親に蘭の存在を知られ、ナマエの未来は勝手に決められていく。
アメリカ行き。連絡の断絶。親の目が届く毎日。
会いたいのに、会えばもっと悪くなる。
ナマエは泣きながら、蘭に「来ないでください」と送る。
その日、ナマエが帰宅した時、玄関の空気がいつもと違っていた。
靴を脱ぐ前から分かる。
廊下の奥に明かりがついている。
リビングの扉が閉まっている。
けれど、その向こうからテレビの音は聞こえない。
母の声もない。
父の咳払いもない。
静かすぎた。
「ただいま」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「おかえり」
母の声だった。
いつもより硬い。
リビングの扉を開けた。
母と父が、テーブルを挟んで座っていた。
父はスーツの上着を脱いでいたが、ネクタイはまだ緩めていない。
母は湯呑みに手を添えたまま、こちらを見ている。
テーブルの上には、数枚の紙が伏せられていた。
「座りなさい」
父が言った。
怒鳴る声ではない。
ナマエはゆっくり椅子に座る。
「学校から連絡があった」
父は短く言った。
ナマエの指が、膝の上で小さく動く。
「……何のこと?」
「放課後、校門の近くで君を待っている男性がいるそうだ」
母の目がわずかに揺れた。
「何度か、先生方も見ていると」
ナマエは息を吸った。
落ち着こうとした。
「知り合いです」
「名前は」
答えるまでに、一瞬だけ間が空いた。
その間を、父は見逃さなかった。
「名前は」
もう一度、同じ調子で聞かれる。
ナマエは唇を結んだ。
「……蘭さん」
「名字は」
「灰谷」
父の目が少しだけ細くなった。
母が小さく息を呑む。
その反応で、ナマエは分かった。
もう、名前を知っている。
「灰谷蘭、で間違いないな」
父は紙の一枚を表に返した。
そこには、見覚えのある横顔があった。
夜の街で撮られた写真。
蘭が片手をポケットに入れ、こちらを見ていない瞬間。
隣には、自分が写っている。
ナマエは呼吸を忘れた。
「……調べたの?」
声が震えた。
父は表情を変えなかった。
「必要なことだ」
「必要って」
「未成年の娘が、素性の分からない男と夜遅くまで頻繁に会っている。学校からも連絡が来ている。親として当然だ」
「蘭さんは、危ない人じゃない」
言った瞬間、父の表情が初めて少し動いた。
怒りではない。
失望に近かった。
「この報告書を読んでも、同じことが言えるのか」
父は別の紙をナマエの前へ滑らせた。
そこには、灰谷蘭という名前の下に、いくつもの文字が並んでいた。
六本木。
灰谷兄弟。
不良グループ。
暴力事件。
補導歴。
天竺との関係。
反社会的勢力との接点の可能性。
どれも、紙の上ではひどく冷たい。
蘭の笑い方も。
ナマエの鞄を持ってくれた手も。
怖いと言った声も。
逃げないように努力していたことも。
何も書かれていない。
当然だった。
そんなものは、調査報告書には載らない。
「違う」
ナマエは小さく言った。
「何が違う」
「蘭さんは、そんなふうに書かれるだけの人じゃない」
父は目を閉じた。
母が、苦しそうに名前を呼ぶ。
「ナマエ」
「お母さんも、そう思ってるの?」
「あなたが傷つくかもしれないと思っているの」
「傷ついてない」
「もう傷ついている顔をしているわ」
その言葉に、ナマエは何も言えなくなった。
母は続けた。
「最近、ずっと様子が違った。帰宅がおそくなった。帰ってきても上の空で、携帯ばかり見て、急に笑ったり、急に沈んだりして」
「それは」
「恋をすることが悪いとは言っていないの」
母の声が少し震えた。
「でも、相手が違う」
ナマエの胸が痛んだ。
―相手が違う。
その言葉は、蘭そのものを否定しているように聞こえた。
握った手にぐっと力が入る。
「.....何も知らないのに」
「だから調べた」
父が言う。
「知った上で言っている」
「報告書だけで何が分かるの」
「十分だ」
父の声が少しだけ強くなった。
「学校にも行かず、まともな身元も見えず、暴力沙汰の噂があり、六本木と横浜の不良グループと関係している男だ。君が関わる相手ではない」
「私が決めることです」
「違う」
父の言葉は即答だった。
「未成年で、まだ学生で、親の保護下にいる君が、自分の人生を壊しかねない相手と関わっているなら、それは親が止める」
ナマエは椅子の縁を掴んだ。
「人生を壊すなんて」
「壊れる時は、本人だけが気づかない」
部屋が静まり返る。
母がそっと紙を伏せた。
見せたくないものを隠すように。
「あなたに、アメリカへ行ってもらうことにしました」
最初に言ったのは母だった。
あまりにも静かな声だった。
ナマエは意味が分からなかった。
「……何?」
「前から話があったでしょう。お父さんの知人のご家庭。向こうの学校のこと」
「それは、候補の話で」
「もう決めた」
父が言った。
ナマエは父を見る。
「決めたって、誰が」
「私たちが」
「私に相談もなく?」
「相談できる状態ではないと判断した」
血の気が引いていく。
指先が冷たい。
部屋の音が遠くなる。
「いつ」
「来月の終わりには出発できるように手続きを進める」
「そんなの無理」
「無理ではない」
「学校は」
「転出の手続きをする」
「大学は」
「向こうで改めて考えればいい」
「蘭さんは」
言ってしまった。
その名前を出した瞬間、父の顔が硬くなった。
「二度と会わせない」
その一言で、ナマエの中の何かが止まった。
母が目を伏せる。
父は続けた。
「連絡も断ちなさい。電話番号も変える。学校への送迎も行う」
「待って」
「もう決まったことだ」
「待ってって言ってる!」
初めて、ナマエの声が大きくなった。
母がびくりと肩を揺らす。
父は動かない。
ナマエは息を乱しながら立ち上がった。
「どうして勝手に決めるの。私のことなのに」
「君が自分で判断できないところまで来ているからだ」
「できる!」
「できていない」
父の声が鋭くなった。
「危険な男と関わり、学校から注意され、親に嘘をつき、夜遅くまで出歩いている。これのどこが判断できていると言うんだ」
言い返せなかった。
嘘をついた。
確かに。
帰りが遅くなった。
学校にも心配をかけた。
蘭のことを隠した。
でも、それは蘭が悪いからではない。
ナマエはそう言いたかった。
けれど、口にすればするほど、蘭が悪者にされていく気がした。
「蘭さんは」
声が震える。
「私を大事にしてくれています」
父は苦しそうに眉を寄せた。
「大事にする男は、未成年の娘をそんな世界に連れていかない」
その言葉は、深く刺さった。
天竺の集会。
幹部の飲み会。
非常階段。
イザナの指。
蘭の手。
頭の中に、いくつもの場面が浮かぶ。
蘭は守ってくれた。
蘭の世界を観たいといったのは自分だ。
でも、連れていったのは蘭だった。
その事実からは、逃げられない。
ナマエが黙ったのを見て、母が立ち上がった。
「ナマエ」
近づいてくる。
「あなたを責めたいんじゃないの」
「じゃあ、どうして」
「守りたいの」
母の目には涙が浮かんでいた。
「今、あなたは自分で思っているより危ういところにいる。お母さんたちは、あなたをそこから離したい」
「私は、物じゃない」
「分かってる」
「分かってない!」
叫んだ声が、部屋に響いた。
ナマエは自分でも驚いた。
こんなふうに親に声を上げたことは、ほとんどなかった。
母は泣きそうな顔で立ち尽くしている。
父は、ただ静かにナマエを見ていた。
「アメリカなんて行かない」
「行くんだ」
「行かない!」
「これは決定事項だ」
その言葉で、すべてが終わった気がした。
相談ではない。
説得でもない。
もう、決まっている。
ナマエの意思が入る余地は、最初からなかった。
「部屋に行きなさい」
父が言った。
「しばらく外出は控えてもらう。学校への送り迎えもこちらで調整する」
「監禁じゃない」
「保護だ」
「同じです」
「今の君には、そう見えるだろうな」
父の声は冷たくはなかった。
だから余計に苦しい。
怒っているだけなら、憎めた。
支配したいだけなら、反発できた。
でも、父も母も本気で心配している。
本気で、自分を守ろうとしている。
それが分かるから、逃げ場がなかった。
テーブルの上にある報告書に目を落とす。
その中の蘭は、ただ危険な男だった。
けれど、ナマエの知っている蘭は違う。
怖いと言いながら、逃げないようにしてくれた。
迎えに行くと約束して、本当に来てくれた。
離れたくないと、小さく言ってくれた。
その蘭を、どう説明すればいいのか分からなかった。
言葉にしたところで、きっと届かない。
ナマエは何も言わずに、リビングを出た。
階段を上がる足が震えている。
部屋に入り、扉を閉める。
その瞬間、体の力が抜けた。
ドアを背に座り込む。
蘭に連絡しなければ。
鞄の中から携帯を取り出す。
でも、指が動かない。
何を言えばいい。
学校から親に連絡が行った。
親があなたを調べた。
アメリカに行けと言われた。
もう会うなと言われた。
そんなことを送ったら、蘭はどうするだろう。
怒るだろうか。
笑うだろうか。
迎えに来るだろうか。
それとも。
自分のせいだと思って、また離れようとするだろうか。
その可能性に、胸が締めつけられる。
ナマエは携帯を握りしめた。
画面には、昨日のやり取りが残っている。
『明日も迎え行く』
『嬉しいです』
でも、明日、ナマエはひとりで外に出られないかもしれない。
学校にも、家にも、もう親の目がある。
蘭のいる夜へ、簡単には戻れない。
涙が落ちた。
一度落ちると、止まらなくなった。
ナマエは声を殺して泣いた。
親に聞こえないように。
自分の弱さを、自分でも聞かないように。
けれど、泣きながらも携帯を開いた。
蘭の名前を押す。
文字を打つ。
消す。
また打つ。
何度も迷った末に、ようやく短い文を送った。
『少し、大変なことになりました』
送信。
ナマエは携帯を胸に抱いたまま、膝を抱える。
数分後、携帯が震えた。
蘭からだった。
『何があった』
その文字を見た瞬間、また涙が出た。
ナマエは震える指で打つ。
『親に、蘭さんのことがバレました』
しばらく、返事はなかった。
その沈黙が怖かった。
やがて、画面が光る。
『今どこ』
ナマエは答える。
『家です』
すぐに返事が来た。
『出られる?』
ナマエは涙を拭った。
出たい。
会いたい。
でも。
階下には父と母がいる。
玄関には鍵がかかっている。
たぶん、今日はもう出られない。
ナマエは打った。
『無理です』
また少し間が空く。
その間に、蘭が何を考えているのか分からなかった。
怒っているのか。
焦っているのか。
それとも、もう距離を置こうとしているのか。
返事が来た。
『分かった』
それだけだった。
ナマエの胸が冷える。
やっぱり。
そう思いかけた瞬間、続けてもう一通届いた。
『明日、学校行く?』
ナマエは息を止めた。
明日。
父は送迎を調整すると言っていた。
でも、急には無理かもしれない。
学校には行くはずだ。
『行くと思います』
蘭からの返事は短かった。
『じゃあ学校の近く行く』
ナマエは画面を見つめた。
ーだめ。
そう思った。
学校も親も警戒している。
蘭が来たら、もっと悪くなる。
先生にも見られる。
親にも伝わる。
蘭が危険人物だという証拠を増やすだけだ。
ナマエは急いで打った。
『だめです。来ないでください』
送った瞬間、胸が痛んだ。
ー来ないで。
そんなことを言いたいわけじゃない。
本当は来てほしい。
今すぐでも。
けれど、来てしまったら、きっと全部がもっと壊れる。
蘭からの返事は、少し遅かった。
『会いたくないってこと?』
ナマエは唇を噛んだ。
違う。
違うのに。
文字では、何も届かない。
『違います』
『でも、来ないでください』
『今来たら、もっと悪くなります』
三つ送った。
返事がない。
ナマエは画面を見つめ続けた。
やがて、短く返ってきた。
『分かった』
また、それだけ。
今度こそ、胸が潰れそうになる。
蘭が離れていく気がした。
怖くなっている気がした。
自分のせいで、また蘭が距離を置こうとしている気がした。
ナマエは震える指で打った。
『会いたくないわけじゃありません』
送信。
返事は、少し遅れた。
『分かってる』
それだけだった。
でも、さっきより少しだけ息ができた。
ナマエは携帯を握ったまま、ベッドに座り込む。
階下では、両親がまだ話している気配がする。
アメリカ。
連絡を断つ。
二度と会わせない。
言葉が頭の中で回る。
その全部が現実になっていく音がする。
窓の外に、夜の光が滲んでいた。
蘭のいる夜。
もう手が届かなくなるかもしれない夜。
ナマエは携帯を胸に押し当てた。
その画面の向こうで、蘭が何を考えているのかは分からない。
ただ一つだけ、分かっていることがあった。
明日から、何かが決定的に変わる。
そしてその変化を、ナマエにも蘭にも、止める力はなかった。