男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第2話 下限、算定できません

 

「顔が、引きつっていただけです」

 

アルトは静かにそう答えた。

声は低く、少しだけ掠れていた。 運命を受け止めきれない若者の声として、これ以上ないほど正しい響きだった。

 

「……そう、ですか」

 

セラフィナは小さく頷いた。

頷いたが、目は頷いていなかった。 空色の瞳が、まっすぐにアルトの口元を見ている。さっきまで持ち上がっていた口の端を。

 

(信じてないな、これ)

 

彼女はそれ以上何も言わなかった。 鎖を握る指先だけが、まだかすかに震えていた。

 

「……失礼。取り乱しました」

 

記録係が床のペンを拾い上げた。 年季の入った手が、ペン先を確かめて、もう一度構え直す。

 

「フェンネル様。この結果は、ご家族と共に法務官から説明を受けていただく決まりです。応接室へご案内いたします」

 

「はい」

 

アルトは膝の埃を払って立ち上がった。 足に力が入らないふりをして、少しよろめいてみせる。記録係が慌てて肘を支えた。

 

(演技、演技)

 

扉へ向かう途中で、一度だけ振り返った。

セラフィナは祭壇の前に立ったまま、こちらを見ていた。 目が合うと、彼女は慌てて視線を落とした。

落とした先は、自分の胸元の鎖だった。

彼女はそれを、生まれて初めて見るもののように見つめていた。

 

 

神殿の応接室には、家族が揃っていた。

母のマルタは長椅子の端に浅く腰掛け、両手を膝の上で固く組んでいた。 姉のエルゼとヘルガがその両脇を挟むように座り、父のハインツは窓際に立っている。

アルトが入っていくと、四人が一斉に顔を上げた。

 

「アルト」

 

母が立ち上がりかけた。 エルゼがその腕をそっと押さえる。

 

「お座りください。順にご説明いたします」

 

向かいの椅子に、神殿の法務官が座っていた。 四十がらみの女性で、分厚い法典を膝に載せている。記録係から受け取った書類に目を通し、一度眼鏡を外して、目頭を揉んだ。

それから眼鏡をかけ直した。

 

「アルト・フェンネル様の鑑定結果を、お伝えします」

 

部屋の空気が、ぴんと張った。

 

「スキル名、【ステータス貸与】。契りを結んだ相手に、自らの力を増幅して貸し与えるものです」

 

「貸与……」

 

父が小さく繰り返した。

 

「稀少度は」

 

法務官は一拍置いた。

 

「測定不能、と出ました」

 

母の組んだ手が、ほどけた。

 

「そく、てい……」

 

「当神殿の記録では、初めての表示です」

 

ヘルガが口を開けたまま固まった。 エルゼは母の背中に手を当てた。父は窓の外を見たまま動かなかった。

 

「それから、発動条件ですが」

 

法務官は書類に目を落とし、少しだけ声を落とした。

 

「対象との交合、および精の授受。……とのことです」

 

沈黙が落ちた。

長い沈黙だった。 窓の外で鳥が鳴いて、それが妙に大きく聞こえた。

最初に動いたのは、ヘルガだった。

 

「こう……ごう?」

 

「ヘルガ」

 

エルゼの手が、正確に妹の口を塞いだ。 今朝と同じ角度だった。

 

「つまり、その」

 

母の声が震えていた。

 

「この子は、力を使うたびに……」

 

「はい」

 

「相手の数だけ……」

 

「はい」

 

母の顔から、血の気が引いていった。

 

「アルト」

 

母がこちらを見た。 目に涙が溜まっていた。

 

「あなた、そんな……そんな、むごい……」

 

アルトは目を伏せた。 膝の上で拳を握った。肩をわずかに落とした。

 

「……神の、御心ですので」

 

(すみません母上。息子は今、人生で一番幸せです)

 

 

「続いて、婚姻法上の扱いについてご説明します」

 

法務官が法典を開いた。 ぱらぱらと頁をめくる音だけが響く。

 

「ご存じの通り、男性が娶る妻の数は、爵位とスキルの稀少度に応じて下限と上限が定められております。準男爵家のご子息で、通常の稀少度であれば、下限は一名から二名」

 

「ええ」

 

母が頷いた。 アルトに優しい奥さんを一人。それが母の、ずっと変わらない願いだった。

 

「稀少度が上がるにつれて、下限も上がります。高位のスキルでは五名、十名と」

 

「……はい」

 

「フェンネル様の場合ですが」

 

法務官は表を指でなぞって、止まった。

もう一度なぞって、また止まった。

 

「稀少度が測定不能のため」

 

彼女は顔を上げた。

 

「下限は……算定できません」

 

母が、静かに後ろへ倒れた。

 

「母上!」 「お母様!」

 

エルゼとヘルガが両側から受け止める。 長椅子の背にもたれた母は、目を閉じて小さく何かを呟いていた。優しい奥さんを一人、と。

 

(下限、算定できません)

 

アルトは慌てて母の手を握りながら、頭の中でその言葉を繰り返していた。

 

(下限が、ない。つまり、上は)

 

「念のため伺いますが」

 

窓際から、父の声がした。

 

「上限は」

 

法務官は表をもう一度見た。

 

「……上限も、算定できません」

 

父は黙って懐に手を入れた。 包み紙にくるまれた小瓶を一本取り出して、封を切り、ひと息に飲み干した。

今朝の三本に続く、四本目だった。

 

(父上、それ何本までいけるやつなんですか)

母の手を握ったまま、アルトは顔を伏せた。

心配そうな顔を作った。 唇を噛んだ。 肩を震わせた。

全部、ちゃんとやった。

ただ、伏せた顔の内側だけは、どうにもならなかった。

 

(上限なし)

 

(下限なし)

 

(——っしゃああああああああ!!!)

 

「……母上、しっかりしてください」

 

アルトの声は、心から母を案じる息子の声だった。

 

 

 

 

母は数分で目を覚ました。

エルゼが水を飲ませ、ヘルガが扇いでいる。 法務官は書類を一枚取り出して、机の上に置いた。

 

「もう一点。稀少度が一定以上の男性は、すべての縁談を審議会に通していただく決まりになっております」

 

「審議会」

 

「正式名称を、稀少技能保有男性婚姻、しんぎ……」

 

法務官の舌が止まった。

 

「失礼。稀少技能保有男性婚姻審議しん……」

 

もう一度止まった。

彼女は咳払いを一つして、書類の上部を指さした。

 

「こちらに書いてある通りです」

 

書類の一番上に、長い名前が印刷されていた。 その下に、小さく括弧書きが添えてある。

 

(通称:縁談審議会)

 

「皆さま、そう呼んでおります」

 

(通称があるなら最初からそっちで言えばいいのに)

 

「申込みはすべて審議会が受け付け、順に審査いたします。ご家族のご意向も伺いますので、お母様には後日ご足労いただくことになります」

 

「……私が」

 

母が、弱々しく身を起こした。 その目に、ほんの少しだけ光が戻った。

 

「私が、選んでいいのですね」

 

「ご意向として伺います」

 

「選びます」

 

母は姉の手を借りて座り直し、背筋を伸ばした。

 

「この子を、壊されるわけにはいきませんから」

 

法務官が、わずかに目を伏せた。

 

「お母様のご心配は、ごもっともです」

 

彼女は法典を閉じた。

 

「契りを重ねた男性は、多くの場合、女性を恐れて心を閉ざします。妻を迎えても寝所に怯え、家が立ちゆかなくなる。所謂傷物の男性の婚姻価値が下がるのはそのためです」

 

「ええ」

 

「ただ」

 

法務官はアルトを一瞥した。

 

「このスキルの価値がどこまで傷を上回るのか。それは、正直に申し上げて、前例がございません」

 

「つまり」

 

「審議会も、手探りになるかと」

 

母は唇を引き結んで頷いた。 アルトの手を、ぎゅっと握った。

 

「アルト。大丈夫よ。母様が、ちゃんと見ていますからね」

 

「……はい、母上」

 

(怯えて、心を閉ざす)

 

アルトは母の手を握り返しながら、真剣に考えていた。

 

(閉ざす予定、まったくないんだけどな)

 

法務官が書類にペンを走らせていた。 審議会の受付簿に綴じる、最初の一枚だった。

 

 

 

 

控えの間に戻ると、三人が待っていた。

 

「アルト殿」

 

ユリウスが立ち上がった。 朝より一段と顔が白い。もはや白というより、少し青かった。

 

「どうだった」

 

「ユリウス殿こそ」

 

ユリウスは口を開きかけて、閉じて、もう一度開いた。

 

「……【剣聖の器】」

 

「それは」

 

「高位だそうだ」

 

彼は長椅子に崩れ落ちた。

 

「下限、七名。すでに神殿の外に、申込みの使者が三人並んでいるらしい」

 

(七名で、この顔)

 

「僕は【園芸】だったよ」

 

フェリクスが、心底ほっとした顔で言った。

 

「平凡そのもの。下限は一名。母上が泣いて喜んでいた」

 

「おめでとうございます」

 

「ありがとう。……花を育てるのは、好きだしね」

 

彼はいつもの眠そうな目で、少しだけ笑った。

膝を抱えているのは、トビアスだった。

 

「僕は……低いほうでした」

 

「低い」

 

「【帳簿整理】。稀少度、下から二番目」

 

膝に顔を埋める。

 

「誰も、貰ってくれない……」

 

「そんなことはありませんよ」

 

「アルト殿はどうだったんですか」

 

三人の視線が集まった。

アルトは少しだけ間を置いた。 それから、目を伏せて言った。

 

「【ステータス貸与】。稀少度は、測定不能でした」

 

ユリウスが息を呑んだ。 フェリクスの笑みが消えた。 トビアスが膝から顔を上げた。

 

「測定、不能……」

 

「それで、発動条件が」

 

アルトは声を落として、法務官と同じ言葉を繰り返した。

三人とも、何も言わなかった。

ユリウスはゆっくりと立ち上がり、アルトの両肩に手を置いた。 その手が震えていた。

 

「……すまない」

 

「なぜ、ユリウス殿が謝るのです」

 

「七名で泣き言を言っていた自分が、恥ずかしい」

 

彼の目に、涙が浮かんでいた。

フェリクスが、アルトの手を両手で包んだ。

 

「何か困ったら、いつでも言ってほしい。僕にできることなら、何でもする」

 

トビアスは膝を抱えたまま、ぐしゃぐしゃの顔で言った。

 

「アルト殿、強いです……そんな運命なのに、泣いてない……」

 

「……ありがとう、皆」

 

アルトは三人の顔を順に見て、深く頭を下げた。

 

(ごめん)

 

(全然つらくない)

 

(むしろ今、俺がこの部屋で一番幸せ)

 

頭を下げたまま、アルトは心の中でもう一度だけ謝った。 友の厚意が温かいぶん、少しだけ胸が痛かった。

ほんの少しだけ。

 

 

 

 

 

帰りの馬車の中は、静かだった。

母はエルゼの肩にもたれて目を閉じていた。 ヘルガは窓の外を見ていた。ときどきこちらをちらりと見て、何か言いかけて、やめる。

 

「……アルト」

 

「はい、姉上」

 

「あたしね」

 

ヘルガの声が、いつもより小さかった。

 

「あんたの相手になる人がちゃんと優しい人だったら、それでいいと思う。いっぱいいても、一人でも」

 

「ヘルガ姉上」

 

「でも、嫌な人がいたら言いなさいよ。あたしが追い払うから」

 

アルトは少し驚いて、それから笑った。

 

「心強いです」

 

「……あと、弟じゃなかったら、その中に」

 

エルゼの手が、母の肩越しに伸びて、正確に妹の口を塞いだ。

母は目を閉じたままだった。 エルゼも、何も言わなかった。

 

(エルゼ姉上、母上を支えながらでもできるんだ、それ)

 

馬車が揺れて、フェンネル家の門が見えてきた。

 

 

 

 

 

玄関の前で、父がアルトを呼び止めた。

母と姉たちは先に屋敷へ入っていった。 春の夕暮れの中に、父と二人だけが残った。

父は何も言わなかった。

目の下の隈が、夕陽の中でいつもより深く見えた。 少し猫背の肩。穏やかで、愚痴を一度も言ったことのない人。三人の妻に、毎晩誠実に務めを果たしている人。

 

(この人は、どうしてこんなに疲れてるんだろう)

 

アルトは物心ついた頃から、ずっとそれが不思議だった。 三人もの妻がいて。毎晩誰かが待っていて。

 

(……ご褒美じゃね?)

 

その感想は、十八年間、誰にも言ったことがない。

父が、アルトの肩に手を置いた。

大きな手だった。 重くて、温かかった。

 

「……いいスキルで、よかったな」

 

父はそれだけ言って、屋敷へ入っていった。

アルトは玄関の前に立ったまま、その背中を見送った。

祝福だったのか。 皮肉だったのか。 それとも、もっと別の何かだったのか。

父の声は、どれとも取れる響きだった。

 

(……よかった、です。はい)

 

アルトは素直にそう受け取ることにした。

 

 

 

 

夜。

自室の寝台に仰向けになって、アルトは天井を見上げていた。

屋敷は静まり返っている。 母は早々に寝室へ下がった。廊下の向こうから、姉たちの話し声がかすかに聞こえていたが、それもやがて途切れた。

一度だけ、クッションに顔を埋めて叫んだような音がした。

 

(姉さんたち、今日は本当に心配かけたな)

 

天井の木目を目でなぞる。

【ステータス貸与】。 稀少度、測定不能。 下限、算定できません。上限も、算定できません。

発動条件。

 

(交合、および、精の授受)

 

十八年。

この世界に生まれて、女を目で追うたびに慌てて視線を逸らしてきた。 声に耳が向くたびに、何も聞こえなかったふりをしてきた。 誰にも言えず、誰にも相談できず、ただ貞淑な男を演じ続けてきた。

前世を入れれば、三十六年。

それが今日、全部ひっくり返った。

我慢しなくていい理由を、神様がくれた。 それも、国が動くほどの理由を。

アルトは天井に向かって、ゆっくりと右手を持ち上げた。

指を一本ずつ折り曲げる。 拳を握る。

強く。

誰にも見られない暗がりの中で、静かに、深く。

 

(……よし)

 

それだけだった。

叫びもしなかった。笑いもしなかった。 ただ、握った拳がしばらくほどけなかった。

目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶものがあった。

白い法衣。銀の鎖。 胸の上と下を通る、二本の線。 陽だまりのミルクのような匂い。

それから、空色の目。

 

(……嬉しそう、なんですか)

 

あの声が、耳の奥に残っていた。

 

(バレたよな、あれ)

 

アルトは拳をほどいて、顔の上に腕を乗せた。

 

(どうしよう)

 

困っている、はずだった。 十八年守ってきた秘密を、初対面の神官に見抜かれたのだから。

それなのに。

 

(……また、会えるかな)

 

そう思っている自分がいた。

 

 

 

 

翌朝。

朝食の席に、神殿の使いが一通の書状を持って現れた。

封蝋には、王都大神殿の紋章。 父が受け取って封を切り、目を通して、それを母に渡した。

母が読み上げる。

 

「授与神アウレアの名において、通達する。アルト・フェンネル殿のスキルは前例なきものにつき、その安定を確かめるため、週に一度の定期鑑定を命ず」

 

母は顔を上げた。

 

「……週に一度。神殿に通うのね、あなた」

 

「そのようですね」

 

アルトはスープを口に運びながら、穏やかに答えた。

母は書状の最後の一行に目を落とした。

 

「担当神官」

 

一拍。

 

「セラフィナ・リース」

 

アルトのスプーンが、皿の縁に当たって小さな音を立てた。

 

「あら、どうしたの」

 

「いえ」

 

アルトは何事もなかったようにスプーンを置き直した。

 

「少し、手が滑りました」

 

(鎖の人だ)

 

向かいの席で、父が今朝の一本目の小瓶を開けていた。

 

 

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