出発前日。
空港に来てほしいナマエと、見送りたいのに「行く」と言えない蘭。
引き留めないこと。
ちゃんと見送ること。
そして、見送ったあとも帰ってくること。
一人では空港へ行けない蘭の隣に、竜胆が立つ。
まだ「行っておいで」は言えない。
それでも蘭は、ようやく空港へ行くと決める。
I. 来てほしい
五月の蘭の誕生日から、八月の終わりまでは早かった。
蘭とナマエは、ほとんど毎週会った。昼のカフェ。蘭の家。ときどき、少し遠出もした。そして、夕方になる前に別れる、その時間の切なさ。
大きな出来事はなかった。ただ会って、話して、笑って、時間を守って帰る。それだけの日々が、二人には何より大事だった。
蘭は仕事を少しずつ増やしていた。無理に全部は受けない。けれど、選んだ仕事にはきちんと入る。六本木の中で、灰谷蘭の名前は少しずつ違う意味を持ち始めていた。怖い男。揉めたら強い男。それだけではなく、任せられる男。
ナマエも忙しかった。昼のアルバイト。渡米の準備。書類の整理。家族との時間。
穏やかなのに、終わりだけが近づいてくる。航空券。出発時刻。空港までの道順。ひとつずつ決まるたびに、遠かったはずの別れが、目の前まで来た。
明日、出発する。
「蘭くん、空港に来るの?」
母に聞かれて、ナマエは手を止めた。床には、開いたままのスーツケースがある。この蓋を閉じたら、本当に行くのだと思ったら、閉じられなかった。
「まだ、分かりません」
父は、見送りに条件をつけていた。来るなら、見送るために来ること。引き留めるためなら、来ないこと。空港で、ナマエを困らせないこと。最後まで厳しい。でも、それは蘭を拒むためではなく、蘭が崩れすぎないように引かれた線だった。
父が出した条件も、待ち合わせの場所と時間も、ナマエから蘭へ伝えてある。けれど、蘭からはまだ、はっきりとした返事がなかった。
「来てほしい?」
ナマエはすぐには答えられなかった。来てほしい。最後に顔を見たい。声を聞きたい。空港で、ちゃんと会いたい。けれど、来てほしいと言っていいのか分からなかった。蘭にとって、空港は優しい場所ではない。蘭が残される場所。
「来てほしいです」
ナマエは小さく言った。
「でも、無理してほしくないです」
母は静かに頷いた。
「どちらも本当ね」
母が言った。
「来てほしい。でも、無理でも責めない。そう言えばいいのよ」
ナマエは頷いた。十時までは、まだ少し時間があった。ナマエは携帯を握り、何度も画面を見た。打っては消す、また打って、また止まる。それでも、何も聞かないまま明日を迎えることはできなかった。
『空港のこと、考えていますか』
返事はすぐには来なかった。しばらくして、画面が光る。
『考えてる』
続けて、また届いた。
『行きたい』
その文字を見た瞬間、涙が出そうになった。でも、次の一文で胸が痛んだ。
『でも怖い』
『ちゃんと見送れるか分からない』
いつも先に笑って、余裕があるみたいに見せてきた人が、怖いと、正直に言っている。ナマエは何度も息をした。
『私は、来てくれたら嬉しいです。でも、無理でも責めません』
『来られなくても、私を大事にしていないからだとは思いません』
送信したあと、ナマエは携帯を胸に当てた。本当は、来てほしい。本当は、最後に会いたい。でも、それを全部ぶつけたら、蘭は逃げ場をなくす。
明日、自分は飛行機に乗る。蘭は日本に残る。だから最後まで、蘭を縛る言葉だけは使いたくなかった。
II. 連れて帰る係
同じ頃、蘭はリビングのソファに座ったまま、ナマエからの文を何度も読んでいた。逃げ道を作ってくれている。でも、突き放してはいない。ナマエらしいと思った。
ナマエの出発を見届けたい。最後の場所に、自分も立ちたい。でも、本当にできるのか分からなかった。ゲートの向こうへ歩いていくナマエを見たら。振り返られたら。もう一度、名前を呼ばれたら。言ってはいけない言葉を、言ってしまいそうだった。行くな。残れ。
俺のそばにいろ。残れよ。もう二度と、あんなことは言わないと決めた。でも、空港で本当に守れるのか。蘭は、まだ自分を信じきれなかった。
「兄貴」
声がして、蘭は顔を上げた。竜胆がリビングの入口に立っていた。風呂上がりで、髪が少し濡れている。
「見送りのこと?」
蘭は答えなかった。答えなくても、竜胆には分かったらしい。向かいのソファに座って、まっすぐ蘭を見た。
「怖い?」
蘭は笑おうとした。けれど、うまく笑えなかった。
「.....怖い」
声に出すと、胸の奥が少し軋んだ。竜胆は頷いた。
「そりゃそうでしょ」
「軽いな」
「軽くないよ」
竜胆はソファにもたれた。
「俺だって、明日ナマエちゃん行くの、全然平気じゃないし」
蘭は竜胆を見た。
「お前が?」
「何それ」
竜胆は少し視線をそらした。
「俺だって寂しいよ。兄貴がずっと大事にしてきた子だし。俺にも、普通に話してくれるようになったし」
蘭は何も言えなかった。
「それに、兄貴が変わったの、あの子がいたからだし」
少しの沈黙のあと、竜胆が言った。
「俺も行こうか」
蘭は顔を上げた。
「なんで」
「兄貴が一人だと、戻れなくなるかもしれないから」
蘭は黙った。
「ナマエちゃんを見送るのは兄貴。でも、兄貴を家に連れて帰る人も必要でしょ」
その言葉に、蘭の胸が詰まった。見送る人。連れて帰る人。ナマエを送り出す自分。送り出したあと、そこから戻ってくる自分。その間に、竜胆がいてくれる。
「本当に来る?」
「行っていいなら」
蘭はしばらく黙った。それから、ようやく息を吐いた。
「来て」
声は小さかった。でも、はっきりしていた。竜胆は少しだけ笑った。
「うん」
「連れて帰って」
「うん」
「俺が変なこと言いそうになったら止めて」
「止める」
「殴ってもいい」
「それはナマエちゃんの前ではやめとく」
蘭は少し笑った。胸の奥の苦しさが、ほんの少しだけ緩んだ。蘭は携帯を表に向けた。
『行く』
送った瞬間、手が少し震えた。続けて打つ。
『竜胆も一緒に行く』
少し考えて、もう一文足した。
『俺を家に連れて帰る係』
返事は少ししてから届いた。
『来てくれるの、嬉しいです』
『竜胆くんも来てくれるの、嬉しいです』
『でも、無理はしないでください』
『無理しないために、竜胆と行く』
ナマエからの返事は短かった。
『はい。それがいいと思います』
蘭はその文を見て、しばらく目を閉じた。許された気がした。行くことも。一人では行けないことも。竜胆に頼ることも。全部、ナマエが受け取ってくれた気がした。
III. 明日、空港で
その夜、二人は電話をした。十時の少し前。出発前日の電話。時間は十五分だけ。長く話せば、切れなくなる。切れなくなれば、明日に進めなくなる。だから、十五分。
「荷物、終わった?」
「だいたい」
「だいたい?」
「お母さんが、まだ何か入れようとしています」
「入るの?」
「入りません」
蘭は少し笑った。ナマエも、電話の向こうで小さく笑った。
「蘭さん」
「何」
「怖いです」
「うん」
「でも、楽しみでもあります」
蘭は目を閉じた。ナマエが自分の知らない場所へ行くこと。自分がいない世界を楽しみにしていること。痛い。それでも、受け取れる。
「楽しみって言っていい」
ナマエの息が少し止まった。
「いいですか」
「俺に許可聞かない」
「……はい」
「怖いって言っていい。寂しいって言っていい。全部持って行っていい」
電話の向こうで、ナマエが小さく息を吸った。
「俺も全部持ってく」
「はい」
「寂しい。怖い。嫌だ。誇らしい。嬉しい」
声が少し震えた。それでも、蘭は言った。
「全部本当」
ナマエはしばらく黙っていた。それから、小さく答えた。
「はい」
「明日、行く」
「はい」
「竜胆と」
「はい」
「ちゃんと見送る」
ちゃんと見送る。それはまだ、行っておいでではない。笑って送り出せる約束でもない。でも、そのすぐ手前だった。引き止めないために、空港へ行く。ナマエが歩いていく場所に、自分も立つ。そのための言葉だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
蘭がそう言うと、ナマエは少しだけ笑った。
「竜胆くんにも、明日ちゃんとお礼を言います」
「調子乗るから短めでいい」
「でも、嬉しいです」
「うん」
「蘭さんを連れて帰ってくれる人がいて」
蘭は黙った。
「私、明日行く側だから」
「うん」
「蘭さんが帰るところまで、見られないので」
蘭は目を伏せた。
「大丈夫」
蘭は言った。
「竜胆がいる」
「はい」
「俺も帰る」
「はい」
「帰って、寝る」
「ちゃんとご飯も食べてください」
「それは分かんない」
「蘭さん」
ナマエが少しだけ強い声を出した。
「はいはい」
「はい、は一回で」
その声が愛しくて、蘭は笑った。最後の夜なのに。泣きそうなのに。それでも、いつものナマエだった。
「時間」
蘭が言った。ナマエは少し黙った。
「切りたくないです」
「うん」
「でも、切らないといけません」
「うん」
「明日、会えますから」
蘭は携帯を握りしめた。
「空港で」
「はい。ちゃんと、来てくださいね」
その言い方が、少しだけいつものナマエより弱くて、蘭は胸が痛くなった。
「行く」
沈黙が落ちた。ナマエが小さく息を吸った。
「蘭さん」
「何」
「明日、もし私が泣いても」
「......」
「困らないでください」
蘭は少し笑った。
「無理」
「困りますか」
「困る」
「でも、泣くかもしれません」
「俺も、困らせるかも」
「……いいです」
「いいの?」
「困ってもいいです」
「でも、行くんでしょ」
ナマエは少しだけ間を置いた。それから、はっきり答えた。
「行きます」
その声に、蘭の胸が震えた。ナマエは行く。怖くても。寂しくても。泣いても。自分で選んだ場所へ行く。蘭は、その声を忘れないと思った。
「それでいい」
蘭は言った。
「明日、空港で」
「はい、空港で」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
電話が切れた。蘭はしばらく携帯を見ていた。
― 行きます。
その一言が、何度も蘇る。行ってほしくない。その気持ちは消えない。きっと明日も消えない。消えないまま、蘭は見送るのだと思った。
リビングの方で、竜胆が冷蔵庫を開ける音がした。いつも通りの音だった。明日、竜胆は隣にいる。自分がナマエを見送るために。そして、そのあと自分を家に連れて帰るために。
蘭は目を閉じた。夏の終わりの夜だった。
明日、空港へ行く。