男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
小鑑定室の机の上に、一枚の表が広げてあった。
羊皮紙に、細い線で升目が引いてある。横に曜日。縦に午前、午後、夕刻。
セラフィナの字だった。一画もずれていない、几帳面な字。
「供給の、予定表です」
セラフィナは、表を指先でとんとんと叩いた。
「七日を過ぎると、半分になってしまいますので。騎士団の方と、日が重ならないように」
升目の中に、文字が書き込まれていた。
月曜の夕刻に、「神殿」。木曜の夕刻に、「騎士団」。
整然としていた。週に一度ずつ。七日を空けずに、きっちりと。
「……分かりやすいですね、ありがとうございます」
セラフィナは、少しだけ誇らしげに微笑んだ。
それが、一週間前のことだった。
一週間後。
同じ表の、同じ升目に、赤い字が増えていた。
月曜の夕刻、「神殿」。火曜の夕刻に、赤で「騎士団(追加)」。木曜の夕刻、「騎士団」。金曜の夕刻に、赤で「神殿(臨時)」。
「……増え、ましたね」
アルトが言うと、セラフィナは表から目を逸らした。
「はい」
「火曜の、騎士団の追加は」
「副長様から、正式な申請書が届きました」
セラフィナは、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。
騎士団の書式だった。クラウディアの、几帳面な字。
『連携訓練の追加の一本について(申請)理由:指示伝達の精度向上のため、週一回では反復回数が不足する所要時間:二刻以上』
(申請書)
(連携訓練の追加の一本の、申請書)
「真面目な方ですね」
セラフィナが、ぽつりと言った。
「書式が、とても整っていて」
「……ええ」
「私も、見習わなければと思いました」
セラフィナは、表の金曜の欄を指さした。
赤い字。「神殿(臨時)」。
「こちらは、私からの申請です」
火曜日。
夕暮れの訓練場で、クラウディアが跪いていた。
「本日の訓練、終了しました」
いつもの報告。いつもの作法。花の匂いが、今日も手首から立っていた。
報告が終わると、彼女は顔を上げた。
「フェンネル殿。申請の件ですが」
「……はい」
「受理、されましたでしょうか」
アルトは、少しだけ間を置いた。
「申請は、拝見しました」
「では」
「ただ、少し」
アルトは、建前を探した。
週二回の騎士団。週二回の神殿。朝は訓練。体は、正直に言えば、もう限界に近かった。
「少し、体の方が」
クラウディアが、立ち上がった。
一歩、近づいた。
跪いているときより、ずっと近い。背の高い彼女が、上からアルトを見下ろしていた。
「承知しております」
彼女は、静かに言った。
「ですので、短めに」
彼女の手が、アルトの肩に触れた。
触れてもよいかとは、もう聞かなかった。アルトが拒まなかったからだ。拒まなければ、それは無断ではない。
花の匂いが、した。
(……っ)
「指示伝達の精度を、上げたいのです」
耳元で、彼女の声がした。
報告の声ではなかった。低く、少しだけ掠れた声。
(……っ、っ)
「ご命令を、いただけますか」
彼女が、ゆっくりと膝を折った。
アルトの目の前で。見上げる位置まで。
灰色の目が、下から、まっすぐに。
(命令、いただけますか、って)
(自分から、聞きに来てる)
(跪いて)
(もう、無理)
「……仕方ありませんね」
アルトの声は、穏やかだった。
クラウディアの肩が、小さく震えた。
金曜日。
神殿の小鑑定室で、セラフィナが待っていた。
鎖は、四本だった。
「祝福の力が、少し薄れた気がいたしまして」
彼女は、机の向こうでそう言った。
「月曜から、まだ四日ですが」
「……はい」
「七日は、経っていませんね」
「はい」
セラフィナは、目を伏せた。
「でも、薄れた気がしたのです。今朝の祈りで」
彼女は、両手を胸の前で組んだ。四本の鎖が、しゃら、と鳴った。
「火曜日に、騎士団の追加の申請があったと伺いまして」
アルトは、黙っていた。
「……私の方が、先でしたのに」
小さな声だった。
聞かせるつもりのない、独り言のような声だった。
それから、セラフィナは顔を上げた。
いつもの、柔らかい顔に戻っていた。少しだけ、無理をしているように見えた。
「申し訳ありません。今のは、神官が口にすべきことでは」
「いえ」
「本日は、鑑定だけで結構です。体を、お休めにならないと」
彼女は、水晶板を示した。
アルトは、水晶板に手を置いた。
セラフィナが、横に立つ。鎖の長さいっぱいに。いつものように。
いつもより、近かった。
四本目の鎖が、彼の腕に触れていた。陽だまりのミルクの匂いが、すぐそこにあった。
「……鑑定を、始めます」
彼女の声が、耳元で震えていた。
囁き声だった。今日は、記録係はいない。
(……っ)
「筋力、十八」
吐息が、耳の縁をくすぐった。
(……っ、っ)
「体力、二十……」
彼女の声が、途切れた。
鑑定の途中で。数値を読み上げる途中で。
セラフィナが、アルトの肩に額を預けていた。
鎖越しに。縛られた腕で、抱きつくこともできずに。
ただ、額だけを。
「……すみません」
肩の上で、くぐもった声がした。
「鑑定だけと、申しましたのに」
(鑑定だけって言ったのに、自分から)
(ずるい)
(それは、ずるい)
(——ありがとうございます)
「……仕方ありませんね」
アルトの声は、穏やかだった。
燭台の灯りを、セラフィナが吹き消した。
フェンネル家の居間で、母のマルタが首を傾げていた。
「近頃、アルトの帰りが遅いのよね」
ヘルガが、揚げ菓子を齧りながら答えた。
「騎士団の打ち合わせ。副長さん、忙しい人だから」
「まあ。熱心ねえ」
「うん。すっごく熱心」
ヘルガは揚げ菓子を飲み込んで、遠い目をした。
エルゼが、刺繍の手を止めずに妹を一瞥した。何も言わなかった。
神殿の回廊で、神官長オルテンシアがセラフィナを呼び止めた。
「セラフィナ」
「はい、神官長様」
「近頃のあなたの祝福は、見事です」
神官長の皺の深い目元が、和らいでいた。
「月曜の祈りでは、礼拝堂の奥の柱まで光が届きました。参拝の方々が、あなたの祝福を受けるために、朝から列を作っているそうですね」
「……恐れ入ります」
「それに、鎖も」
神官長は、セラフィナの胸元の四本の鎖を見た。
「また一本、増やしたと聞きました。己を律する心が、深まっているのですね」
セラフィナは、まっすぐ前を見たまま頷いた。
耳が、赤かった。
「わたくしは、そろそろ考えております」
神官長は、セラフィナの肩にそっと手を置いた。
「あなたを、聖女の候補として、大神殿に推挙することを」
セラフィナの足が、止まった。
「……聖女、ですか」
「ええ。これほど信仰の輝きを示す神官は、わたくしが神殿に入って四十年、見たことがありません」
神官長は、ハンカチで目元を押さえた。
「神は、見ておられるのですね」
セラフィナは、何も言えなかった。
蒼薔薇騎士団、副長室。
机の引き出しを開けると、母からの手紙が溜まっていた。
いつもなら、そのまま閉める。
その日、クラウディアは一番上の一通を手に取った。日付は、三日前だった。
封を、切った。
便箋が一枚だけ入っていた。
いつもは三枚も四枚も書いてくる母が、一枚だけ。その一枚に、流麗な字で、たった一行。
『でかした』
クラウディアは、便箋を見つめていた。
長いこと。
それから、便箋を丁寧に畳んで、封筒に戻した。引き出しの、一番手前にしまった。
いつもより、少しだけ丁寧に。
縁談審議会、事務室。
ペトラ・ノイマンの机の端に、書類の山があった。
フェンネル家の案件だった。一段目の上に、二段目が積み上がり始めていた。
「ノイマン担当官。フェンネル家の件で、各勢力から照会が来ています」
若い事務官が、新しい束を置いた。
「照会?」
「騎士団と神殿が、それぞれ契約を結んだという報告です。これにより、対象は傷物扱いになるのではないか、縁談の申込みを取り下げるべきか、という照会が、申込み元の家々から」
ペトラは眼鏡を押し上げた。
「傷物、ね」
「規定では、契りを結んだ男性は」
「規定は知ってるわよ」
ペトラは、照会書の一枚を手に取った。
「傷物の値が下がるのは、壊れるからでしょう。女を怖がって、家に閉じこもって、婚姻生活が成り立たなくなるから」
「はい」
「で、この子は壊れてるの?」
事務官は、手元の報告書をめくった。
「神殿の記録では、契約の翌日も平常通り鑑定に通っています。騎士団の記録では、契約の翌週から訓練の成績が上がっています」
「つまり」
「……壊れていません」
ペトラは、照会書を山の上に戻した。
「それに、稀少度は測定不能。神官の魔力を一晩で七十伸ばしたスキルよ」
彼女は、山の高さを指で測った。
「傷物の減点なんて、端数みたいなものでしょう。申込みは、取り下げどころか増えてるんじゃないの」
「……はい。今週だけで四十通」
「でしょうね」
ペトラは、山を机の端にそっと寄せた。
「取り下げの照会には、『審議中』と返しておいて」
「審議は、いつ」
「前例を調べてから」
前例は、なかった。
書類の山が、二段目の高さに届いた。
月曜日の、定期鑑定。
アルトは水晶板に手を置いていた。
セラフィナが、数値を読み上げる。記録係が同席している日だったので、今日は大きな声で。
「筋力、十八。……貸出、九」
「体力、二十。……貸出、十一」
記録係のペンが、止まった。
「リース神官。体力の現在値は」
セラフィナは、水晶板の下段を見た。
素の値とは別に、もう一行。貸出を引いて、さらに何かを引いた、今この瞬間の値。
体力素20/貸出−11/疲労−6現在3
「……現在値、三です」
記録係が、眉を寄せた。
「先週は、五でした」
「はい」
「その前の週は、七」
セラフィナは、記録簿をめくった。
先々週。七。先週。五。今週。三。
素の値は、上がっていた。騎士団の訓練で、十六から二十まで。
それなのに、今この瞬間の体に残っている力は、週を追うごとに減っていた。
アルトは、水晶板に手を置いたまま、穏やかな顔をしていた。
(……三)
(三って、何ができる数字なんだろう)
窓の外で、神殿の鐘が鳴った。
鐘の音が、やけに遠くに聞こえた。