男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
冒険者ギルド王都本部の扉を開けた瞬間、酒場の喧騒が止まった。
昼下がりだった。依頼帰りの冒険者たちが、長卓で麦酒を呷っている時間帯だ。
その全員が、入口を見ていた。
正確には、入口に立つ男を。
「……見学の、お約束で参りました。フェンネルと申します」
アルトが一礼すると、酒場のあちこちで、ひそひそと声が交わされた。
「男だ」
「男が、ギルドに」
「あれが噂の」
付き添いの長姉エルゼが、一歩前に出た。背筋を伸ばし、酒場全体を見回す。笑顔だった。目は笑っていなかった。
囁き声が、すっと引いた。
(エルゼ姉上、強い)
奥の受付から、背の高い女性が歩いてきた。
四十代半ばだろうか。短く刈った灰色の髪に、片眼鏡。腰に剣を佩いているが、手に持っているのは書類の束だった。
「ギルド長のハンナ・クロイツです。ようこそ、フェンネル殿」
「本日は、お招きいただき」
「堅苦しいのはいい。見るものも大してないが、ゆっくりしていってくれ」
ハンナは書類を脇に挟んで、酒場の奥を顎で示した。
「依頼の掲示板と、素材の買取所と、訓練場。それから、うちの看板がいる」
「看板」
「ああ。今日はちょうど、帰ってきてる」
酒場の一番奥の卓に、その女はいた。
一人で、骨付き肉に齧りついていた。
赤い髪を、首のあたりで無造作に短く切っている。日焼けした肌。袖のない革の上衣から伸びる腕は、アルトの太腿より太かった。その腕のあちこちに、白い傷痕が走っている。
椅子の背に、身の丈ほどの大剣が立てかけてあった。
「ロッサ」
ハンナが呼んだ。
「客だ。挨拶しろ」
女は肉を齧ったまま、顔を上げた。
金茶色の目が、アルトを見た。
頭のてっぺんから、つま先まで。ゆっくりと、一度だけ。
それから、骨を皿に置いた。
指についた脂を、ぺろりと舐める。椅子をがたんと引いて、立ち上がった。
大きかった。アルトより、頭一つ分は高かった。
彼女はアルトの目の前まで歩いてきて、見下ろした。
土と、焚き火と、汗の匂いがした。
「お前」
低い、少し掠れた声だった。
「ヤりたいんだろ?」
酒場が、凍りついた。
「顔に書いてある」
誰も、動かなかった。
エルゼが、笑顔のまま固まっていた。ハンナが、片眼鏡の奥で目を閉じていた。長卓の冒険者たちが、麦酒の杯を口元で止めていた。
アルトは、目の前の女を見上げていた。
(……え)
金茶色の目が、まっすぐにこちらを見ていた。
からかっている目ではなかった。試している目でもなかった。
ただ、見たままを言った。そういう目だった。
(え、待って)
(バレてる)
(いや、バレてるっていうか、言われた)
(初対面で、面と向かって、一言目で)
アルトの頭の中で、十八年かけて築いた建前の城壁が、音を立てて軋んでいた。
(否定、否定しないと)
(いや、でも、この人の目、否定しても無駄な目だ)
(素数……2……3……)
(顔に書いてある、って、どこに、どの辺に)
(5……7……顔のどこに……)
(だめだ、素数が顔に負ける)
最初に動いたのは、酒場の隅の誰かだった。
ぷっ、と吹き出す音がした。
それが合図だった。
酒場中が、爆発したように笑い出した。
「ロッサ、またかよ!」
「男が女を、なんて、あるわけねえだろ!」
「こないだは犬が人の言葉を喋るって言ってたよな!」
「あれは本当に喋ったんだって!」
長卓を叩く音。杯がぶつかる音。誰もが腹を抱えて笑っていた。
「すまない、フェンネル殿」
ハンナが、こめかみを押さえながら言った。
「こいつの言うことは、気にしないでくれ。一割で聞いておけばいい」
「ハンナ、だから一割は本当なんだって」
「その一割がどれか、誰にも分からんのが問題だ」
アルトは、ようやく息をした。
それから、穏やかに微笑んだ。
「……面白い方ですね」
(助かった)
(この人の言うこと、誰も信じないんだ)
エルゼも、ほっとしたように笑った。
「本当に、失礼な冗談だこと。ねえ、アルト」
「ええ、姉上」
酒場の笑い声は、なかなか収まらなかった。
その中で、一人だけ笑っていない人がいた。
ロッサだった。
いや、笑っていた。
ただ、他の連中とは違う笑い方だった。口の端だけを持ち上げて、にやにやと。金茶色の目が、ずっとアルトを見ていた。
アルトは、その目から視線を外した。
外してから、もう一度だけ見てしまった。
ロッサの笑みが、深くなった。
ギルドの見学は、つつがなく終わった。
掲示板の依頼。買取所の素材の山。訓練場で剣を振る冒険者たち。ハンナは説明が短く、要点だけを話す人だった。
帰り際、入口の扉の前で、背後から声がした。
「おい」
振り返ると、ロッサが壁にもたれていた。いつの間に来たのか、足音がまったくしなかった。
「また来いよ」
「……機会があれば」
「あるさ」
ロッサは、にかっと笑った。白い歯が、日焼けした顔の中で光った。
「あたしの勘は、当たるんだ。誰も信じないけどな」
エルゼが、アルトの腕を引いた。
「行きましょう、アルト」
扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返った。
ロッサは、まだ壁にもたれてこちらを見ていた。骨付き肉を、どこからか取り出して、また齧っていた。
三日後。
王宮の小庭園で、茶会が開かれた。
初夏の花が咲き乱れる庭に、白い卓が据えられていた。銀の茶器。焼き菓子の皿。日除けの天幕。
招かれたのは、アルトと母のマルタだった。
「このような席に、うちの子を」
母は朝から緊張しきっていた。王家からの招待など、準男爵家には一生に一度あるかないかの話だった。
卓の周りには、王宮の侍女たちが十人ほど控えていた。
全員が、若く美しかった。全員が、なぜか茶会の給仕にしては着飾りすぎていた。
侍女長のグレタが、恭しく一礼した。
「本日は、王家の小茶会にようこそお越しくださいました。どうぞ、お掛けくださいませ」
アルトが席に着いた瞬間、両側の椅子に侍女が座った。
給仕ではなく、座った。
「お茶を、お注ぎいたしますわ」
右の侍女が、ポットを手に身を寄せた。
肩が、触れそうなほど近い。花の香油の匂いがした。
(……っ)
「焼き菓子は、いかがですか」
左の侍女が、皿を差し出しながら身を寄せた。
髪が、アルトの頬をかすめた。
(……っ、っ)
「あら、袖にくずが」
正面の侍女が、身を乗り出してアルトの袖に手を伸ばした。
「触れても、よろしいかしら」
「……お気遣い、ありがとうございます」
母が、隣の席で目を白黒させていた。
(母上、これが王家の作法だと思ってるな)
(違います母上)
(これは、包囲です)
侍女たちは、入れ替わり立ち替わりアルトの周りを固めた。茶を注ぐ。菓子を勧める。袖を払う。髪を直す。耳元で、天気の話をする。
全部が、誘いの作法だった。
この国の女が男に向けて使う、昔ながらの作法。身を寄せる。耳元で囁く。手に触れる。香りを纏う。
普通の男には効かない。怯えて身を固くするか、逃げ出すか、どちらかだ。
アルトには、全部効いていた。
効いていたが、母が隣にいた。王家の茶会だった。
アルトは、十八年分の演技を総動員して、穏やかな微笑みを顔に貼りつけ続けた。
(2、3、5、7、11)
(13、17、19、23)
(素数って、無限にあるんだよな。ユークリッド、ありがとう)
卓の上座に、一つだけ空いた席があった。
茶碗が置かれ、焼き菓子が取り分けられている。誰も座っていなかった。
茶会が半ばを過ぎた頃、一人の侍女がグレタの耳元で何かを囁いた。
グレタの表情は、変わらなかった。ただ、手にしていた扇が、ほんのわずかに止まった。
「……皆さま」
グレタが、穏やかに告げた。
「本日、第一王女殿下もお見えになる予定でございましたが、急な体調不良のため、ご欠席となりました。大変失礼いたしました」
母が、あわてて頭を下げた。
「まあ、それはお大事に」
アルトは、空いた上座の席を見た。
茶碗の中の茶は、冷めかけていた。取り分けられた焼き菓子に、誰も手をつけていなかった。
(第一王女)
噂には聞いていた。この国の王位継承者。自分と同じ十八歳で、ほとんど人前に出ない人だと。
(体調不良、か)
その席の周りにだけ、なぜか花が一輪も飾られていなかった。
茶会の帰り、馬車の中で、母がぐったりと座席にもたれた。
「王家の茶会って、あんなに賑やかなものなのね……」
「そのようですね」
「侍女の方々が、ずいぶん親切で」
「……ええ。とても」
アルトは窓の外を見ていた。
肩に、まだ花の香油の匂いが残っていた。頬に、侍女の髪の感触が残っていた。
(ギリギリ、耐えた)
(たぶん)
(……つもり)
その夜。
蒼薔薇騎士団、団長室。
ベアトリクスの机の上に、報告書が積み上がっていた。
騎士団の合同訓練。魔導院の健康診断。七都商盟の試用会。冒険者ギルドの見学。王家の茶会。
どこからどう手に入れたのか、五つ全部の記録が、ここに揃っていた。
そして、その全部が、同じことを示していた。
ベアトリクスは、報告書の一番上に置かれた封書を手に取った。
今日の夕方、軍務院から届いたものだった。封蝋は、まだ割っていなかった。
割らなくても、中身の見当はついた。
神殿の祝福が倍になった、という話は、もう王都中に広まっている。軍務院が、それを黙って見ているはずがない。
彼女は封蝋を割った。
文面を読む。一度。それから、もう一度。
それから、扉の外の当番兵に声をかけた。
「副長を、呼べ」