男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「本日の訓練、終了しました」
夕暮れの訓練場で、クラウディアが片膝をついた。
砂の上に、右の膝。 左の拳を、立てた左膝の上に。 背筋は、跪いていても一本の線のようにまっすぐだった。
灰色の目が、下からアルトを見上げていた。
「走り込み、一周と四分の一。素振り、四十一回。腕立て伏せ、三回。いずれも前日比で向上。以上、ご報告いたします」
「……ありがとう、ございました」
アルトは、穏やかに答えた。
(毎日)
(毎日、これ)
計画書の最後の頁に書いてあった通りだった。
騎士団の慣例。 訓練の終わりには、指導役が対象に跪き、本日の終了を報告する。
本来は、新任の騎士が教官に対して行う作法らしい。 教わった側ではなく、教えた側が跪く。教えを受け取ってくれたことへの、礼として。
それを、クラウディアは毎日、一日も欠かさず行った。
最初の日、アルトは何が起きたのか分からなかった。
訓練が終わって、砂の上に座り込んでいたら、目の前で騎士が跪いた。 長身の、黒髪の、副長が。
自分を、見上げて。
(……っ)
二日目も、跪いた。
三日目も。四日目も。
アルトは毎日、その瞬間のために、残りの体力を取っておくようになった。 倒れていると、跪かれても見えないからだ。
(こんなことのために、走り込みの最後の四分の一を)
(いや、こんなことじゃない)
(これは、大事なことだ)
二週目に入って、アルトの体は、少しずつ変わり始めていた。
朝の準備運動で、倒れなくなった。 走り込みは、一周を越えた。素振りは四十回を超えた。腕立て伏せは、三回。
三回。
最初の日、ゼロ回だったものが。
「三回目。……記録しました」
クラウディアが手帳にペンを走らせるとき、その声がほんの少しだけ弾むのを、アルトは聞き逃さなかった。
「副長殿」
「はい」
「嬉しそうですね」
クラウディアのペンが、止まった。
「……計画が順調に進んでいるので」
「ああ、計画が」
「はい。計画が」
彼女は手帳を閉じた。 耳の先が、わずかに赤かった。
神殿の定期鑑定でも、変化は出ていた。
体力十六が、十八になった。 筋力十四が、十六になった。
セラフィナが水晶板の数値を読み上げながら、少し寂しそうに言った。
「騎士団の方々は、お上手なのですね。体を、鍛えるのが」
「副長殿が、真面目な方なので」
「……そうですか」
その日、彼女は鎖を一本、多めに巻いていた。
三週目の、ある日のことだった。
その日は、蒼薔薇騎士団の休日だった。
月に二度、騎士たちは訓練を休む。 詰所は静かで、訓練場には誰の姿もなかった。
ただ一人を除いて。
「本日は団の休日ですが」
クラウディアは、いつも通りの直立で言った。
「計画を中断するわけには、まいりませんので」
「……休日なのに、副長殿が」
「休日だからです」
彼女は、きっぱりと言った。
「任務ではありません。私的に、計画の続きを見るだけです」
(私的に)
その日の彼女は、騎士服ではなかった。
動きやすい、簡素な麻の上衣。 黒髪は、いつも通りに束ねていた。けれど、束ね方が少しだけ緩かった。
訓練は、いつも通りに進んだ。
準備運動。走り込み。素振り。腕立て伏せ。 アルトは息を切らし、汗をかき、砂の上に座り込んだ。
夕暮れが、訓練場を茜色に染めていた。
「本日の訓練、終了しました」
クラウディアが、アルトの前に片膝をついた。
いつもの作法だった。 右の膝を砂に。左の拳を左膝の上に。背筋はまっすぐ。
灰色の目が、下から見上げていた。
いつもの光景。 三週間、毎日見てきた光景。
けれど、その日は一つだけ違った。
跪いた彼女の体から、ふわりと、何かが立ち上ってきた。
革でも、鉄でもなかった。 剣の手入れ油でも、石鹸でもなかった。
甘い。 淡い。
花の匂いだった。
(……え)
ほんのかすかな香りだった。 近くに、跪かれるほど近くにいなければ、絶対に分からないほどの。
(花)
(花の、匂い)
(この人から?)
「走り込み、一周と二分の一。素振り、四十七回」
クラウディアが報告を続けていた。 淡々と、正確に。いつも通りに。
「腕立て伏せ、四回。いずれも前日比で向上」
風が吹いた。
花の匂いが、もう一度、ふわりと揺れた。 彼女の左の手首のあたりから。
(いい匂い)
「以上、ご報告いたします」
報告が、終わった。
いつもなら、ここでアルトが「ありがとうございました」と答えて、彼女が立ち上がる。
アルトの口から出たのは、別の言葉だった。
「……いい香りですね」
自分でも、驚くほど自然に出た。
「花の」
クラウディアが、固まった。
跪いたまま。 左の拳を膝に置いたまま。
灰色の目が、大きく見開かれていた。
一呼吸。 二呼吸。
彼女の顔から、すっと表情が消えた。
それから、耳の先から、赤くなっていった。
耳の先。耳たぶ。首筋。頬。 夕陽のせいではなかった。夕陽よりも、ずっと赤かった。
「……気づかれ、ましたか」
声が、かすれていた。
報告のときの、あの一分の揺れもない声ではなかった。
「何年も」
彼女は、跪いたまま、視線を落とした。
「何年も、誰にも、気づかれなかったのです」
アルトは、黙っていた。
「任務のない日だけ。ほんの一滴だけ。騎士が香りを纏うのは、規律に反しますので」
彼女の左手が、膝の上で握りしめられていた。
「誰かに気づいてほしくて、つけているのでは、ありません」
「……はい」
「ありません、と……思って、おりました」
風が、止んだ。
訓練場が、静かになった。
クラウディアは、顔を上げた。
その目は、もう報告のときの目ではなかった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
アルトは、彼女が帰るのだと思った。 今日はもう、何も言わずに。
違った。
クラウディアは、訓練場の端の武具架けまで歩いていった。 そこに立てかけてあった、自分の剣を取った。
鞘から、抜く。
夕陽を受けて、刃が茜色に光った。
彼女は剣を手に、アルトの前に戻ってきた。
そして、もう一度、跪いた。
右の膝を砂に。 剣を両手で捧げ持つ。刃を自分に、柄をアルトに向けて。
叙任式の、あの作法だった。
王女の前で、新任の騎士たちがしていたこと。 彼女自身が、誓約の更新でしていたこと。
それを、今、アルトの前で。
計画書のどこにも書いていない作法を。
灰色の目が、まっすぐにアルトを見上げていた。 頬は、まだ赤かった。唇が、かすかに震えていた。
「……跪きました」
彼女は、言った。
「ご命令を」
(——エッッッロ!!!)
アルトは、その場に立っていた。
穏やかな顔をしていた。 背筋も、ちゃんと伸びていた。
膝は、少し笑っていた。
(命令)
(命令って言った、今)
(この人、俺に、命令を求めてる)
目の前で、騎士が跪いていた。 剣を捧げて。花の匂いを纏って。耳まで赤くして。
ご命令を、と。
アルトの中で、十八年分の建前が、静かに音を立てていた。
断ればいい。 この国の男なら、誰でもそうする。「お立ちください」と言って、背を向ければいい。
(……無理だ)
(これを、断れる男は、この世界のどこにもいない)
(いや、この世界の男なら全員断るんだけど)
(俺には、無理だ)
「……仕方ありませんね」
アルトは、静かに言った。
それから、ほんの少しだけ考えた。
フェンネル家の屋敷には、母と姉たちがいる。 神殿の小鑑定室は、セラフィナの部屋だ。
だとしたら。
「私の家ではなく」
アルトの声は、少しだけ掠れていた。
「詰所の、副長室で」
クラウディアの肩が、ぴくりと震えた。
それは、命令だった。 彼女が求めた、最初の命令。
彼女は剣を捧げたまま、深く頭を垂れた。
「……拝命します」
夕陽が、訓練場の砂を茜色に染めていた。
付き添いのヘルガは、訓練場の端の日陰で、揚げ菓子を齧ったまま、口を開けて固まっていた。