六本木の温度差   作:ぷーぷ

14 / 18
「待ってる」
蘭は初めて、待つことを選んだ。
ナマエも、自分と同じ未来を見ていると思っていた。
同じ答えに辿り着くのだと。
その瞬間、蘭は初めて知る。
離されることより、自分から離れていくかもしれないことの方が、ずっと怖いのだと。


答えの出ない温度差

I.待つ

 

二週間は、長かった。

 

父は厳しいままだった。

母は何も言わずに見守っていた。

家の中には、結論の出ない空気がずっと残っていた。

 

けれどナマエは、毎朝制服を着た。

泣きそうになる日も、眠れない夜の翌日も、学校へ行った。

蘭に会いたいと思っても、勝手に抜け出さなかった。

 

蘭も同じだった。

ナマエを奪いに来なかった。

父に怒鳴り込むことも、夜中に呼び出すこともなかった。

 

待つことを選んだ。

 

それが、ナマエには何より大きかった。

 

そして、二週間が終わる前日の夜。

 

アメリカ校とのオンライン面談が入った。

前倒しの判断に関わる、最後の確認だった。

 

ナマエは自室で携帯を握りしめた。

 

蘭に伝えなければいけない。

でも、何を言えばいいのか分からない。

迷った末に、短く送った。

 

『アメリカとのオンライン面談が入りました。たぶん、今日は終わったあとに連絡できません』

 

返事はすぐに来た。

 

『十時過ぎ?』

 

『はい。時差があるので』

 

『だる』

 

ナマエは少しだけ笑った。

 

『終わったら、もう連絡できる時間を過ぎているので、明日話します』

 

しばらく画面は動かなかった。

 

やがて、蘭から返事が来た。

 

『どうだったか教えて』

 

軽い言い方だった。

でも、蘭は分かっている。

 

今日の面談で、ナマエがすぐアメリカへ行かされるかもしれない。

これが最後の確認になるかもしれない。

 

『はい。明日の朝、連絡します』

 

『絶対な』

 

『はい』

 

九時五十八分。

約束の時間が終わる。

 

画面に、もう一通届いた。

 

『待ってる』

 

ナマエは、その四文字を見つめた。

 

ーー待ってる。

 

『はい』

 

そう返したところで、母が部屋をノックした。

 

「ナマエ。そろそろ始まるわよ」

 

「はい」

 

携帯を母に預け、階段を下りる。

 

リビングでは、父がすでにノートパソコンを開いていた。

画面には、アメリカ校の担当者の名前が表示されている。

 

父が短く言った。

 

「始めるぞ」

 

ナマエは頷いた。

 

面談は、淡々と進んだ。

 

単位認定。

卒業までの履修計画。

寮生活。

転入後のサポート。

授業の受け入れ。

 

父は必要な確認を一つずつしていった。

担当者は穏やかに答えた。

 

「制度上の問題は、特にありません」

 

父の表情は変わらなかった。

 

「では、学業面では支障は少ないと考えてよろしいですか」

 

「制度上は、そうです」

 

担当者はそこで、少しだけ間を置いた。

 

「ただ、制度上の問題と、本人の負担は別です」

 

父の手が止まった。

ナマエも顔を上げた。

 

「高校最終学年の残り一セメスターだけを、これまでとまったく違う環境で過ごすことになります。授業、寮生活、友人関係、生活のリズム。そのすべてが、短期間で変わります」

 

リビングが静かになった。

 

「もちろん、こちらも可能な限りサポートします。ただ、その変化を本人が理解し、受け入れているかどうかは、とても重要です」

 

父が、ナマエを見た。

 

この二週間、娘が何もなかったように過ごしていたとは思っていない。

泣いた日も、眠れなかった夜もあったはずだ。

それでもナマエは、学校へ行き、約束を守り、蘭との距離も守ろうとした。

 

蘭への不安が消えたわけではない。

だが、少なくともこの二週間、彼は無理に会いに来なかった。

危険な場所へ連れ出すこともなかった。

天竺幹部にもナマエを連れて行かないと言ったと聞いた。

 

信用したわけではない。

けれど、今すぐ力ずくで引き離すべきなのか。

 

その問いは、父の中にすでに生まれていた。

 

担当者が続ける。

 

「本人がここで過ごす目的を理解しているなら、良い経験になると思います。ただ、そうでない場合は、環境の変化そのものが負担になってしまう可能性があります。卒業後の大学進学にも大きく影響するでしょう。ナマエさんは、前にお話ししたときに、まだ納得していないようでしたが、いかがですか?」

 

沈黙が落ちた。

 

父が、ナマエを見た。

 

「ナマエ」

 

「はい」

 

「君はどう思っている」

 

胸が詰まった。

 

急に聞かれた。

でも、この二週間、ずっと考えていたことだった。

 

ナマエは膝の上で手を握った。

 

「私は……まだ、納得できていません」

 

声は小さかった。

けれど、逃げなかった。

 

「アメリカへ行くこと自体が、絶対に嫌なわけではありません。でも、急に決められて、行きなさいと言われて、気持ちが追いついていません」

 

父は何も言わなかった。

 

「行くなら、ちゃんと考える時間がほしいです。何のために行くのか。向こうで何を学ぶのか。今の学校を離れてまで行く意味があるのか。そういうことを、まだ自分で考えられていません」

 

ナマエは膝の上で、さらに手を握った。

 

「誰かから離れるためとか、家から出されるためとか、そういう理由で行くのは嫌です」

 

蘭の名前は出さなかった。

それでも、父には分かったはずだった。

 

「だから、今すぐ決めるのではなくて、もう少し時間がほしいです」

 

担当者は静かに頷いた。

 

「それは、とても大切な確認だと思います。もう一度、ご家族でよく話し合ってみてください」

 

面談は、それ以上長くは続かなかった。

画面が暗くなる。

リビングに夜の静けさが戻る。

 

父はしばらく黙っていた。

そして、閉じたノートパソコンに手を置いたまま言った。

 

「今日は遅い。明日、二週間の結果も含めて話そう」

 

その日は、それで終わった。

 

 

II.開いた扉

 

翌朝。

 

母から携帯を返されると、ナマエはすぐに画面を開いた。

 

蘭からメッセージが入っていた。

 

『起きた?』

 

朝七時過ぎ。

蘭にしては早い。

たぶん、あまり眠れていないのだろう。

 

『起きています』

 

『昨日どうだった』

 

ナマエは制服に袖を通しながら、急いで打った。

 

『まだ、前倒しの最終判断は出ていません』

 

少し間が空いた。

 

『父が、夜に帰ってから話すそうです』

 

全部を書く時間はなかった。

結論も出ていない。

中途半端に期待させるのも怖かった。

それでも、蘭には伝えたかった。

 

『制度上は、アメリカへ行くことは可能だそうです。でも、本人が納得しているかどうかが大事だそうです』

 

すぐに返事が来た。

 

『ナマエは何て言ったの』

 

ナマエは少しだけ指を止めた。

 

『まだ納得できていないと言いました』

 

『急に決められて、今すぐ行くことには気持ちが追いついていない、と伝えました』

 

少し間が空いた。

 

『前倒しが嫌ってこと?』

 

『それだけでなく、誰かから離されるために強制的に行かされるのは嫌だといいました』

 

返事はすぐには来なかった。

 

『そっか』

 

それだけだった。

でも、その短い文字の向こうで、蘭が何かを飲み込んだのが分かった。

 

『夜、決まんの?』

 

『たぶん、父が帰ってから話します』

 

『終わったらすぐ連絡して』

 

『はい』

 

『待ってる』

 

その言葉を見て、ナマエは携帯を胸に当てた。

昨日の夜と同じ言葉だった。

でも、今日は少しだけ重かった。

 

その夜、ナマエは夕食のあとも自室に戻らず、リビングの端に座っていた。

 

母は何も急かさなかった。

ただ、温かいお茶をナマエの前に置いてくれた。

 

時計の針が九時に近づく。

蘭に連絡できる時間は、あと一時間。

 

九時を少し過ぎた頃、玄関の音がした。

 

ナマエの肩が跳ねる。

 

父がリビングに入ってきた。

 

「遅くなった」

 

「おかえりなさい」

 

父は鞄を置き、上着を脱いだ。

 

母が何か言いかけたが、父はそれを制して、ナマエの正面に座った。

 

母も隣に座る。

 

少しの沈黙のあと、父が口を開いた。

 

「昨日の面談と、この二週間の様子を踏まえて判断した」

 

ナマエは膝の上で手を握った。

 

父の声は、いつものように厳しかった。

 

「アメリカ行きは、一度白紙に戻す」

 

一瞬、意味が分からなかった。

 

「......白紙?」

 

「前倒しで行かせるという話はなくす。強制もしない」

 

父は、はっきり言った。

 

「君を蘭くんから離すためだけに、アメリカへ送ることはしない」

 

胸の奥が、大きく揺れた。

 

母が小さく息を吐いた。

 

ナマエは父を見たまま、声が出なかった。

 

父は続けた。

 

「この二週間、君は約束を守った。生活も大きく崩さなかった。学校にも行った。彼との連絡も、決めた範囲に収めようとした」

 

ナマエは唇を結んだ。

 

「彼について、不安が消えたわけではない」

 

父の声が少し低くなる。

 

「だが、少なくともこの二週間、君を無理に連れ出したり、危険な場所に巻き込んだりはしていない。イザナという人物に君を連れて行かないと言ったことも」

 

ナマエは息を止めた。

 

父が、蘭の努力を見てくれている。

それが嬉しかった。

 

「だからといって、認めたわけではない」

 

その言葉は厳しかった。

けれど、もう完全な拒絶ではなかった。

 

「ただ、今すぐ君を海外へ移さなければならない、という判断は変える」

 

ナマエはゆっくり息を吸った。

 

涙が出そうだった。

でも、まだ泣けなかった。

父の話は終わっていない。

 

「アメリカは、罰でも避難場所でもない。君の進路の選択肢の一つだ」

 

ナマエは顔を上げた。

 

「行くか行かないかは、自分で考えなさい。何を学びたいのか。高校卒業後に行くのか。日本の大学へ進むのか。きちんと調べて、自分の意思で決めなさい」

 

渡されたのは、猶予ではなく、責任だった。

 

「会うことは、当面、条件付きで認める」

 

息が止まった。

 

「……会って、いいんですか」

 

「週に一度」

 

父は言った。

 

「学校の近くで会わないこと。日時と場所を事前に伝えること。十八時までには帰宅すること。勝手な外泊は認めない。当然ながら、危険な場所や集まりには行かないこと。約束を破れば、その時点で見直す。携帯はしばらく夜十時までだ」

 

厳しい。

 

でも、禁止ではなかった。

 

昨日まで閉じていた扉が、少しだけ開いた気がした。

 

「それから」

 

父はナマエをまっすぐ見た。

 

「彼と付き合いたいなら、彼だけを理由にするな。自分の生活を崩すな。進路を真剣に考えなさい。彼にも、それを求めなさい」

 

「……はい」

 

ナマエは、涙をこらえながら頷いた。

声が震えた。

 

「ちゃんと考えます。進路のことも、蘭さんとのことも」

 

父は短く頷いた。

それで、話は終わった。

 

時計を見る。

九時三十四分。

まだ、間に合う。

 

ナマエは携帯を持って、自室へ戻った。

部屋に入ると、すぐに蘭へメッセージを送った。

 

 

III. 残ったもの

 

『今、話せますか』

 

『話す』

 

たった二文字だった。

その直後、着信が来た。

ナマエは深く息を吸い、通話を押した。

 

「もしもし」

 

「終わった?」

 

久しぶりに聞く蘭の声は胸に響いた。

 

ナマエは携帯を握り直した。

 

「はい。今、父から話がありました」

 

「で?」

 

短い問い。

そこに、蘭の怖さが全部入っていた。

 

ナマエは少しだけ目を閉じた。

最初に、ちゃんと伝えなければいけない。

 

「前倒しは、なくなりました」

 

電話の向こうが静かになる。

 

「アメリカ行き自体、白紙になりました。強制はしないそうです」

 

沈黙。

それから、蘭が低く言った。

 

「……まじで?」

 

「はい。強制的に行かされることはなくなりました」

 

電話の向こうで、蘭が息を吐いた。

長く、深く。

 

「……っ、は」

 

笑ったような、力が抜けたような音だった。

 

「やば」

 

「やばい、ですか」

 

「やばいでしょ」

 

蘭の声が、少し震えていた。

 

「……よかった」

 

ぽつりと、蘭が言った。

あまりに素直な声だった。

 

ナマエは、泣きそうになった。

 

「はい」

 

「ほんと.....よかった」

 

もう一度、蘭が言った。

それだけで十分だった。

 

この二週間、二人の上に落ちていたものが、少しだけ退いた気がした。

 

けれど、そこで終わりではなかった。

 

ナマエは息を吸った。

 

「でも、蘭さん」

 

「何」

 

「アメリカへ行かないと決まったわけではありません」

 

「……は?」

 

電話の向こうの空気が変わった。

冷たく、重い。

 

「前倒しも、強制もなくなったんだろ」

 

「はい」

 

「じゃあ何で、まだアメリカが残ってんの」

 

ナマエは目を伏せた。

 

「アメリカは、罰でも避難場所でもなくて、私の進路の選択肢の一つだと言われました。行くか行かないか、自分で考えなさいって」

 

「......選択肢の、一つ?」

 

「はい」

 

「今、それ言う?」

 

蘭の声に、苛立ちが混じった。

 

ナマエは携帯を握りしめた。

 

「行かなくていいと言われた時、私も安心しました。蘭さんと離れずに済むんだって」

 

蘭は何も言わなかった。

 

「でも、父に言われて、私も……ちゃんと考えなければいけないと思いました」

 

言葉にした瞬間、自分でも怖くなった。

 

「私は今まで、ちゃんと考えていませんでした。内部進学するつもりで、そのまま進むと思っていました。アメリカの大学も、日本の大学も、自分が何を学びたいのかも、ちゃんと考えていませんでした」

 

電話の向こうは静かだった。

その沈黙が怖かった。

 

「でも、それでは駄目なんだと思いました。蘭さんと一緒にいたいなら、蘭さんだけを理由にしてはいけないんだと思います」

 

言ってから、ナマエは自分の言葉が蘭を突き放したように聞こえたことに気づいた。

胸が苦しくなる。

 

「蘭さんが理由では駄目だと言いたいんじゃありません」

 

急いで言った。

 

「蘭さんは、私にとって大事です。だからこそ、蘭さんのせいにしたくないんです」

 

蘭はまだ黙っていた。

 

「自分の生活も、進路も、ちゃんと持っていないと。また誰かに決められてしまうから」

 

電話の向こうで、蘭が小さく息を吐いた。

その音が、遠かった。

 

「じゃあ何で.....自分から離れるかもしれない方を残すんだよ」

 

「自分から離れたいわけじゃありません」

 

「でも、残すんだろ」

 

「考えないまま消したくないんです」

 

「同じだろ」

 

「違います」

 

「何が違うんだよ」

 

ナマエは唇を噛んだ。

 

言えば、蘭を傷つける。

けれど、言わなければ、伝わらない。

 

「父に決められて行くのは嫌です。でも、蘭さんに止められたから残る、にもしたくないんです」

 

電話の向こうが、静かになった。

その沈黙は、さっきよりずっと冷たかった。

 

「……意味わかんねえ」

 

「蘭さん」

 

「分かんねえよ......」

 

蘭の声が、静かに冷えた。

 

「離れたくないって言ったの、お前だろ」

 

ナマエの胸が痛んだ。

 

「はい」

 

「だったら、こっちに残れよ」

 

その言葉に、ナマエは息を止めた。

 

蘭も、自分が何を言ったのか分かったのだと思う。

電話の向こうで、短く息を呑む気配がした。

 

「蘭さん」

 

「.......今日はもう無理」

 

「待ってください」

 

「無理」

 

「蘭さん、待って」

 

ぷつり、と通話が切れた。

 

ナマエはしばらく携帯を握ったまま動けなかった。

 

耳元には、もう蘭の声はない。

画面には、通話終了の文字だけが残っていた。

 

ーー蘭を傷つけてしまった。

 

そう思った瞬間、息がうまく吸えなくなった。

 

かけ直したかった。

今のは違うと言いたかった。

行くと決めたわけじゃないと、もう一度伝えたかった。

でも、時計はもう十時に近かった。

 

 

二人の最初の勝負は、終わった。

 

前倒しはなくなった。

強制も消えた。

 

けれど、二人の間に残ったのは、答えの出ない温度差だった。

 

離れたくない。

でも、自分で選びたい。

 

残れと言ってしまった。

でも、それでは縛ってしまうと分かっていた。

 

そのどれもが、通話の切れた画面の向こうで、まだ熱を持っていた。

 

そして、その夜から、二人は初めて、同じ未来を見ていないことに気づき始めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。