十三で六本木の頂点に立った蘭。
名前も、力も、場所も手に入れたはずなのに、胸の奥には何も残らなかった。
母の死、父の不在、金だけが残された暮らし。
人を信じることをやめた蘭が、ナマエという光に出会い、自分の中で静かに崩れ始める。
I.空っぽのカリスマ
六本木の夜は、いつも少しだけ歪んでいる。
ネオンの光も、濡れたアスファルトに滲む赤信号も、店の奥からこぼれてくる笑い声も、どれも本物のような顔をして、本物ではない。
誰かが笑っている。
誰かが肩を組んでくる。
誰かが名前を呼ぶ。
兄貴。
蘭くん。
灰谷。
六本木のカリスマ。
呼ばれるたびに、灰谷蘭は笑った。
笑い方なら知っていた。
相手が欲しがる顔を作ることも、場の空気を支配することも、誰かを黙らせることも、懐に入れることも、全部できた。
十三でこの街の頂点に立ってから、もう何年も経った。
一声かければ、人は集まる。
金も回る。
女も寄ってくる。
力も、名前も、場所も、すでに手に入っていた。
欲しいものは、だいたい手に入る。
それなのに、何も残らなかった。
「トップってさ、何がいいと思う?」
竜胆が、運転席でハンドルを切りながらそんなことを言った。
車内には低い音楽が流れている。
窓の外では、夜の六本木がゆっくり後ろへ流れていく。
派手な看板、酔った人間の声、香水と煙草と酒の匂い。
蘭にとっては、どれも見慣れた景色だった。
助手席で足を組んだまま、蘭は窓の外を見ていた。
「さあな」
「え、そこ興味ねえの?」
「ねえ」
「兄貴がそれ言うと、周り泣くよ」
「知らねえよ」
竜胆が小さく笑った。
「俺はちょっと泣くけど」
「勝手に泣け」
そう返すと、竜胆は声を立てて笑った。
蘭もつられて、薄く笑った。
けれど、その笑い方だけは兄弟で少し似ていた。
何も期待していない人間の笑い方だった。
しばらく沈黙が落ちた。
竜胆は、それ以上踏み込まない。
蘭も、それ以上言わない。
それでよかった。
竜胆は分かっている。
蘭が本当に何を考えているかまでは知らない。
けれど、聞かれたくない場所がどこにあるかだけは、昔からよく分かっている。
「つまんねえよな、全部」
ぽつりとこぼした声は、音楽に紛れるほど小さかった。
竜胆は一瞬だけ黙った。
「……兄貴」
「何」
「今日、機嫌悪い?」
「普通」
「普通でそれなら、周りは大変だな」
蘭は笑った。
いつも通りに。
形だけ、綺麗に。
母親が死んだ日から、蘭の中では何かが止まっていた。
それまでは、少なくともまだ、家というものがあった。
父親は、たまに帰ってくる男だった。
その日は家の空気が少し変わる。
母親はいつもより綺麗な服を着て、髪を整え、声をやわらかくした。
蘭と竜胆に向ける顔とは、少し違う。
女の顔だった。
幼い蘭は、それを不思議に思ったことはなかった。
父親とはそういうものなのだろうと思っていたし、母親が嬉しそうにするなら、それでよかった。
四人でどこかへ出かけた記憶はほとんどない。
家族写真も、数えるほどしかない。
父親が蘭や竜胆を抱き上げた記憶も、ほとんどない。
それでも、不満はなかった。
母は蘭にも竜胆にも、十分すぎるほど優しかった。
食事も、服も、部屋も、教育も、必要なものはすべて用意されていた。
寂しいと思うほど、蘭はまだ何も知らなかった。
母親は美しい人だった。
ただ綺麗なだけではなく、誰かの目を自然に引きつける女だった。
声はやわらかく、指先まで丁寧で、笑うと部屋の温度が少し上がるような気がした。
蘭にとって、母親は光だった。
竜胆にとっても、たぶんそうだった。
母は二人を愛していた。
それは嘘ではない。
けれど、母が一番欲しがっていたものは、きっと別にあった。
父親が帰ってくる夜、母は蘭たちの母親ではなくなる。
やさしい母であることをやめるわけではない。
ただ、視線の先が変わる。
蘭はそれを見ていた。
子どもながらに、母の中には自分たちだけでは埋められない場所があるのだと、なんとなく分かっていた。
それでもよかった。
奪われたとは思わなかった。
母が笑っているなら、それでよかった。
母が死ぬまでは。
事故だったと聞かされた。
詳しいことは知らない。
誰も蘭に、きちんと説明しなかった。
葬儀の日、父親は来た。
黒いスーツを着て、弁護士と一緒に。
顔色は悪かった。
悲しんでいるようにも見えた。
けれど、その悲しみは蘭たちに向けられたものではなかった。
父親は母の棺の前に立ち、長い間、何も言わなかった。
蘭と竜胆にかける言葉は少なかった。
大丈夫か。
困ったことがあれば言いなさい。
必要なものは用意する。
それだけだった。
蘭はその時、初めて思った。
この人は父親じゃない。
母親の男だっただけだ。
母がいなくなってから、父親は家に来なくなった。
金は送られてきた。
生活に困ることはなかった。
学校も、家も、人の手配も、すべて滞りなく続いた。
ただ、連絡は全部、弁護士を通してだった。
必要な書類。
必要な手続き。
必要な支払い。
父親自身の声は、どこにもなかった。
しばらくして、蘭は知った。
父親には別の家庭がある。
由緒ある家の嫡男。
表向きの妻。
表向きの息子。
表向きの会社。
表向きの人生。
昼のテレビでは、その会社のCMがよく流れていた。
明るい音楽。
清潔な映像。
幸せそうな家族。
信頼と未来を語るナレーション。
その画面の向こうに、父親の名前があった。
吐き気がした。
リモコンを投げつけたことがある。
割れた液晶に、白く歪んだ光が走った。
その日から、蘭は昼間に起きていることが少なくなった。
昼は眩しすぎる。
誰かの正しさや、誰かの家庭や、誰かの幸せが、何食わぬ顔で流れてくる。
夜の方がまだましだった。
夜は、全部が嘘くさい。
だから、逆に信用できた。
ネオンも、酒も、女も、喧嘩も、金も、笑い声も。
どれも綺麗に汚れていて、最初から本物のふりをしていない。
六本木の夜は、蘭にちょうどよかった。
母親の死が本当に事故だったのか。
父親がどこまで関わっていたのか。
母は最後まで何を信じていたのか。
知らない。
知ったところで、母が帰ってくるわけではない。
だから、考えるのをやめた。
考える代わりに、蘭は奪った。
場所を。
名前を。
人を。
視線を。
恐怖を。
支配を。
欲しがるより先に、奪う。
期待するより先に、突き放す。
捨てられるくらいなら、最初から持たない。
それが一番楽だった。
愛なんてものは、最初から存在しなかった。
あるように見えただけだ。
光って見えただけだ。
手を伸ばせば届くような顔をして、最初から誰のものにもならないものだった。
蘭はそれを、母親の棺の前で知った。
竜胆は、その頃からずっと蘭の隣にいた。
母がいなくなった後、泣いたのは竜胆の方だった。
夜中に布団をかぶって、声を殺して泣いていた。
蘭はその背中を見ていた。
声はかけなかった。
かけ方が分からなかった。
慰めれば、竜胆がもっと泣く気がした。
抱きしめれば、自分まで何かが壊れる気がした。
だから、蘭はただ隣に座った。
泣いている弟の背中を見ながら、朝まで起きていた。
それが蘭にできる、ほとんど唯一の愛し方だった。
何かを言うのではなく、そこにいる。
守るのではなく、壊されない場所まで先に道を作る。
優しくするのではなく、相手が傷つく前に相手を傷つけるものを潰す。
歪んでいる。
分かっている。
けれど、それしか知らなかった。
竜胆は、それを責めなかった。
兄貴はそういう人間だと、いつの間にか理解していた。
だからこそ、蘭が本当におかしい時だけ、軽い口調で踏み込んでくる。
「兄貴」
竜胆の声で、意識が現在に戻る。
車はいつの間にか目的地の近くまで来ていた。
窓の外には、見慣れた夜が広がっている。
「着くよ」
「ああ」
蘭は短く返し、シートにもたれたまま目を細めた。
竜胆が横目で見る。
「今日、荒れそう?」
「さあな」
「兄貴の“さあな”って、大体荒れるんだよな」
「じゃあ荒れんじゃね」
蘭は軽く笑った。
その笑みを見て、竜胆も笑う。
けれど、その奥にある空洞までは、誰も埋められない。
竜胆でさえ、そこには入らない。
蘭自身も、誰かを入れる気などなかった。
入れたところで、どうせいなくなる。
近づけたところで、いつか消える。
信じたところで、最後には何も残らない。
なら、最初から軽く扱えばいい。
女も。
仲間も。
愛情も。
自分自身さえも。
大事にしなければ、失くしても痛くない。
そう思っていた。
少なくとも、あの女に会うまでは。
II.光
ナマエと出会ったのは、そんな、あまりにも普通の夜だった。
その日の蘭は、いつもより少し荒れていた。
用は済んだ。
相手は黙らせた。
必要なことは終わった。
けれど、胸の奥に残った熱だけがなかなか引かなかった。
竜胆とは途中で別れた。
ひとりになりたかったわけではない。
ただ、誰かと一緒にいることが急に面倒になっただけだった。
蘭はポケットに片手を入れたまま、人通りの少ない裏道へ入った。
その時だった。
路地の奥に、制服姿の女が立っていた。
最初は、場違いだと思った。
この時間。 この場所。 この空気。
六本木の裏側に、制服の白さは浮きすぎていた。
数人の男に囲まれている。
強くもないくせに、人数だけで気が大きくなるタイプ。
蘭からすれば、視界に入れる価値もない。
普段なら、そのまま通り過ぎていた。
助ける理由がない。
関わる意味もない。
けれど、その女は少し違った。
「やめてください」
声は大きくなかった。
喚かない。 泣かない。 媚びない。 睨みつけもしない。
ただ、まっすぐ相手を見ていた。
怖くないはずがない。
手首を掴まれれば痛いだろうし、逃げ道を塞がれれば息も詰まる。
目の前にいる男たちが善良ではないことくらい、その女にも分かっているはずだった。
それなのに、逃げようとしない。
いや、違う。
逃げられないから動かないのではない。
恐怖に足を取られているわけでもない。
そこに立っていることを、自分で選んでいるように見えた。
蘭は足を止めた。
自分でも理由は分からなかった。
ただ、目が離れなかった。
この街で、怖がらない女なら何人も見てきた。
強がる女も、慣れている女も、計算して近づいてくる女も、いくらでもいた。
けれど、彼女はそのどれとも違った。
自分を大きく見せようとしていない。
弱さを隠そうとはしている。
怖さも、きっと隠している。
それでも、偽ってはいない。
蘭にはそれが分かった。
分かってしまった。
だから、余計に気になった。
気づけば、蘭はその場の中心へ足を向けていた。
男たちが振り返る。
何か言った。
誰かが蘭に向かって手を伸ばした。
その先は、ほとんど覚えていない。
覚えている必要もなかった。
つまらない連中は、つまらない音を立てて崩れた。
ひとりが壁に背中を打ち、ひとりが膝から落ちる。
残りは、顔色を変えて逃げていった。
静かになった路地に、さっきまでの湿った空気だけが残る。
蘭は振り返った。
制服の女は、まだそこに立っていた。
少しだけ息が乱れている。
肩も、ほんのわずかに震えていた。
やっぱり怖かったのだろう。
それでも、彼女は崩れなかった。
「あ……ありがとうございます」
そう言って、頭を下げた。
声はまだ硬い。
けれど、先ほどまで張りつめていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
その瞬間だった。
蘭の中で、何かが落ちた。
さっきまで胸の奥に残っていた苛立ち。
体にまとわりついていた熱。
どうでもいい夜のざらつき。
それらが、すっと遠のいた。
不思議だった。
その女が何か特別なことをしたわけではない。
甘えてきたわけでもない。
媚びたわけでもない。
蘭の名前を呼んだわけでも、力に縋ったわけでもない。
ただ、礼を言っただけ。
それだけなのに。
「……気つけろよ、この辺」
そう言うと、ナマエはほんの少し困ったような顔をした。
その顔が、妙に記憶に残った。
六本木で出会う人間は、たいてい自分を大きく見せようとする。
金を持っているように。
慣れているように。
怖くないように。
価値があるように。
でもナマエは、自分を大きく見せようとしなかった。
それが、蘭には珍しかった。
その夜から、蘭は何度かナマエの前に現れた。
偶然を装った。
たまたまカフェで会った顔をした。
気まぐれで声をかけたように見せた。
実際、最初は自分でも気まぐれのつもりだった。
少し珍しいものを見つけた。
だから、もう少し見てみたい。
その程度だった。
けれど、会うたびに、蘭の中の何かが少しずつ狂っていった。
ナマエは、蘭を知らなかった。
六本木のカリスマ。 灰谷兄弟。 その名前がどれだけの意味を持つのか。
何も知らなかった。
最初、蘭はそれを面白いと思った。
自分を知らない女。
自分の名前に怯えない女。
自分の立場に寄ってこない女。
この街では、珍しすぎた。
でも、何度か会ううちに、面白いだけでは済まなくなった。
ナマエは、蘭の肩書きを見ない。
力も、金も、噂も、周囲の視線も見ない。
ただ、蘭の言葉を聞いた。
蘭の顔を見た。
蘭が笑えば、その笑い方の奥を、時々探るように見た。
それが、ひどく落ち着かなかった。
同時に、ひどく心地よかった。
この六本木で、肩書きも力も全部剥がして、ただの人間として見てくる相手なんて、初めてだった。
蘭は、その感覚をどう扱えばいいのか分からなかった。
分からないから、笑った。
分からないから、からかった。
分からないから、距離を詰めて、すぐに引いた。
いつも通りに振る舞っているつもりだった。
でも、いつも通りではなかった。
ナマエの前では、ほんの少しだけ、自分の声が変わる。
触れるか触れないかの距離で立つくせに、簡単には触れられない。
手に入れようと思えばできるはずなのに、なぜか乱暴に扱えない。
それが面倒だった。
けれど、離れる気にはなれなかった。
ナマエは、光に似ていた。
母親のような光ではない。
部屋の温度を変えるような、やわらかく美しい光ではない。
誰かに向けられることで、その人間を縛ってしまうような光でもない。
もっと静かなものだった。
暗い場所に入った時、遠くにひとつだけ見える明かり。
そこに行けば助かると分かるほど強くはない。
けれど、目を離すと自分がどこにいるのか分からなくなる。
そういう光だった。
蘭は、その光に惹かれていった。
気づかないふりをしながら。
認めないまま。
名前をつけないまま。
それでも、確かに、空っぽだった場所に、少しずつ光が差し込んでいた。
そして、その光が脅威に変わったのは、天竺の集会にナマエを連れていった夜だった。
連れていくべきではなかったのかもしれない。
何度か、そう思った。
だが、隠したまま守りきれるものでもなかった。
六本木で蘭の隣にいる以上、いつか誰かの目に入る。
だったら先に、自分の隣にいる女として見せた方がいい。
そう判断したはずだった。
けれど、集会でイザナがナマエを見た瞬間、蘭は分かった。
見せる相手を間違えた、と。
黒川イザナは、人に興味を持たない。
本当にどうでもいいものは、視界にも入れない。
そのイザナが、ナマエを見た。
蘭の女としてではなく、ナマエ自身を見た。
そして試した。
この場所の空気に呑まれるか。
恐怖で逃げるか。
蘭の後ろに隠れるか。
それとも、自分の足でそこに立ち続けるか。
ナマエは逃げなかった。
怖くないはずがない。
それでもナマエは、震えそうな自分を押さえながら、そこに残った。
その姿を見て、イザナはほんの少し笑った。
「へえ」
たったそれだけ。
だが蘭には分かった。
イザナは、ナマエを認めた。
少なくとも、もう一度見てもいい存在として。
それは安心ではなかった。
イザナに興味を持たれるということは、安全圏に入ることではない。
むしろ逆だ。
気に入ったからこそ近づく。
面白いからこそ試す。
壊れるかどうか、その境目を見たがる。
蘭はそれを知っている。
だから、集会のあとから、ナマエのことを考える時間が増えた。
逃げなかった顔。
怖さを押し殺して立っていた横顔。
自分の隣に戻ってきた時の、少しだけほどけた表情。
どれも、頭から離れなかった。
「兄貴、最近ちょっと変じゃね?」
竜胆にそう言われたのは、集会から少し経った夜だった。
「何が?」
蘭は煙草の煙を吐きながら笑う。
「ナマエちゃん絡むと、顔が違う」
「そう?」
「そう」
「気のせいじゃね」
「兄貴がそう言う時、大体気のせいじゃねえんだよな」
蘭は答えなかった。
ナマエは珍しいだけだ。
自分を知らない女。
六本木のカリスマでも、灰谷兄弟でもなく、ただの蘭として見てくる女。
そういうことにしておきたかった。
だが、実際は違う。
ナマエは、蘭の名前も力も噂も越えて、こちらを見てくる。
その目が怖かった。
知らないものは扱い方が分からない。
扱い方が分からないものは、壊すか、遠ざけるしかない。
それなのに、遠ざける気になれない。
壊すなんて、考えたくもない。
その時点で、もうおかしかった。
III. 脅威に変わる時
「蘭」
低い声がした。
顔を上げると、奥の席でイザナがこちらを見ていた。
天竺の幹部たちが集まる横浜のアジト。
酒の匂いと煙草の煙がゆるく漂っている。
蘭は顔だけを向けた。
「何?」
イザナは退屈そうに言った。
「次、連れてこいよ」
主語はない。
けれど、誰のことかは分かった。
蘭は笑う。
「誰を?」
「お前の女」
周囲の空気が少しだけ変わった。
竜胆の指が、携帯の画面の上で止まる。
獅音が面白そうに顔を上げる。
ムーチョは何も言わない。
蘭はいつも通りに笑った。
「集会で見ただろ。一応、認めたんじゃねえの?」
「だからだよ」
「普通の飲み会に連れてきても、つまんねえと思うけど」
「つまるかどうかは俺が決める」
イザナの目が、蘭を捕らえる。
「それとも、見せらんねえ?」
分かりやすい挑発だった。
蘭は笑った。
「大将、性格悪いね」
「今さら?」
ここで断れば、余計にイザナの興味を煽る。
隠せば隠すほど、見たがる。
守ろうとすればするほど、試したがる。
なら、連れていくしかない。
飲み会なら、まだ目の届く範囲に収まる。
自分の隣に座らせれば、誰がどう扱うかも見える。
そう考えるしかなかった。
本当は、連れていきたくなかった。
天竺に認められることと、天竺の内側に入ることは違う。
あの場所は、ナマエがいるべき場所ではない。
酒と煙草と暴力の匂いが染みついた場所。
笑い声の裏に、値踏みが混じる場所。
けれど、本当に怖いのはそこではなかった。
ナマエがその場所でもずっと光を失わなかった時、自分がどうなるのか。
それが怖かった。
集会の時と同じように、恐怖を知りながら逃げずにそこに立ち続けた時。
その姿を見たら、きっとまた惹かれる。
もっと深く。
もっとどうしようもなく。
「いいよ」
蘭は言った。 声は軽かった。
「連れてく」
竜胆が小さく息を吐いた。
蘭はそちらを見なかった。
イザナはグラスを傾ける。
蘭は笑っていた。
いつもの顔で。
だが、胸の奥では何かが静かに崩れ始めていた。
イザナが厄介なのは分かっている。
けれど、本当の脅威はイザナではなかった。
ナマエだった。
ナマエという光が、蘭の中にある空洞を照らしてくる。
空っぽだと思っていた場所が、本当は空っぽではなかったこと。
捨てたと思っていたものが、まだ底に沈んでいたこと。
それを、静かに暴いてくる。
ナマエという光そのものが、蘭にとって一番の脅威に感じられ始めていた。
その夜、蘭はナマエに連絡を入れた。
文面は、いつも通り軽くした。
今度、少し付き合って。 飯食うだけ。 竜胆たちもいる。
ナマエからの返事は、少し間を置いて届いた。
分かりました。
その文字を見て、蘭はしばらく画面を見つめていた。
来てほしい。
来てほしくない。
隣に置きたい。
見せたくない。
守りたい。
けれど、守りたいと思っている自分を認めたくない。
蘭は携帯を伏せ、薄く笑った。
いつもの顔で。
そして、ナマエを自分の世界のさらに奥へ連れていくことになった。