六本木の温度差   作:ぷーぷ

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「怖ぇ?」
天竺幹部の飲み会に、蘭がナマエを連れていく夜。
イザナに試されても、ナマエは逃げない。
怖いと言いながら、それでも蘭の隣にいようとする。
その真っ直ぐさに触れたとき、怖くなったのは蘭の方だった。
大事にしたいのに、閉じ込めたくなる。
守りたいのに、壊しそうになる。
初めて「本当に失いたくないもの」に触れてしまった蘭が、自分の中の危うさに気づき始める。


触れた光の脅威

I.イザナの確認

 

個室の扉が閉まると、外のざわめきは一段遠のいた。

 

壁の向こうからは、誰かの笑い声とグラスの触れ合う音が低く滲んでいる。

テーブルには料理が並び、揚げ物の油の匂いと、煙草と酒の匂いがゆるく混ざっていた。

 

ナマエは、蘭の隣に座った。

近い。けれど、触れてはいない。

隣にいるだけで安心するのに、同時に、この場所に自分がいていいのか分からなくなる。

 

「何飲む?」

 

最初に声をかけてくれたのは、竜胆だった。

 

試すような色はない。

気を遣いすぎる様子もない。

ただ、当然そこにいる人間として尋ねる声だった。

 

「……オレンジジュースで」

 

「オッケー」

 

竜胆は軽く頷くと、すぐに店員を呼んだ。

その流れで、他の飲み物や料理もいくつか追加する。

ナマエが酒を選ばなかったことだけが浮かないように、自然に場の中へ紛れさせてくれたのだと、少し遅れて気づいた。

 

「ありがとうございます」

 

「いいって。そんな固くならなくて平気」

 

竜胆は軽く笑う。

その笑い方は蘭に少し似ていた。

けれど、蘭よりずっと分かりやすい。

 

向かいにはムーチョが座っていた。

ナマエは、ほんの一瞬だけ視線を止める。

 

あの夜の椅子。

静かな尋問。

蘭の一撃。

記憶が、音もなく重なった。

 

ムーチョも気づいている。

視線が一度だけ合うが、何も言わない。

それだけで十分だった。

互いに、無関係ではないことだけは伝わった。

 

端の方では、鶴蝶がソフトドリンクのグラスを持ち、料理を勢いよく食べていた。

 

「これ、うまいぞ。食ってみろよ」

 

そう言って、皿を一つナマエの前に滑らせる。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「敬語いらねえよ。俺、年下だし」

 

「え?」

 

ナマエが思わず目を瞬かせると、竜胆が横から笑った。

 

「こいつ、まだ中三」

 

「中三……」

 

驚いて鶴蝶を見る。

鶴蝶は不思議そうに首を傾げただけだった。

この席にいることに、何の違和感も抱いていない顔だった。

 

年齢ではないのだ、とナマエは思った。

ここでは、優しいとか、若いとか、普通とか、そういう言葉があまり役に立たない。

誰もが、それぞれの理由でここにいる。

 

その時、扉が開いた。

 

「悪ぃ、遅れた」

 

獅音が入ってくる。

 

「遅せえよ、シオンパイセン」

 

竜胆が笑いながら迎える。

 

獅音の視線が室内を一周し、ナマエで止まった。

遠慮のない目だった。

知らないものを見る目ではなく、値踏みする目。

 

「……誰?」

 

空気が、わずかに変わる。

獅音はそのまま近づき、ナマエを上から下まで見る。

 

「あー、蘭の?」

 

それから、意外そうに目を細めた。

 

「すげー普通じゃん。蘭の女ってさ、もっと――」

 

そこまで言いかけた瞬間、

 

「獅音」

 

蘭が呼んだ。

声は軽かったが、その軽さの下に、はっきりと線が引かれていた。

 

「それ、いらねえ」

 

獅音が一瞬止まる。

蘭は笑っているが、ほんの少しだけ目が冷たい。

 

獅音は肩をすくめた。

 

「はいはい」

 

そう言って席に着く。

隣の竜胆に小声で

「いや、まじでタイプ違くねえ?」

と囁いている。

 

蘭がグラスを置き、わずかにナマエの方へ体を寄せた。

 

「気にすんなよ」

 

小さな声だった。

ナマエは首を振った。

 

「大丈夫です」

 

「ふっ。そんな顔してる」

 

からかうような言い方なのに、その目はちゃんとナマエを見ていた。

 

ずっと見ていたわけではない。

それなのに、ほんのわずかな表情の揺れまで見落としていない。

ナマエの胸の奥が少しだけ熱くなった。

 

座の奥では、イザナが背もたれに体を預けていた。

 

会話に入ることも、場を回すこともない。

ただ、静かに全体を見ている。

その視線は、蘭の隣にいるナマエにも時折触れた。

見られるたびに、皮膚の表面がひやりとする。

恐怖とは少し違う。

 

 

しばらくして、ナマエは席を立った。

トイレへ行く、と蘭に小さく告げる。

蘭は短く頷いただけで、それ以上ついてこようとはしなかった。

 

用を済ませて戻る途中、非常口の方から外気が流れてくるのに気づいた。

ほんの少しだけ、息を吸いたかった。

 

扉を押し開けると、狭い踊り場に夜風が入っていた。

 

手すりにもたれるようにして、ひとりの男が夜景を見ている。

銀色の髪が街の光を拾い、指先の煙草の火だけが、暗がりの中で小さく瞬いていた。

 

イザナだった。

 

彼は気配に気づいて一度だけ振り返り、ナマエを短く見たが、何も言わずに視線を外へ戻した。

 

拒まれたわけではない。

許されたわけでもない。

ただ、そこにいてもいいとも、悪いとも言われない。

その沈黙が、一番怖かった。

 

「……少しだけ、空気を」

 

言い訳のように口にする。

 

イザナは答えない。

煙を吐き、同じ姿勢のまま夜を見ている。

 

ナマエは一歩、踊り場へ出た。

 

近づいたことで、彼の輪郭がよりはっきり見える。

整った顔立ちと、無駄のない線。

美しさと儚さと強さが、同じ輪郭の中に収まっている。

どこか壊れもののようで、それでいて誰にも壊せないもののようだった。

 

イザナがゆっくり振り向いた。

 

「怖ぇ?」

 

低く、深い声だった。

 

何を指しているのかは、分からない。

 

この場所なのか。

天竺なのか。

イザナ自身なのか。

それとも、蘭の隣にいることなのか。

 

ナマエは少しだけ息を吸った。

 

「……少し」

 

正直に答える。

イザナはわずかに目を細めた。

 

「だろうな」

 

そう言って、距離を詰める。

近い。

 

ナマエは逃げようと思えば逃げられた。

けれど、足は動かなかった。

 

片手に煙草を持ったまま、イザナの空いている方の手が伸びる。

指先が、ナマエの顎に触れた。

軽く持ち上げられる。

 

呼吸が浅くなる。

怖くないはずがない。

 

でも、ナマエは視線を逸らさなかった。

 

「でも」

 

声が震えないように、息を整える。

 

「逃げません」

 

小さな声だった。

けれど、はっきりしていた。

 

イザナの表情が、ほんのわずかに変わる。

面白がるような、確かめ終えたような、まだ確かめ足りないような。

 

その時、背後で扉が開いた。

 

「……何してんの?」

 

蘭だった。

 

声は軽い。

だが、ナマエはその軽さが普段のものとは違うと分かった。

 

蘭の視線が、イザナの指とナマエの顎の距離をなぞる。

状況を一瞬で把握した目だった。

イザナは指をすぐには離さない。

 

「別に。確認してただけ」

 

「大将、遊びすぎ」

 

蘭が笑う。

 

イザナはようやく手を離した。

 

ナマエは小さく息を吐く。

 

蘭がナマエの肩に手を置き、自然な動作で自分の方へ引き寄せる。

強引さはない。

けれど、その手ははっきりと告げていた。

ここから先は踏み込むな、と。

 

「戻るよ」

 

ナマエは頷いた。

振り返らないまま、蘭に合わせて室内へ戻る。

背中にイザナの視線が残っている。

振り向かなくても分かった。

 

個室に戻ると、さっきまでと同じ喧騒が続いていた。

 

蘭は席に戻り、何事もなかったようにグラスを手に取る。

ナマエもその隣に座った。

触れない距離のまま、しかし確実に二人の間の空気が違っていた。

 

 

II.六本木の部屋

 

飲み会が終わり、店の外へ出ると、夜の六本木はまだ熱を持っていた。

 

店先に残る人の声。

遠くで鳴るクラクション。

タクシーのライト。

酔った誰かの笑い声。

 

その全部が混ざり合って、街全体が少しだけ浮ついている。

 

ナマエは蘭の隣を歩いた。

 

さっき非常階段で起きたことを、どう話せばいいのか分からなかった。

 

イザナの指が顎に触れた感触は、まだ薄く残っている。

怖かった。

けれど、逃げなかった。

 

蘭がそれをどう見たのかは分からない。

少なくとも、外から見える蘭はいつも通りだった。

薄く笑って、何もなかったような顔をしている。

 

「眠い?」

 

ふいに聞かれて、ナマエは瞬きをした。

 

「少しだけ」

 

「ふうん」

 

それだけ言って、蘭は歩調を落とした。

優しい言葉はない。

気遣うような素振りもない。

けれど、ちゃんと見ている。

 

少し後ろを歩いていた竜胆が、不意に足を止めた。

 

「俺、今日戻んねえから」

 

蘭が振り返る。

 

「何それ」

 

「適当に泊まるとこあるし」

 

「気ぃ遣ってんの?」

 

「兄貴に? まさか」

 

竜胆は軽く笑った。

 

けれど、目だけは少し真面目だった。

 

「余計なことすんなよ」

 

「してねえよ」

 

竜胆は肩をすくめる。

それからナマエを見ると、声を少しだけやわらげた。

 

「ナマエちゃん、無理しなくていいからね」

 

「え……」

 

「兄貴、顔怖い時あるけど、だいたい自分にビビってるだけだから」

 

「竜胆」

 

蘭の声が低くなる。

竜胆は笑って片手を上げた。

 

「はいはい。退散しますよ」

 

それ以上は何も言わず、竜胆は夜の人混みへ消えていった。

 

残された沈黙が、急に濃くなる。

 

「竜胆くん、帰らないんですか」

 

「そう言ってたね」

 

「……いいんですか」

 

「本人がいいって言ってんだから、いいんじゃね」

 

蘭は軽く言った。

けれど、その横顔は少しだけ固い。

 

ナマエは、それ以上聞かなかった。

 

蘭と竜胆のマンションは、六本木の騒がしさから少し外れた場所にあった。

エントランスのガラスには夜の街が映り、オートロックの電子音が乾いて響く。

 

エレベーターの中は静かだった。

 

部屋に入ると、蘭は冷蔵庫を開けた。

 

「水でいい?」

 

「はい」

 

ペットボトルを受け取り、ナマエはソファに腰を下ろした。

少し間を空けて、隣に蘭が座る。

 

窓の外には、六本木の灯りが広がっている。

さっきまでいた個室のざわめきが嘘のように、部屋の中は静かだった。

 

「怖かった?」

 

蘭が言った。

イザナのことだと、すぐに分かった。

ナマエは少し考えてから、正直に答えた。

 

「怖かったです」

 

蘭は短く笑った。

 

「だろうね」

 

「でも、逃げたいとは思いませんでした」

 

蘭の指が、ほんのわずかに止まる。

 

「蘭さんの隣にいるなら、ああいうこともあるんだと思いました」

 

「何それ」

 

蘭は笑う。

けれど、目は笑っていない。

 

「覚悟決めたみたいな言い方すんじゃん」

 

「覚悟というほどではないです」

 

「じゃあ何」

 

「……ちゃんと見たいんです」

 

蘭がナマエを見る。

 

「蘭さんのいる場所を。蘭さんが、どういう人たちの中にいるのかを」

 

「見なくていいよ、そんなの」

 

即答だった。

ナマエは小さく首を振る。

 

「見ないまま隣にいる方が、怖いです」

 

蘭は黙った。

怒っているわけではない。

考えているわけでもない。

逃げ道を探している顔だった。

 

けれど、その夜の蘭は、すぐには逃げなかった。

 

「ナマエってさ」

 

声が少し低くなる。

 

「ほんと、変なとこで真っ直ぐだよね」

 

「そうですか」

 

「そう」

 

蘭はナマエの手元に視線を落とした。

 

「怖かったなら、怖いって言って逃げればよかったのに」

 

「蘭さんも、そう思いましたか」

 

「何が」

 

「逃げればよかったって」

 

蘭は答えなかった。

ナマエも、それ以上は聞かなかった。

 

沈黙が落ちる。

言葉が途切れると、さっきまで遠ざけていたものが近づいてくる。

 

蘭の横顔。

触れそうで、触れない距離。

手元に残った、まだ冷たいペットボトルの感触。

 

ナマエはそっと手を伸ばし、蘭の指先に触れた。

 

蘭がこちらを見る。

 

「……何」

 

「嫌なら、離します」

 

蘭は笑った。

 

「ずるい聞き方」

 

「そうですか」

 

「そう」

 

そう言いながら、蘭は手を引かなかった。

むしろ、指先がわずかにナマエの手を捉える。

 

強い力ではない。

逃がさないための力でもない。

 

ただ、離したくないと思っていることだけは伝わった。

 

ナマエは、その手を握り返した。

 

蘭の瞳が、俯き加減のナマエの横顔をとらえる。

長いまつげ。

少し赤くなった頬。

白い首筋。

そして、自分の手を握り返している、華奢な指先。

 

汚したいわけではなかった。

 

けれど、綺麗なまま遠くに置いておくこともできなかった。

自分の手が届く場所に引き寄せたい。

触れて、確かめて、そこにいるのだと思いたい。

 

それが庇護なのか、支配なのか、蘭にはもう判別できなかった。

 

蘭の顔が、ナマエの耳元へ近づく。

触れるか、触れないかの距離で止まった。

 

「ナマエ……」

 

かすれるような声だった。

 

ナマエがほんの少し肩を震わせる。

 

「っ……」

 

声にならない小さな音が漏れた。

 

蘭は、ナマエの髪を耳にそっとかける。

 

ナマエはゆっくりと瞼を閉じた。

何かを耐えるように。

 

口紅も塗っていない唇が、わずかに開いている。

蘭はその唇を、長い指でそっとなぞった。

 

ナマエの瞼がゆっくりと上がる。

揺れる瞳が、まっすぐに蘭を見た。

 

蘭の唇が、そっとナマエに触れた。

 

ナマエは一度だけ息を止めた。

それから、握っていた手に少しだけ力を込めた。

 

その小さな返事を合図にするように、蘭は彼女をゆっくりとソファへ沈めた。

 

その夜、蘭はナマエを再び腕の中へ入れた。

 

それは衝動だけではなかった。

言葉にできないものを、言葉の代わりに確かめるような時間だった。

 

蘭は甘い約束をしなかった。

未来の話もしなかった。

好きだとも言わなかった。

 

ただ、何度もナマエの名前を呼んだ。

 

そのたびに、ナマエは逃げなかった。

逃げないで、蘭を見た。

 

その目が、蘭には一番苦しかった。

 

 

III.怖くなる

 

夜がさらに深くなった頃、部屋は静まり返っていた。

 

ナマエは少し眠そうにしていた。

伏せたまつげが、照明の下で小さく影を落としている。

 

蘭はもともと、身体の欲に振り回される方ではなかった。

 

欲しければ手に入る。

手に入れば、それで終わる。

 

それくらいに思っていた。

 

けれど、ナマエは違った。

 

触れれば落ち着くと思っていた。

腕の中に入れれば、この胸のざわつきも少しは静かになると思っていた。

自分の部屋に連れてきて、自分だけの夜に閉じ込めれば、ようやく安心できる気がしていた。

 

なのに、触れた分だけ怖くなった。

 

眠そうに目を伏せるナマエを見ていると、帰したくないと思う。

 

このまま部屋に置いておきたい。

誰にも見せたくない。

 

天竺にも。

イザナにも。

六本木の夜にも。

学校にも。

家にも。

 

どこにも返したくない。

 

その考えが自分の中にあると気づいた瞬間、蘭は息が詰まった。

 

大事にしたいのか。

壊したいのか。

守りたいのか。

閉じ込めたいのか。

 

分からないまま、ナマエの髪に触れた。

 

ナマエが薄く目を開ける。

蘭はその目を見る前に、口を開いていた。

 

「帰るぞ」

 

ナマエが瞬きをする。

 

「今からですか」

 

「タクシー拾う」

 

「……電車で帰れます」

 

「駄目」

 

短く言うと、ナマエは少しだけ黙った。

 

「心配、してくれてるんですか」

 

蘭は答えなかった。

答えたら、何かを認めることになる気がした。

 

「……はい」

 

ナマエはそれ以上、何も聞かなかった。

 

帰したくないのに、帰す。

 

蘭にとって、それはひどく不格好な選択だった。

けれど、今できる一番まともな選択でもあった。

 

マンションを出ると、夜風が少し冷たかった。

 

大通りまでの道を、二人は並んで歩いた。

さっきまでの熱は少し遠い。

 

「蘭さん」

 

ナマエが小さく呼んだ。

 

「何」

 

「今日は、ありがとうございます」

 

蘭は笑いそうになった。

 

礼を言われるような夜ではない。

 

「何に?」

 

「帰してくれたことです」

 

蘭の足が止まりかける。

 

ナマエは前を向いたまま続けた。

 

「蘭さんが、帰したくないと思っていたの、少し分かりました」

 

蘭は何も言えなかった。

 

ナマエがこちらを見る。

 

「でも、ちゃんと帰してくれたから」

 

その声は責めていなかった。

むしろ、やわらかかった。

 

だから余計に、蘭の胸に刺さった。

 

「ナマエ」

 

声が低くなる。

 

「そういうの、分かったみたいに言わない方がいいよ」

 

「分かったとは思っていません」

 

ナマエは静かに言った。

 

「でも、見なかったことにはしたくないです」

 

蘭は笑えなかった。

 

この女は、どうしてこんなに真っ直ぐなのだろう。

 

怖いなら逃げればいい。

知らないふりをすればいい。

見なかったことにすればいい。

 

それなのに、ナマエは見る。

 

蘭が自分でも見たくないものまで。

 

大通りに出ると、蘭はタクシーを止めた。

 

ドアが開き、ナマエを乗せる。

そのあと運転手に行き先を告げるナマエの声を聞きながら、蘭は財布から紙幣を抜いた。

 

「これで」

 

「蘭さん」

 

「いいから」

 

「でも」

 

「夜中に電車で帰すほど、馬鹿じゃない」

 

それは優しさというには乱暴で、心配というには不器用だった。

 

けれど、ナマエはそれ以上、断らなかった。

 

「着いたら連絡します」

 

「ん」

 

「蘭さんも、帰ったら寝てください」

 

「俺に指示?」

 

「お願いです」

 

蘭は少しだけ笑った。

 

「はいはい」

 

ナマエも少し笑う。

 

ドアが閉まると、窓の向こうから小さく手を振った。

蘭は片手を上げる。

 

ナマエを乗せたタクシーが遠ざかっていく。

 

角を曲がり、テールランプが見えなくなってからも、蘭はしばらく動けなかった。

 

帰した。

自分で、帰した。

 

それだけのことが、ひどく難しかった。

 

 

翌日、竜胆は何も聞かなかった。

 

蘭が眠い顔でリビングに入ると、竜胆は冷蔵庫の前にいた。

 

「おはよ」

 

「……帰ってたの」

 

「昼前にね」

 

普段なら、何かしら茶化してくるはずだった。

けれど、竜胆は何も言わない。

 

その沈黙で、蘭には分かった。

 

竜胆は、聞かないでいる。

昨夜何があったかではなく、今の蘭の顔を見ている。

 

「兄貴」

 

「何」

 

「怖くなった?」

 

蘭は答えられなかった。

 

竜胆は、それだけで十分だったように小さく息を吐いた。

 

「怖いからって、ナマエちゃんを雑に扱うなよ」

 

蘭が竜胆を見る。

 

「誰が」

 

「兄貴が」

 

「扱ってねえよ」

 

「まだね」

 

その言葉に、蘭の顔から笑みが消えた。

竜胆は、それ以上強くは言わなかった。

 

ただ、冷蔵庫からペットボトルを一本出して、蘭の方へ放る。

蘭は片手で受け取った。

 

「兄貴、ほんとに大事になると、いらないふりするじゃん」

 

蘭は黙る。

 

「……うるせえな」

 

竜胆は肩をすくめた。

 

「でも、それナマエちゃんにやったら、たぶん傷つくよ」

 

分かっている。

分かっているから、腹が立った。

 

昨夜のナマエの顔が消えなかった。

 

怖いのに逃げなかった顔。

帰してくれてありがとう、と言った声。

タクシーの窓の向こうで、手を振った小さな笑み。

 

触れたはずなのに、遠い。

腕の中にいたはずなのに、少しも安心できない。

 

むしろ、もう手放せないことだけが分かってしまった。

 

だからーーー距離を置くことにした。

 

ナマエを守るためだと、自分に言い聞かせながら。

本当は、自分が壊れるのが怖いだけだと、どこかで分かっていながら。

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