戦×恋:レボリューション・ボルト ~雷神の転校生が九人の戦乙女を救ったら、前線直結のラブコメバトルが始まった~ 作:夜幻
翌朝。
屋敷の廊下に、ばたばたと足音が響いた。
「起きなさい、獅堂! いつまで寝てるの!」
客間の襖が、すぱん、と勢いよく開く。朝日が差し込む部屋の真ん中で、雷牙が大の字になって寝ていた。掛け布団はとっくに蹴飛ばされ、片足だけが畳の外まで飛び出している。
「……んあ? もう朝か?」
「とっくに朝よ! 叩き起こすって言ったでしょう!」
「おう、本当に叩き起こしに来たな……」
雷牙が寝ぼけ眼で身を起こす。はだけた寝間着の胸元が覗いて、一千花はぎょっとして顔を背けた。
「ちょ、ちょっと! 前! ちゃんと閉めなさい!」
「ん? ああ、悪い悪い」
「悪い悪いじゃない! 昨日からずっと、あなたは距離感というものがおかしいのよ!」
「そうか? 寝てるだけだぞ?」
「寝間着を乱して寝てる時点で、無防備すぎるの!」
一千花は頬を真っ赤にして、手にしていた丸めた新聞で、雷牙の頭をぽこっと叩く。
「いてっ。なんで叩くんだ」
「叩き起こすと言ったでしょう!」
「それ、物理的に叩くって意味だったのか」
「他にどんな意味があるのよ!」
(まったく、この男は……! 朝からなんて光景を見せてくれるのよ!)
心臓が、うるさい。昨夜の縁側で抱きしめられた感触が、不意に蘇って、一千花は慌てて首を振った。
「ほら、顔を洗ってきなさい。朝ごはんの時間よ」
「おう。……なあ、一千花」
「な、何よ」
「お前、昨日より顔色いいな。よく眠れたか?」
「…………!」
不意打ちだった。
「そ、そんなの、あなたに関係ないでしょう!」
「いや、関係あるだろ。仲間なんだから」
「仲間……」
一千花は、思わず口の中で繰り返した。胸の奥が、ぽっと温かくなる。
「ま、まあ、悪くは、なかったわ。ぐっすり、眠れたから」
「そうか、よかった!」
雷牙が、朝日みたいな笑顔を浮かべた。その眩しさに、一千花は、また、そっと視線を逸らした。
廊下の先で、洗面所の扉がばたんと開いた。
「うおっ、冷てえ! 朝の水は、気合い入るな!」
「獅堂くん、水を飛ばさないでください。床が濡れます」
「悪い悪い、五夜」
濡れた髪をタオルでがしがし拭きながら、雷牙が廊下に出てくる。そこへ、小さな足音が、とてとてと近づいてきた。
「雷牙、おはよう。……寝癖」
八雲が、本を抱えたまま、雷牙の頭をじっと見上げる。
「ん? 立ってるか?」
「うん。ここ、ぴょんって」
「はは、直らねえんだよなあ」
「……貸して」
八雲は、ポケットから小さな櫛を取り出すと、背伸びをして、雷牙の髪を、ちょいちょいと梳かし始めた。
「おお、助かる」
「……動かないで」
「おう」
「……ん。できた」
八雲は、満足そうに頷いて、ぷいと背を向けた。
「ありがとな、八雲!」
「……別に。ついで」
去っていく八雲の耳が、ほんの少しだけ赤い。
「八雲、すっかり懐いちゃって」
一千花が、腕を組んで、ぼそりと呟いた。
居間では、もう朝食の支度が整っていた。
焼き魚の香ばしい匂い、湯気の立つ味噌汁、ふっくらと炊き上がった白いご飯。座卓の上には、色とりどりの小鉢が並んでいる。
「おはよう、雷牙くん! よく眠れた?」
「おう、おはよう、二葉! うまそうな匂いだな!」
「ふふ、いっぱい食べてね。今日は大事な日だから」
「大事な日?」
「うん。雷牙くん、今日から私たちと同じ学園に編入でしょう?」
「ああ、そうだったな。転校生ってやつか」
「獅堂くん、編入の手続きは、昨夜のうちに、私が生徒会室から手配しておきました」
五夜が、制服姿で背筋を伸ばして言った。眼鏡の奥の瞳が、きらりと光る。
「クラスは、七樹と同じ二年B組です。担任の先生には、私から話を通してあります」
「ありがとな、五夜! 助かるぜ!」
「い、いえ、生徒会長として当然のことです。……これも、お父様のお役に立つことですから」
五夜が、頬をほんのり染めて、そっぽを向く。
「五夜姉さん、お父様のためなら、なんでもやるんだから」
「七樹、余計なことは言わなくていいです」
「でも、事実でしょ? 獅堂のことだって、さっきまで、鏡の前で何回も髪を直して……」
「七樹!!」
五夜の顔が、ぼっと赤くなった。
「な、直してません! 断じて!」
「直してたよ、五夜ちゃん」
「六海まで!?」
賑やかな朝の食卓に、笑い声が弾ける。
そのとき、廊下から、きらきらした声が聞こえてきた。
「みんな、おはよう! 行ってきます!」
六海だった。薄手のコートに帽子、大きなサングラスという、アイドルらしい変装姿だ。
「あれ、六海、もう出るのか」
「うん。今日は朝から撮影なの。らいがさんのジャケット、昨日はありがとうございました。ちゃんと洗って、お返ししますね!」
「おう、気にすんな! 撮影、頑張れよ!」
「はいっ! 行ってきます!」
六海は、ぱあっと笑って、軽やかな足取りで玄関を飛び出していった。
残された姉妹たちが、ほう、とため息をつく。
「六海、あんなに楽しそうだったね」
「そうね。昨日までの疲れた顔が、嘘みたい」
一千花は、味噌汁をすすりながら、ちらりと雷牙を見た。雷牙は、すでに三杯目のご飯を平らげているところだった。
(……本当に、よく食べるわね、この人)
呆れ半分、微笑ましさ半分。そんな複雑な気持ちが、胸の中で混ざり合った。
「一千花姉さん、箸、止まってるよ」
二葉が、にこにこと声をかける。
「と、止まってないわ! ちゃんと食べてるわよ!」
「ご飯粒、頬についてるけど」
「えっ!?」
慌てて頬に手をやる一千花を見て、雷牙が、ひょいと手を伸ばした。
「ほら、ここだ」
長い指が、一千花の頬から、ご飯粒をつまみ取る。そのまま、ぱくりと、自分の口に入れた。
「うん、うまい」
「……っ!! な、な、何を食べてるのよ、あなたは!」
「え? もったいねえだろ?」
「そういう問題じゃない! デリカシー! デリカシーというものを持ちなさい!」
「でりかしー?」
「そこから説明が必要なの!?」
食卓が、どっと笑いに包まれた。
「ねえ雷牙、キミ、味噌汁に何杯目?」
九瑠璃が、座布団の上で、ちょこんと雷牙の隣に座りながら、目を輝かせて見上げた。
「ん? 三杯目だな」
「ご飯もだよ。昨日からの累計摂取カロリー、ボクの計算だと、成人男性の三倍」
「戦うと腹が減るんだ。な、五夜」
「私に同意を求めないでください」
「ねえ、そのエネルギーって、全部雷に変換されてるの?」
「さあなあ。考えたこともねえ」
「それを解明するのが、ボクの仕事なんだよ。だから、今日も、ずっとくっついて測るからね」
「おう、好きにしろ!」
「やった!」
九瑠璃が、小さな拳をぐっと握る。その様子に、二葉が、ふふっと目を細めた。
「九瑠璃は、雷牙くんのこと、気に入ったんだね」
「気に入ったんじゃなくて、研究対象だよ」
「はいはい。研究対象さんは、ちゃんとお野菜も食べてね」
「……うぐ」
九瑠璃が、小さなお皿のにんじんを、じっと睨んだ。
「ほら、食べねえと大きくなれねえぞ」
「ボクは、もう十分、天才だもん」
「天才でも、野菜は食うんだ。俺が見ててやるから」
「……ちぇっ」
九瑠璃は、しぶしぶ、にんじんを口に運んだ。眉を寄せて、もぐもぐと咀嚼する。
「えらいぞ、九瑠璃」
雷牙に頭を撫でられて、九瑠璃は、むすっとしながらも、少しだけ、嬉しそうだった。
食事が終わるころ、三沙が、ごきごきと首を鳴らして立ち上がった。
「さて、雷牙。約束、覚えてるね?」
「おう、特訓だろ? 望むところだ!」
「いい返事だ。じゃあ、道場に行こうか」
「あっ、アタシも見に行く!」
七樹が、ぴょんと立ち上がる。
「七樹、あなたは学校の準備があるでしょう」
「五夜姉さんだって、見たいくせに」
「わ、私は、戦術の研究のためにですね……!」
「はいはい」
一千花は、深くため息をついた。
「結局、全員で行くことになるのね」
「面白そうだから」
八雲が、本を抱えて、とことこと後ろをついてくる。
「ボクも、データ収集」
九瑠璃が、小さな機械を握りしめて、ぴょんぴょん跳ねた。
屋敷の裏手にある道場は、板張りの床が朝日にきらきらと輝いていた。
壁には、古い木刀や槍が掛けられている。窓から差し込む光の筋の中で、細かな埃が、ふわふわと舞っていた。
三沙は、道場の中央に立って、ぐっと腕を伸ばした。
「ここが、アタシの特訓場さ。戦乙女は、ここで日々鍛えてるんだ」
「いい道場だな。床がぴかぴかだ」
「二葉が毎日磨いてくれるからね」
「二葉は、本当に働き者だな」
「ふふ、そうだよ。だから、大事にしてやんな」
「ところで三沙、特訓って、いつもはどんなことをしてるんだ?」
「基本は、体力づくりと糸の精度上げだね。毎朝、五百本の糸を、同時に操る練習をするのさ」
「五百本!? 同時に!?」
「ああ。慣れれば、目をつぶってても、全部の糸の位置が分かるようになる」
「すげえな……。俺には、とても真似できねえ」
「アンタは、アンタの戦い方がある。雷の勘ってやつは、アタシには真似できないよ」
三沙は、肩をすくめて笑った。
三沙は、にやりと笑って、両手の指を、くいっと動かした。
しゅるり、と、細い糸が空気の中に浮かび上がる。朝日を受けて、銀色にきらめく無数の糸。それが、道場の梁から床まで、蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。
「うお、すげえ……」
「アタシの能力は『糸』。縛ってよし、切ってよし、縫ってよし。今日は、それを使って、アンタを試してやるよ」
「いいぜ、どんとこい!」
「ルールは簡単。アタシの糸の網を抜けて、アタシに一本入れること。ただし、ミョルニルは使用禁止」
「素手でか?」
「そう。アンタの実力を、直に確かめたいからね」
「面白え。やってやるぜ」
雷牙は、上着を脱いで、肩をぐるぐる回した。
引き締まった体が、朝日に照らされる。道場の端で見守っていた七樹が、ぱっと目を逸らした。
「ち、ちょっと! なんで脱ぐのよ、あのバカ!」
「七樹、顔、赤いよ」
「赤くない!」
「ふむ。筋肉量が、予想以上ですね。戦術的に、これは興味深い」
「五夜姉さん、観察しすぎ」
一千花は、腕を組んで、渋い顔をした。
(なんだか、落ち着かないわね……)
雷牙が、すっと構える。さっきまでの寝ぼけ顔が嘘のように、その眼差しは鋭く、澄んでいた。
「雷牙、足元、気をつけて」
八雲が、本から顔を上げて、ぼそりと言った。
「三沙の糸、床にも、張ってある。……音で、分かる」
「おう、サンキュー八雲!」
「ちょっと八雲、敵に塩を送らないでよ」
「……雷牙、負けたら、つまらない」
「あはは、手厳しい審判だね」
三沙が苦笑して、指先を、ひらりと構え直した。
「いつでもいいぜ、三沙」
「ふふ、いい目だね。それじゃあ……いくよ!」
三沙が、指をぴんと弾いた。
ひゅん、と風を切る音がして、無数の糸が、雷牙めがけて殺到する。
「おっと!」
雷牙は、身を低くして、糸の下をくぐり抜けた。さらに、横から迫る糸を、ひょいと跳んでかわす。
「ほう、やるじゃないか! だけど、まだまだ!」
三沙の指が、舞うように動く。糸が束になり、網となり、檻のように雷牙を包囲した。
「これでどうだい!」
「甘えな!」
雷牙は、床を蹴って、天井近くまで跳び上がった。そのまま、梁に手をかけて、くるりと回転する。
「なっ……!」
「上だ、三沙!」
雷牙が、梁から飛び降りた。拳が、三沙の目の前に迫る。
けれど、三沙は、にやりと笑った。
「かかったね」
床に張り巡らせた糸が、ぎゅん、と収縮した。雷牙の足首に絡みつき、空中で動きを止める。
「うおっ!?」
「アタシの糸は、上にも下にも、前にも後ろにも張ってあるんだよ」
三沙は、身をひるがえして、雷牙の背後に回り込んだ。指先の糸が、雷牙の首筋に、つぅっと触れる。
「はい、アタシの勝ち、かな?」
「…………」
雷牙は、足首を糸に絡め取られたまま、空中で逆さ吊りになっている。
「おいおい、これ、すげえな……」
「ふふ、降参かい?」
「いや」
雷牙は、にやりと笑った。
「まだ、終わってねえぞ」
「え?」
次の瞬間、雷牙の体から、ばちばちと青白い雷光が走った。糸を伝って、道場全体に、電撃が駆け巡る。
「うわっ!?」
三沙の糸が、一斉に、ぷつぷつと焼き切れた。拘束が解けた雷牙は、くるりと着地して、そのまま、三沙の目の前に踏み込む。
「そこだ!」
雷牙の拳が、三沙の眉間の前で、ぴたりと止まった。風圧が、三沙の前髪をふわりと揺らす。
「…………」
「…………」
道場に、静寂が落ちた。
「あの雷、道場の電気、ぜんぶ落ちたんじゃない?」
「いえ、電力はむしろ補っています。不思議ですね」
「五夜、冷静に分析してる場合?」
「分析は、戦術の基本です」
「……はは」
三沙が、先に笑った。
「あっははは! やられたよ。まさか、糸を雷で焼き切るなんてね」
「悪い、ちょっと反則だったか?」
「いや、いいんだ。ミョルニルは使ってないんだから、ルール違反じゃないさ」
三沙は、肩で息をしながら、満足そうに雷牙を見上げた。
「へぇ、アンタ結構いい体してんじゃん? アタシの特訓についてこられた奴は初めてだよ」
「そうか? 三沙の糸も、すげえ強かったぞ。危うく本気で負けるとこだった」
「ははっ、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。……ご褒美に」
三沙は、一歩、雷牙に近づいた。
「……ハグ、してあげよっか?」
「え」
雷牙の動きが、ぴたりと止まった。
「ほら、ご褒美だよ。遠慮しなくていいんだよ?」
「い、いや、遠慮っていうか、その……」
「何だい、怖気づいたのかい? 昨日は、一千花には、堂々と抱きついたって聞いたけど」
「あれは、その、勢いというか、数えてるうちに……」
「じゃあ、今度も数えてあげるよ。三、二、一」
「早え!」
三沙が、ぎゅっと、雷牙の体を抱きしめた。
しなやかな腕が、雷牙の背中に回る。汗の匂いと、石鹸の香りが混ざって、ふわりと雷牙の鼻をくすぐった。
「…………あ」
雷牙の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。
「……あ、いや、すまん。やっぱこれ照れるな!」
「えっ」
「す、すみません、離してもらって、いいですか……!」
「あははははは! 敬語になってる!」
三沙は、腹を抱えて笑い出した。けれど、その腕は、雷牙を離さない。
「いいじゃないか、可愛いところあるんだね、アンタ」
「か、可愛いとか、言わないでください!」
「また敬語だ。ふふ、気に入ったよ」
そのとき、三沙の体が、ふわっと淡い光に包まれた。
「おっ」
「これは……!」
指先から伸びる糸が、さっきまでより、ずっと強く、美しく輝いている。糸の一本一本が、まるで金属のように太く、しなやかに変わっていた。
「すごい……力が、湧いてくる」
「やっぱり、効くんだな」
「ああ、昨日の一千花の槍と同じだ。心が通じ合うほど、強くなる」
三沙は、自分の指先を見つめて、にっと笑った。
「雷牙。アンタ、アタシの相棒になりな」
「相棒?」
「そうさ。アタシの背中を預けられるのは、アンタみたいな男だけだよ」
「おう! 任せとけ!」
二人が、がっちりと握手を交わす。その光景を、道場の隅から、全員が見つめていた。
「かっこいい……」
「ふん。まあ、悪くはないんじゃない?」
「七樹ちゃん、顔がにやけてるよ」
「にやけてない!」
「雷牙、強い。……三沙も」
八雲が、ぼそりと呟く。
「ボクのデータにも、新しい記録が追加されたよ」
九瑠璃が、嬉しそうに機械を叩いた。
「……ねえ、獅堂」
七樹が、腕を組んだまま、ぽつりと言った。
「あ? どうした、七樹」
「その、さっきの動き。体重移動、どうやってるの? アタシの剣にも、使えそうだなって」
「おっ、興味あるのか!」
「べ、別に! ちょっと気になっただけ!」
「いいぜ、今度、教えてやるよ。お前、筋がよさそうだしな」
「す、筋が……?」
「ああ。さっきから見てたけど、目の動きが鋭い。いい戦士になるぞ」
「…………っ」
七樹の顔が、ぼっと赤くなった。
「あ、当たり前でしょ! アタシは天才なんだから!」
「おう、そうだな!」
「……で、でも、教えてくれるなら、ちゃんと受けてあげても、いいけど」
「素直じゃねえな」
「うるさい、バカ!」
七樹は、ぷいと顔をそむけた。けれど、その口元が、ほんの少し、ゆるんでいた。
三沙は、ふと雷牙の脱いだ上着に目を留めた。
「おや、雷牙。ジャケットの袖、ほつれてるじゃないか」
「ん? ああ、昨日の戦いでかな」
「貸しな。アタシは裁縫が得意なんだ」
三沙は上着を受け取ると、懐から小さな針と糸を取り出した。指先がすいすいと動き、あっという間に、ほつれた袖口が元通りに縫い上がっていく。
「すげえ、早えな!」
「当たり前さ。針と糸は、アタシの相棒だからね」
「ありがとな、三沙。助かった」
「礼なんかいらないよ。アンタが傷だらけで帰ってくるたびに、アタシが縫ってやるさ」
「それは、傷だらけで帰ってこいって意味か?」
「違うよ。……無事で帰ってこいって意味さ」
三沙は、ぱちりと片目をつぶって、縫い上げた上着を、雷牙の肩にばさりとかけた。
ただ、一人だけ、複雑な顔をしている者がいた。
(……三沙とは、あんなに簡単に、打ち解けて)
一千花は、唇をとがらせて、そっぽを向いた。
(別に、羨ましくなんかないわよ。私は長女だし、あの男のことは、まだ認めてないし)
けれど、胸の奥が、もやもやと、重い。
「一千花姉さん、どうしたの? 顔、怖いよ」
二葉が、心配そうに覗き込んでくる。
「な、何でもないわ!」
「ふふ、嫉妬してるんだ」
三沙が、にやにやしながら、一千花を見た。
「し、嫉妬じゃない!」
「あ、そうなの? じゃあ、アンタも一緒に、ハグしてもらうかい?」
「なっ……!」
「ほら、雷牙、次は一千花だよ」
「いや、俺はもう、さっきので心臓が……」
「やらないわよ、バカ!!」
一千花の叫びが、道場に響き渡った。
息を整えていると、二葉が、タオルと水筒を抱えて駆け寄ってきた。
「雷牙くん、三沙ちゃん、お疲れさま! はい、お水と、タオル」
「おっ、ありがとな、二葉! 気が利くな」
「ふふ、昨日からお世話係だもん」
「アタシにもあるのかい? ありがたいねぇ」
三沙がタオルで顔を拭き、雷牙は水をごくごくと飲み干した。
「……ぷはぁっ! 生き返る!」
「雷牙くん、汗、すごいよ。ほら、こっち向いて」
「え? いや、自分で……」
二葉が、ふわふわのタオルで、雷牙の額の汗を、そっと押さえた。
「じっとしてて」
「……お、おう」
雷牙の動きが、またぴたりと止まる。さっきまでの豪快さはどこへやら、視線が泳いだ。
「あれ、雷牙くん、また顔、赤いよ?」
「き、気のせいだ!」
「ふふ、可愛いなぁ」
「二葉まで、可愛いとか言うなよ……!」
その横から、ぬっと、一千花が割り込んだ。
「……貸しなさい」
「え?」
「タオルよ。二葉は、まだ洗濯物が残ってるでしょう。ここは私がやるわ」
一千花は、二葉からタオルを奪い取り、背伸びをして、雷牙の顔をごしごしと拭いた。
「いたたた! 一千花、力が強い!」
「我慢しなさい!」
「なんで怒ってんだ!?」
「怒ってない!」
真っ赤な顔で雷牙の顔を拭き続ける一千花を、二葉と三沙が、にやにやと見守っていた。
朝の特訓が終わり、汗を拭きながら廊下を歩いていると、雷牙の背中に、ちょん、と何かが触れた。
「ん?」
振り返ると、そこには、大きな鎧に身を包んだ、小さな影が立っていた。
四乃だった。
兜の奥の表情は、相変わらず見えない。けれど、彼女は、雷牙のレザージャケットの裾を、ぎゅっと握りしめていた。
「四乃? どうした?」
「…………」
四乃は、何も言わない。ただ、ジャケットの裾を、握ったまま、じっと雷牙を見上げている。
「何か、言いたいことがあるのか?」
「……あの」
かすかな声が、兜の奥から漏れた。
「……あの、これ」
四乃が、鎧の手で、そっと、何かを差し出した。
手のひらに乗っていたのは、小さな布のお守りだった。藍色の布に、ところどころ、ほつれた糸。縫い目は、少し歪んでいる。それでも、一針一針、丁寧に縫われたことが、はっきりと分かった。
「これ……俺に?」
「……雷牙に、お守り、作ったの」
四乃の声が、小さく震えていた。
「……昨日の夜、寝ないで、作ったの。……戦いの、お守り」
「四乃……」
「……死んじゃ、ダメ、だからね……?」
絞り出すような言葉だった。
雷牙は、お守りを、両手で、そっと受け取った。
小さな布の中から、かすかに、ぬくもりが伝わってくる。
鼻先に、日向の干し草のような、やわらかな匂いがした。四乃が、こっそりお日様に当てておいたのかもしれない。
「ありがとな、四乃」
「…………」
「大事にする。絶対に、死なねえよ」
雷牙は、お守りを、ジャケットの胸ポケットに、そっと収めた。
四乃の兜が、こくり、と小さく揺れる。その肩が、ほっとしたように、わずかに下がった。
「……よかった」
小さな呟きが、風に溶けた。
「四乃、お前、昨日、ずっと結界を支えてたんだろ。疲れてるのに、寝ないで作ってくれたのか」
「…………」
「悪いな。もう、無理すんなよ」
雷牙が、ぽん、と、四乃の兜の上に手を置いた。
四乃の体が、びくっと跳ねる。鎧が、がしゃ、と小さな音を立てた。
「……あ」
「あ、悪い。嫌だったか?」
「……ううん」
四乃は、ふるふると、首を振った。
「……嫌じゃ、ない」
その瞬間、四乃の鎧が、ぼんやりと、柔らかな光を放ち始めた。藍色の光が、鎧の継ぎ目から、ゆらゆらと漏れ出している。
「これは……」
「……結界の力、少し、強くなった気がする」
「そうか! よかったな、四乃!」
「……うん」
四乃は、小さく頷いた。兜の奥から、ほんの少しだけ、笑ったような気配がした。
「なあ、四乃。その鎧、重くねえのか?」
「……重い。でも、慣れてる」
「そっか。無理だと思ったら、いつでも言えよ。俺が持ってやる」
「……持つ?」
「おう。鎧ごと、ひょいっとな」
「…………それは、ちょっと、恥ずかしい」
四乃が、兜を両手で押さえて、ぷるぷると首を振った。
「ははっ、冗談だよ」
「……雷牙の冗談は、分かりにくい」
「そうか? 結構、本気だったんだけどな」
「……もっと、分かりにくい」
四乃が、くすりと、息を漏らした。それは、昨日からずっと、誰も聞いたことのない、小さな笑い声だった。
廊下の角で、その様子を覗いていた一千花は、そっと胸を押さえた。
(四乃が、あんな風に、人に触れさせるなんて)
長い間、四乃は、誰にも素顔を見せなかった。姉妹たちにすら、深くは心を開かなかった。
それなのに、雷牙には、自分から近づいていった。
(……本当に、不思議な人)
嫉妬とも、感謝ともつかない、複雑な感情が、胸の中で渦巻く。
「一千花姉さん」
背後から、二葉の声がした。
「……何かしら」
「いいんだよ、素直に、嬉しいって思っても」
「べ、別に、嬉しくなんか……」
「ふふ、お姉ちゃんは、素直じゃないなぁ」
二葉が、優しく笑った。一千花は、赤くなった顔を、ぷいと背けた。
「……ねえ、二葉」
「なあに?」
「あの人が来てから、まだ一日しか経ってないのに、みんなが、どんどん変わっていくわね」
「うん。私も、そう思う」
「怖くないの?」
「怖いよ。でも、それ以上に、嬉しいんだ」
二葉は、窓の外の青空を見上げた。
「ずっと、お姉ちゃん一人に、背負わせてたから。誰かが、一緒に重荷を持ってくれるのが、すごくありがたいの」
「……私は、背負わされてなんかいないわ」
「そうかな? 私には、ずっと、一人で戦ってるように見えたよ」
「…………」
一千花は、言葉に詰まった。
「だからね、お姉ちゃん。雷牙くんに頼っても、いいんだよ」
「……少しだけ、考えておくわ」
「ふふ、それでいいと思う」
二葉が、一千花の頭を、ぽんぽんと撫でた。
「ちょっと、二葉! 子ども扱いしないで!」
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんだよ。いつまでも」
そのとき。
屋敷じゅうに、けたたましい警報音が鳴り響いた。
「これは……!」
「邪界の裂け目が、開いた!」
九瑠璃のタブレットが、真っ赤に点滅している。
「場所は!?」
「街の南、河川敷! 数、昨日の倍以上!」
「倍以上……!?」
姉妹たちの顔色が変わる。昨日の戦いを経て、それでも、まだ、終わりではなかったのだ。
「みんな、準備して!」
一千花が、槍を握りしめて叫んだ。
「おう!」
雷牙が、胸ポケットのお守りに、そっと触れる。それから、キーホルダーを、ぐっと握りしめた。
「行くぞ、お前ら! 今日も、まとめて片付けてやる!」
「はい!」
十人の声が、朝の空に、高らかに重なった。
屋敷の玄関は、一瞬で慌ただしくなった。
「二葉、城の展開を準備して! 三沙は糸で、河川敷の左右を封鎖!」
「了解、お姉ちゃん!」
「任せときな!」
「五夜、戦術の指揮を。七樹は前衛で私と並走」
「かしこまりました。獅堂くんの動きも、組み込みます」
「アタシが前衛なのは当然よ! ……って、あんたに言われなくても分かってる!」
「ちょっと待ってよ! 今日、学校は? 遅刻しちゃうじゃない!」
「七樹、世界の危機よ。学校は後回し」
「でも、出席日数が……」
「あとで、私が学園に連絡します。公欠扱いにしてもらいますから」
五夜が、さらりと言った。
「五夜姉さん、そこは抜かりないんだね……」
「生徒会長ですから」
七樹が、むうっと頬を膨らませた。
「八雲は音で後方の警戒を。九瑠璃は、砲の補給を終わらせて」
「……分かった」
「ボク、さっき、ご飯の間に、全部整備しておいたよ」
「さすがね」
一千花が、てきぱきと指示を飛ばす。その横顔を、雷牙は、じっと見つめていた。
「何よ。ぼうっとして」
「いや、お前、リーダーの顔してるなって」
「当たり前でしょう。私は長女なのよ」
「かっこいいぞ、一千花」
「な、何を急に……!」
一千花の頬が、ぼっと赤く染まる。
「い、今は、そんなことを言ってる場合じゃないでしょう! さっさと行くわよ!」
「おう!」
雷牙は、にっと笑って、玄関の戸を勢いよく開け放った。朝の光が、まぶしく差し込む。
玄関を飛び出すと、冷たい朝の風が、頬を打った。
街の南の空に、黒い雲のような影が渦を巻いている。その中心に、ぱっくりと、邪界の裂け目が口を開けていた。
「うわ……本当に、すごい数」
「ざっと、三百は、いるな」
雷牙が、目を細めて数える。
「さ、三百!?」
「おう。でも、大丈夫だ」
雷牙は、胸ポケットのお守りを、ぽんと叩いた。
「今日は、頼もしい仲間が、十人もいるからな」
「十人? 九人でしょう?」
「俺も入れて、十人だ」
「……ふふ。数も数えられないのね、あなたは」
一千花は、くすりと笑った。昨日の絶望が、嘘のように、足取りが軽い。
風に乗って、遠くから、悪魔の咆哮が聞こえてくる。地面が、かすかに震えていた。
「昨日の戦いで、結界は応急処置しかできていません。あの数が一気に抜ければ、街が危険です」
五夜が、走りながら冷静に告げる。
「じゃあ、まとめて、ここで止めるしかねえな」
「簡単に言うわね」
「簡単だろ? お前らと俺がいるんだ」
あまりにも自信満々な言い方に、七樹が、呆れたようにため息をついた。
「……ほんと、バカなんだから」
「でも、不思議と、そう言われると、できる気がしてくるよね」
二葉が、ふふっと笑う。
「雷牙くんの口癖、うつっちゃいそう」
「行くわよ、獅堂」
「おう、一千花!」
二人の影が、朝日の中、並んで走り出した。
その背中を追いかけながら、一千花は、ふと思った。昨日までは、ひとりで走っていたこの道を、今日は、誰かと並んで走っている。それだけで、景色が、まるで違って見えた。前を行く雷牙の背中が、いつもより少しだけ、頼もしく見える。胸の奥で、小さな雷が、ぱちんと弾けた。
空には一羽の鳥も飛ばず、街は、息をひそめて、彼女たちの背中を見送っていた。
赤く染まり始めた空の下、新たな戦いが、幕を開けようとしていた。