男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~   作:朝凪小夜

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第20話 末席の者の方が、警戒されません

 

 

「……入りなさい」

 

扉の向こうから、疲れた声がした。

リゼットは扉を開けた。

院長室は、広かった。壁一面の書架に、魔導書と論文の束がぎっしりと並んでいる。大きな窓の外には、夜の王都の灯りが広がっていた。

その窓を背にして、ドロテア・クラムが机に向かっていた。

四十三歳。王立魔導院院長。理知的な美貌に、近頃は目の下に薄い影が差している。机の端には、胃薬の小瓶が置いてあった。

 

「ハーシェル」

 

院長は、眼鏡の奥から部下を見た。

 

「こんな時刻に。統計課の末席が、何の用?」

 

「ご報告が、あります」

 

リゼットは、両腕に抱えていた報告書の束を、机の上に置いた。

どさり、と重い音がした。

院長の目が、その束の厚みを測った。

 

「……フェンネル家の子息の件ね」

 

「はい」

 

「先月、統計課に記録を集めておくよう言ったのは、わたくしだったわね。分析を、手の空いている者に、と」

 

「はい。私に回ってまいりました」

 

院長は、束の一番上の頁をめくった。

 

一枚目は、表紙だった。

 

『観察記録対象:アルト・フェンネル【ステータス貸与】の機構、および対象の行動に関する分析』

 

二枚目は、表だった。

貸出の量と、加算の量。週ごと、相手ごとに並べた数字の列。その右端に、比の欄がある。

 

二。二。二。二。二。

 

院長の指が、ゆっくりと表をなぞった。

三枚目。

時の流れの図だった。天賦の儀から今日まで。神殿への来訪、臨時の申請、契約、追加の申請、救護室での転倒。

その図の下に、仮説が二つ。一つ目には、線が引いてあった。

院長の手が、三枚目で止まった。

 

『結論:対象は、意思では拒んでいない。問題は、肉体の処理能力である』

 

院長は、しばらくその一行を見ていた。

それから、顔を上げた。

 

「……これは」

 

「数字の通りです」

 

リゼットは、淡々と答えた。

 

「対象は、スキルの発動を拒んでいません。自分から、頻度を上げています。倒れたのは、意思の問題ではありません。体力の回復が、供給の頻度に追いつかなかったためです」

 

「ボトルネックは、肉体」

 

院長が、三枚目の最後の一行を読み上げた。

 

「はい」

 

院長は、残りの頁をめくっていった。

心拍計の記録紙の写し。茶屋の窓から書いた、三日分の出入り記録。石段の下の、花売りの件。

 

『反応の閾値、著しく低い』

 

院長の手が、そこで一度止まった。それから、何も言わずに次の頁へ進んだ。

最後の頁は、提案書だった。

 

『提案:滋養強壮魔導薬・第七号の定期納入による研究協力』

 

院長は、眼鏡を押し上げた。

 

「続けなさい」

 

リゼットは、背筋を伸ばした。

 

「第七号は、現行の法定上限の範囲で、疲労の回復量を三割増やします」

 

「知っているわ。うちの製品だもの」

 

「対象の問題は、回復量の不足です。第七号で、それは補えます」

 

リゼットは、一語ずつ区切って話した。報告書を読み上げるように、淡々と。

 

「まず、研究協力の名目で、対象に第七号を無償で提供します。効果を経過観察し、記録を取ります」

 

「無償」

 

「最初だけです」

 

院長が、わずかに眉を上げた。

 

「対象が回復すれば、供給の頻度を維持できます。頻度が維持できれば、各勢力は契約を続けられます。神殿も、騎士団も」

 

「つまり」

 

「つまり、対象が契約を続ける限り、第七号は必要になります」

 

リゼットは、二枚目の表を指さした。

 

「契約が一つなら、一本。二つなら、二本。三つなら、三本」

 

院長の目が、表の上で止まっていた。

 

「対象の契約者が増えるほど、第七号の需要は増えます。そして、その供給元は」

 

「当院だけ」

 

院長が、引き取った。

 

リゼットは、頷いた。

 

「現在、第七号の製造は当院の独占です。対象の体を支えられるのは、当院の薬だけです」

 

院長は、黙っていた。

窓の外で、夜の王都の灯りが瞬いていた。

 

「それと、もう一点」

 

リゼットは、提案書の最後の段落を指さした。

 

「契約の枠です」

 

「枠」

 

「天賦の儀の記録によれば、対象の契約の枠は、現在三。そのうち二つが、埋まっています。神殿と、騎士団」

 

院長の指が、机の上で止まった。

 

「残りは、一つ」

 

「はい」

 

リゼットは、まっすぐに院長を見た。

 

「当院が対象の体を支える立場になれば、その一枠について、将来、当院から請求する根拠が立ちます」

 

院長室が、静かになった。

院長は、ゆっくりと椅子の背にもたれた。

眼鏡を外す。目頭を揉む。眼鏡をかけ直す。

それから、机の上の報告書の束を、もう一度、最初から最後までめくった。

 

「よく、できているわ」

 

院長が、言った。

 

「数字の扱いが正確。結論に飛躍がない。提案の筋道も、通っている」

 

「ありがとうございます」

 

「統計課の末席に置いておくには、惜しいわね」

 

リゼットは、何も言わなかった。

ただ、白衣の袖の中で、指先がかすかに動いた。

 

「それで」

 

院長が、指を組んだ。

 

「窓口は、誰が務めるのかしら」

 

来た、とリゼットは思った。

院長の目は、穏やかだった。穏やかで、その奥に、はっきりとした光があった。

当院の一枠。

その椅子に、誰が座るのか。

 

「研究協力の窓口です」

 

院長は、ゆっくりと続けた。

 

「第七号の提供、経過観察、記録。いずれ、もっと深い協力関係に進むかもしれない。……当院を代表する者が、責任を持って当たるべきでしょうね」

 

当院を代表する者。

院長室に、それは一人しかいなかった。

リゼットは、眼鏡を押し上げた。

 

「院長ほどの権威の方が出られれば」

 

淡々とした声だった。報告書を読み上げるときと、少しも変わらない。

 

「いかに対象でも、萎縮するかと存じます」

 

院長の指が、組まれたまま止まった。

 

「対象は、この国の男性です。王立魔導院の院長が、自ら経過観察に現れれば、それは研究協力ではなく、査察に見えます」

 

「…………」

 

「警戒されれば、正確な記録は取れません。記録が取れなければ、研究は成り立ちません」

 

リゼットは、一拍置いた。

 

「末席の者の方が、警戒されません」

 

 

院長は、長いこと黙っていた。

机の端の、胃薬の小瓶に、指先が触れていた。

それから、ふっと息を吐いた。

 

「……理屈は、通っているわね」

 

「恐れ入ります」

 

「通っているから、困るのよ」

 

院長は、小瓶から指を離した。

 

「許可します。研究協力の窓口は、統計課、リゼット・ハーシェル。第七号の提供と経過観察を、あなたに任せます」

 

「拝命いたします」

 

「ただし」

 

院長は、眼鏡の奥から部下を見据えた。

 

「記録は、すべてわたくしに上げること。一行も、漏らさずに」

 

「はい」

 

「それから」

 

院長は、何か言いかけて、やめた。

当院の一枠のことだった。誰がそこに座るのか。

今ここで、それを口にするのは、院長としての品位に関わった。

 

「……下がってよろしい」

 

「失礼いたします」

 

リゼットは、一礼した。

報告書の束を、机の上に置いたまま。両腕を空にして、扉に向かった。

扉を開ける。廊下に出る。

扉を、閉めた。

 

魔導院の廊下は、静まり返っていた。

夜の八時半。研究棟の灯りは、どこも消えていた。

リゼットは、閉じた院長室の扉の前に立っていた。

白衣のボタンは、正しい穴に留まっていた。眼鏡も、ずり落ちていなかった。

髪の先には、紙の切れ端が、まだ一枚引っかかっていた。

彼女は、廊下の窓の方を向いた。

夜の王都の灯りが、窓の外に広がっていた。その灯りのどこかに、フェンネル家の屋敷がある。

リゼットは、右手を胸の前に持ち上げた。

指を、一本ずつ折り曲げた。

拳を、握った。

小さく。誰にも見られない暗がりの中で。

ほんの一瞬だけ、強く。

それから、拳をほどいた。

何事もなかったように白衣の裾を払って、統計課の片隅へ向かって歩き出した。

一定の歩幅で。等間隔の足音で。

彼女自身は、気づいていなかった。

その歩幅が、いつもよりほんの少しだけ、大きかったことに。

 

 

 

三日後。

フェンネル家の玄関に、王立魔導院の使いが現れた。

白衣の上に外套を羽織った、若い研究員だった。

 

「王立魔導院より、アルト・フェンネル殿へ」

 

研究員は、封筒と、小さな木箱を差し出した。

封筒には、魔導院の紋章の封蝋。木箱の中には、藁に包まれた小瓶が七本、整然と並んでいた。

母のマルタが、封筒を開けて読み上げた。

 

「研究協力のお願い。滋養強壮魔導薬・第七号、無償提供のご案内」

 

母は、小瓶を一本手に取った。

琥珀色の液体が、硝子の中で揺れた。

 

「まあ。魔導院のお薬ですって。体にいいのかしら」

 

アルトは、母の後ろから木箱を覗き込んでいた。

小瓶のラベルに、几帳面な字で書いてあった。

 

『第七号疲労回復法定上限内』

 

その下に、もう一行。

 

『経過観察担当:統計課リゼット・ハーシェル』

 

(……疲労回復)

 

アルトは、救護室の天井を思い出していた。

体力、現在一。

 

(これがあれば)

 

居間の奥で、父のハインツが朝の三本目の小瓶を飲み干していた。

包み紙にくるまれた、中身の見えない小瓶だった。

父は、木箱の中の琥珀色の小瓶をちらりと見て、それから、自分の手の中の空の小瓶を見た。

何も、言わなかった。

 

 

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