男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
走り込みの、二周目だった。
アルトは、前を走るクラウディアの背中を見ていた。
束ねた黒髪が、規則正しく揺れている。一歩、一歩。乱れのない足音。
その背中が、少しずつ遠くなっていった。
(……あれ)
足が、重かった。
いつもより、ずっと。地面に吸いつくように、一歩ごとに沈んでいく。
(二周目、行けると思ったんだけど)
視界の端が、白く滲んだ。
耳の奥で、何かが鳴っていた。鐘の音のような。遠い、遠いところで。
(……三、だっけ)
(現在値、三)
クラウディアの背中が、ぐにゃりと歪んだ。
砂の地面が、斜めに傾いた。
いや、傾いたのは自分の方だった。
音は、しなかった。
アルトは、走っていたその姿勢のまま、まっすぐ前に倒れた。
目を開けると、白い天井があった。
神殿の匂いがした。乳香と、蜜蝋。それから、薬草を煮出したような、苦い匂い。
(……どこだ)
体を起こそうとして、できなかった。
腕が、動かない。動かないというより、動かし方を忘れたような感じだった。
「……お目覚めですか」
すぐ近くで、声がした。
首だけを、なんとか横に向ける。
セラフィナがいた。
寝台の脇の椅子に座って、縛られた両手をアルトの胸の上にかざしていた。手のひらの間から、淡い金色の光がこぼれていた。
治癒の祈りだった。
「神殿の、救護室です」
彼女の声は、静かだった。
「訓練場で倒れられたと、騎士団の方が運んでくださいました」
「……騎士団の」
「副長様が、ご自分で。担いで」
(担いで)
(あの人に、担がれて、ここまで)
(意識があったら、と思うと、少し惜しい)
「もう少し、じっとしていてください。治癒が、まだ途中です」
セラフィナの手のひらから、温かいものが流れ込んできた。
少しずつ。指先に、感覚が戻ってくる。
ふと、反対側に気配を感じた。
首を、もう一度動かす。
寝台の反対の脇に、クラウディアが立っていた。
直立していた。騎士服のまま。砂埃を払いもせずに。
灰色の目が、じっとアルトを見下ろしていた。
扉が開いて、年配の記録係が入ってきた。
小さな水晶板を抱えていた。救護室に備えつけの、簡易鑑定用のものだ。
「意識が戻られましたか。何よりです」
記録係は寝台の脇の台に水晶板を置いた。
「失礼して、鑑定を。手を、お借りします」
記録係が、アルトの手を取って、水晶板の上に乗せた。
自分では、まだ持ち上げられなかった。
水晶板が光る。
アルト・フェンネル十八歳男
筋力素19/貸出−9/疲労−8現在2
体力素22/貸出−11/疲労−10現在1
敏捷素18/貸出−6/疲労−7現在5
器用素23/貸出−9現在14
魔力18/知力42/精神86
スキル:【ステータス貸与】Lv12契約2/3
記録係が眉間に深い皺を寄せた。
「……体力、現在一」
誰も、何も言わなかった。
「疲労の蓄積です」
記録係は水晶板の数値を一つずつ指でなぞった。
「素の力は、伸びておられる。騎士団の訓練の成果でしょう。ですが、貸出と疲労を引いた今の体には、ほとんど何も残っていない」
手元の帳面を開いた。
「念のため、この二週間の神殿の記録を見てまいりました。定期鑑定、臨時鑑定、それから」
帳面をめくる。
「……夕刻の、ご来訪の回数を」
セラフィナの肩が、ぴくりと震えた。
記録係はそれ以上は読み上げなかった。読み上げなくても、救護室の三人には分かっていた。
月曜。火曜。木曜。金曜。
予定表の、赤い字。
「申し訳ありません」
最初に口を開いたのは、クラウディアだった。
直立のまま。深く、頭を下げた。
「私の訓練計画が、過密でした」
「副長殿」
「素の力を伸ばすことばかりを考えて、貸出の分と、その……他の日程による消耗を、正しく見積もっておりませんでした」
彼女は、頭を下げたまま続けた。
「壊さないために計画を立てたのに。壊しかけました」
声が、ほんの少しだけ揺れていた。
「指導役として、弁解の余地もありません」
アルトは、何か言おうとした。
言葉が、出てこなかった。喉にも、ほとんど力が残っていなかった。
セラフィナは、黙っていた。
治癒の光を、アルトの胸の上にかざし続けていた。その手が、少しだけ震えていた。
彼女は、思い出していた。
金曜の欄の、赤い字。七日も経っていないのに、薄れた気がしたと言って出した、臨時の申請。
鑑定だけで結構です、と言ったのに。
自分から、額を預けたこと。
セラフィナは、何も言わなかった。言えなかった。
クラウディアが謝っているのに、自分は謝れなかった。
謝ったら、あの金曜の夕刻まで、なかったことになってしまう気がした。
記録係が、救護室を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に、三人が残った。
寝台の上に、アルト。その右に、セラフィナ。左に、クラウディア。
沈黙が、落ちた。
セラフィナは、治癒の光を灯し続けていた。クラウディアは、直立し続けていた。
二人とも、アルトを見ていた。二人とも、相手の方を見なかった。
初めてだった。
同じ部屋で。同じ男の枕元で。同じ予定表に名前を書き込んでいる二人が、こうして並ぶのは。
窓の外で、鳥が鳴いた。
それが妙に大きく聞こえるほど、救護室は静かだった。
「……副長様」
しばらくして、セラフィナが口を開いた。
目は、アルトの胸の上の、自分の手のひらに向けたまま。
「お座りになっては、いかがですか。ずっと、お立ちのままで」
「お気遣い、感謝します」
クラウディアは、直立のまま答えた。
「ですが、この方が落ち着きますので」
「……そうですか」
また、沈黙。
「リース神官」
今度は、クラウディアが言った。
「治癒の祈りは、どれほどかかりますか」
「あと、一刻ほど」
「では、私もそれまで」
「……はい」
それきり、二人は何も話さなかった。
アルトは、寝台の上で天井を見ていた。
右から、陽だまりのミルクの匂い。左から、革と鉄と、かすかな花の匂い。
(……気まずい)
(ものすごく、気まずい)
(でも、二人とも、いい匂い)
(いや、今それどころじゃない)
治癒の光が、ゆっくりと体に染みていった。
まぶたが、重くなってきた。
(体力)
アルトは、ぼんやりと考えていた。
(体力さえ、あれば)
素の力は、伸びている。十六が、二十二になった。訓練をすれば、まだ伸びる。
でも、伸びた分だけ貸して、貸した分だけ空になって、空のまま訓練をして、また倒れる。
(体力さえあれば、もっと)
もっと、貸せる。もっと、応えられる。
予定表の赤い字を、一つも断らずに済む。
(それでも、来週も、ちゃんと……)
(月曜は神殿で、火曜は騎士団で……)
(ちゃんと……行かないと……)
まぶたが、閉じた。
アルトが眠ったのを確かめて、セラフィナは治癒の光を、そっと弱めた。
彼の寝顔を、見つめる。
痩せた、と思った。儀式の日から二か月足らずで、頬の線がずいぶん鋭くなった。
それなのに、眠りに落ちる直前まで、彼は来週の予定のことを考えていた。
唇が、かすかに動いていたから分かった。月曜、火曜、と。
セラフィナは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
反対側で、クラウディアが小さく息をついた。
セラフィナは、顔を上げた。
クラウディアも、こちらを見ていた。
初めて、目が合った。
灰色の目と、空色の目。
どちらも、何も言わなかった。
ただ、相手の目の中に、自分と同じものがあるのを見ていた。
その日の夕刻。
神殿の書庫で、記録係は救護室の鑑定報告書を清書していた。
体力、現在一。疲労の蓄積。この二週間の、来訪の記録。
清書を終えて、封筒に収める。
宛名は、いつもの慣例通りだった。
『王立魔導院統計課御中』
ただ、今回は、封筒の隅に小さな付箋が貼られていた。
統計課から、先月届いた依頼状に添えられていたものだった。
『フェンネル家子息に関する鑑定記録は、今後こちらへ直接送付されたし。統計課末席研究員リゼット・ハーシェル』
記録係は、付箋の名前を宛名の下に書き添えた。
封筒は、その日の夕方の便で、神殿を出ていった。