六本木の温度差   作:ぷーぷ

20 / 20
「そこから仕事だと思うなら、払う」
九月。ナマエは出願準備に追われ、竜胆も進路を決める。蘭は、夜の真ん中で、次に踏み出す場所を見つけられずにいた。そんな時、蘭は六本木のバーで、西麻布の小さな箱のイベントを手伝わないかと声をかけられる。喧嘩でもない。遊びでもない。初めて、蘭の夜に値段がつく。蘭が待つだけではなく、自分の場所を作り始めるお話です。*最終平和軸(クラブオーナー軸)です。蘭、19歳。


夜に値段が付く

I. 続くための線

 

九月、新学期に入ると、ナマエの生活は一気に埋まった。

 

学校。

英語の試験。

出願用のエッセイ。

志望校の情報整理。

推薦状の相談。

 

十時を過ぎれば、ナマエの携帯は親に預ける。

2か月前は、父親に線を引かれているのだと思った。

けれど今は違う。

 

自由に連絡を取れば、きっと止まらなくなる。

それでは、ナマエの生活も、留学準備も崩れる。

 

だから、十時まで。

父親が示した線を、二人で考えて、二人で選んだ。

ナマエと続くために、自分たちで守る線だった。

 

会えるのは、基本的に日曜の昼。

その一回を作るために、ナマエは平日を詰めている。

 

なら、自分も平日をただ余らせているわけにはいかなかった。

けれど、何をすればいいのかは分からない。

 

蘭は、まだ夜の真ん中で、次に踏み出す場所を見つけられずにいた。

 

 

II. 夜に値段がつく

 

その夜、蘭は六本木の奥まった場所にある小さなバーの前にいた。

 

派手な看板はない。

入口も目立たない。

けれど、扉の向こうには、六本木に長くいる大人たちが静かに集まる。

 

蘭がここへ来るのは、半年ぶりくらいだった。

扉を開けると、低く絞られたジャズと、グラスの触れ合う音がした。

カウンターの向こうで、ママが顔を上げる。

 

「あら、いらっしゃい。蘭ちゃん」

 

常連の男が振り返った。

 

「久しぶりだね。戻ってきたのか」

 

「戻ったってほどじゃない」

 

「でも、少し落ち着いた顔になったな」

 

「老けたってこと?」

 

「違うよ。前より、目が急いでいない」

 

蘭は言い返さなかった。

 

ママがグラスを置く。

 

「何か飲む?」

 

「適当に」

 

「相変わらずね」

 

その声を聞くと、昔を思い出す。

 

小学生のころ。

竜胆を連れて、人目につかない場所を探していた。

喧嘩のあとで、頬が切れていたり、服に血がついていたりした。

 

店の裏口に座り込んでいた二人を、ママは店の奥へ入れた。

怪我を手当てして、温かい飲み物と食事を出してくれた。

 

「転んだ」

 

そう言う蘭に、ママは少し笑った。

 

「六本木の子は、ずいぶん派手に転ぶのね」

 

責めない。

深追いもしない。

でも、見えていないふりもしない。

 

それが、少しだけ母を思い出させた。

思い出せば、その人がもういないことまで一緒についてくる。

 

だから、この店に長くいるのは少し苦手だった。

それでも、六本木では珍しく、気を張らなくていい場所だった。

 

常連たちも、ママが昔から気にかけている兄弟として、蘭と竜胆を知っている。

夜の表で派手に目立つ人間たちではない。

でも、六本木の裏側をよく知っている大人たちだった。

 

店を持つ者。

小さな会社を回す者。

弁護士。

税理士。

イベントや音楽の現場に長く出入りしている者。

 

声が大きいわけではない。

名前を振りかざすわけでもない。

この界隈に自分の場所を持ち、仕事として夜と関わってきた人間たちだった。

 

静かな会話の中に、濃い情報が混じる。

 

どの箱は最近、客入りが鈍い。

どのDJは音はいいが、客を呼べない。

どのイベントは人数だけ集まって、フロアが荒れた。

どのオーナーは金払いが悪い。

どの箱は小さいが、音がいい。

 

前の蘭なら、聞き流していた。

でも今は、妙に耳に残った。

 

その夜、常連の一人が、西麻布寄りの小箱の話をしていた。

 

キャパは百人少し。

地下にある。

音響は悪くない。

バーもある。

 

その男は、そこのオーナーらしかった。

 

「箱を借りたいって若い主催者は多いんだよ」

 

男はグラスを揺らしながら言った。

 

「イベントを打ちたい。人も呼べる。勢いもある。でも、人数だけ集めてもだめなんだ。入口で崩れる。フロアで揉める。DJの順番が読めない。酒に飲まれる客もいる。結局、店の空気が壊れる」

 

「スタッフいないの」

 

「いるよ。バーカンも、音響も、受付も。でも、現場全体を見る人間がいない」

 

「店長は?」

 

「店長は店を見る。イベントを見る人間は別に要る」

 

男は続けた。

 

「誰を入れて、誰を入れないか。どのDJを何時に置くか。フロアが熱くなりすぎた時、どこで落とすか。揉めそうな組をどう離すか。そういうのは、マニュアルじゃできない」

 

ママがふと蘭を見た。

 

「蘭ちゃん、分かるでしょう」

 

「何が」

 

「人の見方」

 

蘭は眉を寄せた。

 

分かる。

 

目つき。

声の張り方。

女を見る時の態度。

金の使い方。

仲間内での立ち位置。

自分を大きく見せようとしているやつ。

本当に危ないやつ。

場を壊しに来るやつ。

 

六本木で生きていれば、嫌でも見える。

 

「入口で怖がらせてほしいわけじゃない」

 

男が言った。

 

「用心棒を探してるんじゃない。若い客を入れたい。でも、荒らしたくない。店の色も壊したくない。音も分かって、客も見られて、揉める前に止められるやつがほしい」

 

「俺、音は詳しくない」

 

「竜胆くんは詳しいんでしょう」

 

ママが言った。

蘭は少しだけ目を細めた。

 

「詳しいよ。でも、あいつを店側には入れない」

 

竜胆が夜の箱に出入りしていることくらい、蘭も知っている。

遊び半分で、少し回させてもらうこともあった。

けれど、それと、金をもらって現場を見ることは違う。

高校生の竜胆に、店の責任まで背負わせるつもりはなかった。

 

ママは静かにうなずいた。

 

「相談するだけでいいわ。DJの名前を聞くとか、音の方向を見るとか」

 

男も続けた。

 

「どうだろう、蘭くん。まず手伝いとして入ってみないか。最初から全部任せるわけじゃない。ゲストリスト、入口の空気、フロアの流れ。そこだけ見てくれればいい」

 

蘭が少し黙っていると、男は当然のように言った。

 

「もちろん報酬は払うよ。遊びじゃない」

 

― 遊びじゃない。

 

その言葉が、妙に耳に残った。

 

今まで、蘭の名前は六本木で勝手に使われてきた。

怖い。

強い。

逆らえない。

顔が利く。

 

その名前を、喧嘩ではなく、仕事として使う。

人を集める。

人を選ぶ。

場を読む。

壊れる前に整える。

 

六本木で自然にやってきたことが、別の形に変わる気がした。

 

「いつ」

 

「来月の頭に一本ある。まずは見に来るだけでもいい」

 

「見るだけなら金いらない」

 

「そこから仕事だと思うなら、払う」

 

蘭は少し笑った。

 

「ちゃんとしてるね」

 

「大人はそういうものよ」

 

ママが言った。

 

蘭はカウンターに肘をつき、店の奥を見た。

変わっていない。

自分がまだ子供で、何も選べなかった時代を思い起こさせる。

 

でも、今は違う。

 

この店の大人たちは、19歳の蘭を子ども扱いしない。

かといって、ただの六本木の危ない名前としても扱わない。

 

できることがあるなら、使え。

できないことがあるなら、覚えろ。

 

そう言われている気がした。

 

「やってみる」

 

蘭が言うと、ママは穏やかに笑った。

 

「お願いね、蘭ちゃん」

 

その夜、蘭は初めて、自分の夜に値段がつく音を聞いた。

 

 

III. 白紙じゃない紙

 

帰ってから、蘭は竜胆にその話をした。

 

竜胆はリビングで音楽雑誌を広げていた。

テーブルには、どこかのクラブイベントのフライヤーが何枚も散らばっている。

 

「西麻布の小箱でイベントあるらしい」

 

「ふうん」

 

「若い客入れたいんだって。でも荒らしたくない。DJも探してる」

 

竜胆が顔を上げた。

 

「兄貴に客選べって?」

 

「入口とフロア見ろって」

 

「ほぼそれじゃん」

 

「あと、DJの相談」

 

竜胆は雑誌を閉じた。

 

「音の感じは?」

 

「うるさすぎないやつ。若いやつが反応して、店の空気は壊さない感じ」

 

「ざっくりしすぎ」

 

「俺に聞くなよ」

 

竜胆は笑って、自分の部屋から何枚かフライヤーを持ってきた。

 

「これと、これ。あと、こいつは音はいいけど客が微妙」

 

「じゃあ外す」

 

「はやっ」

 

「場壊すやついらないでしょ」

 

竜胆は少し嬉しそうに笑った。

 

「兄貴、仕事っぽいこと言ってる」

 

「うるせ」

 

蘭はフライヤーを一枚手に取った。

紙の上には、知らないDJの名前が並んでいる。

 

「竜胆」

 

「何」

 

「お前、こういうの、ちゃんと分かるんだな」

 

「今さら?」

 

「今さら」

 

竜胆は口元を少し上げた。

 

「好きだからね」

 

その言い方が、妙に自然だった。

 

好きだから分かる。

好きだから見ている。

好きだから覚えている。

 

竜胆には、もう向いている方角がある。

 

蘭はフライヤーを見たまま、しばらく黙った。

 

 

数日後、竜胆が学校から進路調査票を持って帰ってきた。

 

成績も出席も、褒められたものではない。

授業中に寝ていることも多いし、学校の外で何をしているかも、教師たちが知らないわけではない。

 

それでも、父親が学校に強い影響力をもっていることを、竜胆は知っていた。

 

だから、望めば、付属の大学へ内部進学する道は残されていた。

行けるとすれば、経営学部か、それに近い学部になるはずだった。

悪くはない。

将来、何かを経営するなら、役に立つこともあるかもしれない。

 

けれど、その欄を見ても、竜胆の中には何も引っかからなかった。

 

大学の教室に座っている自分。

講義を聞いて、単位を取って、周りと同じように進んでいく自分。

想像してみても、どこか他人事だった。

 

竜胆はペンを持った。

少しだけ迷ってから、専門学校の欄に丸をつける。

希望分野の欄に、ゆっくり書いた。

 

音響工学。

音楽ビジネス。

 

書いた文字を見て、少しだけ笑った。

似合わない気もする。

でも、悪くない。

少なくとも、大学進学の欄を見ていた時よりは、自分のものに見えた。

 

放課後、その紙を鞄に入れたまま帰宅すると、リビングには蘭がいた。

 

ソファに座り、イベントのフライヤーを眺めている。

横には、メモが一枚あった。

 

DJ候補。

客層。

時間帯。

入口。

揉めそうな組。

 

蘭の字で、そんな単語が乱暴に並んでいる。

 

「兄貴」

 

「何」

 

「進路調査票」

 

蘭が顔を上げた。

 

「何にしたの」

 

「専門学校」

 

「.....大学じゃなくて?」

 

「うん」

 

竜胆は鞄から紙を出し、テーブルの上に置いた。

 

専門学校。

音響工学。

音楽ビジネス。

 

蘭はその文字を見た。

 

「音響?」

 

「うん」

 

「DJやりたいから?」

 

「それもある」

 

竜胆はソファの背にもたれた。

 

「あと、店とかイベントとかやるなら、知ってた方がいいかなって」

 

蘭が視線を上げる。

 

「機材とか、箱の作りとか。音の回り方とか。照明とか。客の入り方で音が変わるとか」

 

竜胆は少し考えてから続けた。

 

「感覚だけでやるより、知ってた方が強いでしょ」

 

蘭は紙を見たまま黙っていた。

 

「俺は、好きなことに集中したいんだよね」

 

「大学行かなくて後悔しない?」

 

「分かんない」

 

竜胆は正直に答えた。

 

「でも、行っとけばよかったって思うより、やりたい方に行けばよかったって思う方が嫌」

 

蘭はしばらく竜胆を見ていた。

それから、小さく笑った。

 

「お前、大人になったね」

 

「やめて。気持ち悪い」

 

「褒めてんのに」

 

「兄貴に言われるとマジ変」

 

竜胆も笑った。

けれど、その笑いのあとで、ふと蘭を見た。

 

蘭には、こういう紙がない。

 

中学三年の時に大検を取って、そのまま学校を辞めた。

大学へ進む資格は持っている。

けれど、学校という場所からは、もう降りている。

 

「兄貴は?」

 

蘭の動きが止まる。

 

「俺?」

 

「大学とか、いいの」

 

蘭は少しだけ眉を上げた。

 

「何、急に」

 

「行けるじゃん」

 

「行けるね」

 

「じゃあ、何で行かないの」

 

蘭はテーブルの上の紙を見た。

竜胆の字で書かれた、音響工学。

 

「大学で何したいか分かんないから」

 

答えは、思ったより簡単に出た。

 

「学校に戻りたいわけじゃないし、肩書きが欲しいわけでもない。四年かけて、どっかの教室で自分を作り直す気にもならない」

 

蘭はそこで少し笑った。

 

「たぶん、俺には合わない」

 

「そっか」

 

それだけ言って、竜胆は黙った。

しばらくして、竜胆が何でもないように言った。

 

「兄貴と何かできたらいいなとは思ってるよ」

 

蘭が顔を上げる。

 

「兄貴が人を見て、場所を見て、空気作って。俺が音やって。そういうの、できたらいいなって」

 

竜胆は少しだけ声を落とした。

 

「でも、それは俺の希望でしょ。兄貴の進路じゃない」

 

蘭は黙った。

その言葉は、どこか最近聞いた言葉に似ていた。

 

― 誰かのために選ばない。

― 誰かのせいにしない。

 

「だから兄貴は、兄貴で決めて」

 

竜胆はそう言った。

蘭は少しだけ笑った。

 

「お前、大人になりすぎじゃない」

 

「だからやめてって」

 

二人とも、少し笑った。

笑いながら、蘭は竜胆の紙をもう一度見た。

 

竜胆の未来が、そこに薄く形を持ちはじめていた。

 

ナマエは、アメリカを第一希望にした。

竜胆は、専門学校に丸をつけた。

 

二人とも、蘭の隣から少しずつ、自分の道へ歩き出している。

 

自分だけが、いつまでも選ばないままではいられない。

けれど、誰かの未来に乗るのも違う。

 

竜胆の夢に乗るのではない。

ナマエを追いかけるのでもない。

 

自分で選ぶ。

 

まだ、何を選ぶのかは分からない。

 

テーブルの上には、竜胆の進路調査票と、蘭が書いたイベントのメモが並んでいた。

メモを見つめる。

 

白紙ではない。

 

学校から渡された紙ではない。

誰かに用意された道でもない。

 

それでも、蘭の前にもようやく、自分で書き込める紙が一枚置かれた気がした。

 

 

十時前、蘭はナマエに短くメールを送った。

 

『ちょっとだけ、イベントの手伝いすることになった』

 

返事は、すぐに来た。

 

『イベントですか?』

 

『西麻布の小さい箱。入口とか、客とか、流れ見るだけ』

 

少し間が空いた。

 

『危ないお仕事ではありませんか?』

 

蘭は、思わず小さく笑った。

心配すると思った。

 

『違う。ママの紹介』

 

『ママ?』

 

『小学生の頃から世話になってる六本木のバーのママ。俺と竜胆が怪我して裏にいた時、店に入れて飯食わせてくれた人』

 

今度は、少し長く間が空いた。

 

『そういう方がいるんですね』

 

『いる』

 

『少し安心しました』

 

その文字を見て、蘭はしばらく動けなかった。

 

― 安心。

 

ナマエが、そう書いた。

蘭が夜にいることを、不安がるだけではなく。

そこにちゃんとした大人がいることを、安心している。

 

『蘭さんの場所になるといいですね』

 

ナマエは時々、蘭がまだ言葉にしていないものを、先に見つける。

 

蘭は、自分のメモを見た。

 

遊びじゃない。

喧嘩でもない。

 

初めて、金をもらって夜を見る。

 

そして蘭はまだ知らなかった。

 

この小さな仕事が、ナマエを待つだけだった自分を、少しずつ別の場所へ連れていくことを。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。