六本木の温度差   作:ぷーぷ

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「戻ってきてください」
ナマエのその言葉を胸に、蘭は天竺とトーマンの抗争へ向かう。勝つか、負けるか。普通なら、それだけの夜だった。けれど今夜、蘭が試されているのはそこじゃない。夜に沈まずに。壊すだけの自分に戻らずに。待っている場所へ、ちゃんと帰れるかどうか。そして抗争の夜、蘭は初めて知る。自分はもう、壊すだけの場所には戻れないと。


夜を超えろ

I. 夜が弾ける

 

夜は、すでに熱を持っていた。

 

集合場所には、天竺の旗がはためいていた。

 

幹部たちの姿。

下の連中のざわめき。

喧嘩前特有の、高揚した笑い声。

 

誰もが今夜を待っていたみたいな顔をしている。

 

蘭はその中に立ちながら、どこか一歩引いたところで夜を見ていた。

 

鶴蝶は、イザナのそばにいた。

表情は硬い。

 

イザナは静かだった。

 

いつものような薄い笑みはある。

けれど、その奥にあるものは、これまでとは違って見えた。

 

万次郎。

真一郎。

家族。

 

その全部を、今夜のイザナは抱えている。

 

蘭は、事情のすべてを知っているわけではない。

それでも見れば分かった。

 

これは、ただの頭同士の抗争ではない。

 

家族になり損ねた者同士が、拳でしか確かめられない夜だった。

 

そう思った時、ざわめきの質が変わった。

 

トーマンが来た。

 

先頭にいたマイキーは、小柄なのに、その場の中心をあっさり奪った。

 

後ろにはトーマンの幹部たちが続く。

 

誰も軽くない。

それぞれに、守るものを持っている顔をしていた。

 

ただ強いだけではない。

そういう連中だ。

 

だから天竺は、今夜ここでぶつかる。

 

イザナとマイキーが向かい合った瞬間、周囲の音が遠のいた気がした。

 

二人の間にあるものは、単純な敵意ではない。

もっと複雑で、深くて、言葉にすると壊れそうなもの。

 

マイキーが何かを言った。

 

遠くて、蘭には全部は聞こえなかった。

ただ、イザナの表情がわずかに歪んだのは見えた。

 

怒り。

痛み。

羨望。

拒絶。

 

一瞬で全部が混ざった顔だった。

 

次の瞬間、夜が弾けた。

 

怒号。

足音。

拳が当たる鈍い音。

誰かが倒れる音。

名前を呼ぶ声。

 

蘭の身体は、すぐに夜の動きを思い出した。

 

速く。

迷いなく。

 

肩を崩す。

膝を入れる。

倒す。

 

それでも、踏まない。

追わない。

次へ行く。

 

竜胆は隣で動いていた。

二人の呼吸は、やはり合う。

 

昔からそうだった。

体に染みた夜は、簡単には消えない。

 

けれど今は、同じではなかった。

 

昔なら、倒した相手には追撃した。

二度と立てないように。

反抗する目が消えるまで。

 

そういうやり方を、身体はまだ覚えている。

 

でも、蘭は踏まなかった。

追わなかった。

終わった相手には、それ以上しない。

 

「兄貴、いい感じ」

 

横で竜胆が言う。

 

「うるさい」

 

「褒めてる」

 

「今じゃなくていい」

 

背中合わせになった一瞬、蘭は息を吐いた。

 

夜の真ん中にいる。

それでも、沈んでいない。

 

中央の空気が揺れた。

 

マイキーとイザナが、本格的にぶつかっている。

 

イザナの動きは美しかった。

 

無駄がなく、鋭く、壊れものみたいに危うい。

強いのに、強さそのものに寄りかかっていない。

むしろ、その奥にある空洞を、強さで覆っているように見えた。

 

少し前の自分と似ている。

 

そう思った瞬間、蘭は顔をしかめた。

 

自分だけのものがほしい。

奪われる前に、奪いたい。

捨てられるくらいなら、先に壊したい。

 

その感覚を、蘭はもう知らないふりができなかった。

 

マイキーの声が響く。

 

全部は聞こえない。

けれど、それは相手を倒すためだけの声ではなかった。

 

呼んでいる。

 

蘭には、そう見えた。

 

マイキーはイザナを倒そうとしている。

けれど、潰そうとしているわけではない。

 

拳で、手を伸ばしている。

 

馬鹿みたいに不器用で、それしか方法を知らないみたいに。

 

イザナが吠えるように返す。

 

その声には怒りがあった。

嫉妬も、拒絶も、痛みもあった。

 

真一郎。

 

その名前が、二人の間に見えない形で落ちている。

 

「兄貴!」

 

竜胆の声で、蘭は意識を戻した。

 

横から一人が突っ込んでくる。

避けるより早く、拳が頬に入った。

 

鈍い衝撃。

口の中に血の味が広がる。

 

二発目が来る前に、蘭は身を沈めた。

 

相手の腕を取る。

流す。

そのまま地面に叩きつける。

 

呻き声が落ちた。

 

追撃できる。

 

一瞬、足が止まった。

 

昔の自分なら、迷わなかった。

 

けれど、蘭は息を吐いた。

 

踏まない。

追わない。

戻る。

 

ナマエの声が、胸の奥で蘇る。

 

――戻ってきてください。

 

蘭は舌打ちしそうになって、やめた。

 

あの子は、ここにはいない。

 

それなのに、いる。

 

拳を止めるわけでも、喧嘩を否定するわけでもない。

ただ、帰る場所だけを置いていく。

 

「……ほんと、面倒くさい」

 

「何?!」

 

竜胆が相手の拳をかわしながら聞き返す。

 

「何でもない。行くぞ、竜胆」

 

蘭は前を向いた。

 

次の集団が、もう来ている。

 

夜はまだ終わらない。

 

 

中央では、イザナとマイキーがぶつかり続けている。

 

勝つか、負けるか。

 

普通なら、それだけの夜だった。

けれど今夜、蘭が試されているのはそこじゃない。

 

戻れるか、どうかだ。

 

夜に沈まずに。

壊すだけの自分に戻らずに。

待っている場所へ、ちゃんと帰れるかどうか。

 

蘭は目の前の相手を見据えた。

 

次の拳が来る。

半歩ずらし、肩を入れ、必要な分だけ倒す。

そして、倒れた相手を踏まずに通り過ぎた。

 

その背中のすぐ後ろで、竜胆が笑う。

 

「兄貴」

 

「何」

 

「ちゃんと帰れそうじゃん」

 

蘭は振り返らなかった。

ただ、ほんの少しだけ口元を上げた。

 

「当たり前でしょ」

 

夜はまだ終わらない。

 

 

II. 呼ぶ拳

 

周囲では、もう立てない人間が増えていた。

 

座り込む者。

肩を貸し合う者。

倒れたまま空を見ている者。

 

抗争自体は、もう終わりに近かった。

それでも中央だけは違った。

 

マイキーとイザナ。

 

二人だけが、まだ立っていた。

 

蘭は息を整えながら、その光景を見ていた。

 

イザナは速い。

 

相変わらず異常なくらい。

鋭くて、美しくて、無駄がない。

 

けれど、少しずつ何かがずれていた。

 

拳は重い。

蹴りも鋭い。

 

なのに、空回りしている。

 

焦りとも怒りとも違う、もっと奥。

言葉にできない場所が、崩れ始めていた。

 

対するマイキーは、何も変わらない。

 

ただ前に出る。

 

殴られても前へ。

蹴られても前へ。

 

何度でも、しつこいほどに。

 

蘭は眉を寄せた。

 

普通なら嫌になる。

普通なら折れる。

 

なのにマイキーは、やめない。

 

まるで、逃がさないみたいに。

 

離さないみたいに。

 

イザナの蹴りが入る。

マイキーが受ける。

拳が返る。

イザナが避ける。

 

また蹴る。

また受ける。

また前へ出る。

 

そして、その瞬間だった。

 

イザナの動きが、一瞬だけ止まった。

疲労じゃない。

蘭には分かった。

 

ーー迷った。

ーーほんの一瞬。

 

マイキーは、それを見逃さなかった。

 

拳が入る。

空気が揺れる。

 

イザナの身体が大きく後ろへ流れた。

立て直そうとする。

 

けれど次が来る。

また。

その次も。

 

そして――

 

イザナの膝が落ちた。

 

誰も声を出さなかった。

夜が、一気に静かになる。

 

倒れたわけじゃない。

片膝をついただけ。

 

それなのに、誰の目にも分かった。

 

――終わった。

 

天竺が、負けた。

 

風だけが吹いていた。

さっきまで響いていた怒号も、足音も、笑い声もない。

 

中央で、イザナは俯いていた。

長い沈黙だった。

 

万次郎は何も言わない。

ただ目の前に立っていた。

 

勝者の顔じゃない。

見下している顔でもない。

 

ただ、ずっと見ていた。

 

ここに立っているのは、トーマンの総長マイキーではなかった。

真一郎の弟で、イザナの前に立つ、佐野万次郎だった。

 

イザナが小さく笑う。

乾いた笑いだった。

 

「……何だよ」

 

掠れた声だった。

 

「勝ったなら、何か言えよ」

 

万次郎は少しだけ眉を寄せた。

それから、当たり前みたいな顔で言った。

 

「来いよ」

 

イザナが顔を上げた。

 

「は?」

 

「一緒にやろうぜ」

 

夜の空気が止まる。

誰も動かない。

 

天竺も。

トーマンも。

 

蘭も。

竜胆も。

 

全員が中央を見ていた。

 

イザナは、理解できないみたいな顔をした。

 

「……何言ってんだ、お前」

 

万次郎は平然としていた。

 

「別に」

 

少し間を置いてから、続ける。

 

「お前、強ぇし」

 

そんな理由かよ、と言いたくなるくらい普通の顔だった。

それから、万次郎はふいに声の温度を落とした。

 

「真一郎も待ってる」

 

イザナの顔から、表情が消えた。

万次郎は少しだけ目を伏せる。

 

「兄貴、ずっと言ってた」

 

静かな声だった。

 

「イザナは弟だって」

 

夜風だけが吹いた。

誰も何も言わない。

 

「会いてぇってさ」

 

イザナは動かなかった。

 

「バイクも、直してやるって」

 

そこで万次郎は、ほんの少しだけ口を曲げた。

 

「……たぶん、めちゃくちゃ怒られるけど」

 

イザナの指が、地面の上でわずかに動いた。

 

万次郎は、そこで初めて真面目な顔になった。

 

「オレは来てほしい」

 

真っ直ぐだった。

 

慰めじゃない。

同情でもない。

 

ただ、本心。

 

「一緒にやりたい」

 

そして少しだけ視線を下げる。

 

「でも」

 

そこで言葉を切る。

 

「決めるのは、お前」

 

蘭は、その言葉に目を細めた。

 

――選べ。

 

イザナは何も言わない。

俯いたままだった。

 

その隣へ、鶴蝶が来た。

何も言わずに、ただ、隣に立つ。

 

昔からそうだったんだろう。

ずっと。

 

イザナはそちらを見て、また前を向いた。

 

そして小さく笑った。

さっきまでと違う笑い方だった。

誰かを試す笑いでも、見下す笑いでもない。

 

ほんの少しだけ、力が抜けた顔だった。

 

 

III. 天竺の負け

 

その時だった。

 

ムーチョが前へ出た。

周囲も自然と視線を向ける。

 

天竺の総長はイザナだ。

けれど勝敗は、もう誰の目にも明らかだった。

 

終わらせる人間が必要だった。

 

ムーチョは、イザナを一度見た。

イザナは何も言わなかった。

 

それで十分だった。

 

ムーチョは周囲を見回し、短く告げた。

 

「……天竺の負けだ」

 

誰も反論しなかった。

 

夜風だけが吹いた。

 

「以上で終わりだ。もう手を出すな」

 

静かな声だった。

けれど、その場にいた全員に届いた。

 

――天竺の敗北。

 

その言葉が落ちた瞬間、張り詰めていた何かが一気に抜けた。

 

誰かが座り込む。

誰かが息を吐く。

誰かが空を見る。

 

さっきまであれほど響いていた怒号は、もうなかった。

勝った者も、負けた者も、すぐには動けなかった。

 

蘭はそこで初めて、肩の力を抜いた。

隣では竜胆が息を吐いている。

 

「終わったな」

 

「……そうだね」

 

万次郎は、勝った側にいるのに、勝者の顔をしていない。

イザナは、負けた側にいるのに、完全に拒んでいる顔でもない。

鶴蝶は何も言わず、ただその隣に立っている。

 

三人とも、まだ答えの途中みたいな顔をしていた。

 

蘭は、その光景から目を離せなかった。

 

選ばせたまま、待つ人間。

選べ、と言われた人間。

その横で、何も言わずに寄り添う人間。

 

どれも、蘭には少しだけ痛かった。

 

 

抗争が終わったのは、十時を少し過ぎた頃だった。

 

蘭は携帯を取り出した。

この時間、ナマエの携帯は親の手元にある。

それでも、蘭は指を動かした。

 

『終わった』

 

そこで一度、手が止まる。

 

大丈夫、と打とうとして、やめた。

大丈夫ではない。

 

傷もある。

痛みもある。

胸の奥には、まだ夜の熱が残っている。

 

だから、嘘にならない言葉だけを選んだ。

 

『生きてる。帰る』

 

蘭はしばらく画面を見て、それから携帯を伏せた。

 

返事はいらない。

今は来なくていい。

 

朝になった時、ナマエが最初にこの画面を見て、息をつければそれでいい。

 

竜胆が隣で、小さく言った。

 

「兄貴」

 

「何」

 

「帰る?」

 

蘭はすぐには答えなかった。

 

――帰る。

 

その言葉が、今夜はやけに重く聞こえた。

 

ただ家に戻ることじゃない。

眠ることでも、傷を洗うことでもない。

 

待っていると言った相手のところへ、壊れたままではなく、自分の足で戻ること。

 

蘭は中央から目を離した。

自分には、先に果たす約束がある。

 

「……帰るよ」

 

そう言って、蘭はようやく夜に背を向けた。

 

明日、昼に出る。

ナマエに写真を送る。

 

それは、ただの報告ではなかった。

 

自分はまだ、そちら側に戻るつもりでいる。

 

そう示すための、小さな約束だった。

 

天竺のこれからも。

イザナの選択も。

灰谷兄弟が、どこまで夜に残るのかも。

 

そして、ナマエが選ぼうとしている未来に、自分がどう向き合うのかも。

 

何ひとつ、決まっていない。

 

それでも蘭は、夜に背を向けた。

 

今夜は戻れる。

それだけで、十分だった。

 

けれど、夜から帰れたことと、昼に立てることは違う。

 

明日、蘭はもう一度試される。

ナマエに会わない昼の中で。

 

自分が本当に、どこへ帰りたいのかを。

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