男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第13話 叙任式と、手袋の震え

 

王宮の大広間は、初夏の光で満ちていた。

高い窓が、左右の壁に十二枚ずつ並んでいる。そのすべてが開け放たれ、薔薇の香りを含んだ風が、ゆるやかに吹き込んでいた。

床には、蒼い絨毯がまっすぐ玉座まで敷かれている。

その両脇に、参列者が並んでいた。

貴族の当主たち。騎士団の古参。王宮の官吏。誰もが、夏の礼服を着ていた。薄い絹。短い袖。襟元を広く開けた仕立て。

アルトは、来賓の列の端に立っていた。

騎士団の協力者として。付き添いの長姉エルゼが、すぐ後ろに控えている。

 

(暑い)

 

風は吹き込んでいるが、人が多い。礼服の襟元に、じんわりと汗が滲んでいた。

玉座の前に、二人の女性がいた。

一人は、玉座に座っていた。

蒼い髪を高く結い上げ、肩も鎖骨も惜しげなく晒したドレスを纏っている。堂々としていた。この大広間で一番暑そうな格好をしていない人だった。

女王、イゾルデ・アズール。

そして、もう一人。

玉座の右に、立っていた。

 

アルトは、その人を見て、最初に思った。

 

(……暑くないのか)

 

首元から、手首まで。手首から、足首まで。

その人のドレスは、一分の隙もなく体を覆っていた。

詰まった襟が喉元の一番上まで閉じられている。袖は手首を越えて、手の甲の半ばまで届いていた。裾は床に触れるほど長い。足首は、見えなかった。

そして、両手に、白い手袋をはめていた。

肘の上まである、長い手袋だった。

周りの誰もが薄い絹を着ている、初夏の大広間で。その人だけが、まるで冬の朝に立っているようだった。

髪は、女王と同じ蒼だった。

肩に届くか届かないかの長さで、首筋を隠すように下ろしている。結い上げてはいなかった。

顔立ちは、整っていた。

整いすぎていて、表情がなかった。銀灰色の目が、大広間の一点を、静かに見つめていた。

第一王女、エリシア・アズール。

あの茶会の、空いた上座の席の主だった。

 

 

叙任式が、始まった。

儀礼官が名を読み上げる。新任の騎士が一人、列から進み出る。

蒼い絨毯の上をまっすぐ歩いて、玉座の前で止まる。

片膝をつく。

腰の剣を抜き、両手で捧げ持つ。刃を自分に、柄を王女に向けて。

 

「この剣を、アズール王家に。この身を、セレスタの民に」

 

王女が、一歩進み出た。

手袋をはめた右手を伸ばし、剣の柄にそっと触れた。

 

「その誓い、確かに受け取りました」

 

静かな声だった。

よく通るのに、少しも響かない。大広間の隅まで届いて、どこにも残らない声だった。

騎士が立ち上がり、一礼して、列に戻る。

二人目が呼ばれた。

同じことが、繰り返された。

歩く。止まる。跪く。剣を捧げる。王女が柄に触れる。「確かに受け取りました」。

三人目。四人目。

アルトは、来賓の列の端から、その光景を見ていた。

見ていて、気づいた。

 

(……こっちを、見ない)

 

大広間の参列者の中には、若い男がほとんどいなかった。

男は、そもそも人前に出ない。今日ここにいる男は、貴族の当主の何人かと、自分くらいのものだった。

だから、視線は来る。

参列者の女性たちの目が、ちらちらとアルトの方へ流れてくる。後ろのエルゼが、そのたびに目で牽制していた。

女王でさえ、一度、玉座の上からこちらを見た。面白そうに、少しだけ目を細めて。

王女だけが、一度もこちらを見なかった。

跪く騎士を見て。剣の柄を見て。大広間の一点を見て。

それ以外のどこにも、視線を動かさなかった。

 

(……なんで、あの人だけ)

 

 

五人目の騎士が、跪いた。

剣を捧げる。王女が、手を伸ばす。

その瞬間、アルトは見た。

王女の手袋の指先が、ほんのわずかに、震えていた。

剣の柄に触れる直前。白い指先が、空中で一度だけ、小さく揺れた。

それから、何事もなかったように柄に触れた。

 

「その誓い、確かに受け取りました」

 

声は、変わらなかった。

 

(……今の)

 

アルトは、目を凝らした。

六人目。

騎士が跪く。王女の手が伸びる。

震えた。

さっきよりも、少しだけ大きく。指先が、手袋の布地の中で、何かを堪えるように。

七人目。八人目。

騎士が跪くたびに、手袋が震えた。

誰も、気づいていなかった。

参列者たちは、跪く騎士を見ていた。女王は、玉座の上で満足げに目を細めていた。騎士たちは、自分の剣と、自分の誓いの言葉しか見ていなかった。

震えているのは、ほんのわずかだった。遠目には、指先が少し動いた、としか見えない程度の。

アルトだけが、それを見ていた。

 

(……寒い、わけじゃないよな)

 

(緊張、か?)

 

(いや、違う)

 

(でも、何かは、違う)

 

 

最後に、儀礼官が読み上げた。

 

「蒼薔薇騎士団副長、クラウディア・ヴァイス。誓約の更新を」

 

アルトは、顔を上げた。

列の先頭から、クラウディアが進み出た。

正装の騎士服。黒髪を、いつもより高く結い上げている。訓練場で見るのとは違う、儀礼のための、張り詰めた美しさだった。

古参の騎士は、数年に一度、誓約を新たにするのが慣例だという。

クラウディアは、蒼い絨毯の上をまっすぐに歩いた。

一分の乱れもない歩幅。玉座の前で、止まる。

片膝をついた。

剣を抜き、両手で捧げる。背筋は、跪いていても一本の線のようにまっすぐだった。

 

「この剣を、アズール王家に。この身を、セレスタの民に」

 

彼女の声は、新任の騎士たちの誰よりも澄んでいた。

何年も、何度も、この言葉を口にしてきた人の声だった。一語一語に、迷いがなかった。

王女が、手を伸ばした。

その手袋が、震えた。

今日の、どの騎士のときよりも。

指先だけではなかった。手首まで、細かく、確かに。

王女の手は、剣の柄の手前で、一呼吸のあいだ止まっていた。

それから、柄に触れた。

 

「……その誓い、確かに受け取りました」

 

声が、ほんの少しだけ、遅れた。

 

 

叙任式が終わった。

参列者たちが、ざわざわと大広間を出ていく。女王は早々に玉座を立ち、侍女たちに囲まれて奥へ下がった。

アルトは、来賓の列から動けずにいた。

王女は、まだ玉座の横に立っていた。

侍女長が何事か耳打ちをしている。王女は小さく頷いて、ゆっくりと踵を返した。

その瞬間だった。

王女の銀灰色の目が、ふっと、大広間を横切った。

アルトと、目が合った。

一瞬だった。瞬きひとつ分にも満たなかった。

王女は、すぐに視線を外した。

何事もなかったように。最初から見ていなかったように。侍女たちに囲まれて、玉座の奥の扉へ消えていった。

アルトは、閉じた扉を見ていた。

 

(……見えない)

 

今日一日、ずっとあの人を見ていた。

それなのに、何も分からなかった。

どんな顔で笑うのか。何が好きなのか。何を考えて、あの手袋を震わせていたのか。

他の女性たちなら、分かった。

侍女たちの誘いの作法。セラフィナの鎖。クラウディアの報告。みんな、何かを差し出してくる。形は違っても、こちらに向かってくる。

あの人だけが、何も差し出してこなかった。

 

(なんで、あの人だけ)

 

それは、十八年間、誰に対しても感じたことのない種類の引っかかりだった。

 

「アルト」

 

後ろから、エルゼが袖を引いた。

 

「帰りましょう。暑くて倒れそう」

 

「……ええ」

 

アルトは、もう一度だけ扉を振り返った。

扉は、閉じたままだった。

 

 

 

王宮の東の棟。

その一番奥の部屋は、いつも厚い帳で閉ざされていた。

初夏の陽射しも、ここには届かない。部屋の中は薄暗く、ひんやりとしていた。

花は、一輪も飾られていなかった。

 

「姫様。お召し替えを」

 

侍女が二人、王女の背後に回った。

詰まった襟の留め具を、一つずつ外していく。長い袖の紐を解く。

王女は、されるがままに立っていた。目を閉じていた。

 

「手袋も、お外しいたしますね」

 

侍女の一人が、王女の右手に手を伸ばした。

肘の上までの、長い白い手袋。その縁に、指をかける。

 

「そのままで」

 

静かな声だった。

侍女の指が、止まった。

 

「……ですが、姫様。今日は、お暑かったでしょう。汗も」

 

「そのままで、いいの」

 

王女は、目を閉じたまま言った。

侍女は、それ以上何も言わなかった。そっと手を引いて、一歩下がった。

王女は、自分の右手を胸の前に持ち上げた。

白い手袋に包まれた指先を、左の手のひらで、そっと包み込んだ。

強く。何かを、閉じ込めるように。

手袋の下で、指先がまだかすかに震えていることを、彼女だけが知っていた。

 

 

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