男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「顔が、引きつっていただけです」
アルトは静かにそう答えた。
声は低く、少しだけ掠れていた。 運命を受け止めきれない若者の声として、これ以上ないほど正しい響きだった。
「……そう、ですか」
セラフィナは小さく頷いた。
頷いたが、目は頷いていなかった。 空色の瞳が、まっすぐにアルトの口元を見ている。さっきまで持ち上がっていた口の端を。
(信じてないな、これ)
彼女はそれ以上何も言わなかった。 鎖を握る指先だけが、まだかすかに震えていた。
「……失礼。取り乱しました」
記録係が床のペンを拾い上げた。 年季の入った手が、ペン先を確かめて、もう一度構え直す。
「フェンネル様。この結果は、ご家族と共に法務官から説明を受けていただく決まりです。応接室へご案内いたします」
「はい」
アルトは膝の埃を払って立ち上がった。 足に力が入らないふりをして、少しよろめいてみせる。記録係が慌てて肘を支えた。
(演技、演技)
扉へ向かう途中で、一度だけ振り返った。
セラフィナは祭壇の前に立ったまま、こちらを見ていた。 目が合うと、彼女は慌てて視線を落とした。
落とした先は、自分の胸元の鎖だった。
彼女はそれを、生まれて初めて見るもののように見つめていた。
神殿の応接室には、家族が揃っていた。
母のマルタは長椅子の端に浅く腰掛け、両手を膝の上で固く組んでいた。 姉のエルゼとヘルガがその両脇を挟むように座り、父のハインツは窓際に立っている。
アルトが入っていくと、四人が一斉に顔を上げた。
「アルト」
母が立ち上がりかけた。 エルゼがその腕をそっと押さえる。
「お座りください。順にご説明いたします」
向かいの椅子に、神殿の法務官が座っていた。 四十がらみの女性で、分厚い法典を膝に載せている。記録係から受け取った書類に目を通し、一度眼鏡を外して、目頭を揉んだ。
それから眼鏡をかけ直した。
「アルト・フェンネル様の鑑定結果を、お伝えします」
部屋の空気が、ぴんと張った。
「スキル名、【ステータス貸与】。契りを結んだ相手に、自らの力を増幅して貸し与えるものです」
「貸与……」
父が小さく繰り返した。
「稀少度は」
法務官は一拍置いた。
「測定不能、と出ました」
母の組んだ手が、ほどけた。
「そく、てい……」
「当神殿の記録では、初めての表示です」
ヘルガが口を開けたまま固まった。 エルゼは母の背中に手を当てた。父は窓の外を見たまま動かなかった。
「それから、発動条件ですが」
法務官は書類に目を落とし、少しだけ声を落とした。
「対象との交合、および精の授受。……とのことです」
沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。 窓の外で鳥が鳴いて、それが妙に大きく聞こえた。
最初に動いたのは、ヘルガだった。
「こう……ごう?」
「ヘルガ」
エルゼの手が、正確に妹の口を塞いだ。 今朝と同じ角度だった。
「つまり、その」
母の声が震えていた。
「この子は、力を使うたびに……」
「はい」
「相手の数だけ……」
「はい」
母の顔から、血の気が引いていった。
「アルト」
母がこちらを見た。 目に涙が溜まっていた。
「あなた、そんな……そんな、むごい……」
アルトは目を伏せた。 膝の上で拳を握った。肩をわずかに落とした。
「……神の、御心ですので」
(すみません母上。息子は今、人生で一番幸せです)
「続いて、婚姻法上の扱いについてご説明します」
法務官が法典を開いた。 ぱらぱらと頁をめくる音だけが響く。
「ご存じの通り、男性が娶る妻の数は、爵位とスキルの稀少度に応じて下限と上限が定められております。準男爵家のご子息で、通常の稀少度であれば、下限は一名から二名」
「ええ」
母が頷いた。 アルトに優しい奥さんを一人。それが母の、ずっと変わらない願いだった。
「稀少度が上がるにつれて、下限も上がります。高位のスキルでは五名、十名と」
「……はい」
「フェンネル様の場合ですが」
法務官は表を指でなぞって、止まった。
もう一度なぞって、また止まった。
「稀少度が測定不能のため」
彼女は顔を上げた。
「下限は……算定できません」
母が、静かに後ろへ倒れた。
「母上!」 「お母様!」
エルゼとヘルガが両側から受け止める。 長椅子の背にもたれた母は、目を閉じて小さく何かを呟いていた。優しい奥さんを一人、と。
(下限、算定できません)
アルトは慌てて母の手を握りながら、頭の中でその言葉を繰り返していた。
(下限が、ない。つまり、上は)
「念のため伺いますが」
窓際から、父の声がした。
「上限は」
法務官は表をもう一度見た。
「……上限も、算定できません」
父は黙って懐に手を入れた。 包み紙にくるまれた小瓶を一本取り出して、封を切り、ひと息に飲み干した。
今朝の三本に続く、四本目だった。
(父上、それ何本までいけるやつなんですか)
母の手を握ったまま、アルトは顔を伏せた。
心配そうな顔を作った。 唇を噛んだ。 肩を震わせた。
全部、ちゃんとやった。
ただ、伏せた顔の内側だけは、どうにもならなかった。
(上限なし)
(下限なし)
(——っしゃああああああああ!!!)
「……母上、しっかりしてください」
アルトの声は、心から母を案じる息子の声だった。
母は数分で目を覚ました。
エルゼが水を飲ませ、ヘルガが扇いでいる。 法務官は書類を一枚取り出して、机の上に置いた。
「もう一点。稀少度が一定以上の男性は、すべての縁談を審議会に通していただく決まりになっております」
「審議会」
「正式名称を、稀少技能保有男性婚姻、しんぎ……」
法務官の舌が止まった。
「失礼。稀少技能保有男性婚姻審議しん……」
もう一度止まった。
彼女は咳払いを一つして、書類の上部を指さした。
「こちらに書いてある通りです」
書類の一番上に、長い名前が印刷されていた。 その下に、小さく括弧書きが添えてある。
(通称:縁談審議会)
「皆さま、そう呼んでおります」
(通称があるなら最初からそっちで言えばいいのに)
「申込みはすべて審議会が受け付け、順に審査いたします。ご家族のご意向も伺いますので、お母様には後日ご足労いただくことになります」
「……私が」
母が、弱々しく身を起こした。 その目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「私が、選んでいいのですね」
「ご意向として伺います」
「選びます」
母は姉の手を借りて座り直し、背筋を伸ばした。
「この子を、壊されるわけにはいきませんから」
法務官が、わずかに目を伏せた。
「お母様のご心配は、ごもっともです」
彼女は法典を閉じた。
「契りを重ねた男性は、多くの場合、女性を恐れて心を閉ざします。妻を迎えても寝所に怯え、家が立ちゆかなくなる。所謂傷物の男性の婚姻価値が下がるのはそのためです」
「ええ」
「ただ」
法務官はアルトを一瞥した。
「このスキルの価値がどこまで傷を上回るのか。それは、正直に申し上げて、前例がございません」
「つまり」
「審議会も、手探りになるかと」
母は唇を引き結んで頷いた。 アルトの手を、ぎゅっと握った。
「アルト。大丈夫よ。母様が、ちゃんと見ていますからね」
「……はい、母上」
(怯えて、心を閉ざす)
アルトは母の手を握り返しながら、真剣に考えていた。
(閉ざす予定、まったくないんだけどな)
法務官が書類にペンを走らせていた。 審議会の受付簿に綴じる、最初の一枚だった。
控えの間に戻ると、三人が待っていた。
「アルト殿」
ユリウスが立ち上がった。 朝より一段と顔が白い。もはや白というより、少し青かった。
「どうだった」
「ユリウス殿こそ」
ユリウスは口を開きかけて、閉じて、もう一度開いた。
「……【剣聖の器】」
「それは」
「高位だそうだ」
彼は長椅子に崩れ落ちた。
「下限、七名。すでに神殿の外に、申込みの使者が三人並んでいるらしい」
(七名で、この顔)
「僕は【園芸】だったよ」
フェリクスが、心底ほっとした顔で言った。
「平凡そのもの。下限は一名。母上が泣いて喜んでいた」
「おめでとうございます」
「ありがとう。……花を育てるのは、好きだしね」
彼はいつもの眠そうな目で、少しだけ笑った。
膝を抱えているのは、トビアスだった。
「僕は……低いほうでした」
「低い」
「【帳簿整理】。稀少度、下から二番目」
膝に顔を埋める。
「誰も、貰ってくれない……」
「そんなことはありませんよ」
「アルト殿はどうだったんですか」
三人の視線が集まった。
アルトは少しだけ間を置いた。 それから、目を伏せて言った。
「【ステータス貸与】。稀少度は、測定不能でした」
ユリウスが息を呑んだ。 フェリクスの笑みが消えた。 トビアスが膝から顔を上げた。
「測定、不能……」
「それで、発動条件が」
アルトは声を落として、法務官と同じ言葉を繰り返した。
三人とも、何も言わなかった。
ユリウスはゆっくりと立ち上がり、アルトの両肩に手を置いた。 その手が震えていた。
「……すまない」
「なぜ、ユリウス殿が謝るのです」
「七名で泣き言を言っていた自分が、恥ずかしい」
彼の目に、涙が浮かんでいた。
フェリクスが、アルトの手を両手で包んだ。
「何か困ったら、いつでも言ってほしい。僕にできることなら、何でもする」
トビアスは膝を抱えたまま、ぐしゃぐしゃの顔で言った。
「アルト殿、強いです……そんな運命なのに、泣いてない……」
「……ありがとう、皆」
アルトは三人の顔を順に見て、深く頭を下げた。
(ごめん)
(全然つらくない)
(むしろ今、俺がこの部屋で一番幸せ)
頭を下げたまま、アルトは心の中でもう一度だけ謝った。 友の厚意が温かいぶん、少しだけ胸が痛かった。
ほんの少しだけ。
帰りの馬車の中は、静かだった。
母はエルゼの肩にもたれて目を閉じていた。 ヘルガは窓の外を見ていた。ときどきこちらをちらりと見て、何か言いかけて、やめる。
「……アルト」
「はい、姉上」
「あたしね」
ヘルガの声が、いつもより小さかった。
「あんたの相手になる人がちゃんと優しい人だったら、それでいいと思う。いっぱいいても、一人でも」
「ヘルガ姉上」
「でも、嫌な人がいたら言いなさいよ。あたしが追い払うから」
アルトは少し驚いて、それから笑った。
「心強いです」
「……あと、弟じゃなかったら、その中に」
エルゼの手が、母の肩越しに伸びて、正確に妹の口を塞いだ。
母は目を閉じたままだった。 エルゼも、何も言わなかった。
(エルゼ姉上、母上を支えながらでもできるんだ、それ)
馬車が揺れて、フェンネル家の門が見えてきた。
玄関の前で、父がアルトを呼び止めた。
母と姉たちは先に屋敷へ入っていった。 春の夕暮れの中に、父と二人だけが残った。
父は何も言わなかった。
目の下の隈が、夕陽の中でいつもより深く見えた。 少し猫背の肩。穏やかで、愚痴を一度も言ったことのない人。三人の妻に、毎晩誠実に務めを果たしている人。
(この人は、どうしてこんなに疲れてるんだろう)
アルトは物心ついた頃から、ずっとそれが不思議だった。 三人もの妻がいて。毎晩誰かが待っていて。
(……ご褒美じゃね?)
その感想は、十八年間、誰にも言ったことがない。
父が、アルトの肩に手を置いた。
大きな手だった。 重くて、温かかった。
「……いいスキルで、よかったな」
父はそれだけ言って、屋敷へ入っていった。
アルトは玄関の前に立ったまま、その背中を見送った。
祝福だったのか。 皮肉だったのか。 それとも、もっと別の何かだったのか。
父の声は、どれとも取れる響きだった。
(……よかった、です。はい)
アルトは素直にそう受け取ることにした。
夜。
自室の寝台に仰向けになって、アルトは天井を見上げていた。
屋敷は静まり返っている。 母は早々に寝室へ下がった。廊下の向こうから、姉たちの話し声がかすかに聞こえていたが、それもやがて途切れた。
一度だけ、クッションに顔を埋めて叫んだような音がした。
(姉さんたち、今日は本当に心配かけたな)
天井の木目を目でなぞる。
【ステータス貸与】。 稀少度、測定不能。 下限、算定できません。上限も、算定できません。
発動条件。
(交合、および、精の授受)
十八年。
この世界に生まれて、女を目で追うたびに慌てて視線を逸らしてきた。 声に耳が向くたびに、何も聞こえなかったふりをしてきた。 誰にも言えず、誰にも相談できず、ただ貞淑な男を演じ続けてきた。
前世を入れれば、三十六年。
それが今日、全部ひっくり返った。
我慢しなくていい理由を、神様がくれた。 それも、国が動くほどの理由を。
アルトは天井に向かって、ゆっくりと右手を持ち上げた。
指を一本ずつ折り曲げる。 拳を握る。
強く。
誰にも見られない暗がりの中で、静かに、深く。
(……よし)
それだけだった。
叫びもしなかった。笑いもしなかった。 ただ、握った拳がしばらくほどけなかった。
目を閉じると、まぶたの裏に浮かぶものがあった。
白い法衣。銀の鎖。 胸の上と下を通る、二本の線。 陽だまりのミルクのような匂い。
それから、空色の目。
(……嬉しそう、なんですか)
あの声が、耳の奥に残っていた。
(バレたよな、あれ)
アルトは拳をほどいて、顔の上に腕を乗せた。
(どうしよう)
困っている、はずだった。 十八年守ってきた秘密を、初対面の神官に見抜かれたのだから。
それなのに。
(……また、会えるかな)
そう思っている自分がいた。
翌朝。
朝食の席に、神殿の使いが一通の書状を持って現れた。
封蝋には、王都大神殿の紋章。 父が受け取って封を切り、目を通して、それを母に渡した。
母が読み上げる。
「授与神アウレアの名において、通達する。アルト・フェンネル殿のスキルは前例なきものにつき、その安定を確かめるため、週に一度の定期鑑定を命ず」
母は顔を上げた。
「……週に一度。神殿に通うのね、あなた」
「そのようですね」
アルトはスープを口に運びながら、穏やかに答えた。
母は書状の最後の一行に目を落とした。
「担当神官」
一拍。
「セラフィナ・リース」
アルトのスプーンが、皿の縁に当たって小さな音を立てた。
「あら、どうしたの」
「いえ」
アルトは何事もなかったようにスプーンを置き直した。
「少し、手が滑りました」
(鎖の人だ)
向かいの席で、父が今朝の一本目の小瓶を開けていた。