男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
経過観察の時間が、延びていった。
二回目は、四十分だった。
「データの安定のため、です」
リゼットは、記録板から目を上げずに言った。
三回目は、五十分だった。
「前回のデータに、ばらつきが見られましたので」
四回目は、六十分だった。
「……データの、安定のため、です」
(さっきも聞いた)
アルトは、観察室の椅子に座って、琥珀色の小瓶を飲み干した。
体が軽くなる。疲れが溶けていく。
第七号を飲み始めてから、二週間が経っていた。救護室で寝ていた頃が、遠い昔のようだった。訓練場では倒れなくなり、神殿と騎士団の予定表の赤い字も、なんとかこなせるようになっていた。
その代わり、週に二回、この白い部屋に来るようになった。
リゼットは、いつも同じだった。
同じ姿勢。同じ声。同じ淡々とした記録。時刻は秒まで。表情は、変わらない。
変わっているのは、少しずつだけだった。
二回目のとき、彼女は計測器を貼り直すのに、一回目より少しだけ長くかかった。三回目のとき、直接の脈拍確認が、一回から二回に増えた。四回目のとき、彼女の椅子が、机一つ分ほど、アルトの方に寄っていた。
「椅子の位置、変わりましたか」
アルトが聞くと、リゼットは記録板から顔を上げた。
「計測の精度を上げるためです」
「精度」
「表情の微細な変化を、正確に読み取るためには、距離が近い方が」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「……データの安定のため、です」
(三回目)
五回目の観察の日だった。
部屋に入ると、リゼットが壁際の機械の前で、動かずに立っていた。
背中を向けている。
「ハーシェル殿?」
「……少々、お待ちください」
声は、いつも通り淡々としていた。
ただ、体が、少しも動いていなかった。
アルトは近づいた。
それで、分かった。
彼女の灰銀の髪が、計測器に絡まっていた。
機械の裏側の、管と金属片が束になったあたり。床まで垂れた長い髪が、その隙間に入り込んで、ぐるぐると巻きついていた。
彼女が動こうとするたびに、髪が引っ張られて、頭が機械の方へ引き戻される。
「……計測器の調整をしていたら、こうなりました」
「いつから」
「十時二分からです」
今は、十時九分だった。
「七分も」
「無理に引けば、機器が壊れますので」
リゼットは、背を向けたまま言った。
「髪を引けば、髪が抜けます。機器を引けば、機器が壊れます。どちらも、損失です」
「……では」
「解いて、いただけますか」
彼女は、首だけを少しだけ動かして、肩越しにアルトを見た。
眼鏡が、ずり落ちていた。
「私の手は、この角度では届きませんので」
アルトは、機械の裏側に回り込んだ。
膝をつく。
髪は、ひどい有様だった。
管と管のあいだに、何重にも巻きついている。一本の線を辿ろうとすると、途中で別の線と交差して、分からなくなる。
「……これは、少し時間がかかりますね」
「構いません」
リゼットは、機械に頭を引き寄せられたまま、じっと立っていた。
アルトは、髪の一房を手に取った。
柔らかかった。
手入れをしていないと聞いていた。跳ねて、うねって、あちこちに絡まる髪。
それなのに、指の間を滑る感触は、驚くほど細く、柔らかかった。
一本ずつ、管から外していく。
髪を辿るうちに、少しずつ、彼女の方へ近づいていく。機械の裏から、横へ。横から、彼女の肩口へ。
「……ハーシェル殿」
「はい」
「切ろうと思ったことは、ないのですか」
「あります」
「では、なぜ」
「切るのは、面倒なので」
淡々とした答えだった。
「切るには、理髪店へ行く必要があります。予約を取り、出向き、待ち、切ってもらい、代金を払い、帰る。その一連の手順に、少なく見積もって三刻かかります」
「三刻」
「伸ばしておけば、手順はゼロです」
(合理的なのか、ずぼらなのか)
(たぶん、両方だ)
最後の一房が、彼女の首筋の近くで絡まっていた。
管の一本が、彼女の肩口を回り込むように伸びていて、そこに髪が巻きついている。
アルトは、彼女の真後ろに立った。
手を伸ばす。彼女の肩の上で、髪を管から外していく。
近かった。
彼女の後頭部が、アルトの顎のすぐ下にあった。
灰銀の髪の匂いが、した。
紙でも、インクでもなかった。焦げた魔石でも、徹夜の茶でもなかった。
日向の匂いだった。
縁側で丸くなって眠っている、猫の背中のような。陽にあたって温まった、柔らかい毛の匂い。
(……っ)
指先が、彼女の首筋に触れた。
彼女の肩が、ぴくりと動いた。
「……失礼」
「いえ」
リゼットの声は、淡々としていた。
ただ、ほんの少しだけ、息が浅かった。
アルトは、最後の一房を管から外そうとした。
外れない。もう少しだけ、近づく。
彼女の髪に、鼻先が触れそうになった。
日向の匂いが、一気に濃くなった。
彼女の吐息が、聞こえた。浅く、規則正しく。数を数えているような。
(髪……)
(近い……)
(日向……猫……あったかい……)
(むり)
最後の一房が、外れた。
「……解けました」
アルトは一歩下がって、穏やかに言った。
リゼットが、ゆっくりと体を起こした。
首を回す。肩を回す。それから、振り返った。
眼鏡が、ずり落ちていた。
「感謝します」
彼女は眼鏡を押し上げて、記録板を手に取った。
「十時二十一分四十秒。髪の解除、完了。所要時間、十二分」
それから、一拍置いて。
「……対象の協力に、謝意を」
その日の観察は、六十分だった。
計測の合間に、リゼットは魔導院の構想を話した。
「当院では、比較実験を計画しています」
「比較」
「貸与の対象となるステータスを、日ごとに変えて、効果の違いを測ります。魔力を貸した日。体力を貸した日。知力を貸した日」
彼女は記録板をめくった。
「現在、フェンネル殿の貸出は、筋力、体力、敏捷、器用の四項目から自動的に引き出されています。神殿の記録では、リース神官への加算は魔力のみ」
「……そうなのですか」
「はい。つまり、項目を転換して貸しています。では、同じ項目から同じ項目へ貸せば、どうなるのか」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「何が研究に活きるか、分かりません。ですので、色々と試したいのです」
その声は、淡々としていた。
けれど、ほんのかすかに、弾んでいた。
アルトはそれを聞きながら、思っていた。
(この人、たぶん、研究の話をしてるときが一番楽しそうだ)
(……顔は、全然変わってないけど)
その夜。
神殿の小鑑定室で、セラフィナが待っていた。
月曜の、定例の夕刻だった。
鑑定を終えて、記録簿に数値を書き写す。一画も、ずらさずに。
それから、彼女は燭台の灯りの中で、アルトの方へ身を寄せた。
いつものように。
その途中で、彼女の動きが止まった。
「……フェンネル様」
「はい」
セラフィナは、アルトの肩口のあたりに顔を寄せていた。
鼻先が、かすかに動いていた。
「今日は、魔導院の方に」
「ええ。経過観察で」
「……そうですか」
セラフィナは、ゆっくりと身を引いた。
それから、立ち上がって、壁際の棚の木箱を開けた。
鎖を一本、取り出した。
縛られた手で、器用に、自分の胸の上に巻いていく。いつもより、少しだけきつく。
五本目だった。
「……セラフィナ殿」
「お気になさらず」
彼女は、鎖を巻き終えて、こちらを向いた。
いつもの、柔らかい微笑みだった。
「紙と、インクと」
彼女は、小さく言った。
「それから、何か、陽だまりのような匂いがいたしましたので」
(陽だまり)
(それ、セラフィナ殿の匂いの方なんだけど)
(いや、違う、あれは日向の猫で、こっちは陽だまりのミルクで)
(似てるけど、違う)
(……なんで俺、匂いの区別がつくようになってるんだ)
セラフィナは、五本目の鎖の端を、ぎゅっと握った。
燭台の灯りを、いつもより少しだけ強く吹き消した。
翌週。
フェンネル家に、王立魔導院から正式な書状が届いた。
母が封を切って、読み上げた。
「貸与対象ステータスの比較実験への、ご協力のお願い」
母は、書状の続きを目で追った。
「実験には、既存の契約者の方々にもご協力いただきたく……神殿のリース神官、騎士団のヴァイス副長……」
母は、首を傾げた。
「契約者の方々も、一緒に?まあ、大がかりねえ」
書状の最後に、几帳面な字で一行が添えてあった。
『実験期間中の経過観察は、九十分を予定しております』
(九十分)
(ついに、九十分)
アルトは、窓の外を見た。
初夏から夏へ、陽射しが強くなり始めていた。