男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王立魔導院、統計課。
その部屋の一番奥の、窓のない片隅に、机が一つあった。
机は、見えなかった。
書類の山に埋もれていたからだ。左に一つ、右に一つ、正面に一つ。山と山のあいだに、かろうじて人一人が座れる隙間がある。
その隙間に、リゼット・ハーシェルは座っていた。
パンを齧りながら、数字を睨んでいた。
二十五歳。王立魔導院、統計課、末席研究員。
白衣の袖口は、試薬の染みでまだらになっていた。眼鏡が、少しずり落ちている。
そして、髪。
灰銀色の髪が、椅子の背を越えて床まで垂れていた。切るのが面倒だという、ただそれだけの理由で伸ばし続けたものだった。手入れはしていない。あちこちが跳ねて、うねって、書類の山の端に絡まっていた。
午後三時。
彼女は毎日、この時刻に、同じ店の同じ黒パンを一つ食べる。三時ちょうどに一口目を齧り、三時十二分に最後の一口を飲み込む。
今は、三時四分だった。
この机に回ってくる仕事は、たいてい誰もやりたがらないものだった。
統計課の古い記録の整理。他の課が途中で投げ出した分析の続き。「機器の故障だと思うから、適当でいい」と言われた心拍計の記録紙。
リゼットは、それを全部、適当にはしなかった。
適当にする方法を知らなかったからだ。
数字があれば、並べる。並べれば、何かが見える。見えなければ、並べ方を変える。
それだけのことを、彼女は毎日、淡々と繰り返していた。
山の一番上に、封筒が一つ載っていた。
今朝届いたものだった。宛名は、統計課御中。その下に、手書きで自分の名前が書き添えてあった。
『リゼット・ハーシェル様』
神殿の記録係の字だった。先月、彼女が依頼状に貼った付箋を、ちゃんと読んでくれたらしい。
封を切る。
救護室の鑑定報告書だった。
フェンネル家の子息。体力、現在一。疲労の蓄積。この二週間の、神殿への来訪の記録。
リゼットは、黒パンを齧ったまま、報告書を三度読んだ。
それから、立ち上がった。
彼女は、山を崩し始めた。
左の山から、神殿の鑑定記録の束。天賦の儀の日から今日まで、フェンネル家の子息の分が全部。
右の山から、同じく神殿の記録。リース神官の、先月以前の鑑定値。
正面の山の中ほどから、丸まった細長い紙。心拍計の記録紙。山脈のような線が描かれた、例の「故障」の。
それから、騎士団から回ってきた、訓練の記録の写し。
床の上に、全部を並べた。
床しか、空いている場所がなかった。
日付順に。項目ごとに。一枚ずつ、角を揃えて。
並べ終えるのに、四十分かかった。
その間、彼女の髪は三回、書類の角に絡まった。彼女はそのたびに、髪を指で無造作に引っ張って外した。
書類の角は、一枚もずれなかった。
リゼットは、床に並んだ紙の前にしゃがみ込んだ。
眼鏡を押し上げる。
まず、天賦の儀の日の鑑定値。フェンネル家の子息。
筋力十四、体力十六、敏捷十五、器用二十二、魔力十八、知力四十一、精神八十五。
精神八十五。
一般の男性の平均は、十五前後。五倍を超えている。
彼女は、その数字の横に小さく印をつけた。意味は分からない。ただ、異常値には印をつける。それが彼女の習慣だった。
次に、雨の夜の翌朝の記録。
リース神官。魔力九十五、括弧書きで加算七十。同じ日付の、フェンネル家の子息。四つの項目に、貸出の表示。
筋力、貸出九。体力、貸出十一。敏捷、貸出六。器用、貸出九。
リゼットは、指先で数字を追った。
九。十一。六。九。
頭の中で、足す。
三十五。
それから、リース神官の加算。七十。
リゼットの指が、止まった。
彼女は、もう一度足した。
九、十一、六、九。三十五。
加算、七十。
三十五と、七十。
紙を、もう一枚引き寄せた。翌週の記録。
フェンネル家の子息の貸出、合計三十五。リース神官の加算、七十。
翌々週。
同じだった。
その次の週は、貸出の配分が少しだけ変わっていた。筋力から八、体力から十二。それでも、合計は三十五。加算は、七十。
騎士団の副長の記録が加わった週。
貸出の合計が、増えていた。リース神官の分と、副長の分。それぞれの加算と、それぞれの貸出。
リゼットは、全部を書き出した。
貸出、三十五。加算、七十。貸出、三十二。加算、六十四。貸出、二十八。加算、五十六。
どの組も、同じだった。
一つの例外もなかった。
「……ちょうど」
リゼットは、小さく呟いた。
誰もいない片隅で。床に並んだ紙の前で。
「ちょうど、二倍」
偶然では、ありえなかった。
貸した量と、受け取った量。その比が、どの週も、どの組み合わせでも、きっちり二。
一でも、一・九でも、二・一でもない。
二。
リゼットは、しゃがんだまま眼鏡を外した。
袖口で、レンズを拭く。試薬の染みが、かえってレンズを曇らせた。
眼鏡をかけ直す。
数字は、変わらずにそこにあった。
増幅。
神殿の記録には、天賦の儀の日の読み上げも書いてあった。「契りを結びし者に、自らの力を貸し与える。貸し与えし力は、神の恩寵によりて増幅される」
その増幅の倍率が、二。
貸した力が、二倍になって相手に届く。貸した分だけ、本人からは減る。
だから、体力が一になる。
そして、貸すための条件は。
リゼットは、天賦の儀の記録を、もう一度読んだ。
発動条件。対象との交合、および精の授受。
それから、救護室の報告書の、来訪の記録。
月曜、夕刻。火曜、夕刻。木曜、夕刻。金曜、夕刻。
リゼットは、しばらく動かなかった。
三時十二分を、とうに過ぎていた。
机の上に、齧りかけの黒パンが残っていた。
こんなことは、魔導院に入って五年で初めてだった。
リゼットは、それに気づかなかった。
彼女は床の上の紙を、一枚ずつ指でなぞっていた。
貸出の記録。加算の記録。来訪の記録。それから、丸まった心拍計の記録紙。
「機器の故障だと思うから、適当でいい」
あの日、そう言って紙を書類の山に乗せていった先輩の声を思い出した。
リゼットは、記録紙を床に広げた。
山脈のような線。その下に、先輩の字で、時刻ごとの書き込みがあった。
『十時五分研究員Aが入室、横切る』
『十時八分研究員Bが入室、窓を開ける』
『十時十二分研究員Eが入室、屈んでペンを拾う』
線が跳ねているのは、全部、誰かが入室した時刻だった。
女が、彼の前を通った時刻だった。
故障では、なかった。
リゼットは、立ち上がった。
膝が、しびれていた。しゃがんだまま、どれだけ時間が経ったのか分からなかった。
机の上の、書類の山の隙間から、羊皮紙を一枚引き抜いた。
ペンを取る。
書きかけて、手が止まった。
彼女の靴下は、左右で色が違っていた。
右は灰色。左は紺。今朝、暗い部屋で手に触れたものを順に履いただけだった。気づいてもいなかった。
白衣のボタンは、一つずつずれていた。
髪には、書類の角から外した紙の切れ端が、まだ一枚引っかかっていた。
それでも、羊皮紙の上の一行目は、定規で引いたようにまっすぐだった。
『観察記録対象:アルト・フェンネル』
『日時:本日十五時五十一分二十秒』
『一、貸与の増幅倍率は二と推定される。全観測例において誤差なし』
『二、貸出は、対象の複数の項目から引き出され、受領側の単一の項目に加算される。項目間の転換が可能と推定される』
『三、心拍計の記録は故障ではない。対象の心拍は、女性の入室・接近に対し顕著に上昇する』
『四、天賦の儀の日、対象の精神値は八十五。一般男性の五倍超。原因不明』
そこで、ペンが止まった。
リゼットは、四行を読み返した。
それから、一行空けて、五行目を書いた。
ペン先が、ほんの少しだけ、迷った。迷ったのは、彼女にしては珍しいことだった。
『五、対象は、女性を忌避していない可能性が高い』
彼女は、その一行を見つめていた。
窓のない片隅で。床に並んだ紙に囲まれて。
齧りかけの黒パンが、机の上で乾いていた。