男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
準備運動の途中で、アルトは倒れていた。
蒼薔薇騎士団の訓練場。初夏の朝の砂の上に、仰向けで。
空が青かった。雲がゆっくりと流れていた。
(……まだ、準備運動なんだけど)
周りでは、女騎士たちが何事もなかったように体を伸ばしていた。腕を回し、脚を開き、前屈して、跳ねる。軽々と。楽しげに。
その中で、アルトだけが砂の上に転がっていた。
影が差した。
見上げると、黒髪の女騎士が立っていた。
長い髪を、きっちりと束ねている。灰色の目が、上からアルトを見下ろしていた。
前回の合同訓練で、一人だけ組み手に入らず、帳面に何かを書いていた人だった。
「蒼薔薇騎士団副長、クラウディア・ヴァイスです」
彼女は、直立のまま名乗った。
「本日より、フェンネル殿の訓練を担当いたします。……起き上がれますか」
「……少々、お待ちを」
アルトは腕に力を込めた。
肘が、かくんと折れた。
クラウディアは、手帳を開いた。
「準備運動、開始から四分。腕回し二十回、屈伸十五回の時点で転倒」
ペンが、淡々と走った。
「記録いたしました」
アルトの体は、空っぽだった。
体力十六、筋力十四。この世界の男としては、ごく普通の数字だった。
その普通の数字から、今は神殿の方へ、かなりの量を貸し出している。セラフィナの祝福を満たすために、毎週の供給で、体の中身を少しずつ持っていかれている。
その状態で、女騎士の準備運動に混ざったのだから、倒れて当然だった。
「フェンネル殿」
クラウディアが、アルトの横に片膝をついた。
「計画書は、お読みいただけましたか」
「三十四枚、すべて」
「ありがとうございます」
彼女は少しだけ、目を細めた。嬉しそうに見えたのは、たぶん気のせいではなかった。
「では、改めてご説明いたします」
クラウディアは手帳を閉じた。背筋を伸ばし、まっすぐにアルトを見る。
「本訓練は、軍務院の打診を受けたものです。将来、騎士団とフェンネル殿のあいだに契約が成立することを見据えて、行います」
アルトは、砂の上で固まった。
(え)
(言うんだ、それ)
「貸与の量は、フェンネル殿の素の力に比例します。素の力が伸びれば、貸与も伸びる。騎士団としては、その方が得です」
「……はい」
「つまり、貴殿の素ステは」
クラウディアは、一語ずつ区切って言った。
「国家の資産です」
(隠す気が、まったくない)
この国の女たちは、たいてい本音を誘いの作法の中に包んで差し出す。身を寄せて、耳元で囁いて、香りを纏って。
この人は、違った。
目的も、理由も、損得も、全部を報告書のように並べて、まっすぐに差し出してくる。
(……逆に、新鮮)
「ですので」
クラウディアは立ち上がった。
「遠慮は、いたしません」
本当に、遠慮がなかった。
走り込み。訓練場を一周。アルトは半周で歩き始め、四分の三で膝をついた。
「走り込み、一周の四分の三。記録」
剣の素振り。木剣を五十回。アルトは二十回で腕が上がらなくなり、二十三回目で木剣を取り落とした。
「素振り、二十二回。二十三回目で落下。記録」
腕立て伏せ。アルトは一回目で、顔から砂に沈んだ。
「腕立て伏せ。ゼロ回。……記録」
最後の一言だけ、ほんの少し声が小さかった。
付き添いのヘルガが、訓練場の端の日陰で、揚げ菓子の袋を握りしめたまま固まっていた。
「アルト、生きてる?」
「……生きて、います」
「副長さん、もうちょっとこう、手加減とか」
「手加減は、いたしません」
クラウディアはきっぱりと言った。
「手加減をすれば、フェンネル殿の体は伸びません。体が伸びなければ、無理が溜まります。無理が溜まれば、いずれ壊れます」
彼女は手帳を胸に当てた。
「壊さないために、手加減しないのです」
ヘルガは口を開けて、何か言いかけて、閉じた。
(理屈は、分かる)
(分かるけど、今まさに壊れかけてる)
午前の最後は組み手だった。
「寝技は、計画書の通り除きます」
クラウディアが、木剣を置きながら言った。
「立ったままの、基本の取り口だけを。……お体に、触れてもよろしいでしょうか」
アルトは、少し間を置いた。
「……訓練、ですので」
「感謝いたします」
クラウディアが、正面に立った。
近かった。
背が高い。アルトより、拳一つ分ほど。鍛え抜いた長身が、目の前にあった。
「腕を、こう取られた場合」
彼女の手が、アルトの手首を掴んだ。
硬い手だった。剣だこのある、騎士の手。それなのに、掴み方は驚くほど丁寧だった。
「相手の重心は、こちらに来ます。ですので、半歩だけ、内へ」
彼女が半歩、踏み込んできた。
匂いがした。
革。鉄。剣の手入れ油。それから、几帳面に使い込んだ石鹸の、清潔な匂い。
(……っ)
「そこで、肘を」
彼女の腕が、アルトの肘に絡んだ。
汗ばんだ肌が、触れていた。朝からずっと訓練場に立っていた人の、熱を帯びた腕。
(……っ、っ)
「体を、こう回して」
クラウディアが、くるりと体を回した。
束ねた長い黒髪が、ふわりと宙を舞った。その毛先が、アルトの頬を撫でていった。
(汗……)
(鍛えた……腕……)
(革の匂い……と……髪……)
(あ、だめ)
「——今の動きを、ご自分でなさってみてください」
クラウディアが、一歩下がった。
アルトは、その場に立っていた。
穏やかな顔をしていた。背筋も、ちゃんと伸びていた。
「……はい。半歩、内へ、ですね」
(だめだった)
訓練が終わる頃には、アルトはもう立っていられなかった。
訓練場の端の木陰に、ヘルガと並んで座り込んでいた。水筒の水を、少しずつ口に含む。
クラウディアが、手帳を持ってやってきた。
「本日の訓練は、以上です」
「……ありがとう、ございました」
「明日も、同じ時刻に」
「明日も」
「計画書の通り、週五日です」
(週五日)
(神殿の鑑定が週三回)
(……体、もつかな)
クラウディアは手帳をめくって、何かを確かめた。
それから、ふと顔を上げた。
「フェンネル殿」
「はい」
「本日の記録を見る限り、貴殿の体は、ひどく消耗しています」
彼女の灰色の目が、まっすぐにアルトを見ていた。
「訓練の前から、です。私の訓練で消耗したのではなく、最初から空でした」
アルトは、黙っていた。
「理由は、存じております」
クラウディアの声は、静かだった。
「神殿の件、ですね」
「…………」
「責めているのではありません」
彼女は手帳を閉じた。
「ただ、計画を立て直します。貴殿が神殿に貸している分も、見込んだ上で。……壊さないために」
それだけ言って、クラウディアは一礼した。
背を向けて、訓練場の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、アルトは水筒を握りしめていた。
(……この人、真面目すぎる)
(真面目すぎて、全部、まっすぐだ)
隣で、ヘルガが揚げ菓子を齧りながら言った。
「あの副長さん、ちょっと怖いけど、いい人だね」
「……ええ」
「あたし、アルトが壊れたら泣くからね」
「壊れません」
「ほんとに?」
「……たぶん」
一週間が過ぎた。
アルトは毎朝、訓練場で倒れた。
ただ、倒れる場所が、少しずつ変わっていった。
準備運動の途中から、走り込みの途中へ。走り込みの半周から、四分の三へ。素振り二十二回から、二十八回へ。
腕立て伏せは、まだゼロ回だった。
「本日の腕立て伏せ」
クラウディアが手帳を構えた。
アルトは砂の上で、両腕を突っ張った。腕が震える。肘が震える。全身が震える。
体が、ほんのわずかに、持ち上がった。
それから、落ちた。
「……一回、と記録してよろしいですか」
クラウディアが、小さな声で聞いた。
「……持ち上がって、いましたか」
「指一本分ほど」
彼女は、手帳にペンを走らせた。
「一回。……記録しました」
その声が、ほんの少しだけ弾んでいた。
その日の訓練の終わりに、クラウディアが一通の書状を差し出した。
「来週、王宮で叙任式が執り行われます」
「叙任式」
「新任の騎士が、王家に剣を捧げる儀式です。騎士団の協力者として、フェンネル殿にも来賓としてご参列いただくよう、団長からの指示です」
アルトは書状を受け取った。
王家の紋章。蒼い封蝋。
「王女殿下も、お出ましになります」
クラウディアが、何気なく付け加えた。
「新任の騎士は、殿下の御前に跪いて、剣を捧げます」
アルトは、書状から顔を上げた。
(王女)
あの茶会の、空いた上座の席を思い出していた。冷めかけた茶。誰も手をつけなかった焼き菓子。
花の一輪もない、あの席。
(……どんな人なんだろう)