強制的なアメリカ行きは白紙になった。
それなのに、ナマエは自分の意思でアメリカを選択肢に入れる。
同じ未来を見ていると思っていたのに。
苛立ち、電話を切ってしまった蘭。
ナマエには進んでほしい。でも、自分から離れてほしくない。縛りたくない。けれど、置いていかれるのは怖い。
二人の間にわだかまりが残る中、天竺とトーマンの抗争は一週間後に決まった。
I. 追いかけてこない朝
電話を切ったあと、蘭はしばらく携帯を見ていた。
切ったのは自分だった。
でも、これ以上聞いていたら、もっと言ってはいけないことを言う気がした。
行かなくて済むと思った。
これで終わったと思った。
やっと取り戻せると思った。
なのに、ナマエは自分の意思でアメリカを考えると言った。
離されたくない、離れたくないと言っていたのに。
分かっている。
ナマエは、蘭を捨てると言ったわけではない。蘭から離れたいと言ったわけでもない。
ただ、自分の未来を、自分で考えたいと言っただけだ。
それなのにーー
「.......ムカつく」
小さく吐き捨てた声は、誰にも届かなかった。
本当に腹が立っているのは、ナマエがアメリカを選択肢に入れたことなのか。
自分の足で先を見ようとしていることなのか。
それともーー
蘭は答えを考えかけて、やめた。
考えたところで、気分がよくなる気がしなかった。
ベッドの上に放り投げた携帯を見つめた。
ナマエから、すぐにメールが来るかもしれない。
謝ってくるかもしれない。
もう一度話したいと言ってくるかもしれない。
怒っていますか、と聞いてくるかもしれない。
けれど、携帯は震えなかった。
その沈黙が、さらに蘭を苛立たせた。
「……追いかけてこないのかよ」
そう呟いてから、蘭は自分で嫌になった。
追いかけてほしいのか。
追いかけてきたら、また突き放すくせに。
「……最悪」
蘭は仰向けに倒れた。
天井を見ても、何も変わらない。
謝るには、まだむかついている。
優しくするには、まだ苦しい。
引き止めるには、もう自分が嫌になる。
だから、何もしなかった。
ナマエが携帯を10時以降預けているのはわかっている。けれど、その夜、蘭は何度も画面を見た。
ナマエからの新しい通知は、最後まで来なかった。
翌朝、携帯が震えた。
蘭は浅い眠りから目を開け、急いで画面を見る。
ナマエからだった。
『昨日は、うまく話せなくてごめんなさい。蘭さんも、自分なりに考えているのだと信じています。私も考えます。いつでも連絡ください』
それだけだった。
長くない。
責めてもいない。
泣きついてもいない。
でも、離れてもいない。
蘭は何度か読み返した。
前なら、ナマエはもっと不安になったかもしれない。
蘭がそっけなくなれば、崩れたかもしれない。
何度もメールしてきたかもしれない。
大丈夫ですか、と。
怒っていますか、と。
私、何か間違えましたか、と。
けれど、今のナマエは違った。
蘭が考えているのだと、信じると言った。
そして、自分も考えると言った。
それが、いちばん堪えた。
ナマエは、もう蘭の返事だけを待っているわけではない。
不安を抱えたまま、自分の場所に立とうとしている。
蘭は返事を打とうとして、指を止めた。
何を書けばいいのか分からなかった。
蘭は短く打った。
「ん」
送信された一文字を見て、胸の奥がさらにざらついた。
短すぎる。
冷たすぎる。
分かっている。
でも、それ以上は打てなかった。
II. 夜からの呼び出し
その日、ナマエからは朝のメール以降、昼にも、夕方にも、連絡は来なかった。
自分から送ることもできた。
けれど、何を送ればいいのか分からなかった。
夕方になって、ようやくナマエから短いメールが来た。
『今日は学校の課題を進めます。進路のことも、少し調べます。蘭さんも、無理しないでください』
蘭は、その文章を見つめた。
ナマエは、自分の未来へ少しずつすすんでいる。
強制的に連れて行かれるのではなく、自分で選ぶために。
蘭の隣にいるかどうかも、蘭に決めさせるのではなく、自分で考えるために。
正しい。
たぶん、それは全部正しい。
だから蘭は、何も言えなかった。
携帯が震えたのは、その直後だった。
天竺からだった。
――幹部招集。
場所と時間だけが、短く送られてきていた。
蘭は画面を見て、小さく息を吐いた。
ナマエは未来へ向かう。
自分には、夜から呼び出しが来る。
その差が、やけに目についた。
竜胆の部屋の方を見る。
「竜胆」
「何」
奥から返事がある。
「呼び出し」
竜胆が顔を出した。
「天竺?」
「うん」
竜胆は蘭の顔を見た瞬間、少しだけ、目が細くなる。
「……兄貴、ご機嫌斜めだね」
蘭は鼻で笑った。
「何それ」
「前なら、もうちょっと楽しそうだったじゃん」
「俺、楽しそうだった?」
「喧嘩の呼び出しの時は特にね」
「竜胆、俺のこと好きすぎ」
「ごまかすなよ」
蘭は笑ったまま、携帯をポケットに入れた。
「着替える」
行かない理由はない。
天竺の幹部で、灰谷兄弟で、竜胆も行く。
呼ばれたなら、行く。
それは変わらない。
ただ、前みたいに、呼ばれたら笑って出ていくだけでは済まなくなっていた。
集まった場所には、もう幹部たちの顔が揃っていた。夜の空気は冷えているのに、そこだけ熱を持っているようだった。
獅音は壁にもたれ、落ち着きなく足を揺らしている。
モッチーは肩を回しながら、誰かと短く言葉を交わしていた。
ムーチョは腕を組み、いつも通り表情を動かさない。
鶴蝶は少し離れた位置に立ち、周囲を静かに見ていた。
竜胆は蘭の横に立った。
蘭はいつものように肩の力を抜き、薄く笑っていた。誰が見ても、灰谷蘭だった。
けれど竜胆には分かる。
兄は、前と同じ熱では立っていない。
イザナが来ると、空気が一段沈んだ。
全員を見渡し、短く言った。
「トーマン、潰すよ」
その一言で、場の温度が変わった。
誰かが「いつ?」と聞いた。
「一週間後」
短い言葉だった。
けれど、それは計画でも予定でもなかった。
宣言だった。
獅音が笑う。
「やっとかよ」
天竺とトーマンが、いずれぶつかることは誰もが分かっていた。
天竺が大きくなりすぎた時点で、それは避けられない。
まして、イザナが佐野万次郎を見ている限り、遠くない日に必ず、その日は来ると幹部の誰もが感じていた。
ただ、それがいつなのか、まだ決まっていなかっただけだった。
イザナが一人ずつ見る。
その目が、蘭のところで止まった。
「蘭」
蘭は顔を上げる。
「何?」
イザナは少しだけ首を傾けた。
「お前、どうする」
一瞬、空気が止まった。
獅音が真っ先に眉を寄せる。
「は? こいつが行かねえわけねえだろ」
モッチーも眉を上げた。
何を今さら聞いているのか、という顔だった。
ムーチョは表情を変えなかった。
ただ、視線だけを静かに蘭へ移した。
鶴蝶は蘭ではなく、先にイザナを見た。
その問いに意味があると分かっている顔だった。
竜胆は驚かなかった。
ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。
イザナが何を見たのか、竜胆には分かっていた。
蘭はイザナを見返した。
イザナの目は冷めていた。
けれど、その奥には、蘭の温度を測るような色があった。
「行くよ」
返事は早かった。
迷っているようには聞こえなかった。
それでも、その声に、いつもの遊びの熱はなかった。
イザナは少しだけ目を細めた。
「なら、半端に立つな」
「分かってる」
蘭は笑ったまま答えた。
その笑いが、ほんの少しだけ遅れたことに、竜胆だけが気づいた。
イザナはそれ以上何も言わなかった。
III.声だけは乗っている
話はそのまま進んだ。
集合場所。
時間。
動き方。
誰がどこにつくか。
誰が誰を見るか。
蘭は必要なことを聞いていた。
聞いて、覚えて、うなずいた。
頭も冷えている。
やることは分かっている。
けれど、周りの熱に自分だけが少し遅れている気がした。
その帰り道、夜の空気が、いつもより重く感じた。
竜胆が先に口を開いた。
「イザナ、気づいてたね」
「何に」
「兄貴が、前みたいに乗ってないこと」
蘭は笑った。
「乗ってるでしょ」
「声だけね」
「ひど」
それから蘭が黙った。
竜胆はそれ以上、急かさなかった。
兄が黙っている時、無理にこじ開けても意味がないことを知っている。
やがて蘭が言った。
「昨日さ」
「うん」
「白紙にはなった」
「アメリカのやつ?」
「うん。強制はなくなった」
「良かったじゃん」
蘭は小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「でも、ナマエが、自分でも考えるって」
「アメリカ?」
「候補に入れるって」
竜胆は黙った。
その意味を、少し遅れて飲み込む。
「それで兄貴、怒ったの」
「怒ってない」
「怒ってる顔」
「うるさい」
竜胆は小さく息を吐いた。
「ナマエちゃんが自分で考えるの、そんな嫌?」
蘭はすぐには答えなかった。
嫌だと言ったら、ナマエの足を止めることになる。でも、嫌じゃないと言えるほど、自分はできた人間ではない。
ナマエには進んでほしい。
でも、自分から離れてほしくない。
ナマエを縛りたくない。
でも、置いていかれるのは怖い。
そんな言葉を、弟にきれいに説明できるほど、蘭はまだ整理できていなかった。
「ナマエはさ、ちゃんと先見てんの。学校とか、進路とか、アメリカとか。自分で選ぶとか。そういうの」
「うん」
「で、俺は、トーマン潰すって呼ばれてる」
自分で言って、蘭は少し笑った。
「それ、比べる話?」
「比べたくないから、むかつくんでしょ」
蘭は軽く笑った。けれど、その声はあまり軽くなかった。
「兄貴」
「何」
「喧嘩やめたいの?」
「別に」
「じゃあ、何」
「……だるい」
「何が」
蘭は少し考えた。言葉にしたら、何かが決まってしまいそうだった。だから、いつものように少しだけ崩す。
「言葉にしたら負けなやつ」
竜胆はあきれた顔をした。
「何それ」
「分かって」
「無理」
「冷たい弟」
「兄貴が面倒なんでしょ」
蘭は笑った。
兄弟の影が、街灯の下で何度も伸びたり縮んだりした。
IV. 新たな条件
家に戻ってから、蘭はしばらく携帯を見ていた。
ナマエに言うべきか。
言わないべきか。
まだ、昨日のわだかまりは残っている。
きちんと話せていない。
謝ってもいない。
ナマエの言葉にも、何も答えられていない。
それでも、別れているわけではない。
切れたわけではない。
ナマエは、いつでも連絡ください、と言った。
蘭は画面を開いて、短く打つ。
『一週間後、トーマンとやる』
『俺と竜胆も出る』
返事はすぐに来た。
『言ってくれて、ありがとうございます』
蘭はしばらくその文面を見ていた。
そう返されるとは思っていなかった。
『正直、聞くのは怖かったです』
『でも、知らないまま待つ方が、もっと怖いので』
暫くしてもう1通。
『父に話してもいいですか』
蘭はその文を見て、少しだけ黙った。
父親に話されるのは、正直、面倒だった。
また条件が出る。
また線を引かれる。
また、蘭が簡単には踏み込めない場所を見せつけられる。
でも、ここで「言うな」と言うことはできなかった。
ナマエが父親に隠し事をすることになる。
ナマエと父親の間にある信頼を、自分の都合で壊すことになる。
それは違う。
ナマエを大切にするということは、ナマエのいる世界ごと、雑に扱わないということだった。
蘭は短く返した。
『そうして』
送信してから、携帯を膝の上に置いた。
自分でそう言ったのに、胸の奥は落ち着かなかった。ナマエと父親の世界は、蘭にはまだ少し遠い。でも、ナマエが立っている昼の場所を、蘭が乱すわけにはいかなかった。
一方、ナマエも、しばらく携帯を握っていた。
蘭は、父に話すことを許してくれた。
それでも、不安が消えるわけではなかった。
蘭はまだ、あちらの世界にいる。
ナマエが「行かないで」と言っただけで、止まるものではない。
落ち着くためにキッチンで紅茶を淹れていると、廊下の向こうから父の足音がした。
「まだ起きていたのか」
「……お父さん」
ナマエは顔を上げた。
父はナマエの表情を見て、すぐに何かあったと察したようだった。
けれど、急かさなかった。ただリビングのソファに座り、静かに言った。
「話したいことがあるなら聞く」
ナマエは頷いた。
父と自分の分の紅茶を淹れ、向かいのソファに座る。
天竺の集まりで、トーマンとの抗争日が決まったこと。
日付は一週間後であること。
蘭も竜胆も行くこと。
そして、蘭が自分からそれを話してくれたこと。
父は最後まで黙って聞いていた。
やがて、父は言った。
「彼は、自分から言ったんだね」
「はい」
「そうか」
短い返事だった。
それから少し考え、父は続けた。
「隠すこともできたはずだ」
ナマエは父を見た。
「心配させずに済む。反対もされない。面倒な説明もしなくていい」
「……はい」
「でも今回は言った」
父は視線を落とした。
「信頼を保つためだ」
ナマエは、その言葉を胸の中で繰り返した。
ーー信頼を保つため。
「隠したまま後から知られれば、関係に傷がつく。君にも、私にも」
蘭が、そこまで考えて言ったのかわからない。
あるいは、うまく言葉にはできていなかったのかもしれない。
けれど、隠さないことを選んだ。
それだけは確かだった。
父はしばらく考えてから、言った。
「抗争のあと、一週間は会ってはいけない」
ナマエは思わず顔をあげ父をみた。
本当は、会いたい。
顔を見たい。
戻ってきたことを、自分の目で確かめたい。
「直後に会えば、君は彼の傷や疲労に引っ張られる。彼も、君の不安に引っ張られる。だから、一週間置きなさい」
「……はい」
「それから、抗争の翌日、昼間の予定を入れなさいと伝えなさい」
「昼間……?」
「そう。昼だ。夜ではいけない」
「なぜ」
「夜は、まだそちら側に近い。抗争、仲間、興奮、疲労、痛み。そういうものが残りやすい」
ナマエは黙って聞いていた。
「食事でもいい。どこかへ行くでもいい。とにかく昼間だ」
父はそこで一度言葉を切った。
「ただし、君は入らなくていい」
「……私、ですか」
「そう。心配なのは分かる。でも、翌日に君が会う必要はない。今度会うのは、抗争から一週間後だ。」
ナマエは目を伏せた。
「君が迎えに行く形にしてはいけない。彼は、まず自分の足で、昼の世界に戻る必要がある」
父は蘭を突き放しているのではない。
蘭がナマエだけに寄りかかる形にならないようにしている。
ナマエが避難場所になるのではなく、帰る場所でいられるように。
「弟さんを入れるのがいいだろうね。その方が戻りやすい。二人とも昼に何か予定を入れなさい、と伝えなさい」
「……はい」
「それと、昼に出たことが分かるように、何か形を残しなさい。写真でもいい」
「写真、ですか」
「言葉だけでは曖昧になることがある。形があった方がいい」
父の言葉は厳しい。
けれど、蘭をただ拒絶しているわけではなかった。
蘭を夜に置きっぱなしにしないために、昼へ戻る道を作っている。
「お父さん」
「何だ」
「怖いです」
父は静かに頷いた。
「それでいい。怖いまま、できることをしなさい」
蘭のような人間と付き合うということは、こういう怖さも引き受ける覚悟がいることだと、父は暗に言っているようだった。
ナマエは深く息を吸った。
「はい」
V. 特攻服と制服
蘭は、ナマエからのメールを読んで、しばらく黙っていた。
予想通り、条件が来た。
抗争後、一週間は会わない。
翌日には昼に戻る。
竜胆も一緒。
写真。
どれも、父親らしかった。
感情ではなく、動線。
心配ではなく、管理。
いや、たぶん、心配だからこその管理。
蘭は少し笑った。
「ほんと、逃げ道潰すのうまいね」
腹が立たないわけではない。
でも、反発する気になれなかった。
蘭は短く返した。
『分かった』
送ってから、少し迷った。
それだけでは冷たすぎる気がした。
でも、優しい言葉はまだうまく出てこない。
結局、もう一文だけ打った。
『伝えてくれてありがと』
返事は少し遅れて来た。
『はい。戻ってきてください』
それだけだった。
でも、ナマエがどれだけ言葉を飲み込んだのか、蘭には何となく分かった。
蘭は竜胆の部屋へ声をかけた。
少しして、扉が開いた。
「何」
「抗争の翌日、昼に予定入れろって」
竜胆は眉を寄せた。
「誰が?」
「ナマエの親父さん。お前もだって」
「は? 俺も?」
竜胆は本気で変な顔をした。
「なんで?」
「昼の世界に戻るため、だって」
「……何それ」
「俺もそう思った」
竜胆はしばらく黙ったあと、ふっと笑った。
「でも、ちょっと分かるかも」
蘭は弟を見る。
「竜胆まで父親側?」
「そうじゃなくて」
竜胆は蘭を見た。
「兄貴、戻る理由あった方が戻れるでしょ」
蘭は答えなかった。
図星だった。
一人なら、抗争の翌日もそのまま夜の延長にいたかもしれない。
寝て、起きて、傷を見て、また夜の空気を吸って終わる。
そんな一日にしたかもしれない。
蘭は少しだけ笑った。
「で、どうする?」
竜胆は少し考えて言った。
「学校、行く」
「抗争の翌日に?」
「うん。昼までには行く。四限、体育だし」
「抗争の翌日に体育かよ」
「俺が時間割決めたんじゃない」
「本気?」
「本気」
「竜胆が?」
「俺、兄貴ほど学校嫌いじゃないし。昼休みまでに行って、購買でパン買う。四限、体育出る。兄貴も来れば?」
「俺の学校じゃないんだけど」
「じゃあ校門まで」
「補導されるわ」
竜胆は笑った。
その笑い方が、少しだけいつもに戻っていた。
抗争の翌日。
昼。
竜胆が学校へ行く。
購買でパンを買う。
四限の体育に出る。
蘭は校門まで見送り。
馬鹿みたいな予定だった。
けれど、不思議と悪くなかった。
「じゃあ、それで」
蘭が言うと、竜胆は頷いた。
「うん」
「昼に学校」
「昼に学校」
二人で確認すると、妙に現実味が出た。
それからの一週間は、早かった。
抗争前夜。
夕食のあと、竜胆は自分の部屋から何かを持ってきた。
ソファの背に置いたのは、黒い特攻服だった。
その隣に、高校の制服を置く。
まるで違う世界の服が、並んでいた。
蘭はソファに座ったまま、それを見ていた。
「何してんの」
「準備」
「見りゃ分かるけど」
竜胆はスクールバッグを開け、教科書とノートを取り出した。
テーブルの上に時間割を置き、何かを確認し始める。
「一限、古文。二限、世界史。三限、英語。四限、体育」
「体育まで寝てんじゃね?」
蘭は、笑いながら、特攻服と制服が並んでいるのを見つめた。
黒と白。
夜と昼。
抗争に行くことは決まっている。
天竺の幹部として、灰谷蘭として、竜胆と一緒に行く。
でも、その翌日に戻る場所まで決められている。
夜へ行く前から、昼へ戻る道を作られている。
それが窮屈で、少し腹立たしくて。
それでも、どこかで救われるようでもあった。
「終わった奴は追わない」
蘭はつぶやいた。
「え?なに?優しくなった?」
「別に優しくなったわけじゃない」
どこか遠い目をして蘭が答えた。
「ただ、その先に何もないって分かった」
蘭は視線を制服へ向ける。
「前なら、最後まで潰してた。相手が立てなくなるまで」
竜胆は黙っていた。
「でも、それやると戻れなくなる」
少しして、蘭は竜胆の方をみて言った。
「竜胆」
「何」
「俺が変なとこまで行きそうだったら、引っ張れ」
「……兄貴を?」
「うん」
「俺が?」
「お前しかできないでしょ」
軽い言い方だった。
でも、冗談ではなかった。
竜胆はしばらく蘭を見ていた。
兄は笑っている。
いつもの兄に見える。
でも、目の奥の熱が少し違う。
高揚していないわけではない。
怖がっているわけでもない。
ただ、前みたいに、どこまでも行ける顔ではなかった。
「分かった」
蘭は目を細める。
「素直じゃん」
「まあね。兄貴が変なとこまで行きそうだったら、引っ張る」
「うん」
「だから兄貴も、戻るなら戻って」
「どこに」
竜胆は少し考えてから、肩をすくめた。
「知らない。でも、変なとこじゃない方」
「雑」
蘭は笑った。
携帯が震えた。
天竺からの最終確認だった。
蘭は画面を見て、短く返す。
『了解』
蘭は窓の外を見る。
六本木の夜は、いつもと同じ顔をしていた。
けれど、もう同じ熱では笑えなかった。
まだ夜の中にいる。
それでも、昼の光は、遠くで灰谷兄弟を待っていた。