男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「……入りなさい」
扉の向こうから、疲れた声がした。
リゼットは扉を開けた。
院長室は、広かった。壁一面の書架に、魔導書と論文の束がぎっしりと並んでいる。大きな窓の外には、夜の王都の灯りが広がっていた。
その窓を背にして、ドロテア・クラムが机に向かっていた。
四十三歳。王立魔導院院長。理知的な美貌に、近頃は目の下に薄い影が差している。机の端には、胃薬の小瓶が置いてあった。
「ハーシェル」
院長は、眼鏡の奥から部下を見た。
「こんな時刻に。統計課の末席が、何の用?」
「ご報告が、あります」
リゼットは、両腕に抱えていた報告書の束を、机の上に置いた。
どさり、と重い音がした。
院長の目が、その束の厚みを測った。
「……フェンネル家の子息の件ね」
「はい」
「先月、統計課に記録を集めておくよう言ったのは、わたくしだったわね。分析を、手の空いている者に、と」
「はい。私に回ってまいりました」
院長は、束の一番上の頁をめくった。
一枚目は、表紙だった。
『観察記録対象:アルト・フェンネル【ステータス貸与】の機構、および対象の行動に関する分析』
二枚目は、表だった。
貸出の量と、加算の量。週ごと、相手ごとに並べた数字の列。その右端に、比の欄がある。
二。二。二。二。二。
院長の指が、ゆっくりと表をなぞった。
三枚目。
時の流れの図だった。天賦の儀から今日まで。神殿への来訪、臨時の申請、契約、追加の申請、救護室での転倒。
その図の下に、仮説が二つ。一つ目には、線が引いてあった。
院長の手が、三枚目で止まった。
『結論:対象は、意思では拒んでいない。問題は、肉体の処理能力である』
院長は、しばらくその一行を見ていた。
それから、顔を上げた。
「……これは」
「数字の通りです」
リゼットは、淡々と答えた。
「対象は、スキルの発動を拒んでいません。自分から、頻度を上げています。倒れたのは、意思の問題ではありません。体力の回復が、供給の頻度に追いつかなかったためです」
「ボトルネックは、肉体」
院長が、三枚目の最後の一行を読み上げた。
「はい」
院長は、残りの頁をめくっていった。
心拍計の記録紙の写し。茶屋の窓から書いた、三日分の出入り記録。石段の下の、花売りの件。
『反応の閾値、著しく低い』
院長の手が、そこで一度止まった。それから、何も言わずに次の頁へ進んだ。
最後の頁は、提案書だった。
『提案:滋養強壮魔導薬・第七号の定期納入による研究協力』
院長は、眼鏡を押し上げた。
「続けなさい」
リゼットは、背筋を伸ばした。
「第七号は、現行の法定上限の範囲で、疲労の回復量を三割増やします」
「知っているわ。うちの製品だもの」
「対象の問題は、回復量の不足です。第七号で、それは補えます」
リゼットは、一語ずつ区切って話した。報告書を読み上げるように、淡々と。
「まず、研究協力の名目で、対象に第七号を無償で提供します。効果を経過観察し、記録を取ります」
「無償」
「最初だけです」
院長が、わずかに眉を上げた。
「対象が回復すれば、供給の頻度を維持できます。頻度が維持できれば、各勢力は契約を続けられます。神殿も、騎士団も」
「つまり」
「つまり、対象が契約を続ける限り、第七号は必要になります」
リゼットは、二枚目の表を指さした。
「契約が一つなら、一本。二つなら、二本。三つなら、三本」
院長の目が、表の上で止まっていた。
「対象の契約者が増えるほど、第七号の需要は増えます。そして、その供給元は」
「当院だけ」
院長が、引き取った。
リゼットは、頷いた。
「現在、第七号の製造は当院の独占です。対象の体を支えられるのは、当院の薬だけです」
院長は、黙っていた。
窓の外で、夜の王都の灯りが瞬いていた。
「それと、もう一点」
リゼットは、提案書の最後の段落を指さした。
「契約の枠です」
「枠」
「天賦の儀の記録によれば、対象の契約の枠は、現在三。そのうち二つが、埋まっています。神殿と、騎士団」
院長の指が、机の上で止まった。
「残りは、一つ」
「はい」
リゼットは、まっすぐに院長を見た。
「当院が対象の体を支える立場になれば、その一枠について、将来、当院から請求する根拠が立ちます」
院長室が、静かになった。
院長は、ゆっくりと椅子の背にもたれた。
眼鏡を外す。目頭を揉む。眼鏡をかけ直す。
それから、机の上の報告書の束を、もう一度、最初から最後までめくった。
「よく、できているわ」
院長が、言った。
「数字の扱いが正確。結論に飛躍がない。提案の筋道も、通っている」
「ありがとうございます」
「統計課の末席に置いておくには、惜しいわね」
リゼットは、何も言わなかった。
ただ、白衣の袖の中で、指先がかすかに動いた。
「それで」
院長が、指を組んだ。
「窓口は、誰が務めるのかしら」
来た、とリゼットは思った。
院長の目は、穏やかだった。穏やかで、その奥に、はっきりとした光があった。
当院の一枠。
その椅子に、誰が座るのか。
「研究協力の窓口です」
院長は、ゆっくりと続けた。
「第七号の提供、経過観察、記録。いずれ、もっと深い協力関係に進むかもしれない。……当院を代表する者が、責任を持って当たるべきでしょうね」
当院を代表する者。
院長室に、それは一人しかいなかった。
リゼットは、眼鏡を押し上げた。
「院長ほどの権威の方が出られれば」
淡々とした声だった。報告書を読み上げるときと、少しも変わらない。
「いかに対象でも、萎縮するかと存じます」
院長の指が、組まれたまま止まった。
「対象は、この国の男性です。王立魔導院の院長が、自ら経過観察に現れれば、それは研究協力ではなく、査察に見えます」
「…………」
「警戒されれば、正確な記録は取れません。記録が取れなければ、研究は成り立ちません」
リゼットは、一拍置いた。
「末席の者の方が、警戒されません」
院長は、長いこと黙っていた。
机の端の、胃薬の小瓶に、指先が触れていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……理屈は、通っているわね」
「恐れ入ります」
「通っているから、困るのよ」
院長は、小瓶から指を離した。
「許可します。研究協力の窓口は、統計課、リゼット・ハーシェル。第七号の提供と経過観察を、あなたに任せます」
「拝命いたします」
「ただし」
院長は、眼鏡の奥から部下を見据えた。
「記録は、すべてわたくしに上げること。一行も、漏らさずに」
「はい」
「それから」
院長は、何か言いかけて、やめた。
当院の一枠のことだった。誰がそこに座るのか。
今ここで、それを口にするのは、院長としての品位に関わった。
「……下がってよろしい」
「失礼いたします」
リゼットは、一礼した。
報告書の束を、机の上に置いたまま。両腕を空にして、扉に向かった。
扉を開ける。廊下に出る。
扉を、閉めた。
魔導院の廊下は、静まり返っていた。
夜の八時半。研究棟の灯りは、どこも消えていた。
リゼットは、閉じた院長室の扉の前に立っていた。
白衣のボタンは、正しい穴に留まっていた。眼鏡も、ずり落ちていなかった。
髪の先には、紙の切れ端が、まだ一枚引っかかっていた。
彼女は、廊下の窓の方を向いた。
夜の王都の灯りが、窓の外に広がっていた。その灯りのどこかに、フェンネル家の屋敷がある。
リゼットは、右手を胸の前に持ち上げた。
指を、一本ずつ折り曲げた。
拳を、握った。
小さく。誰にも見られない暗がりの中で。
ほんの一瞬だけ、強く。
それから、拳をほどいた。
何事もなかったように白衣の裾を払って、統計課の片隅へ向かって歩き出した。
一定の歩幅で。等間隔の足音で。
彼女自身は、気づいていなかった。
その歩幅が、いつもよりほんの少しだけ、大きかったことに。
三日後。
フェンネル家の玄関に、王立魔導院の使いが現れた。
白衣の上に外套を羽織った、若い研究員だった。
「王立魔導院より、アルト・フェンネル殿へ」
研究員は、封筒と、小さな木箱を差し出した。
封筒には、魔導院の紋章の封蝋。木箱の中には、藁に包まれた小瓶が七本、整然と並んでいた。
母のマルタが、封筒を開けて読み上げた。
「研究協力のお願い。滋養強壮魔導薬・第七号、無償提供のご案内」
母は、小瓶を一本手に取った。
琥珀色の液体が、硝子の中で揺れた。
「まあ。魔導院のお薬ですって。体にいいのかしら」
アルトは、母の後ろから木箱を覗き込んでいた。
小瓶のラベルに、几帳面な字で書いてあった。
『第七号疲労回復法定上限内』
その下に、もう一行。
『経過観察担当:統計課リゼット・ハーシェル』
(……疲労回復)
アルトは、救護室の天井を思い出していた。
体力、現在一。
(これがあれば)
居間の奥で、父のハインツが朝の三本目の小瓶を飲み干していた。
包み紙にくるまれた、中身の見えない小瓶だった。
父は、木箱の中の琥珀色の小瓶をちらりと見て、それから、自分の手の中の空の小瓶を見た。
何も、言わなかった。