男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王宮の大広間は、初夏の光で満ちていた。
高い窓が、左右の壁に十二枚ずつ並んでいる。そのすべてが開け放たれ、薔薇の香りを含んだ風が、ゆるやかに吹き込んでいた。
床には、蒼い絨毯がまっすぐ玉座まで敷かれている。
その両脇に、参列者が並んでいた。
貴族の当主たち。騎士団の古参。王宮の官吏。誰もが、夏の礼服を着ていた。薄い絹。短い袖。襟元を広く開けた仕立て。
アルトは、来賓の列の端に立っていた。
騎士団の協力者として。付き添いの長姉エルゼが、すぐ後ろに控えている。
(暑い)
風は吹き込んでいるが、人が多い。礼服の襟元に、じんわりと汗が滲んでいた。
玉座の前に、二人の女性がいた。
一人は、玉座に座っていた。
蒼い髪を高く結い上げ、肩も鎖骨も惜しげなく晒したドレスを纏っている。堂々としていた。この大広間で一番暑そうな格好をしていない人だった。
女王、イゾルデ・アズール。
そして、もう一人。
玉座の右に、立っていた。
アルトは、その人を見て、最初に思った。
(……暑くないのか)
首元から、手首まで。手首から、足首まで。
その人のドレスは、一分の隙もなく体を覆っていた。
詰まった襟が喉元の一番上まで閉じられている。袖は手首を越えて、手の甲の半ばまで届いていた。裾は床に触れるほど長い。足首は、見えなかった。
そして、両手に、白い手袋をはめていた。
肘の上まである、長い手袋だった。
周りの誰もが薄い絹を着ている、初夏の大広間で。その人だけが、まるで冬の朝に立っているようだった。
髪は、女王と同じ蒼だった。
肩に届くか届かないかの長さで、首筋を隠すように下ろしている。結い上げてはいなかった。
顔立ちは、整っていた。
整いすぎていて、表情がなかった。銀灰色の目が、大広間の一点を、静かに見つめていた。
第一王女、エリシア・アズール。
あの茶会の、空いた上座の席の主だった。
叙任式が、始まった。
儀礼官が名を読み上げる。新任の騎士が一人、列から進み出る。
蒼い絨毯の上をまっすぐ歩いて、玉座の前で止まる。
片膝をつく。
腰の剣を抜き、両手で捧げ持つ。刃を自分に、柄を王女に向けて。
「この剣を、アズール王家に。この身を、セレスタの民に」
王女が、一歩進み出た。
手袋をはめた右手を伸ばし、剣の柄にそっと触れた。
「その誓い、確かに受け取りました」
静かな声だった。
よく通るのに、少しも響かない。大広間の隅まで届いて、どこにも残らない声だった。
騎士が立ち上がり、一礼して、列に戻る。
二人目が呼ばれた。
同じことが、繰り返された。
歩く。止まる。跪く。剣を捧げる。王女が柄に触れる。「確かに受け取りました」。
三人目。四人目。
アルトは、来賓の列の端から、その光景を見ていた。
見ていて、気づいた。
(……こっちを、見ない)
大広間の参列者の中には、若い男がほとんどいなかった。
男は、そもそも人前に出ない。今日ここにいる男は、貴族の当主の何人かと、自分くらいのものだった。
だから、視線は来る。
参列者の女性たちの目が、ちらちらとアルトの方へ流れてくる。後ろのエルゼが、そのたびに目で牽制していた。
女王でさえ、一度、玉座の上からこちらを見た。面白そうに、少しだけ目を細めて。
王女だけが、一度もこちらを見なかった。
跪く騎士を見て。剣の柄を見て。大広間の一点を見て。
それ以外のどこにも、視線を動かさなかった。
(……なんで、あの人だけ)
五人目の騎士が、跪いた。
剣を捧げる。王女が、手を伸ばす。
その瞬間、アルトは見た。
王女の手袋の指先が、ほんのわずかに、震えていた。
剣の柄に触れる直前。白い指先が、空中で一度だけ、小さく揺れた。
それから、何事もなかったように柄に触れた。
「その誓い、確かに受け取りました」
声は、変わらなかった。
(……今の)
アルトは、目を凝らした。
六人目。
騎士が跪く。王女の手が伸びる。
震えた。
さっきよりも、少しだけ大きく。指先が、手袋の布地の中で、何かを堪えるように。
七人目。八人目。
騎士が跪くたびに、手袋が震えた。
誰も、気づいていなかった。
参列者たちは、跪く騎士を見ていた。女王は、玉座の上で満足げに目を細めていた。騎士たちは、自分の剣と、自分の誓いの言葉しか見ていなかった。
震えているのは、ほんのわずかだった。遠目には、指先が少し動いた、としか見えない程度の。
アルトだけが、それを見ていた。
(……寒い、わけじゃないよな)
(緊張、か?)
(いや、違う)
(でも、何かは、違う)
最後に、儀礼官が読み上げた。
「蒼薔薇騎士団副長、クラウディア・ヴァイス。誓約の更新を」
アルトは、顔を上げた。
列の先頭から、クラウディアが進み出た。
正装の騎士服。黒髪を、いつもより高く結い上げている。訓練場で見るのとは違う、儀礼のための、張り詰めた美しさだった。
古参の騎士は、数年に一度、誓約を新たにするのが慣例だという。
クラウディアは、蒼い絨毯の上をまっすぐに歩いた。
一分の乱れもない歩幅。玉座の前で、止まる。
片膝をついた。
剣を抜き、両手で捧げる。背筋は、跪いていても一本の線のようにまっすぐだった。
「この剣を、アズール王家に。この身を、セレスタの民に」
彼女の声は、新任の騎士たちの誰よりも澄んでいた。
何年も、何度も、この言葉を口にしてきた人の声だった。一語一語に、迷いがなかった。
王女が、手を伸ばした。
その手袋が、震えた。
今日の、どの騎士のときよりも。
指先だけではなかった。手首まで、細かく、確かに。
王女の手は、剣の柄の手前で、一呼吸のあいだ止まっていた。
それから、柄に触れた。
「……その誓い、確かに受け取りました」
声が、ほんの少しだけ、遅れた。
叙任式が終わった。
参列者たちが、ざわざわと大広間を出ていく。女王は早々に玉座を立ち、侍女たちに囲まれて奥へ下がった。
アルトは、来賓の列から動けずにいた。
王女は、まだ玉座の横に立っていた。
侍女長が何事か耳打ちをしている。王女は小さく頷いて、ゆっくりと踵を返した。
その瞬間だった。
王女の銀灰色の目が、ふっと、大広間を横切った。
アルトと、目が合った。
一瞬だった。瞬きひとつ分にも満たなかった。
王女は、すぐに視線を外した。
何事もなかったように。最初から見ていなかったように。侍女たちに囲まれて、玉座の奥の扉へ消えていった。
アルトは、閉じた扉を見ていた。
(……見えない)
今日一日、ずっとあの人を見ていた。
それなのに、何も分からなかった。
どんな顔で笑うのか。何が好きなのか。何を考えて、あの手袋を震わせていたのか。
他の女性たちなら、分かった。
侍女たちの誘いの作法。セラフィナの鎖。クラウディアの報告。みんな、何かを差し出してくる。形は違っても、こちらに向かってくる。
あの人だけが、何も差し出してこなかった。
(なんで、あの人だけ)
それは、十八年間、誰に対しても感じたことのない種類の引っかかりだった。
「アルト」
後ろから、エルゼが袖を引いた。
「帰りましょう。暑くて倒れそう」
「……ええ」
アルトは、もう一度だけ扉を振り返った。
扉は、閉じたままだった。
王宮の東の棟。
その一番奥の部屋は、いつも厚い帳で閉ざされていた。
初夏の陽射しも、ここには届かない。部屋の中は薄暗く、ひんやりとしていた。
花は、一輪も飾られていなかった。
「姫様。お召し替えを」
侍女が二人、王女の背後に回った。
詰まった襟の留め具を、一つずつ外していく。長い袖の紐を解く。
王女は、されるがままに立っていた。目を閉じていた。
「手袋も、お外しいたしますね」
侍女の一人が、王女の右手に手を伸ばした。
肘の上までの、長い白い手袋。その縁に、指をかける。
「そのままで」
静かな声だった。
侍女の指が、止まった。
「……ですが、姫様。今日は、お暑かったでしょう。汗も」
「そのままで、いいの」
王女は、目を閉じたまま言った。
侍女は、それ以上何も言わなかった。そっと手を引いて、一歩下がった。
王女は、自分の右手を胸の前に持ち上げた。
白い手袋に包まれた指先を、左の手のひらで、そっと包み込んだ。
強く。何かを、閉じ込めるように。
手袋の下で、指先がまだかすかに震えていることを、彼女だけが知っていた。