六本木の温度差   作:ぷーぷ

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「来年も祝えよ」
蘭、二十歳の誕生日を一緒に過ごすお話です。第一希望の進学が決まり、渡米までの時間が少しずつ近づいていく中、ナマエは昼に少しだけ働き始める。自分で働いたお金で、蘭の二十歳の誕生日に贈り物をしたい。誕生日の日、蘭の家で過ごす穏やかな時間。ケーキを食べ、プレゼントを渡し、蘭は初めてナマエに甘える。強くいるだけではなく、甘えること。受け止められること。帰る時間が迫っても、もう少しだけ一緒にいたいと思うこと。離れる日は近づいている。



二十歳になる人

I. 自分で稼いだもの

 

第一希望の大学への進学が決まって暫くしてから、ナマエは昼に少しだけ働き始めた。小中学生向けの英語教室で、受付や教材整理、宿題を見る仕事だった。

 

父は最初、あまり賛成しなかった。

渡米まで半年もない。

準備だけでも十分忙しい。

それでもナマエは、自分で働いてみたいと話した。

 

「日本にいる間に、自分で決めて、自分で働いて、自分のお金を持ってみたいです」

 

父はしばらく考えたあと、いくつか条件を出した。

夜には入らないこと。

渡米準備に支障を出さないこと。

無理をしないこと。

そして最後に、

 

「蘭くんと会う時間を削りすぎないこと」

 

と言った。ナマエは驚いて父を見た。

 

「意外そうな顔をするな。君は、頑張る時に必要な時間まで全部削るだろう。蘭くんと会う時間も、その一つだ」

 

その夜、蘭にも話した。

 

『昼に少しだけバイトをすることになりました』

 

すぐに電話が来た。

 

「バイトすんの」

 

「はい」

 

「無理しない?」

 

「しません」

 

「絶対するだろ」

 

「父にも同じことを言われました」

 

蘭は小さく息を吐いた。

 

「じゃあ、俺からも言う。無理すんなよ」

 

「蘭さんこそ」

 

「俺はいい」

 

「よくないです」

 

蘭が笑った。少し間があって、ナマエが静かに言った。

 

「蘭さんとの時間は削らないようにって」

 

「誰が」

 

「お父さんが」

 

蘭は一瞬何を言っていいのかわからなかった。あの父親が、自分との時間を削るなと言った。

 

「そう」

 

それだけ返すのが精一杯だった。

 

十時が近づいていた。

 

「そろそろですね」

 

「ん」

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

通話を切ったあと、ナマエはしばらく携帯を胸に当てていた。

働くことも。海の向こうへ行くことも。蘭との時間を大切にすることも。

どれか一つを選ぶために、ほかを捨てるのではない。全部、自分で選ぶ。

 

蘭の誕生日が近づくと、ナマエはバイト帰りに革小物の店へ寄った。

高価すぎるものは違う。父のお金で買うものでもない。

自分が働いて得たお金で、蘭が仕事で使えるものを贈りたかった。

 

何度も迷って、黒に近い深い色のカードケースを選んだ。派手ではない。けれど、手に持つとしっかりしている。蘭に似合うと思った。

 

「これにします」

 

包んでもらう間、ナマエは少しだけ胸が熱くなった。

初めて会った時、蘭は十八歳だった。すぐに十九歳になって。

 

今度は、二十歳になる。

 

強くて。

綺麗で。

危うくて。

優しい。

 

そして今は、自分の名前で仕事を始め、自分の場所を作ろうとしている。その未来に使えるものを、贈りたかった。

 

 

II. 二十歳の誕生日

 

五月二十六日。

 

ナマエは昼前に蘭の家へ向かった。父には前もって伝えてある。

父から言われたのは、

 

「時間は守ること。帰る前に連絡を入れなさい」

 

それだけだった。以前より、ずっと短い確認だった。

 

蘭の家につくと、竜胆が玄関で迎えた。

 

「ナマエちゃん、いらっしゃい」

 

「お邪魔します」

 

「兄貴、朝から変だったよ」

 

ナマエは不思議そうな顔をした。

 

「何回も時計見てたくせに、ナマエちゃん来る直前になったら急にコーヒー淹れ始めたし」

 

キッチンから蘭の声が飛んできた。

 

「余計なこと言うな」

 

「はいはい」

 

ナマエは靴を揃えながら笑った。

 

リビングに入ると、蘭もキッチンから出てきた。

 

薄手の黒いシャツに、ゆるいパンツ。

髪は結ばず、肩に落としている。

外で会う時ほど整えてはいない。

けれど、完全な部屋着でもなかった。

 

蘭はナマエを見ると、少し目を細めた。

 

ナマエは淡い色のワンピースを着ていた。

髪もアップにして、いつもより丁寧に整えている。

いつもより少しだけ華やかさがあった。

手には、小さなバッグと、ケーキの箱。

 

全部、蘭の誕生日のためだった。

 

「今日、いつもと違う」

 

「変ですか」

 

「変じゃない」

 

「じゃあ?」

 

「誕生日っぽい」

 

ナマエは少し笑って言った。

 

「蘭さんの誕生日です」

 

蘭は笑った。

 

「二十歳ですね」

 

「そうだね」

 

「おめでとうございます」

 

「ありがと」

 

竜胆が横から口を挟んだ。

 

「兄貴、今日だけ素直じゃん」

 

「竜胆」

 

「はいはい。俺、昼過ぎから出るから」

 

ナマエが持ってきたケーキの箱を覗く。

 

「俺の分ある?」

 

「うん」

 

「ナマエちゃん、最高」

 

「食ったら行け」

 

「兄貴、今日、心狭い」

 

ケーキは、モンブランとチョコレートケーキとフルーツタルトだった。

 

「二十歳の蘭さんが、最初に食べたいものを選んでもらおうと思って」

 

「何それ」

 

「大事です」

 

蘭は迷わずモンブランを取った。竜胆が笑う。

 

「ナマエちゃん、兄貴の扱い上手くなったよね」

 

「お前、早く食えって」

 

竜胆はチョコレートケーキを食べ終えると、本当にすぐ出て行った。玄関で靴を履きながら、蘭を見る。

 

「兄貴」

 

「何」

 

「二十歳、おめでと」

 

蘭は少し黙った。

 

「ありがと」

 

竜胆は満足そうに笑った。

 

「じゃ、ナマエちゃん、またね」

 

「うん。またね」

 

扉が閉まると部屋が急に静かになった。

ナマエは少しだけ姿勢を正した。

 

「緊張してんの?」

 

「少し」

 

「何回も来てるじゃん」

 

「誕生日は初めてです」

 

「そんなに違う?」

 

「違います」

 

蘭は少し笑った。それきり、ほんの少し沈黙が落ちた。

 

ナマエは膝の上で手を重ねたまま、何度かバッグに目を落とした。

蘭はそれに気づいていた。けれど、何も言わなかった。

 

やがてナマエが小さく息を吸った。

 

「あの……」

 

「何」

 

ナマエはバッグを開けた。少しだけためらってから、小さな包みを取り出す。

 

「これ」

 

おずおずと、蘭の前に差し出した。

 

「誕生日プレゼントです」

 

蘭は包みとナマエを交互に見た。それから受け取って、ゆっくり包みを開けた。

 

中には、革のカードケース。

黒に近い深い色の革。

派手ではないが、しっかりと存在感がある。

 

蘭は何も言わなかった。ただ、しばらくカードケースを見ていた。

 

ナマエの顔に、少しずつ不安が浮かぶ。

 

「……気に入りませんか」

 

「違う」

 

蘭はすぐに言った。

もう一度、手の中のカードケースを見る。

 

「これ、好き」

 

ナマエの表情が一気に明るくなった。

 

「本当ですか」

 

「うん。いい」

 

「よかったです」

 

ナマエの表情が明るくなる。

蘭はカードケースを手に取ったまま、もう一度眺めた。

 

「これ、バイト代?」

 

「はい」

 

「高かったんじゃないの」

 

「大丈夫です。ちゃんと自分のお金です」

 

少し間をおいて、遠慮しながら言った。

 

「蘭さんが、仕事で使えるものにしたかったんです」

 

少しだけ声が小さくなった。

 

「これから、名刺とか、カードとか、増えるかもしれないと思って」

 

蘭は黙ってカードケースを見た。

ナマエが働いたお金で買ったもの。ナマエが昼の教室で働いて、自分のために選んだもの。

 

「まだ早かったかもしれませんが」

 

「早くない」

 

蘭は言った。

 

「使う」

 

「はい」

 

「大事に使う」

 

ナマエは目を細めた。

 

「嬉しいです」

 

蘭はカードケースを手に取ったまま、ナマエの目をみた。

 

「ナマエ」

 

「はい」

 

「ありがと」

 

あまりにも真っ直ぐな声に、ナマエは一瞬驚いた。

 

「……はい」

 

「変な感じ」

 

「何がですか」

 

「こういうの、ちゃんと受け取るの」

 

蘭はカードケースを指でなぞった。

 

「クラブとかで祝われるのは、まあ、あったけど。そういうのとは違うじゃん」

 

「違いますか」

 

「違う」

 

蘭は少しだけ笑った。

 

「ナマエが働いて、選んで、俺が仕事で使うものくれたんでしょ」

 

「はい」

 

「……ちょっとくる」

 

ナマエの表情が揺れた。

 

蘭は照れたように視線を外した。それから、少しだけナマエの方へ身体を向けた。

 

「ナマエ」

 

「はい」

 

「今日、ちょっとだけ、俺の言うこと聞いて」

 

「何ですか」

 

蘭は一瞬、視線を逸らした。

 

「膝、貸して」

 

ナマエは目を瞬いた。

 

「膝、ですか」

 

「嫌ならいい」

 

「嫌じゃないです」

 

すぐに答えた。

 

「蘭さんが、驚かせるからです」

 

「そんな驚く?」

 

「驚きます。蘭さんがそういうことを言うの、初めてだから」

 

「言ったら悪い?」

 

「悪くないです」

 

ナマエは首を振った。

 

「嬉しいです」

 

ソファに座り直し、膝の上を整える。

 

「どうぞ」

 

その言い方があまりに真面目で、蘭は笑った。

 

「何か変」

 

「変ではありません」

 

「膝枕って、そんなかしこまってするもの?」

 

「分かりません。初めてなので」

 

蘭はゆっくり身体を倒した。ナマエの膝に、頭を預ける。

 

いつもは自分が引き寄せる側だった。

支える側だった。ナマエを抱きしめ、涙を受け止める側だった。

 

でも今は、自分が見上げている。

ナマエの顔が近い。

 

「見んな」

 

「見ます」

 

「何で」

 

「見たいからです」

 

「生意気」

 

「今日は、蘭さんの誕生日なので」

 

蘭は少し笑った。それから、ナマエの腰に腕を回した。

ナマエの身体が小さく揺れる。

 

「嫌?」

 

「嫌じゃないです」

 

蘭は少しだけ腕に力を込めた。逃げないようにではない。

自分がここにいていいと、確かめるように。

 

ナマエはそっと蘭の髪に触れた。指先で、ほどけた髪を梳く。額の近くから、こめかみへ。それから、後ろへ流すように、ゆっくり撫でた。

 

蘭が目を閉じた。

 

「気持ちいいですか」

 

「……うん」

 

ナマエは髪を撫で続けた。

 

いつもは強くいる蘭が、自分に頭を預けている。

 

甘えてほしいと思ったことはあった。けれど、本当にそうしてくれるとは思っていなかった。

 

「蘭さん」

 

「何」

 

「ちゃんと、ここにいます」

 

蘭の目元がわずかに動いた。

 

「分かってる」

 

そう言って、ナマエの腰を抱き直す。

 

強くいなくてもいい場所。

何も命令しなくても、何も奪わなくても、自分を受け止めてくれる場所。

蘭は、ようやくそこに自分を預けられるようになっていた。

 

「蘭さん」

 

「ん」

 

「好きです」

 

蘭の腕に少し力が入る。

 

「……急に言うなよ」

 

「言いたくなりました」

 

「ズル」

 

「すみません」

 

「謝るところじゃない」

 

蘭はナマエを見上げた。

 

「俺も好き」

 

低い声だった。

 

「お前のそういうところも」

 

「そういうところ?」

 

「真面目で、急に強くて、すぐ泣きそうになるところ」

 

「今日は泣きません」

 

「何で」

 

「誕生日なので」

 

蘭は笑った。

 

「それ、便利だね」

 

蘭は楽しそうに目を細めた。

 

III. 来年も

 

しばらくして、蘭が言った。

 

「ナマエ」

 

「はい」

 

「俺、ちゃんとやるから」

 

「仕事ですか」

 

「うん」

 

「竜胆にも見せられるように。お前にも」

 

ナマエの指が止まった。

 

「お前が帰ってきた時に、ちゃんと見せられる場所にする」

 

―帰ってきた時。

 

蘭が、未来の中に自分を置いてくれている。

 

「楽しみにしています」

 

「俺も見るから」

 

「何をですか」

 

「お前がアメリカで作る場所」

 

ナマエは返事をしようとして、少し詰まった。

蘭が顔を上げる。

 

「泣くの?」

 

「泣いていません」

 

「嘘」

 

「泣きそうなだけです」

 

蘭は笑った。その笑い方が、今日は少し柔らかかった。

 

そのあと、二人は何をするでもなく部屋で過ごした。

ケーキの残りを食べて。

カードケースを何度も手に取って。

仕事用の名刺を作るならどんなものがいいか話して。

 

蘭は時々、何も言わずにナマエの手を握った。

甘えるというより、確かめているみたいだった。

ナマエがここにいること。

今日、自分の誕生日を祝ってくれていること。

 

ナマエは、そのたびに握り返した。

 

「ナマエ」

 

「はい」

 

「来年も祝えよ」

 

ナマエの手が止まった。

 

ーー来年。

 

その時、ナマエは帰れないかもしれない。

同じ部屋にはいないかもしれない。

一緒にモンブランを食べれないかもしれない。

それでも。

 

「必ず」

 

「はい」

 

蘭はナマエを見た。いつものようにからかう目ではなかった。少しだけ照れていて、少しだけ甘えている目だった。

 

ソファの上で、二人は向かい合った。

近い。けれど、抱きしめられている時とは違う近さだった。

 

「名前、呼んで」

 

ナマエは一瞬、言葉を失った。

 

「蘭さん、と?」

 

「うん」

 

「いつも呼んでいます」

 

「今、呼んで」

 

その言い方が、いつものからかいとは違った。

ナマエは小さく息を吸った。

 

「……蘭さん」

 

蘭がゆっくり目を伏せる。

 

「もう一回」

 

「蘭さん」

 

それだけで、蘭は満足したように笑った。

 

こんな蘭を、前は知らなかった。

 

強く引き寄せる蘭。

意地悪に笑う蘭。

離れたくないと言えずに、残れよと言ってしまった蘭。

好きだと、やっと正面から言ってくれた蘭。

 

そして今、甘やかしてほしいと言える蘭。

 

少しずつ、二人の関係が深く強くなっているのを感じた。

 

 

夕方が近づいた。

ナマエは時計を見た。

 

「帰らないと」

 

「知ってる」

 

そう言いながら、蘭はナマエを離さなかった。

ナマエは蘭の隣に座ったまま、肩を寄せていた。

蘭の腕は、ナマエの背中に回っている。強く抱きしめているわけではない。けれど、立ち上がるには近すぎた。

 

ナマエが小さく言った。

 

「……もう少しだけ」

 

蘭の腕に少しだけ力が入った。

 

「駄目」

 

ナマエの身体が、ほんの少し固まる。

けれど蘭は、すぐに続けた。

 

「……って言わないと、帰せなくなる」

 

ナマエが顔を上げた。

蘭は困ったように笑っていた。

 

「あと五分」

 

「はい」

 

「五分だけ」

 

ナマエは頷いて、蘭の肩にそっと額を寄せた。

蘭も何も言わず、ナマエの髪に頬を寄せる。

 

五分は、すぐに過ぎた。

 

「帰ります」

 

「うん」

 

「蘭さん」

 

「何」

 

「また、甘えてください」

 

蘭はナマエをみた。

 

「また?」

 

「嬉しかったので」

 

蘭は少し黙った。それから、ふっと笑った。

 

「考えとく。でも、今日のは特別」

 

「誕生日だからですか」

 

「うん」

 

ナマエはゆっくりと立ち上がった。

 

「二十歳の誕生日、おめでとうございます」

 

「ありがと」

 

「来年も祝います」

 

「うん」

 

「再来年も。その次も」

 

蘭は少し目を見開いた。それから、笑った。

 

「欲張り」

 

「はい」

 

「いいよ」

 

蘭はナマエを駅まで送った。

横を歩く速度。

ふと合う視線。

駅に近づくほど、少しだけ遅くなる足取り。

 

改札前で、ナマエが立ち止まる。

 

「送ってくれてありがとうございました」

 

蘭は少し黙った。

 

「今日、よかった」

 

ナマエは息を止めた。

蘭は照れたように目を逸らす。

 

「私もです」

 

蘭が甘えた。初めて、自分から。

ただ甘いだけの出来事ではなかった。

蘭が、ナマエの前でだけ力を抜いた。

強くいなくてもいい場所として、自分を選んでくれた。

 

そのことが、何より嬉しかった。

 

 

蘭の二十歳の誕生日は終わった。

 

夏は、もうすぐそこまで来ている。

次に会う時には、きっと二人とも、離れる日のことを考えずにはいられなくなる。

それでもナマエは、今日の蘭の声を思い出した。

 

―来年も祝えよ。

 

その約束だけは、きっと守れる。

ナマエは、そう信じていた。

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