのではない。
ちゃんと朝を始める。
顔を洗う。
制服に着替える。
髪を整える。
朝食を食べる。
リビングへ行くと、母が驚いたように顔を上げた。
「今日は早いのね」
「うん」
「眠れた?」
「うん」
本当は、何度か目が覚めた。
けれど、昨日よりは眠れた。
だから嘘ではなかった。
父はすでに席に着き、新聞を読んでいた。
新聞の向こうから、こちらを見ている。
以前なら、その視線が嫌だった。
監視されているようで。
信用されていないようで。
でも今は、少しだけ違って見えた。
父は見張っている。
けれど、見守ってもいる。
その二つは、完全には分けられないのだと、少しずつ分かってきた。
「いただきます」
ナマエは席に座り、ご飯を口に運んだ。
父は何も言わない。
母も何も言わない。
ただ、いつもの朝食の匂いがした。
食後、母が携帯を返してくれた。
「学校へ行くまでね」
「うん」
ナマエは受け取ると、その場で画面をつけた。
蘭から、いつものメッセージが届いていた。
『おはよ』
たったそれだけで、胸の奥が少し緩む。
『おはようございます』
すぐに返事が来た。
『飯食った?』
『食べました』
『写真は?』
ナマエは食卓を見た。
皿はもう片づけられかけている。
母が不思議そうにこちらを見た。
「どうしたの?」
「蘭さんが、朝ごはんの写真はって」
言ってから、少し顔が熱くなる。
母は一瞬だけ驚いた。
それから、ふっと笑った。
「もう片づけちゃうところだったわ」
母は残っていた味噌汁と小鉢を、そっと整えてくれた。
「これでいい?」
ナマエは目を瞬かせた。
「……いいの?」
「写真くらいなら」
その一言に、胸が詰まった。
母が、少しだけ協力してくれた。
ほんの小さなことだった。
けれど、ナマエには大きかった。
「ありがとう」
母は困ったように笑う。
ナマエは少し笑って、写真を撮った。
蘭へ送る。
少しして、返事が来た。
『ちゃんとしてる』
『かたずけてしまってたんですが、母が整えてくれました』
返事は、少し遅れた。
『母親かわいいじゃん』
続けて、もう一通。
『ありがたいね』
ナマエは画面を見つめた。
――ありがたい。
蘭が、母の小さな行動をちゃんと受け取っている。
親をただ邪魔なものとして見ていない。
それが、嬉しかった。
『はい』
ナマエは返した。
『ありがたいです』
学校でも、少しだけ落ち着いて過ごせた。
もちろん、全部が元に戻ったわけではない。
廊下を歩けば視線が気になる。
先生に呼び止められるたび、身構える。
それでも、崩れなかった。
昼休みには、弁当の写真を送った。
『今日はお弁当です』
少しして、蘭からも写真が返ってくる。
初日は定食。
二日目はコンビニのおにぎりとサラダ。
三日目はラーメン。
『野菜がありません』
『ネギある』
『それは野菜に数えません』
『厳しい』
少しして、野菜ジュースの写真が送られてきた。
『これでいい?』
ナマエは思わず笑った。
『少しだけ認めます』
『少しだけかよ』
そんなやり取りをしながら、一日が進んでいく。
蘭とつながっている。
けれど、蘭だけで一日を終わらせない。
授業を受ける。
昼食を食べる。
課題を出す。
家へ帰る。
夜十時前に携帯を預ける。
簡単ではなかった。
授業中、ふと蘭のことを考えてしまう。
校門の外に姿を探してしまう。
夜、携帯を預けたあと、暗い部屋で急に不安になる。
三週間後、本当に行かされるのか。
この二週間が終わったらどうなるのか。
蘭は、いつまで待ってくれるのか。
考え始めると、胸が苦しくなる。
けれど、そのたびにナマエは自分に言い聞かせた。
今、やること。
今日、崩さないこと。
父に認めてもらうためだけではない。
蘭を好きなまま、自分の足で立つために。
放課後、父が迎えに来た日は、車内で短く報告した。
「今日は昼食を全部食べた」
「そうか」
「課題も、帰ったらやる」
「分かった」
父の返事は短い。
けれど、ちゃんと聞いている。
少しして、父が言った。
「彼とは連絡を取ったのか」
「昼休みに。ご飯の写真を送った」
「それだけか」
「少しだけ話した。蘭さんも食べてるかって」
父は前を向いたまま黙った。
「彼も、食事の写真を送っているのか」
「うん」
「そうか」
また、その一言。
でもナマエには分かる。
父は見ている。
蘭がどういう言葉を送るのか。
ナマエがそれで不安定になるのか、落ち着くのか。
蘭が、ナマエの生活を崩そうとしていないか。
怖い。
でも、少しだけ安心もある。
見られているということは、守れば伝わるということでもある。
ナマエは窓の外を見た。
夕方の街が流れていく。
今日一日を崩さない。
明日も続ける。
それが今、自分にできることだった。
[b:II 線を守る]
「兄貴」
ソファーに沈んで天井を見ている蘭の隣で竜胆が声をかける。
「何、難しい顔してんの」
蘭はそのままの態勢で言った。
「ナマエ、もうこっち側には連れてこない」
竜胆が少しだけ目を丸くした。
「親父さんとの条件?」
「まあね」
「兄貴は?」
「それでいいって言った」
竜胆はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「偉いじゃん」
「子ども扱いすんな」
「前なら嫌がってたでしょ」
蘭は否定しなかった。
嫌ではある。
自分の場所に、ナマエがいない。
隣に置けない。
六本木の夜に、連れていけない。
それは、思ったより寂しい。
でも、安心の方が大きかった。
あの場所に置けば、ナマエはまた誰かの目に晒される。
蘭の隣にいるというだけで、意味をつけられる。
からかわれる。
試される。
そして何より、蘭自身が、自分をまだ信用できなかった。
見せつけたくなる。
自分のものだと示したくなる。
誰にも触れさせないと、笑いながら線を引きたくなる。
そういう自分を、まだ完全には飼いならせていない。
「嫌じゃないの」
竜胆が聞いた。
「嫌だよ」
「だよね」
「でも、安心の方がでかい」
竜胆は少しだけ表情を柔らかくした。
「ちゃんと彼氏してんじゃん」
蘭は眉を寄せる。
「彼氏って何」
「そこから?」
「うるせー」
その夜、蘭と竜胆は天竺の集まりへ顔を出した。
煙草の匂い。
低い笑い声。
壁に沈むような音楽。
いつもの夜だった。
奥にはイザナがいる。
蘭が来たことに気づいても、イザナはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくり口を開く。
「蘭」
場の空気が、少しだけ止まった。
「もう連れてこないのか」
名前は出なかった。
それでも、誰のことかは全員分かった。
蘭は笑った。
「連れてこない」
「何で」
「俺が決めた」
「飽きた?」
「逆」
蘭は、笑みを薄くした。
「気に入ってるから、ここには入れない」
一瞬、空気が変わった。
からかうには軽すぎる。
聞き流すには重すぎる。
獅音が鼻で笑った。
「囲ってんのかよ」
蘭はそちらを見た。
「違う」
声は軽い。
けれど、目は笑っていなかった。
「俺の外に置くって話」
誰もすぐには返さなかった。
蘭は続けた。
「だから、あいつの名前も、ここで出さないで」
誰かが笑いかけて、やめた。
竜胆は黙っていた。
兄の横顔を見て、何も言わなかった。
ここで庇えば、余計にまずい。
茶化せば、もっとまずい。
だから黙っていた。
イザナは、しばらく蘭を見ていた。
「お前が守るのか」
「守るっていうか」
蘭は少し考え、笑った。
「入れない」
イザナの口元が、わずかに動いた。
「今回は、壊さないんだな」
蘭の笑みが、ほんの少し薄くなる。
「壊すほど、雑にしてねえよ」
軽い声だった。
けれど、その場の誰にも、軽くは聞こえなかった。
イザナはそれ以上、ナマエのことを聞かなかった。
許可なのか。
興味を失っただけなのか。
分からない。
けれど少なくとも、その夜、誰もナマエの名前を口にしなかった。
集まりが解ける頃、蘭は壁にもたれたまま、煙の流れを見ていた。
いつもの場所。
いつもの顔。
いつもの夜。
何も変わっていないはずだった。
なのに、少しだけ遠い。
ナマエをここに連れてこない。
名前も出させない。
自分の外に置く。
それだけのことだと思っていた。
でも線を引いた瞬間、その内側に残る自分のことまで見えてしまった。
自分は、どこまでこの夜にいるのか。
これからも、呼ばれた場所へ全部行くのか。
必要のない集まりにも、何となく顔を出し続けるのか。
答えは出ない。
でも、考えずにはいられなかった。
外へ出ると、夜風が冷たかった。
六本木の光が、濡れたみたいに滲んでいる。
竜胆が隣に並んだ。
「兄貴」
「何」
「今日、かなり言ったね」
「言わないと伝わらないでしょ」
竜胆が少し驚いた顔をした。
「それ、兄貴の口から出るんだ」
「うるせ」
少し歩く。
夜の路地に、二人分の足音だけが響いた。
「竜胆」
「ん?」
「お前はどうする」
竜胆が蘭を見た。
「俺?」
「うん」
竜胆は、しばらく黙った。
夜の路地に、二人分の足音だけが響いている。
「……兄貴が変わるならさ」
「うん」
「俺も、ずっと兄貴の後ろにいるだけじゃなくていいのかなって」
蘭は黙った。
「別に、離れるとかじゃなくて」
竜胆は少しだけ言葉を探した。
「俺も、自分で決めていいんでしょ」
その言い方は、確認に近かった。
許可を求めているわけではない。
けれど、ずっと兄の隣にいた弟が、初めて自分の足元を見たような声だった。
蘭は、何も言えなかった。
胸の奥が、少し痛む。
竜胆が自分から離れていく。
そう思うと、寂しい。
でも違う。
竜胆は離れるのではない。
蘭の影から、自分の場所へ立とうとしている。
弟で。
家族で。
それでも、ひとりの人間だ。
蘭は前を向いたまま言った。
「決めりゃいいじゃん」
竜胆が少しだけ笑った。
「うん」
その時、携帯が震えた。
ナマエからだった。
『課題終わりました。今日は十時前に寝ます』
蘭は画面を見つめ、少し笑った。
短い報告の向こうに、ナマエの一日が見えた気がした。
『えらいじゃん』
すぐに返事が来る。
『蘭さんも、ちゃんとしましたか』
蘭は夜空を見上げた。
『した』
『本当に?』
『イザナに言った』
『何をですか』
蘭は少しだけ指を止めた。
『もう連れてこないって』
少し間が空く。
『あと、お前の名前も出させない』
送ってから、蘭は小さく息を吐いた。
『信じるかは知らねえけど』
しばらくして、返信が来た。
『信じます』
たった四文字。
蘭は目を伏せ、返信する。
『じゃあ寝ろ』
『おやすみなさい』
『おやすみ』
携帯を閉じる。
ナマエは家で、自分の生活を守っている。
蘭は夜の街で、ナマエをそこへ入れないと決めた。
同じ場所にはいない。
同じものを見ているわけでもない。
けれど、していることは同じだった。
相手を好きなまま、自分の場所を崩さないこと。
会えない時間に、相手を壊さないこと。
それは、今までの二人にはなかった形だった。
それでも、糸は切れなかった。
細いまま。
頼りないまま。
けれど、二人の手の中に残ったまま。
二週間は、静かに終わりへ近づいていった。
大きな事件は起きなかった。
約束も、破られなかった。
ただ、二人は守った。
ナマエは生活を。
蘭は線を。
そして次に、問われるのは未来だった。
蘭もまだ知らない。
守ろうとした相手が、次に自分の言葉で何を告げるのかを。