男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
王都大神殿の正門の向かいに、小さな茶屋があった。
窓際の席から、神殿の大扉がよく見えた。
リゼットは、その席に座っていた。
三日目だった。
朝の九時に来て、夕方の六時に帰る。窓際の席に座り、薄い茶を一杯だけ頼んで、それを一日かけて飲む。午後三時には、懐から黒パンを出して齧る。三時ちょうどに一口目、三時十二分に最後の一口。
茶屋の女将は、二日目の昼に一度だけ「何をしてらっしゃるの」と聞いた。
「観察です」
リゼットは、帳面から目を上げずに答えた。
女将は、それ以上聞かなかった。
帳面には、こう書いてあった。
『神殿正門出入り記録対象:アルト・フェンネル』
『一日目十時二分入門(付き添い:姉、次姉と推定。揚げ菓子の袋を所持)十時五十八分退門(対象の歩行速度、入門時の約七割)十七時四十一分入門(同上)二十一時十五分退門(対象の歩行速度、入門時の約五割。ただし表情は)』
そこで、文字が一度途切れていた。
『表情は、穏やか。むしろ』
また途切れて、一行空けて。
『満ち足りているように見える。理由不明』
『二日目入門なし(騎士団訓練場にて確認。午前のみ。対象、走り込み中に三度停止)十九時三分騎士団詰所に入る(付き添い:同上の次姉)翌朝六時四十分騎士団詰所を出る(対象、副長と思われる女性騎士に肩を支えられる)』
『三日目十時一分入門(定期鑑定と推定)』
今は、三日目の十時二十分だった。
リゼットは、帳面と並べて、もう一冊の帳面を開いていた。
統計課の机の上に並べた、全部の記録の写しだった。
神殿の鑑定記録。騎士団の訓練記録。救護室の報告書。それから、この三日間の、自分の目で見た記録。
全部を、一本の時の流れの上に並べる。
天賦の儀。最初の定期鑑定。臨時鑑定の申請。週二回。週三回。雨の夜。翌朝の、リース神官の魔力の急上昇。騎士団の合同訓練。叙任式。騎士団副長との契約。追加の申請。月曜、火曜、木曜、金曜。訓練場での転倒。体力、現在一。
リゼットは、ペンの先で時の流れをなぞった。
最初の転換点は、雨の夜だった。
それ以前の対象は、神殿に通っていた。頻度を、自分から上げていた。
自分から。
体調不良を理由にした、臨時鑑定の申請。神殿の記録係は、それを「スキルの不安定」と書いていた。
リゼットは、天賦の儀からの全部の鑑定値を見た。
不安定な数値は、一つもなかった。
彼女は、帳面の新しい頁に書いた。
『仮説一:対象は、スキルの発動を拒んでいる』
この国の男なら、誰でもそうだ。行為は消耗の種で、苦痛で、恐怖の対象だ。
もし対象がそうなら、記録はこうなるはずだった。
神殿への来訪を減らす。臨時の申請はしない。騎士団の訓練を、体調を理由に休む。契約を、できるだけ先延ばしにする。
リゼットは、記録を見た。
全部、逆だった。
彼女は、仮説一に線を引いた。
『仮説二:対象は、スキルの発動を拒んでいない』
その下に、根拠を並べる。
神殿への来訪を、自分から増やしている。騎士団の追加の申請を、受理している。倒れるまで、一度も予定を断っていない。心拍計の記録。女性の接近に対して、顕著に上昇。退門時の表情。満ち足りている。
並べ終えて、リゼットは、ペンを止めた。
それから、新しい一行を書いた。
『では、なぜ倒れたのか』
答えは、救護室の報告書にあった。
体力、素の値は二十二。天賦の儀の日の十六から、騎士団の訓練で伸びている。
貸出、十一。疲労、十。現在、一。
リゼットは、数字を一つずつ確かめた。
素の力は、伸びている。意思は、拒んでいない。
それなのに、倒れた。
貸すたびに、減る。供給のたびに、疲労が溜まる。一日に回復する量は、素の体力で決まる。
体力二十二の男が、一日に回復できる疲労の量。週に四回の供給で溜まる疲労の量。
彼女は、その場で計算した。
懐から黒パンを出しかけて、時刻を確かめた。まだ十一時だった。黒パンを戻した。
計算を、続けた。
答えは、明らかだった。
回復が、追いつかない。意思がどれだけ前を向いていても、体がついてこない。
リゼットは、帳面の一番下に、一行を書いた。
『結論:対象は、意思では拒んでいない。問題は、肉体の処理能力である』
『ボトルネックは、肉体』
神殿の大扉が、開いた。
リゼットは、顔を上げた。
対象が、出てきた。
アルト・フェンネル。濃い焦げ茶の髪。琥珀色の瞳。この国の基準では一級品とされる顔立ち。
痩せていた。天賦の儀の日の記録にある肖像の写しより、頬の線が鋭い。
付き添いの次姉と並んで、ゆっくりと神殿の石段を下りてくる。
一段ごとに、手すりに手をかけていた。
石段の下で、二人は立ち止まった。次姉が、広場の向こうの屋台を指さしている。揚げ菓子の屋台だった。
次姉が、屋台の方へ小走りに駆けていった。
対象は、石段の下に一人で残った。
そこへ、通りの向こうから、一人の女が歩いてきた。
花売りだった。腕に、籠いっぱいの初夏の花を抱えている。
花売りは、対象のすぐ脇を通り過ぎていった。
すれ違いざま、籠の花が、ふわりと揺れた。
リゼットは、見ていた。
対象の肩が、ほんのわずかに、震えた。
それから、対象の目が、花売りの背中を追った。
一瞬だけ。すぐに、視線を戻した。何事もなかったように。穏やかな顔で。
けれど、リゼットの目には、その一瞬が、記録紙の山脈と同じ形に見えた。
彼女は、帳面にペンを走らせた。
『十時二十六分石段下にて、花売りの女性とすれ違う対象の肩、微動対象の視線、女性の背中を追う(約一呼吸)その後、平常の表情に復帰反応の閾値、著しく低い』
書き終えて、彼女はペンを置いた。
それから、自分が書いた最後の一行を、もう一度読んだ。
反応の閾値、著しく低い。
花売りが、すれ違っただけで。
リゼットは、窓の外の対象を見た。
次姉が、揚げ菓子の袋を抱えて戻ってくるところだった。対象が、何か言って笑っていた。穏やかな笑みだった。
あの笑みの下に、何があるのか。
リゼットは、それを知りたいと思った。
研究上の関心として。
……研究上の、関心として。
その日の夕方、リゼットは統計課の片隅に戻った。
机の上の書類の山の隙間に、羊皮紙を一枚広げる。
三日間の記録と、時の流れの帳面と、救護室の報告書。それを全部、一枚の報告書にまとめ始めた。
書きながら、彼女は気づいていた。
この結論は、他の誰も辿り着いていない。
神殿は、祈りが通じたと思っている。騎士団は、連携訓練が順調だと思っている。噂を流している下町の女たちは、女を怖がらない男がいるらしい、で止まっている。
対象が、自分から求めていること。求めているのに、体がついてこないこと。
ボトルネックが、肉体であること。
それを、記録と数字で証明できるのは、この机だけだった。
そして、肉体の問題なら。
リゼットは、ペンを止めた。
魔導院には、それを解決する手段がある。
肉体の疲労を回復させる薬。魔導院の研究棟で、何年も前から作られている。法律で上限を定められて、薬局の棚に並んでいる、あの小瓶。
滋養強壮魔導薬。
リゼットは、統計課の片隅を見回した。
窓のない部屋。書類の山。研究予算の申請書が、引き出しに何枚も溜まっている。全部、却下の判が押してある。
末席の研究員に、予算は回ってこない。
予算が回ってこなければ、研究はできない。研究ができなければ、末席のままだ。
リゼットは、報告書の束を見下ろした。
これは、末席の机が抱えていていい結論ではなかった。
夜の八時。
魔導院の廊下は、静まり返っていた。
研究棟の灯りは、ほとんど消えていた。院長室の扉の隙間からだけ、細い光が漏れていた。
リゼットは、報告書の束を両腕に抱えて、その扉の前に立っていた。
白衣のボタンを、直した。一つずつずれていたのを、上から順に、正しい穴に。
それから、眼鏡を押し上げた。
髪は、どうにもならなかった。床まで垂れた灰銀の髪の先に、また紙の切れ端が一枚引っかかっていた。
彼女は、それを取らなかった。
気づいていなかった。
リゼットは、院長室の扉を叩いた。
三回。等間隔に。