六本木の温度差   作:ぷーぷ

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「行っていいよ、とは言わない」
抗争から一週間。夜を越え、昼へ戻る約束を果たした蘭は、ようやくナマエと向き合う。二か月ぶりの再会。けれど二人の間には、電話を切った夜のわだかまりがまだ残っていた。進んでほしい。でも、離れてほしくない。その矛盾を抱えたまま、蘭は初めて逃げずに、ナマエの選択と向き合う。離れるかもしれない未来を前にして、二人はようやく、本当に伝えたかった言葉へたどり着く。


二人でその遠さを見る

I. 第一希望

 

抗争から一週間後、蘭は約束の場所に向かった。

 

駅から少し離れた、小さなカフェだった。

午後の光が窓際に薄く差している。

 

人目のあるところ。

昼間。

ナマエの父親が良しとする場所と時間。

 

二人が顔を合わせるのは、約二か月ぶりだった。

 

抗争は終わった。

天竺の行き先も決まった。

蘭は昼へ戻る約束も果たした。

 

けれど、ナマエとの間に残っている蟠りが元に戻ったわけではない。

 

あの日、電話越しに、蘭は言ってしまった。

 

――なら、こっちに残れよ。

 

ナマエがアメリカへ行くかもしれないと聞いた夜。

離れたくないと言ったナマエに、蘭は自分の寂しさをぶつけた。

 

そのまま電話を切った。

 

謝って終わる話ではない。

会えてよかった、で流せる話でもない。

 

今日、二人が会うのは、仲直りのためだけではなかった。

 

ナマエがどこへ行くのか。

蘭がそれをどう受け止めるのか。

離れるかもしれない未来を、それでも二人で見られるのか。

 

その話をするためだった。

 

ドアを開けると、コーヒーの匂いと低い話し声があった。

蘭は店内を見渡し、窓際の席で足を止めた。

 

ナマエがいた。

 

淡い色のカーディガン。

ゆるく巻いた、少し伸びた髪。

うっすらと色づいた頬。

膝の上で重ねられた指。

 

二か月会わないうちに、ナマエは少しだけ大人びていた。

 

自分なりに、少しでもきれいに見えるようにしてきたのだろう。

濃い化粧ではない。

知らなければ気づかないくらいだった。

それがナマエらしくて、蘭は少しだけ嬉しくなった。

 

本当は、何もしなくてもかわいいのに。

 

そう思った自分に気づいて、蘭はすぐに目を逸らした。

 

けれど、顔を上げた瞬間の目だけは、蘭の知っているナマエのままだった。

 

揺れている。

怖がっている。

それでも、こちらを見ている。

 

――会いたかった。

 

喉元まで上がった言葉を飲み込み、蘭はいつものように少しだけ笑った。

 

「よ」

 

ナマエは立ち上がりかけて、途中でやめた。

 

「……蘭さん」

 

名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。

 

「久しぶり」

 

「はい。久しぶり、です」

 

声が、ほんの少し震えていた。

 

蘭は向かいに座った。

テーブルを挟んだだけの距離なのに、妙に遠い。

けれど、目の前にいる。

 

しばらく、二人とも何も言わなかった。

 

会いたかった。

怖かった。

寂しかった。

触れたかった。

腹が立った。

 

そのどれから口にしていいのか、分からなかった。

 

先に口を開いたのは、ナマエだった。

 

「怪我は」

 

「もう平気」

 

「本当に?」

 

「本当」

 

「痛いところは?」

 

「ない」

 

「嘘は?」

 

「ちょっとある」

 

ナマエの眉が下がった。

 

蘭は思わず笑った。

 

「でも大丈夫」

 

「蘭さんの“大丈夫”は、あまり信用できません」

 

「ひどいね」

 

「事実です」

 

ほんの少しだけ空気がほどけた。

 

けれど、戻りきらない。

 

蘭は水のグラスに口をつけた。

胸の奥の熱は引かなかった。

 

「話、ある顔してる」

 

ナマエの指が、膝の上でぎゅっと重なった。

 

「あります」

 

「うん」

 

「蘭さんも、ありますか」

 

「ある、かも」

 

また沈黙が落ちた。

 

店員がカップを置く音がする。

外を誰かが笑いながら通り過ぎる。

世界はいつも通りに動いているのに、二人の席だけが切り離されたみたいだった。

 

ナマエが思い切ったように顔を上げた。

 

「先に、私から話してもいいですか」

 

蘭は短く息を吸った。

 

「いいよ」

 

ナマエは視線を落とし、それからもう一度、蘭を見た。

 

「日本の大学と、アメリカの大学を比べました」

 

「うん」

 

「日本に残る道も、ちゃんと考えました。こっちにいれば、家にもいられます。蘭さんにも会えます。今の生活を、全部変えなくて済みます」

 

声は震えていた。

けれど、弱くはなかった。

 

「でも、調べれば調べるほど、アメリカの大学の方が、私には合っていると思いました」

 

蘭は、ナマエを見た。

 

「授業の取り方も、専攻の選び方も、日本とは違います。最初から一つに決めるというより、いろんなものを見ながら、自分で選んでいけるところがあるみたいで」

 

「うん」

 

「まだ、全部分かっているわけではありません。英語の試験も、出願も、これからです。受かるかどうかも分かりません」

 

ナマエの目に涙が浮かんだ。

 

「でも、私は――」

 

そこで声が切れた。

 

ナマエは唇を結び、ちゃんと息を吸った。

 

「アメリカの大学を、第一希望にします」

 

蘭は、何も言えなかった。

 

― 第一希望。

 

その言葉は、思っていたより重かった。

 

候補のひとつ。

行くかもしれない場所。

まだ決めていない未来。

 

そういう曖昧なものでは、もうない。

ナマエは、そこへ向かって歩き始める。

 

その瞬間、あの夜の自分の声が蘇った。

 

― 離れたくないって言ったのは、そっちだろ。

 

― なら、こっちに残れよ。

 

言った瞬間から、分かっていた。

あれは、言ってはいけない言葉だった。

 

ナマエの弱さに寄り添うふりをして、結局、自分の寂しさを押しつけた。

離れたくないと言ったナマエに、残る理由を背負わせようとした。

 

抗争が来たことで、考えずに済んだ。

殴る相手がいる方が楽だった。

 

けれど、終わってしまえば同じだった。

 

翌朝、制服を着て学校へ向かう竜胆を見た。

昼のカフェで、会社員や学生が当たり前の顔で歩いているのを見た。

ナマエに写真を送ると、少し遅れて返事が来た。

 

― 良かった。

― 昼にいてくれてありがとう。

 

その一つひとつの合間に、蘭は何度も思った。

 

ナマエは、自分から逃げようとしているわけではない。

自分を捨てようとしているわけでもない。

 

ただ、自分の足で、少し先へ行こうとしているだけだ。

 

「……そっか」

 

ようやく出た声は、自分でも驚くほど静かだった。

 

ナマエの指が震えている。

 

「怒っていますか」

 

「怒ってない」

 

「悲しいですか」

 

蘭は少しだけ笑った。

本当に、真っすぐ聞いてくる。

 

「悲しい」

 

そう答えると、ナマエの目から涙が落ちた。

 

「ごめんなさい」

 

「謝んな」

 

「でも」

 

「謝られると、俺のせいみたいになる」

 

蘭は、ゆっくり息を吐いた。

 

「ナマエが考えて、比べて、それで第一希望にするって決めたんでしょ」

 

「はい」

 

「じゃあ、謝ることじゃない」

 

「でも、蘭さんを悲しませます」

 

「それはそう」

 

ナマエが息を止めた。

 

蘭はグラスに落ちる光を見ながら言った。

 

「悲しいのは本当。寂しいのも本当。嫌じゃないって言ったら嘘になる」

 

ナマエの目が、また潤む。

 

「でも、それを理由に行くなって言ったら、たぶん俺の方が嫌になる」

 

蘭は目を伏せた。

 

「俺が、俺の寂しさで、ナマエの道を止めたことになる」

 

本当は、もっと簡単な言葉ならいくらでも出てくる。

 

行くな。

残れよ。

俺の近くにいろ。

 

言うだけなら簡単だった。

実際、一度言った。

言って、電話を切った。

 

その瞬間は、自分が傷ついた分だけ言い返したような気がした。

 

けれど、後に残ったのは勝った感覚でも、楽になった感じでもなかった。

 

相手を大事にしているふりをしながら、自分の都合で縛る。

 

愛情みたいな顔をして、相手の足元に鎖を置く。

 

そんなことはしたくなかった。

 

ナマエにだけは、したくなかった。

 

「私も、怖いです」

 

ナマエが言った。

 

「行きたいです。でも、怖いです。蘭さんと離れるのも、家を出るのも、知らない場所で生活するのも。全部、怖いです」

 

「うん」

 

「でも……行きたいです」

 

二度目の言葉は、一度目よりはっきりしていた。

 

痛い。

胸の奥が、静かに痛む。

それなのに、どこか誇らしかった。

 

「うん」

 

ナマエは涙を拭いた。

 

「蘭さんに、こっちに残れって言われたとき、蘭さんを傷つけたと思って、怖かったです」

 

蘭は黙った。

 

「でも、簡単に行っていいよって言われるのも、少し怖かったです」

 

「何で」

 

「手を離されたみたいに感じるかもしれないから」

 

行くなと言えば、縛る。

行っていいと言えば、突き放す。

 

では、何を言えばいいのか。

 

たぶん、正解なんてない。

それでも、逃げたくはなかった。

 

蘭は少し考えてから言った。

 

「行っていいよ、とは言わない」

 

ナマエが顔を上げる。

 

「俺は、許可する立場じゃないから」

 

ナマエの唇が震えた。

 

「でも、行くなとも言わない」

 

「はい」

 

「ナマエが、自分で選んだなら」

 

蘭は静かに言った。

 

「俺は、それをなかったことにはしない」

 

ナマエの目から、また涙が落ちた。

 

伸ばせば、届く。

けれど、蘭は手を伸ばさなかった。

 

その代わり、逃げずにナマエを見た。

 

「好きだよ」

 

ナマエが息を止めた。

 

「ナマエ。俺は、お前が好き」

 

言った瞬間、胸の奥が熱くなった。

 

こんなに短い言葉を、どうして今まで避けていたのかと思うくらい、まっすぐだった。

 

「残るお前が好きなんじゃない。俺の近くにいるお前だけが好きなんでもない」

 

ナマエの唇が震える。

 

「そういうふうに、自分で考えて、自分で怖がって、それでも選ぼうとするお前が好き」

 

ナマエは何も言えなかった。

ただ、涙だけが落ちていく。

 

「だから、俺のためにその選択を小さくしないで」

 

蘭は、自分の声が少し震えたのを感じた。

 

「俺も、俺の寂しさで、お前を小さくしないようにする」

 

ナマエは頷くように俯いた。

 

少しの沈黙が二人を包んだ。

 

ナマエはそっと顔を上げて、蘭を見た。

 

「……今、言うんですか」

 

「今言わないと、また逃げそうだから」

 

「約束、覚えてたんですね」

 

「忘れるわけないでしょ」

 

蘭は困ったように笑った。

 

「泣きすぎ」

 

「今日は仕方ないです」

 

「そっか」

 

「はい」

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

ナマエは、いなくなるために話しているのではない。

離れても続けたいから、泣きながら向き合っている。

 

それが分かったから、次に言うべきことも分かった。

 

「じゃあ、これからは」

 

蘭は言った。

 

「もし行ったら、じゃなくて」

 

ナマエが蘭を見つめる。

 

「行く前提で、ちゃんと考えないとな」

 

「はい」

 

「試験。出願。結果が出る時期。出発の日。休みがどれくらいあるか。電話できる時間」

 

「はい」

 

「あと、ナマエが向こうで無理しすぎないようにするとか」

 

ナマエが瞬きをした。

 

「そこもですか」

 

「そこもでしょ。知らない場所で、全部自分でやろうとしそうだし」

 

「……するかもしれません」

 

「だろうね」

 

「でも、蘭さんもです」

 

「俺?」

 

「寂しくても、平気な顔をしそうです」

 

蘭は目を伏せた。

 

「するかもね」

 

「しないでください」

 

「無理かも」

 

「そこは頑張ってください」

 

ナマエが泣きながら言うから、蘭は少し笑った。

 

「じゃあ、決めとく?」

 

「何をですか」

 

「平気なふり禁止」

 

ナマエは涙を拭きながら頷いた。

 

「はい」

 

「寂しいは言う。怖いも言う。会いたいも言う」

 

「言ってください」

 

「面倒くさいかもよ」

 

「大丈夫です。私も言います」

 

蘭は笑った。

 

「じゃあ、お互い面倒だね」

 

「はい」

 

ナマエも、泣きながら笑った。

 

何も解決していない。

アメリカは遠いままだ。

試験も、出願も、合格も、出発も、全部これからだ。

 

それでも、今日ひとつだけ変わった。

 

アメリカは、もうただの候補ではなくなった。

 

ナマエは、自分の口で第一希望だと言った。

蘭は、それを止めなかった。

簡単に送り出すふりもしなかった。

 

ただ、二人でその遠さを見た。

見ないふりをせずに、ちゃんと見た。

 

そして、そこから目を逸らさないことにした。

 

 

II. 戻った温度

 

カフェを出ると、外の空気は少しだけやわらかかった。

 

まだ十五時前だった。

二人は駅へ向かって歩いた。

並んでいるのに、手はつながない。

 

つなぎたくないわけではなかった。

ただ、今触れたら、緊張も寂しさも、触れたい気持ちも、一気に溢れてしまいそうだった。

 

ナマエの目元は、まだ赤い。

蘭は横目でそれを見て、軽い声を出した。

 

「その顔で電車乗んの」

 

「……そんなにひどい顔ですか」

 

「ひどいっていうか」

 

蘭は少し目を逸らした。

 

「その顔で電車乗せんの、俺が嫌」

 

ナマエは困ったように眉を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

「謝れって言ってない」

 

蘭は足を止めた。

 

「うち来れば」

 

ナマエの動きが止まった。

 

「……行っていいんですか?」

 

「俺が誘ってんだけど」

 

「でも」

 

「でも、何」

 

ナマエは少し迷った。

 

「さっき、あんな話をしたのに」

 

蘭はナマエを見た。

 

「だからじゃん」

 

「だから?」

 

「今帰したら、俺、たぶん変なこと考える」

 

「変なこと?」

 

「お前がいない方に慣れる練習とか」

 

ナマエの顔が揺れた。

 

「……それは嫌です」

 

「だろ」

 

蘭は、ようやく少し笑った。

 

「だから来いよ」

 

ナマエは、十八時までには帰るという父との約束を思い出した。

 

「十七時には出ます」

 

「分かってる」

 

蘭は即答した。

その一言で、十分だった。

 

二人は、蘭のマンションへ向かった。

着くまで、ほとんど話さなかった。

 

エントランスを抜け、エレベーターに乗る。

二人とも前を向いていた。

 

金属扉に、ナマエの俯く顔が淡く映る。

淡く色づいた唇。

伏せられた睫毛。

赤い目元。

 

蘭は、直接見る代わりに、その輪郭を見ていた。

 

― 触れたい。

 

でも、触れたら、たぶん止まらない。

 

部屋の前に着き、蘭が鍵を開けた。

扉が閉まると、外の空気がそこで切れた。

 

蘭は先に上がった。

ナマエも続く。

 

けれど、靴を揃えようと屈んだところで、手が止まった。

 

涙が落ちた。

 

「……すみません」

 

「だから、謝んなって」

 

蘭はナマエの腕を引いた。

一瞬だけためらって、ナマエは蘭の胸に額を寄せた。

 

蘭は、その背中に腕を回した。

 

細い。

あたたかい。

ちゃんと、ここにいる。

 

二か月ぶんの距離が、腕の中で一気に崩れた。

 

「怖かったです」

 

ナマエが小さく言った。

 

「今日、言うのが。蘭さんが、傷つくと思って」

 

「傷ついたよ」

 

ナマエの指が、蘭の服を掴む。

蘭はその背中を抱きしめた。

 

「でも、言わない方が嫌だった」

 

ナマエは、声を殺して泣いた。

 

「……私も、言わない方が嫌でした」

 

「うん」

 

「離れたくないです」

 

その言葉に、蘭の喉が詰まった。

 

「俺も」

 

「でも、行きたいです」

 

「うん」

 

「変ですか」

 

「変」

 

ナマエが、泣きながら少し笑った。

 

「ですよね」

 

「でも、いいんじゃない」

 

蘭はナマエの髪に頬を寄せた。

 

「一個だけ選べるなら、こんな泣いてないでしょ」

 

ナマエは黙って頷いた。

その小さな頷きが、どんな言葉よりもまっすぐで、蘭は一瞬、息の仕方を忘れた。

 

「会いたかった」

 

ようやく言えた。

 

ナマエの腕に、ぎゅっと力が入る。

 

「私もです」

 

「ほんとに?」

 

「本当に」

 

「どれくらい」

 

ナマエは少し黙り、蘭の胸元に額を押しつけたまま、小さく言った。

 

「毎日、です」

 

蘭は笑った。

 

「重いね」

 

「蘭さんが聞いたんです」

 

「そうだった」

 

ナマエが顔を上げた。

涙の跡が残っている。

目元も赤い。

それなのに、まっすぐこちらを見ている。

 

蘭は、その顔から目を逸らせなかった。

 

頬に触れ、親指で涙の跡を拭う。

 

「泣きすぎ」

 

「今日は、仕方ないです」

 

「そればっか」

 

「本当に、仕方ないんです」

 

そう言われて、蘭はもう笑えなくなった。

 

泣いたあとで赤くなった瞼に、唇を落とす。

触れたのはほんの一瞬だった。

それでも、ナマエの睫毛が震えた。

 

「嫌なら言えよ」

 

低く囁くと、ナマエは目を閉じたまま息を吸った。

 

「……嫌じゃないです」

 

それだけで、十分だった。

 

蘭は、ナマエの唇にキスをした。

 

最初は、触れるだけだった。

まだここにいることを確かめるように。

離れていた時間の分だけ、慎重に。

 

唇を離すと、ナマエがうっすらと目を開けた。

 

「蘭さん……」

 

その声で名前を呼ばれた瞬間、蘭の中で何かが緩んだ。

 

もう一度、キスをした。

今度は、長く、深く。

 

ナマエの手が、蘭のシャツを掴んだ。

逃げるためではなかった。

離れないための指だった。

 

その力に、蘭は短く息を吐いた。

 

「……それ、反則」

 

ナマエが薄く目を開ける。

 

「何がですか」

 

「分かってないなら、もっと悪い」

 

そう言って、蘭はまた唇を重ねた。

 

玄関の真ん中で、抱き合ったまま。

何度も。

息を継ぐたびに、また抱きしめ直した。

 

少し唇を離すと、ナマエは息を乱していた。

泣いて赤くなった目元。

蘭のシャツを掴む指。

逃げる気配はどこにもない。

 

ただ、蘭を見ていた。

何かを欲しがるような、けれどまだ自分ではそれを言葉にできないような瞳で。

 

蘭は喉の奥で息を止めた。

 

「蘭さん」

 

「何」

 

「好きって、もう一回言ってください」

 

蘭は一瞬、言葉を失った。

 

カフェで言った。

ちゃんと言った。

 

けれど、ナマエは今、それをもう一度欲しがっている。

 

泣きながら怖いと言ったくせに。

離れる未来に怯えていたくせに。

それでも、自分から手を伸ばしてくる。

 

本当に、ずるい。

 

蘭はナマエの額に、自分の額をそっと合わせた。

 

「好きだよ」

 

低く言うと、ナマエの目にまた涙が浮かんだ。

 

「私も、好きです」

 

その声があまりに震えていて、蘭はもう一度抱きしめるしかなかった。

 

さっきよりも強く。

けれど、壊さないように。

 

ナマエも、蘭の背中に腕を回した。

細い腕が、必死に蘭をつなぎ止めようとする。

 

二か月分の我慢が、胸の奥で一気にほどけていく。

 

会えなかった時間。

触れられなかった夜。

言えなかった言葉。

 

全部が、今さらみたいに熱を持って押し寄せてくる。

 

今、ナマエはここにいる。

蘭も、ここにいる。

 

それだけで足りるはずなのに、足りなかった。

 

もっと近くに。

もう少しだけ長く。

このまま、今だけは離したくない。

 

そう思った瞬間、蘭は何も言わず、ナマエの膝裏に腕を差し入れた。

 

「蘭さん」

 

ナマエの体がふわりと浮く。

驚いたナマエが、慌てて蘭の首にしがみついた。

 

軽い。

熱い。

近い。

 

「下ろしてください」

 

抗議というより、戸惑いに近い声だった。

蘭は短く笑った。

 

「やだ」

 

「門限があります」

 

「分かってる」

 

即答だった。

 

分かっている。

だからこそ、離したくなかった。

 

奪うためではない。

傷つけるためでもない。

 

ただ、もう一度ちゃんと抱きしめたかった。

 

玄関ではなく。

立ったままではなく。

逃げるみたいに急いだ時間ではなく。

 

二か月ぶりに戻ってきたこの温度を、少しでも長く腕の中に置いておきたかった。

 

蘭はナマエを抱えたまま、自分の部屋へ向かった。

 

ベッドにナマエをそっと下ろす。

 

「十七時には出る」

 

蘭が低く言うと、ナマエは小さく頷いた。

 

「はい」

 

「だから、それまでは泣いていい」

 

ナマエの顔が、また少し歪んだ。

 

「……泣かせているのは、蘭さんです」

 

「知ってる」

 

蘭は困ったように笑って、もう一度ナマエを抱きしめた。

 

言葉だけで抑えていたものが、ようやく互いの腕の中でほどけ始めていた。

 

離れる未来は、まだ消えない。

 

それでも今だけは、ここにいる温度を、二人とも離せなかった。

 

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