男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
「では、服用してください」
白衣の研究員が、記録板を構えて言った。
「三十分間、経過を観察します」
王立魔導院、研究棟の三階。観察室と札のかかった小部屋だった。
白い壁。白い床。窓が一つ。机が一つ。椅子が二脚。壁際に、管と金属片のついた見覚えのある機械。
付き添いのエルゼは、扉の外の長椅子で待っていた。研究協力の観察では、魔導院の研究員が立会人を務めれば、付き添いは扉の外でよい。そういう規程になっているらしかった。
その立会人が、観察する本人だということには、誰も触れなかった。
アルトは、椅子に座っていた。
手の中に、琥珀色の小瓶があった。
『第七号疲労回復法定上限内』
向かいの椅子に、研究員が座っていた。
灰銀色の髪が、椅子の背を越えて床まで垂れていた。あちこちが跳ねて、うねって、床の上で小さな渦を巻いている。
眼鏡の奥の目は、琥珀がかった茶色だった。その目が、アルトの手元の小瓶を、まばたきもせずに見つめていた。
(……この人、どこかで)
アルトは、思い出した。
健康診断の日。廊下の向こうから歩いてきた、書類の山。その上からはみ出していた、灰銀の髪。
すれ違いざまに嗅いだ、紙とインクと、少し焦げたような匂い。それから、日向の猫のような匂い。
「統計課のリゼット・ハーシェルです」
研究員は、記録板から目を上げずに名乗った。
「本日より、研究協力の経過観察を担当します」
「アルト・フェンネルです。よろしくお願いいたします」
「存じております」
リゼットは、記録板にペンを走らせた。
「十時零分三十秒。対象、入室後に挨拶。声の調子、平常」
(え、今の挨拶も記録された?)
小瓶の栓を抜いた。
かすかに、甘い匂いがした。蜂蜜と、何かの薬草を合わせたような。
一息に、飲んだ。
喉を、とろりとしたものが滑り落ちていった。胃のあたりが、じんわりと温かくなる。
「十時一分十五秒。服用完了」
リゼットが、淡々と言った。
「心拍、体温、発汗。今から計測します。……計測器を、お付けしても」
「どうぞ」
リゼットが立ち上がった。
機械から伸びる金属片を一つずつ手に取って、アルトの手首と、首筋と、胸元に貼っていく。
近かった。
計測器を貼るために、彼女は身を屈めた。眼鏡が、少しずり落ちた。彼女はそれを、人差し指で押し上げた。
紙と、インクと、焦げた魔石の匂い。徹夜明けの、少し濃い茶の匂い。
そして、その奥に。
日向の猫。
(……っ)
「十時二分四十秒。計測開始」
リゼットは、何事もなかったように椅子に戻った。
機械の上で、ペンが動き始めた。細長い紙に、規則正しい小さな波が描かれていく。
五分が過ぎた。
体が、軽くなってきた。
胃のあたりの温かさが、腕に、脚に、指先にまで広がっていく。鉛のようだった肩が、ふっと緩んだ。
(……これ、すごいな)
救護室で寝ていた頃の、あの重さが嘘のようだった。疲れが溶けていく。体の底に溜まっていた澱が、少しずつ流れ出していく感じがした。
「十時七分二秒。対象の姿勢、変化。肩の位置、約二指分下降」
リゼットが記録していた。
「表情、緩和。……体感の変化は、ありますか」
「体が、軽くなってきました」
「具体的に」
「肩が。それから、腕と脚の重さが、少しずつ抜けていく感じがします」
「十時七分二十八秒。対象申告、肩・腕・脚の重量感の減少」
ペンが、淡々と走る。
アルトは、彼女の手元を見ていた。
記録板の上の字は、小さく、正確だった。一行ずつ、定規で引いたようにまっすぐ並んでいる。時刻は、秒まで。
そして、ペンを持つ手の、白衣の袖口。
ボタンが、一つずつずれていた。
上から二番目の穴に、一番上のボタンが。三番目の穴に、二番目のボタンが。一番下のボタンは、どの穴にも入らずにぶら下がっていた。
(……秒単位で記録してる人の、ボタンが)
(全部、ずれてる)
十分が過ぎた。
リゼットは、ずっと同じ姿勢だった。
背筋を伸ばして、記録板を膝に置いて、機械の紙とアルトの顔を交互に見ている。表情は、変わらない。
最初の五分は、何ともなかった。
七分を過ぎたあたりから、アルトは落ち着かなくなってきた。
(……見られてる)
当たり前だった。経過観察なのだから。
ただ、見られ方が、今まで知っているどれとも違った。
侍女たちの目は、誘いだった。セラフィナの目は、困りながらも熱を帯びていた。クラウディアの目は、命令を待っていた。
この人の目は、何も求めていなかった。
ただ、見ていた。
見て、書いていた。
「十時十二分五秒。対象の視線、計測者の袖口に向く。約三秒」
(え)
「十時十二分九秒。対象の視線、計測者の顔に戻る」
(ちょっと待って)
「心拍、上昇。毎分七十二から八十一へ」
機械のペンが、小さく跳ねた。
リゼットは、それも記録した。
眉一つ、動かさなかった。
(俺が袖口を見たのも、顔を見たのも、心拍が上がったのも)
(全部、記録されてる)
(淡々と)
(何の感情もなく)
その淡々さが、なぜか、ひどく刺さった。
十五分。
アルトは、窓の外を見ることにした。
見ていれば、記録されない。たぶん。
「十時十六分三十秒。対象、窓の外に視線を固定。意図的な回避と推定」
(推定された)
「心拍、八十四」
(上がってる)
窓の外では、魔導院の中庭の木が風に揺れていた。
見ていると、少し落ち着いた。
と思ったら、背後で衣擦れの音がした。
リゼットが、椅子から立ち上がっていた。
「計測器の位置を、確認します」
彼女はアルトの横に来て、身を屈めた。
首筋に貼った金属片を、指先で押さえる。
冷たい指だった。試薬で少し荒れた、細い指。
その指が、首筋の脈の上で止まった。
「……脈拍、直接確認します。少々、そのままで」
彼女は、懐から小さな砂時計を取り出した。
ひっくり返す。
砂が、落ち始めた。
首筋に、彼女の指先。耳のすぐ横に、彼女の顔。
眼鏡越しの目が、砂時計を見ていた。唇が、かすかに動いていた。数を数えているのだった。
吐息が、首筋をかすめた。
(……っ)
(近い、近い、近い)
日向の猫の匂いが、すぐそこにあった。
(っ、っ)
砂時計の砂が、落ちきった。
「毎分、九十二」
リゼットは、首筋から指を離した。
記録板を取って、書いた。
「十時十八分四十秒。直接触診による脈拍、毎分九十二。計測器の値と一致。機器の故障ではないことを確認」
彼女は、淡々と言った。
「前回の健康診断の記録紙と、同じ傾向です」
(前回の)
(あの、山脈の)
(あれ、この人の机に行ってたんだ)
(あれも、読まれてたんだ)
(記録されてる……全部……)
(わぁ……)
「……興味深い、ですね」
アルトの声は、穏やかだった。
三十分が、過ぎた。
「十時三十二分零秒。経過観察、終了します」
リゼットが記録板を閉じた。
立ち上がって、アルトの体から計測器を一つずつ外していく。手首。首筋。胸元。
最後の一つを外し終えると、彼女は壁際の小さな水晶板を指さした。
「鑑定を、お願いします。服用後の数値を確認します」
アルトは水晶板に手を置いた。
体力素24/貸出−11/疲労−3現在10
「疲労、マイナス三」
リゼットが、表示を読み上げた。
「服用前の神殿の記録では、マイナス十でした」
彼女はペンを走らせた。
「回復量の増加、約三割。法定上限の想定値と一致」
アルトは、自分の手のひらを見た。
握ってみる。力が入った。
救護室では、拳も作れなかったのに。
(これがあれば)
(これがあれば、また、ちゃんと)
「ハーシェル殿」
「はい」
「ありがとうございます。……本当に、体が楽になりました」
リゼットのペンが、一瞬だけ止まった。
それから、何事もなかったように動き出した。
「十時三十三分十秒。対象、謝意を表明」
(それも記録するんだ)
アルトが観察室を出ていった後。
リゼットは、一人で机に向かっていた。
記録板を開く。三十分間の記録を、清書用の羊皮紙に写していく。
一行ずつ。秒まで正確に。
十時十二分五秒。対象の視線、計測者の袖口に向く。
そこで、彼女は自分の袖口を見た。
ボタンが、一つずつずれていた。
彼女は、それを直さなかった。直す理由が、特に見当たらなかったからだ。
ただ、少しだけ、袖口を机の下に引っ込めた。
清書を続ける。
最後の行まで写し終えると、彼女はペンを置いた。
それから、もう一度ペンを取った。
清書の一番下に、一行を書き足した。
『経過観察時間:三十分。データの安定のため、次回より四十分に延長を提案』
彼女は、その一行を見つめた。
三十分で、データは十分に取れていた。回復量の増加は、想定値と一致した。追加で観察すべき項目は、特になかった。
それでも、彼女はその一行を消さなかった。
インクが乾くのを待って、羊皮紙を丁寧に揃えた。
角が、一枚もずれなかった。