西麻布の小箱イベントで、蘭は初めて“夜”を仕事として見る。怖がられる男ではなく、任せられる男になること。壊す夜ではなく、続けるための夜を選ぶこと。一方、ナマエは最後の出願書類を提出する。そして大晦日、トーマンが解散し、天竺も終わる。終わったから楽になるわけではない。ただ、次へ進むしかなくなっただけだった。それぞれが新しい場所へ向かい始める話です。
I. 夜を見る
「揉めてから強い人はいくらでもいるわ」
西麻布の小箱イベントまで、あと三日。
蘭はママの店のカウンターで、店の図面を見下ろしていた。
入口からフロアまでの動線。
バーカウンターの位置。
DJブース。
控室。
非常口。
人が溜まりそうな場所と、逃がせる場所。
「でも、店で一番強いのは、揉める前に済ませられる人よ」
「面倒くさ」
「だから仕事なの」
ママは笑わずに言った。
「真正面から止めれば、相手は意地になる。顔を潰された人間は、あとで必ず面倒になるわ」
「じゃあ、好きにさせんの」
「違う。逃がし道を作るの。席を変える。音を変える。帰る理由を作る。相手が自分で選んだように見せて、こっちの望む方へ動かすの」
「回りくど」
「勝てばいい夜と、続けるための夜は違うのよ」
その言葉が、妙に残った。
続けるための夜。
壊さない。
残す。
次へつなげる。
「蘭ちゃんの名前で人を呼べるなら、その名前で責任も持つの」
「重いね」
「仕事って、そういうものよ」
潰すためではない。
壊さないために見る。
その違いは、まだ少し肌に馴染まなかった。
II. 初めての現場
イベント当日。
蘭は開始時間より早く、西麻布の小箱に入った。
地下へ降りる階段は狭い。
まだ客のいないフロアに、低い音が流れている。
広くはない。
でも、音は悪くなかった。
蘭は店内を一周した。
入口からフロアまでの距離。
人が溜まりそうな場所。
声が響く場所。
外へ出しやすい動線。
見れば分かる。
男が固まれば入口が詰まる。
壁際に酔った客が溜まれば、女の客が通りづらくなる。
バー前で声が大きくなれば、スタッフの動線が塞がる。
客の注文を受ける場所が、そのまま逃げ場のない場所になる。
箱のオーナーが近づいてきた。
ママの店で、蘭にこの話を振ってきた常連だった。
「蘭くん、今日は入口とフロア、両方見てもらっていい?」
「見れる範囲なら」
「無理そうなら言って」
「無理になる前に言う」
男は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「いいね。何か起きてからじゃ遅いからね」
夕方になり、客が入り始めた。
蘭を見て姿勢を正すやつもいれば、蘭の名前を使って中へ入ろうとするやつもいた。
受付に来た三人組は、声も態度も、この箱の空気より少し荒かった。
一人は、本当に蘭が知っている顔だった。
ただ、今夜呼んだ覚えはない。
「今日、リスト制」
「分かってます。でも、そこを何とか」
前なら、低く一言言えば引いた。
引かなければ、力で黙らせた。
でも、ここは入口だった。
最初の小競り合いで、店の空気を濁らせるわけにはいかない。
―顔を潰すな。
―逃がし道を作れ。
蘭は近くの店の名前を出した。
「お前らなら、向こうの方が合う。まだ入れるはず。俺の名前出していいよ」
追い返されたわけではない。
蘭の名前で、別の場所へ流された。
意地を張る理由が、少し削られた。
「……じゃあ、そっち行ってみます」
男たちが階段を上がっていくと、受付のスタッフが小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
蘭は何も言わず、フロアへ目を戻した。
音が上がり、人が増え、グラスと笑い声が重なる。
二番目のDJが入ってから、壁際の男たちの声が大きくなった。
バー前で肩がぶつかる回数も増えた。
竜胆が言っていた。
―前半から煽りすぎるDJは、客が荒れる。
―逃げ場がない音は疲れる。
蘭は音響スタッフに近づいた。
「次、少し落とせる? 今のまま上げると、あそこ面倒になる」
数分後、音が少し変わった。
誰も気づかない程度だった。
でも、壁際の男たちの声は少し落ちた。
殴らなくても、場は動く。
蘭はそこで、初めて少し面白いと思った。
酒が回り始めた頃、バーカウンターの近くで男の声が上がった。
酒は頼む。
連れにも奢る。
そのぶん、自分が場の中心にいると思っているタイプだった。
その男の手が、女性スタッフの手首に触れた。
スタッフは笑顔を崩さなかった。
でも、目だけが困っていた。
蘭は動きかけて、止まった。
掴んで、引き離して、黙らせる。
それなら簡単だった。
けれど、今日は違う。
蘭は男の手を掴まなかったかわりに、横から自然に入った。
「すみません。奥、空きました。あっちの方がフロア見えます」
「何で俺が動くんだよ」
「見える場所の方がいいでしょ。今日、いい子たちはいってますよ」
男は一瞬迷い、それからスタッフの手を離した。
「なら、行くか」
蘭は男を奥へ流し、男性スタッフに目配せした。
その席には、女性スタッフを一人で近づけない。
それだけだった。
怒鳴っていない。
殴っていない。
相手の顔も潰していない。
でも、スタッフは離れられた。
少しして、さっきの女性スタッフが蘭の横を通った。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
「何もしてない」
「してくれました」
そう言って、彼女はすぐに仕事へ戻った。
安心した人間の声だった。
妙に、慣れなかった。
イベントが終わる頃には、スタッフの蘭を見る目が少し変わっていた。
最初は、灰谷蘭という名前に構えていた。
けれど終わりには、困った時に蘭を探すようになっていた。
帰り際、箱のオーナーの男が言った。
「蘭くん、次も頼める? 十一月に、もう一本ある」
「内容による」
そう答えながら、蘭はもう半分、受けるつもりでいた。
その夜、蘭はママの店へ戻った。
ママは何も聞かずに水を出し、カウンター越しに封筒を置いた。
「お疲れさま。これ、オーナーから」
蘭は封筒を見下ろした。
金に困ったことはない。
けれど、自分で考え、自分の名前で受け取る金は、少し違った。
薄い封筒なのに、妙に重い。
「怖がられるだけの男は、若いうちは目立つわ。でも、安心して任せられる男は、長く残る」
ママはグラスを拭きながら言った。
「人はね、怖いだけの人には大事なものを預けないの」
大事なもの。
店。
客。
スタッフ。
空気。
金。
次の夜。
その中にないはずの顔が、ひとつ浮かんだ。
―ナマエ。
店とは関係ない。
仕事とも関係ない。
けれど、「怖いだけの男には、大事なものは預けられない」
その言葉は、蘭の中で別の意味を持って残った。
「預けてもいいと思われる人になりなさい。それができたら、蘭ちゃんは六本木で長く残れる」
蘭は返事をしなかった。
怖がられる男。
任せられる男。
その二つは、似ているようで、まったく違った。
III. 夜に沈まない
秋から冬にかけて、トーマンの名前で動く夜は何度かあった。
蘭と竜胆も、そのたびに呼ばれた。
けれど、蘭は約束だけは崩さなかった。
抗争に出たあとは、一週間ナマエに会わない。
翌日は、必ず昼の生活へ戻る。
竜胆を学校へ行かせる。
自分も夜の続きを引きずらない。
傷が残る日も、体が重い日もあった。
それでも、昼に戻ることだけはやめなかった。
ナマエに言われたからだけではない。
ナマエの父親との約束だからだけでもない。
夜に出ても、夜に沈まない。
それを、自分で選び直すためだった。
約束を守るとは、会いたい時に会わないことでもある。
ナマエを待つためには、ただ寂しさに耐えるだけでは足りない。
自分の足で立つ場所がいる。
蘭はそう感じ始めていた。
IV. 短い日曜日
日曜日、蘭はナマエと会った。
昼の喫茶店だった。
ナマエは席に着くなり、小さく息を吐いた。
「すみません。今日、少し眠いです」
「見れば分かる。目が半分死んでる」
「ひどいです」
ナマエは少しだけ笑った。
けれど、確かに疲れていた。
バッグの中には、エッセイの原稿が入っている。
「今日、それ持ってきたの」
「帰りに少し確認しようと思って」
「今見るなよ」
「見ません」
「ほんとに?」
ナマエは目をそらした。
「……少しだけ」
「だめ」
ナマエは驚いたように顔を上げた。
「休めよ。ちゃんとやるなら、休む時間も作れ」
ナマエはしばらく蘭を見ていた。
それから、ゆっくり笑った。
「はい」
夕方になる前に、駅へ向かう。
まだ明るいうちに別れることにも、少しずつ慣れてきた。
慣れたくない。
でも、慣れなければ続かない。
改札の前で、ナマエが言った。
「次は、少し空くかもしれません」
「出願?」
「はい。先生との面談と、父との確認があります」
「分かった」
「すみません」
「謝んな」
けれど、ナマエはその日、すぐには改札を通らなかった。
「蘭さん。この前言っていたイベント、どうでしたか」
蘭は一瞬、黙った。
自分の夜を、ナマエの生活に持ち込むつもりはなかった。
でも、隠したいわけでもなかった。
「面倒だった。でも、悪くなかった」
「お仕事、だったんですね」
蘭は迷った。
遊びではない。
喧嘩でもない。
金をもらっている。
「たぶん。まだ、そう言っていいのか分かんない」
「お金をいただいて、誰かに任されて、蘭さんが考えて動いたなら、私は仕事だと思います」
「簡単に言うね」
「簡単なことなら、蘭さんはそんなふうに迷わないと思います」
ナマエは静かに言った。
「蘭さんが夜にいることは、正直、まだ心配です」
ナマエは少しだけ笑って、それから続けた。
「でも、蘭さんがそこで、ただ怖がられるためにいるんじゃないなら……少し違うと思いました」
「違う?」
「はい。誰かを傷つけるためじゃなくて、場所を守るためにいるなら。私は、その方が嬉しいです」
「心配性」
「心配します。好きな人なので」
蘭は一瞬、言葉を失った。
改札前。
人の流れ。
夕方の明るさ。
そんな場所で、ナマエは平気な顔で蘭を動けなくする。
「でも、蘭さんが、蘭さんの場所を考えていることは嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい。私だけが遠くへ行くみたいで、少し怖かったので」
その言葉に、蘭の胸が詰まった。
ナマエは、蘭を置いていくつもりで進んでいるわけではない。
けれど、行くのはナマエだ。
離れるのも、ナマエだ。
その怖さを、ナマエも抱えている。
「蘭さんも、蘭さんの場所をちゃんと作ってください」
蘭は一瞬、何も返せなかった。
残ってほしいと言っているのではない。
ただ待っていてほしいと言っているのでもない。
蘭自身の場所を作れと言っている。
それが、少し痛くて、少し嬉しかった。
「……作るよ」
ようやくそう答えると、ナマエの表情がふっとほどけた。
「はい」
そして、改札を抜けた。
蘭はその後ろ姿を見送った。
小さな背中だった。
でも、もう守られるだけの背中ではなかった。
遠くへ行く準備をしている背中だった。
V. 誕生日
十二月になった。
ナマエの誕生日が近づいていた。
誕生日プレゼント。
高すぎるものは違う。
見せつけるようなものも違う。
持っているだけで目立つものも、ナマエには合わない。
蘭は、文具を扱う店に入った。
選んだのは、細身のペンだった。
派手ではない。
けれど、光の当たり方で少しだけ表情が変わる。
ナマエが持てば、たぶん似合う。
会えない時間。
試験。
エッセイ。
出願書類。
その全部の先に持っていけるもの。
蘭は、そのペンを買った。
ナマエの誕生日は、二人で昼にだけ会った。
喫茶店ではなく蘭の家に来たのは、ナマエが少しだけ疲れていたからだった。
リビングの窓から、冬の午後の光が入っていた。
蘭はソファの横に座り、小さな箱を手渡した。
「これ」
「……私に、ですか」
「他に誰がいんの」
ナマエは両手で箱を受け取った。
丁寧にリボンをほどき、箱を開ける。
中のペンを見た瞬間、ナマエの表情が止まった。
「綺麗……」
「使えるだろ」
「はい」
「向こうでも」
まだ合格したわけではない。
まだ行けると決まったわけでもない。
それでも、その言葉はもう、二人の間で現実に近いものになっていた。
「ありがとうございます。大事に使います」
「使うもんだから。飾んなよ」
「はい」
ナマエは笑った。
ナマエは知らなくていい。
蘭が自分で働いて得た金で、ナマエの未来に使うものを選んだことを。
与えられるだけだった自分が、初めて、自分で得たもので誰かの未来に触れた。
それだけで、十分だった。
[b:VI. 解散と出願]
十二月三十一日。
その夜、トーマンが解散した。
集まった場所には、人の熱があった。
トーマンの名前の下に集まった者たち。
天竺だった者たち。
イザナ。
鶴蝶。
竜胆。
そして、万次郎。
誰かが勝った夜ではなかった。
誰かが負けた夜でもなかった。
ただ、ひとつの時代が終わる夜だった。
万次郎は前に立っていた。
「今日で、トーマンは終わりにする!」
その瞬間、完全な沈黙にはならなかった。
「マジかよ」
「おい、嘘だろ」
「終わんのかよ」
怒鳴るような声。
笑うしかないような声。
信じたくない声。
泣いているやつもいた。
トーマンは、ただの名前ではなかった。
喧嘩をした場所。
馬鹿をやった場所。
誰かに憧れ、誰かについていった場所。
そこにいた連中にとっては、間違いなく青春だった。
「ここで終わる。勝ったとか、負けたとかじゃねえ。次に行くために終わらせる」
その言葉に、また声が上がった。
誰かが拳を上げた。
「トーマン!」
一人が叫んだ。
「トーマン!」
次の声が重なる。
やがて、それは大きな波になった。
寒い夜に、声が響いた。
馬鹿みたいに大きくて、少し乱暴で、泣きそうなくらい真っ直ぐな声だった。
蘭は少し離れた場所で、それを見ていた。
竜胆は隣で黙って見ていた。
イザナは少し後ろに立っていた。
腕を組み、どこか遠くを見るような目をしていた。
「終わったな」
鶴蝶が隣で頷いた。
「ああ」
トーマンが終わる。
それは、天竺も事実上終わるということだった。
けれど、イザナはもう、この場所にしがみついてはいなかった。
蘭には、そう見えた。
あの男も、次へ行こうとしている、と。
―少年時代。
そんな言葉を、自分に使うとは思っていなかった。
でも、その夜だけは、なぜかそう思った。
六本木で名前を上げた。
怖がられた。
従わせた。
喧嘩をした。
天竺にいて、トーマンに入った。
秋から冬にかけて、いくつかの大きな抗争にも出た。
今まで立っていた場所が消えるわけではない。
でも、もう同じ場所には戻れない。
そういう終わり方だった。
蘭は竜胆と並んで歩き出した。
背中の方では、まだ誰かがトーマンの名前を叫んでいた。
寒い夜だった。
でも、不思議と、前より息がしやすかった。
家に戻る途中、蘭は携帯を開いた。
九時五十四分。
十時まで、あと少し。
ナマエに送っていい時間が、まだ残っていた。
『トーマン、解散した』
少し考えてから、もう一文足した。
『天竺も、ここで終わり』
数分後、携帯が震えた。
『お疲れさまでした』
たったそれだけの言葉だった。
でも、今はそれで十分だった。
続けて、もう一通届いた。
『私も、最後の出願書類を出しました』
蘭は、少しだけ息を止めた。
同じ夜だった。
トーマンが終わった夜。
天竺が事実上終わった夜。
ナマエの出願が終わった夜。
大きな声と涙の中で終わったもの。
静かな部屋で送り出されたもの。
どちらも次へ進むための終わりだった。
『じゃあ、そっちも終わりだな』
『はい』
少し間が空いた。
『でも、ここからですね』
蘭はその文字を何度も読んだ。
―ここから。
その通りだった。
トーマンが解散しても、蘭の仕事は始まったばかりだ。
出願が終わっても、ナマエの未来はまだ決まっていない。
合格通知も、渡米の準備も、別れの日も、これから来る。
終わったから楽になるわけではない。
ただ、次へ進むしかなくなっただけだった。
『ナマエ』
『はい』
『ちゃんと行けよ』
送った瞬間、胸の奥が痛んだ。
でも、取り消さなかった。
しばらくして、返事が来た。
『はい』
そのあとに、もう一通。
『蘭さんも、ちゃんと自分の場所を作ってください』
蘭は笑った。
生意気になった。
そう思った。
けれど、嫌ではなかった。
『作ってる』
送信してから、蘭は携帯を閉じた。
十時になった。
それ以上は送らなかった。
会いたくても。
声が聞きたくても。
今夜だけ特別にしたくても。
約束を破らない。
それが、今の二人の続け方だった。
遠くで、年越しを待つ街の声が聞こえた。
蘭は顔を上げた。
トーマンはもうない。
天竺も、もうない。
竜胆は音の方へ行く。
ナマエは出願を終えた。
自分は、六本木で仕事を始めた。
全員が、同じ場所にはいられない。
それぞれが、それぞれの次の場所へ向かっている。
蘭は携帯をポケットに戻し、歩き出した。
もうすぐ、新しい年が来る。
そしてその年は、ナマエが本当に遠くへ行く年だった。