初めて蘭と過ごす週末。
六本木ではない場所で過ごす、穏やかで普通の時間に鳴った一本の電話。
携帯を見た瞬間に変わった蘭の目。
迷いなく離れていく背中。
ナマエは初めて、蘭の世界にはまだ見えていない“上”があるのだと知る。
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I. 違和感
日曜。
初めて蘭と過ごす週末。
いつもより長い時間。
待ち合わせの時間より少し早く着いたナマエは、改札の前で何度も携帯を見ていた。
画面には「10分後」とだけ送られたメッセージ。
来るかどうかを疑っているわけじゃない。
ただ、ここが蘭と待ち合わせをする場所に思えなかった。
六本木から少し離れた、新しくできたビルが立ち並ぶエリア。
同じ東京でも、空気が違う。
もう一度画面を見たとき、
「早ぇな」
後ろから声がした。
振り向くと、灰谷蘭が立っている。
いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。
「……六本木以外も来るんですね」
「たまにな」
軽く返される。
「今日、どこ行くんですか」
蘭は少しだけ考えてから、
「任せる」
とだけ言った。
「え?」
「こういうの、お前の方が詳しいだろ」
丸投げだった。
ナマエは苦笑しながら、
「……じゃあ、普通でいいですか」
と聞いた。
「普通って何だよ」
「映画とか」
蘭は一瞬だけ止まる。
「……映画か。いい」
短く答えた。
映画館は人で溢れていた。
カップルや家族連れ。
蘭が普段いる場所とは違う空気。
「落ち着かねぇな」
小さく呟く。
「帰ります?」
「いや」
即答だった。
「来たし」
列に並ぶ。
「……並ぶの平気なんですか?」
「平気じゃねぇよ」
「じゃあなんで」
蘭は少しだけ視線を動かして、
「お前が並んでるから」
何でもないように言った。
ナマエは一瞬目を大きく開き、言葉を失う。
蘭は小さく笑った。
「嘘ついてねぇからな」
上映が始まると、館内の照明がゆっくり落ちた。
それまで小さく響いていた話し声も、ポップコーンの袋が擦れる音も、暗闇の中へ沈んでいく。
スクリーンだけが明るくなり、ナマエの横顔を淡く照らした。
ナマエは、すぐに映画へ集中した。
膝の上に両手をそろえ、背筋を少し伸ばして、まっすぐ前を見ている。
蘭も最初はスクリーンを見ていた。
面白い場面になると、客席のあちこちから笑い声が起きる。
息をのむような場面では、誰かが小さく息を吸う。
ナマエも、少し肩を強張らせたり、目を見開いたりしていた。
けれど蘭だけが、その反応の波に少し乗り遅れていた。
映画がつまらないわけではない。
ただ、どこで笑えばいいのか。
どこで驚けばいいのか。
周りと同じ温度でそこにいる感覚が、うまく掴めなかった。
暗い場所は慣れている。
人の気配にも慣れている。
ざわめきにも、視線にも、夜にも慣れている。
けれど、こういう暗さは知らなかった。
誰かを傷つけるためでも、隠れるためでもない暗闇。
ただ隣に座って、同じものを見るための暗さ。
蘭は、少しだけ視線を横へずらした。
ナマエは、まだスクリーンを見ていた。
長いまつげは、ほとんど瞬きをしない。
大きな瞳には、画面の光が淡く映っている。
口角の上がった柔らかそうな唇が、驚いたようにほんの少し開いて、またすぐ閉じる。
その横顔は、蘭が今まで見てきたナマエとは少し違っていた。
自分に向かって笑う顔でもない。
困ったように言い返してくる顔でもない。
まっすぐ何かを見つめて、物語の中に入り込んでいる顔。
蘭は、そこで初めて思った。
まだ、知らない顔がある。
何度も会っている。
声も知っている。
笑い方も知っているつもりだった。
それなのに、隣に座っているだけで、知らないものがまたひとつ出てくる。
それが、少しだけ不思議だった。
そして、少しだけ、面白かった。
ナマエは気づかない。
そのことに、蘭はなぜか少し安心して、暗闇の中で小さく息を吐いた。
映画が終わる。
「どうでした?」
「よく分かんなかった」
「ちゃんと見てました?」
「見てたよ」
少しだけ笑って、
「でもそっちの方が面白かった」
「そっち?」
「お前」
ナマエは顔を少し赤らめてうつむく。
「……映画代返してください」
「やだよ」
外に出ると、午後の光が眩しかった。
こんな時間に外にいる自分が、少しだけ不思議に思える。
少し歩いたところで蘭が聞く。
「次、どうする」
「ご飯……行きます?」
「ああ」
「普通のレストランでも大丈夫ですか?」
蘭は少し考えて、
「まあ、行けるだろ」
と答えた。
店は落ち着いた空間だった。
ナマエは蘭をちらりと見る。
違和感がない。
所作も、立ち振る舞いも。
言われなければ、六本木の不良には見えない。
「……なんか」
「何」
「普通ですね」
蘭は水を一口飲んで、
「普通って、こういうのか」
と呟いた。
食事を終えて外に出ると、日が傾き始めていた。
並んで歩く。
手は繋いでいない。
けれど距離は近い。
蘭がふと手を伸ばす。
差し出されたままの手に少し迷って、それを握る。
今までで一番長く過ごした日。
それでも、ここに長くはいられない気がした。
理由は分からない。
ナマエは手に少しだけ力を込める。
蘭も、それに応えるように握り返した。
「……どうする、次回」
「また、普通でいいです」
「映画?」
「図書館でもいいです」
蘭は少しだけ笑う。
「じゃあ、どっちもな」
日が落ちる。
六本木とは違う、穏やかな夜。
それでも隣にいるのは同じ蘭だ。
少し不思議で、少しだけ嬉しかった。
一方、蘭は。
普通の昼間のデートは、思っていたより厄介だった。
並んで歩き、映画を見て、食事をして、手を繋ぐ。
それだけのことなのに、妙に引っかかる。
騒がしさも、刺激もない。
時間は静かに流れる。
それでも、離れがたい。
今まで一緒にいた女たちとは違う。
隣にいるだけで成立してしまう空気。
それが、少しだけ厄介だった。
ふとした瞬間に思う。
――ここは、自分の居場所じゃない。
それでも、今は、ナマエの手を離す気にはならなかった。
II. Call
次の週末、二人は海辺まで足を伸ばしていた。
都内から少し離れただけなのに、空気が違う。
音も人の気配も、どこか遠くに感じられた。
夕日がゆっくりと海に沈んでいく。
ナマエは波打ち際から少し離れた場所に立ち、その光景を見つめていた。
「……きれいですね」
小さくつぶやく。
蘭は隣で同じ方向を見たまま、何も答えない。
特別な会話はなかった。
けれど、その沈黙は不自然ではなく、むしろ心地よかった。
やがて風が強くなり、ナマエは思わず肩をすくめる。
「寒いか」
背後から声がして、振り向くより先に腕が回された。
背中から抱き寄せられ、体温が一気に近づく。
一瞬、息が止まる。
「……大丈夫です」
そう答えたものの、声はわずかに揺れていた。
蘭は何も言わず、そのまま腕を緩めない。
波の音と風の音だけが残り、時間がゆっくりと流れていく。
そのとき、蘭のポケットの中で携帯が震えた。
短く、一度だけ。
蘭はゆっくりと手を離し、携帯を取り出して画面を見る。
ほんの一瞬、目の色が変わった。
「……悪い」
それだけ言う。
ナマエは何も聞かなかった。
聞かなくても分かる。
これは、断れない呼び出しだと。
「送る」
蘭がそう言い、二人は海を後にした。
電車の中では、ほとんど会話はなかった。
さっきまでの穏やかな空気は、もうどこにも残っていない。
都内に戻り、ナマエの最寄り駅に着く。
改札の前で、蘭が足を止めた。
「じゃあな」
ナマエは小さく頷く。
「……はい」
一瞬だけ間があって、
「気ぃつけろよ」
蘭が付け加える。
ナマエは少しだけ笑った。
「蘭さんも」
蘭はそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出す。
振り返ることはない。その足取りに迷いもなかった。
ナマエはその背中を見送る。
さっきまで抱き寄せていた人間と、今、離れていく人間。
同じはずなのに、どこか違って見える。
胸の奥が、わずかにざわついた。
それでも目を逸らさず、完全に見えなくなるまでその場に立ち尽くす。
ようやく息を吐いたとき、まだ手の感触が残っていることに気づく。
温かさの中に、少しだけ冷たいものが混じっていた。
改札を抜けようとしたとき、ふと足が止まった。
思い出したのは、さっきの蘭の表情。
携帯を見た、あの一瞬。
明らかに変わっていた。
迷いも戸惑いもなく、ただ決まっていたかのように動いた。
ナマエは立ち止まる。
誰だったのだろう。
あの蘭が、何も言わずに従う相手。
断れないというより、そもそも断るという選択肢が存在しないような相手。
はっきりとは分からない。
それでも、どこかで感じていた。
蘭のいる世界には、まだ見えていない“上”があるのだと。
ナマエはゆっくりと改札を抜ける。
歩きながら、小さくつぶやいた。
「……誰なんだろう」
怖いとは思わなかった。
むしろ、知りたいと思ってしまった。
さっきまでの温もりとは違う、もうひとつの引力。
それが確かに、自分の中に生まれているのを感じていた。
その頃、蘭は横浜で電車を降りていた。
海とは違う、乾いた夜の空気が肌に触れる。
足を止めることなく、そのまま天竺の拠点へ向かう。
さっきまでの時間は、どこにも残っていない。
けれど、完全に消えたわけでもない。
それが、妙に厄介だった。
そしてその厄介さが、この先何を引き寄せるのか、まだ誰も知らない。