逃げたい蘭と、逃げずに向き合いたいナマエ。
少し距離ができてしまった二人だが、竜胆のひと言をきっかけに向き合うことに。
初めてのまともな恋に右往左往しながら、蘭はようやく自分の怖さを言葉にするが。
I. 逃げる
六本木のマンションで過ごした夜から、蘭からの返事は短くなった。
『今日は?』
数時間後に、ようやく返ってくる。
『無理』
それだけ。
前の蘭なら、同じ断り方でももう少し軽さがあった。
『今日むり。いい子にしてな』
とか。
『明日なら顔出す』
とか。
こちらが少し笑ってしまうような、ずるい言い方をした。
でも、今の蘭の言葉には余白がない。
わざと、切り落としているみたいだった。
ナマエは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
あの夜、蘭はナマエを雑には扱わなかった。
帰したくないと思っているのも分かった。
それでも、帰してくれた。
だから、大丈夫だと思った。
二人は前より近づいたのだと。
けれど、その翌日から、蘭は少しずつ遠くなった。
六本木の部屋で過ごした夜を、なかったことにしたいのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
本当にいらないなら、もっと冷たくすればいい。
なかったことにしたいなら、何も言わずに消えればいい。
蘭なら、それくらい簡単にできるはずだった。
それなのに、帰ったかどうかは確認する。
危なければ怒る。
ナマエが笑えば、ほんの一瞬だけ目元がやわらぐ。
その一瞬があるから、まだ期待してしまう。
期待して、傷ついて、また期待する。
その繰り返しが、思っていたより苦しかった。
II. 竜胆に会う
ある日の夕方、学校の近くの通りで竜胆に会った。
「ナマエちゃん」
人の流れから少し外れた場所で、竜胆が片手を上げている。
「兄貴待ち?」
ナマエは少し迷って、首を振った。
「今日は、会う約束してません」
「そっか」
竜胆はすぐに何かを察したようだった。
「ちょっと歩く?」
「え?」
「送る。兄貴にバレたら俺が怒られそうだけど」
冗談めかしていたが、その目は静かだった。
二人で歩き出す。
竜胆は、蘭と違って沈黙を重くしない。
何でもない話を軽くする。
ナマエは時々笑った。
けれど、竜胆はその横顔を見て、ふっと目を細めた。
「無理して笑わなくていいよ」
ナマエの足が止まりかける。
「してません」
「してる」
竜胆はあっさり言った。
「兄貴の前でも、最近そんな感じ?」
ナマエは答えられなかった。
竜胆は追及しない。
ただ、前を向いたまま言った。
「兄貴、ナマエちゃんのこと嫌いになったわけじゃないと思うよ」
「……」
「どうでもよかったら、もっと雑だから。返事もしない。迎えにも来ない。変な男が近づいても気にしない」
ナマエは黙っていた。
「でも、今は違う。離れようとしてるくせに、見てる」
「……はい」
「面倒くさいよね」
竜胆は笑った。
でも、その笑みはすぐに消えた。
「怖いんだと思う」
「蘭さんが?」
「うん」
その答えは、どこかで分かっていた。
それでも、竜胆の口から聞くと、胸の奥に深く落ちた。
「私、何かしましたか」
「してない」
竜胆は即答した。
「ナマエちゃんは何もしてない。何もしてないから、きついんだと思う」
「……どういう意味ですか」
「兄貴ってさ、媚びられるのも、怖がられるのも、利用されるのも慣れてるんだよ。そういうのなら扱える」
竜胆が横目でナマエを見る。
「でも、ナマエちゃんは違う。灰谷蘭じゃなくて、ただの蘭を見てる」
「ただの、蘭さん……」
「うん。それ、兄貴には一番きつい」
ナマエは自分の手元を見る。
指先が少し冷えていた。
「私は、どうしたらいいんでしょうか」
竜胆は少し困ったように笑った。
「追いかけすぎなくていいと思う。兄貴、逃げるから」
「……」
「でも、放っておくと自分から壊しにいく」
「壊す?」
「関係を」
その言葉に、胸が痛んだ。
竜胆は足を止めた。
ナマエも立ち止まる。
「だから、ナマエちゃんが決めればいい」
「何をですか」
「待つのか。離れるのか。それとも、怒るのか」
「怒る……」
「うん。兄貴、怒られ慣れてないから効くよ」
竜胆は軽く笑った。
けれど、その言葉は冗談ではなかった。
「優しくされると逃げる。責められると笑ってごまかす。でも、本気で怒られたら、たぶん逃げ場なくなる」
蘭に怒る自分を想像した。
怖かった。
「嫌われるの、怖い?」
ナマエは目を伏せた。
「……怖いです」
「でも、今のままも怖いでしょ」
「……はい」
竜胆は、珍しく何も茶化さなかった。
「兄貴は、たぶんナマエちゃんを嫌いにはならないよ。でも、怖いから傷つけることはある」
その声は静かだった。
「そこは、許さなくていい」
ナマエは竜胆を見た。
「俺、兄貴の味方だけどさ。だからって、兄貴がナマエちゃんに何してもいいとは思ってない」
その言葉が、思っていたより深く響いた。
「ありがとうございます」
竜胆はゆっくり頷いた。
「ちゃんと怒ってきな」
ナマエは小さく息を吸った。
胸の奥に、ほんの少しだけ光が戻った気がした。
III. 怒る
]
その夜、ナマエは蘭とのメール画面を開いた。
最後のやり取りは、数日前のままだった。
ナマエはしばらく画面を見ていた。
蘭が逃げるなら、自分まで逃げる必要はない。
けれど、追いかけて縋るのも違う。
短く打った。
『少し話したいです』
しばらくして、通知が鳴る。
『今?』
『はい。ちゃんと話したいです』
少し間が空いた。
『今日は無理』
胸の奥が沈む。
けれど、続けてもう一通届いた。
『明日なら』
ナマエは小さく息を吐いた。
拒絶ではない。
でも、受け入れでもない。
蘭はまだ逃げている。
それでも、完全には逃げ切っていない。
『分かりました。明日、待っています』
返事はなかった。
翌日、蘭は約束の場所に少し早く着いた。
自分でも、少しおかしいと思った。
いつも通り遅れて現れて、軽く笑って、「待った?」と聞けばいい。
なのに、足が勝手に早く着いていた。
予定の時間ちょうどに、ナマエが来た。
制服姿だった。
鞄を両手で持ち、蘭を見つけると少しだけ足を止める。
それから、まっすぐ歩いてきた。
最初に出会った夜から、ずっとそうだった。
ナマエは逃げない。
蘭がどれだけ逃げても。
「蘭さん」
「ん」
「今日は、ちゃんと話したいです」
真剣な顔だった。
怖がっていないわけではない。
傷ついていないわけでもない。
それでも、逃げない顔。
蘭は視線を逸らしたくなった。
でも、逸らさなかった。
「いいよ。話そっか」
近くの公園へ移動した。
人は少なかった。
ベンチには座らず、二人は少し離れて立った。
先に口を開いたのは、ナマエだった。
「蘭さんは、私から離れたいんですか」
真っ直ぐな問いだった。
蘭は笑いそうになる。
笑えば逃げられる。
いつもなら、そうする。
けれど、ナマエの目がそれを許さなかった。
蘭は息を吐いた。
「離れた方がいいとは思ってる」
ナマエの表情が、わずかに揺れた。
「どうしてですか」
「俺がまともじゃないから」
「知ってます」
即答だった。
蘭が少し目を見開く。
「全部を知っているとは言いません。でも、優しいだけの人だとは思っていません」
「じゃあ、なおさら離れた方がいい」
「それを決めるのは、蘭さんだけですか」
蘭は言葉に詰まった。
「離れるなら、離れるって言ってください。嫌いになったなら、そう言ってください」
「違う」
その言葉だけは、すぐに出た。
「嫌いになったんじゃない」
「じゃあ、どうして」
蘭は答えられなかった。
答えたら、終わる気がした。
でも、答えなければ、もっと終わる。
「.....怖いんだよ」
ようやく、それだけ言った。
「何がですか」
蘭は形だけ笑った。
「ナマエが」
風が吹いた。
ナマエの髪が少し揺れる。
「俺のこと、見てくるだろ」
「……」
「灰谷蘭じゃなくて、俺が隠してるところまで。勝手に」
「勝手に、ですか」
「勝手に」
ひどい言い方だと思った。
けれど、止められなかった。
「ナマエは何もしてない。何もしてないのに、こっちが勝手に崩れてく」
蘭は視線を逸らした。
「だから、離れた方がいい」
「私のためですか」
「そう」
「本当に?」
蘭は答えなかった。
ナマエが一歩近づく。
「私が壊れるのが怖いんじゃなくて、蘭さんが壊れるのが怖いんじゃないんですか」
蘭の喉が詰まった。
乾いた声で笑う。
「可愛くないね」
「可愛くなくていいです」
ナマエはまっすぐに言った。
「私は、蘭さんに守られたいだけじゃありません。一緒にいるなら、ちゃんと向き合いたいです」
「向き合ったら、ナマエが嫌になるかもよ」
「それは、その時に私が決めます」
「俺が嫌になるかもしれない」
「それは、蘭さんが決めてください」
ナマエは引かなかった。
「でも、何も言わずに距離を置かれるのは嫌です」
蘭は黙った。
言い返せなかった。
ナマエは強かった。
強がっているのではない。
怖がりながら、それでも逃げない。
蘭はまた、惹かれてしまう。
それが、どうしようもなく怖かった。
「.....ごめん」
気づけば、そう言っていた。
ナマエの目が少し開く。
蘭も、自分の口から出た言葉に驚いた。
謝った。
誰かに。
ナマエの表情が崩れそうになる。
でも、泣かなかった。
「私も、急に話したいなんて言ってすみません」
「それは謝んなくていい」
「でも」
「俺が悪い」
短く言った。
怖い。
大事だ。
失くしたくない。
そばにいてほしい。
どの言葉も出てこなかった。
でも、謝ることだけはできた。
それが今の蘭の限界だった。
「じゃあ、これからは、急に離れないでください」
蘭は答えられなかった。
「約束は、できませんか」
約束は嫌いだった。
守れなかった時に、壊れるから。
でも、ここで軽く言えば、ナマエにはきっと分かる。
蘭がまた逃げていることを。
蘭はゆっくり息を吐いた。
「努力はする」
「努力、ですか」
「今の俺には、それが限界」
正直に言った。
ナマエはしばらく蘭を見ていた。
それから、小さく頷く。
「分かりました」
「それでいいの」
「本当は、よくないです」
蘭は少し笑った。
ナマエも、ほんの少しだけ笑う。
「でも、嘘の約束をされるよりはいいです」
その言葉に、蘭の胸が痛んだ。
ナマエは優しい。
けれど、その優しさに甘えて逃げるのはしてはいけない気がした。
「送る」
蘭が言うと、ナマエが少しだけ目を細めた。
「今日は、ちゃんとですか」
「ちゃんと」
「途中で怖くなって逃げませんか」
「言うね」
「言います」
蘭は笑った。
今度は、少しだけ本当に笑えた。
「逃げそうになったら、怒っていいよ」
ナマエは少し驚いた顔をした。
それから、静かに頷く。
「はい」
二人は駅まで歩いた。
距離はまだ完全には戻らない。
触れた手も、すぐに離れた。
それでも、前よりは近かった。
改札の前で、蘭が少し迷って言った。
「.....明日、時間あれば飯でも」
「行きます」
「いいの」
「はい」
「……そ」
短い返事だった。
でも、目元が少しだけ緩んだ。
「蘭さん」
「何」
「逃げてませんね」
蘭は眉を寄せる。
「調子乗んなよ」
「すみません」
「謝ってない顔してる」
「ばれました?」
「ばればれ」
蘭は軽く笑った。
それから、少しだけ表情を静かにする。
「明日、迎えに行く。ちゃんと」
ナマエはゆっくり頷いた。
「待ってます」
ナマエが改札を抜けていく。
蘭はその姿が見えなくなってから、携帯を取り出した。
少し迷って、打つ。
『明日も迎え行く』
返事はすぐに来た。
『嬉しいです』
蘭は画面を見つめた。
たった五文字。
それだけで、胸の奥が静かに満たされる。
怖い。
まだ怖い。
でも、明日も迎えに行くと言った。
自分で言った。
なら、明日は行く。
約束を破らない。
今は、それだけでよかった。
IV. 帰す
翌日、蘭は本当に迎えに来た。
約束の時間より少し早く、学校から少し離れた通りの柱にもたれている。
ナマエを見つけた瞬間、ほんの少しだけ目元が緩んだ。
「来てくれたんですね」
「約束したでしょ」
軽い声だった。
でも、その言葉を蘭がどれだけ重く扱っているか、ナマエには分かった。
二人は食事に行った。
特別な場所ではない、少し奥まった小さな洋食屋だった。
蘭が隣にいる。
返事を曖昧にしない。
途中で消えようとしない。
それだけで、少しずつ息がしやすくなっていく。
帰り道、人が増えると、蘭は自然にナマエを内側へ寄せた。
前からしていたことだ。
けれど今は、少しぎこちない。
優しくするたびに、自分でそれに気づいているようだった。
ナマエはそれを見て、少しだけ笑った。
「何」
「蘭さん、ちゃんとしようとしてますね」
「....言うようになったじゃん」
「褒めてます?」
「褒めてねえよ」
蘭は呆れたように笑った。
その日、駅まで送られたあと、蘭が言った。
「明日も時間ある?」
「あります」
「じゃあ、うち来る?」
あまりに自然な声だった。
けれど、その一言の奥に、蘭の迷いが見えた。
六本木の部屋。
あの夜の場所。
「竜胆くんは?」
「たぶんいる」
蘭はそう言って、少し目を逸らした。
ナマエは、その不器用さに気づいた。
二人きりにしたい。
でも、二人きりにするのが怖い。
だから、竜胆がいる部屋に呼ぶ。
それは、蘭なりの境界線だった。
「行きます」
蘭は短く、
「そ」
とだけ答えた。
翌日、ナマエがマンションに着くと、竜胆が玄関を開けた。
「いらっしゃい、ナマエちゃん」
「お邪魔します」
「兄貴、今コンビニ」
「え?」
「緊張して逃げたんじゃね?」
竜胆が笑う。
ナマエの背後から、蘭の声が飛んだ。
「聞こえてる」
蘭が持っていたコンビニ袋には、飲み物と菓子と、ナマエが前に好きだと言ったプリンが入っていた。
「覚えてたんですか」
「たまたま」
「たまたま、プリンを?」
「うるさい」
竜胆が横で吹き出した。
「兄貴、昨日から冷蔵庫の前で悩んでたよ」
「竜胆」
「はいはい、黙ります」
ナマエは思わず笑った。
その笑い声に、蘭が一瞬だけ目を細める。
たぶん、安心したのだと思う。
それから三人で映画を見た。
途中で竜胆が立ち上がる。
「俺、ちょっと下行ってくる」
「冷蔵庫に飲み物あるだろ」
「嘘だよ。気ぃ遣ってんの」
「余計なことすんな」
「すぐ戻るから。ナマエちゃん、嫌だったら兄貴蹴っていいよ」
「教えんな」
竜胆が出ていくと、部屋は急に静かになった。
映画の音だけが流れている。
隣の蘭も、たぶん内容は見ていなかった。
蘭がそっと手を伸ばし、ナマエの髪に触れる。
ほんの少しだけ。
前なら、そこから逃げるように手を引いた。
あるいは、逆に強く引き寄せた。
でも、その日は違った。
蘭は触れたまま、止まった。
そして、ナマエを見る。
「嫌なら言って」
ナマエは驚いて蘭を見た。
蘭自身も、その言葉に少し戸惑っているようだった。
「……嫌じゃないです」
「そ」
短く返す。
それでも、手つきは慎重だった。
ナマエはその手に、自分の手を重ねた。
「怖いですか」
蘭はすぐには答えなかった。
逃げようとしている顔だった。
でも、逃げなかった。
「.....」
「でも、いてくれるんですね」
「いる」
「逃げないんですか」
「逃げたい」
ナマエは思わず笑ってしまう。
「笑うとこ?」
「すみません。でも、蘭さんらしいです」
「最悪」
そう言いながら、蘭はナマエの手を離さなかった。
ナマエは少しだけ蘭に寄りかかる。
蘭の体が一瞬、固くなった。
けれど、すぐに力が抜けた。
肩に、蘭の手が回る。
強くない。
閉じ込める力ではない。
ただ、そこにいていいと言うような力だった。
しばらく、二人はそのまま映画を見ていた。
ただ、隣にいる。
それだけで、十分だった。
やがて、ナマエのまぶたが重くなる。
「眠い?」
「少し」
「寝れば」
「ここで?」
「嫌なら起きてれば」
ナマエは少し迷ったあと、ソファの背にもたれた。
すると、蘭がナマエの頭をそっと自分の方へ引き寄せ、膝の上に倒した。
「ありがとう」
「いちいち礼言わなくていい」
「言いたいので」
「ほんと可愛くない」
蘭の声は軽かった。
でも、目はやわらかい。
ナマエはその目を見ながら、ゆっくり目を閉じた。
ナマエが眠ったあと、蘭はしばらく動けなかった。
自分の膝で眠るナマエの横顔を見ている。
帰したくない。
そう思った。
このまま置いておけたら楽だと思った。
目が覚めても、朝になっても、ここにいればいいと思った。
でも、それは違う。
帰したくないから帰さないのは、結局、前と同じだ。
ナマエは逃げずに、こちらを見てしまう。
だからこそ、蘭が止まらなければならない。
「……めんどくさ」
しばらくして、玄関が開いた。
竜胆が戻ってきた。
手には本当に飲み物の袋を持っている。
「寝ちゃった?」
「見れば分かるでしょ」
「兄貴、動物病院の待合室みたいな顔してる」
「殺すぞ」
「しー。起きる」
竜胆は静かに袋をテーブルに置いた。
「帰すの?」
蘭はナマエを見た。
「帰すよ」
即答だった。
竜胆は少しだけ笑った。
「ちゃんとしてんじゃん」
「うるさい」
「褒めてる」
「いらねえ」
竜胆は肩をすくめた。
「怖くなった時に、ナマエちゃんで安心しようとしたら、多分だめになる」
蘭は返事をしなかった。
けれど、その言葉はちゃんと届いていた。
「あ、でも兄貴」
「何」
「今の顔、本人には見せんなよ。重いから」
「死ね」
「はいはい」
竜胆は笑って、自分の部屋へ引っ込んだ。
しばらくして、ナマエが目を覚ました。
「……寝てました?」
「うん」
「すみません」
「謝んなくていい」
蘭は立ち上がる。
「送る」
「もう帰る時間ですか」
「帰る時間」
そう言うと、ナマエは一瞬だけ寂しそうな顔をした。
蘭はそれを見てしまった。
帰したくない。
やっぱり、そう思う。
でも、言った。
「また来ればいいじゃん」
ナマエが顔を上げる。
「また来てもいいんですか」
「俺が言ってんだけど」
「はい」
ナマエは小さく笑った。
「来ます」
その笑顔を見て、蘭は少しだけ救われた。
帰すことは、終わらせることではない。
また会うために、ちゃんと帰す。
そんな当たり前のことを、蘭はようやく覚え始めていた。
駅までの道を、二人で歩いた。
夜の六本木は相変わらず眩しくて、嘘くさくて、騒がしい。
けれど、その日の蘭は、前より少しだけ呼吸がしやすかった。
改札の前で、ナマエが振り返る。
「今日は、楽しかったです」
「映画ほとんど寝てたじゃん」
「でも、楽しかったです」
「そ」
ナマエは少し笑った。
「蘭さん」
「何」
「今日も、逃げませんでしたね」
蘭は眉を寄せる。
「毎回確認すんな」
「大事なので」
「俺にとっては嫌味なんだけど」
「褒めています」
「余計むかつく」
でも、蘭は笑っていた。
ナマエは改札を抜け、途中で一度振り返る。
蘭はそこにいた。
視線を逸らさずに、ナマエを見ていた。
その姿が見えなくなってから、蘭は携帯を取り出した。
『乗りました』
蘭はすぐに返した。
『着いたら連絡して』
前と同じ言葉だ。
けれど、前とは違う。
縛るためではない。
帰した先でも、ちゃんとつながっていると確かめるための言葉だった。
その夜、ナマエから『着きました』と届いたあと、蘭は短く返した。
『また来れば』
少し間が空く。
『行きます』
その返事を見て、蘭は携帯を伏せた。
怖いままでも、できることがある。
逃げないこと。
帰すこと。
また呼ぶこと。
約束を破らないこと。
蘭にとって、それは小さな勝ちだった。
壊れることと、変わることは同じではない。
ナマエは蘭を壊しに来たわけではない。
たぶん、変えに来たのでもない。
ただ、逃げずにそこにいる。
その光をどう扱うかは、蘭が決めることだった。
今はまだ、答えは出ない。
でも、明日も迎えに行く。
それだけは、もう決めていた。
けれど、翌日のことを、蘭はまだ知らなかった。
ナマエも知らなかった。
ようやく逃げないと決めたその先で、二人の関係が、二人だけのものではなくなることを。