男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
アルトの首に、札が下がっていた。
木の板に紐を通したものだった。板の表面に、几帳面な字で書いてある。
『検体一号』
「……これは」
「識別のためです」
リゼットが、記録板を構えたまま言った。
「実験記録の照合に用います。取り違えがあってはなりませんので」
「検体は、私一人ですよね」
「現在は、そうです」
「取り違える相手が、いないのでは」
「将来、検体が増えた場合に備えています」
(増える予定があるんだ)
王立魔導院、研究棟の実験棟。
観察室より、ずっと広い部屋だった。壁際に、大小の計測器がずらりと並んでいる。中央に実験台。その周りを、白衣の研究員たちが行き来していた。
実験台の上に、アルトは座らされていた。
首から、『検体一号』の札を下げて。
「本日より、比較実験を開始します」
リゼットが、部屋の中央で告げた。
その声は、観察室で話すときよりも、ほんの少しだけ大きかった。周りの研究員たちに聞かせるための声だった。
「協力者のお二人を、ご紹介します」
部屋の入口に、二人の女性が立っていた。
一人は、金色の髪に、白い法衣。銀の鎖を、五本。
一人は、黒髪を束ねた、騎士服の長身。腰に剣を佩いて、直立している。
セラフィナと、クラウディアだった。
(……あ)
(三人が、同じ部屋に)
救護室で、二人は同じ枕元に座っていた。今日はそこに、もう一人が加わっていた。
セラフィナが、リゼットを見た。
鼻先が、かすかに動いた。
何かを確かめるように。陽だまりのような匂い、と言っていた、あの匂いを。
リゼットは、その視線に気づかなかった。記録板を見ていた。
「リース神官。ヴァイス副長。ご協力に感謝します」
「……こちらこそ」
セラフィナが、柔らかく微笑んだ。
微笑みながら、胸の前の鎖を、そっと握っていた。
「任務として、全力を尽くします」
クラウディアが、直立のまま答えた。
「実験の手順を、説明します」
リゼットが、黒板の前に立った。
チョークを取る。一本の線を引く。定規を当てたように、まっすぐに。
「現在、検体の貸出は、自動的に行われています。筋力、体力、敏捷、器用の四項目から引き出され、受領側の一項目に加算されています」
黒板に、図が描かれていく。
検体の四項目から、矢印が伸びて、神官の魔力へ。同じく四項目から、副長の敏捷と体力へ。
「これを、検体の意思で、意図的に変えられるかどうか。まず、それを確かめます」
「意図的に」
アルトが、実験台の上から聞いた。
「はい。検体が、自分で、どの項目から、どの項目へ貸すかを選べるのかどうか」
リゼットは、チョークを置いた。
「これまで、誰もそれを試していません。天賦の儀の記録にも、方法は書いてありません」
(……確かに)
(考えたことも、なかった)
実験の初日は、魔力だった。
「検体は、目を閉じて、自分の魔力を意識してください」
リゼットが言った。
「それから、その魔力を、リース神官の魔力へ向けて送るように、意図してください」
アルトは目を閉じた。
(魔力)
(自分の、魔力)
体の中に、何かがあるのが分かった。ぼんやりとした、温かいもの。今まで意識したことのなかったもの。
(これを、セラフィナ殿の、魔力へ)
意図した。
体の中で、何かが動いた。
温かいものが、ふっと抜けていく感覚。細い糸を通って、どこかへ流れていく。
部屋の向こうで、セラフィナが小さく声を上げた。
「……あ」
「鑑定を」
研究員の一人が、セラフィナの前の水晶板を読み上げた。
「リース神官、魔力。加算、八十八。……先ほどまで七十でした」
部屋の中が、ざわついた。
「検体の鑑定を」
アルトの前の水晶板が、光った。
魔力素19/貸出−6現在13
リゼットが、記録板の上でペンを走らせた。
「検体の魔力から、六を貸出。リース神官の加算、十八増」
彼女は、手を止めた。
「……六に対して、十八」
ペンが、記録板の上で、静かに計算をしていた。
「倍率二で、十二のはずです。それが、十八」
眼鏡を押し上げる。
「同じ項目から同じ項目へ貸した場合、効率が、一・五倍に上がる」
研究員たちが、一斉にリゼットを見た。
「……同種の、貸与」
リゼットは、黒板に向かった。
チョークで、新しい行を書き足す。
『意図による配分:可能』
『同種貸与:効率一・五倍(暫定)』
それから、振り返った。
「検体は、自分の意思で、貸す項目を選べます。そして、同じ項目同士なら、より効率よく貸せます」
アルトは、実験台の上で、自分の手のひらを見ていた。
(選べるんだ)
(今まで、勝手に持っていかれてたのが)
(自分で、選べる)
二日目は、体力だった。
クラウディアに、体力を貸す。
「……っ」
クラウディアが、小さく息を呑んだ。
それから、手のひらを握ったり開いたりした。
「体が、軽い。……いえ、軽いのではなく、底が深くなった、と言うべきか」
彼女は、実験棟の床を、その場で何度か踏みしめた。
「これなら、半日は走れます」
「記録します」
三日目は、知力だった。
セラフィナに、知力を貸す。
セラフィナは、目を瞬いた。
それから、手元の経典を開いて、頁をめくり始めた。
一頁。二頁。三頁。めくる速さが、どんどん上がっていく。
「……まあ」
彼女は、経典から顔を上げた。
「何度読んでも分からなかった注釈が、全部、分かります」
「記録します」
アルトは、実験台の上で、その様子を見ていた。
首から、『検体一号』の札が下がっていた。
(検体……)
(俺、完全に、実験材料扱いされてる)
(……悪くない)
(なんか、悪くない)
研究員たちが、自分を取り囲んで、数字を読み上げる。三人の女性が、自分の貸したもので、目を輝かせている。
この世界の男が、こんなふうに扱われることはない。
守られて、付き添われて、遠ざけられる。それが、男だった。
ここでは、違った。
自分の体が、数字で語られていた。
(……悪くない)
四日目。
「本日は、精神を試します」
リゼットが、記録板を構えて言った。
「検体の精神値は、八十六。一般男性の五倍を超えています。貸出に、どのような影響があるのか」
「精神、ですか」
アルトは、少しだけ身構えた。
精神八十六。十八年間の、我慢の数字。
「少量で構いません。リース神官へ、精神を、十だけ」
アルトは目を閉じた。
(精神)
体の中の、もっと奥の方に、それはあった。
魔力のような温かいものではなかった。重くて、硬くて、冷たいもの。
ずっと、何かを押さえつけてきたもの。
(十だけ)
意図した。
その硬いものが、ほんの少しだけ、ほどけた。
ほどけて、細い糸を通って、流れていった。
アルトは、目を開けた。
最初に、目に入ったのは、リゼットだった。
記録板を構えて、こちらを見ていた。
灰銀の長髪。今日は、なぜか、後ろで一つに束ねてあった。
束ね方は、ひどく下手だった。紐で無理やりまとめたせいで、あちこちから髪がはみ出して、うなじのあたりで跳ねていた。
いつもは隠れている、細いうなじが、見えていた。
アルトの口が、勝手に動いた。
「その髪型……」
部屋が、静まり返った。
アルトは、口を閉じた。
(あっ)
(今、何を言いかけた)
(その髪型、の続きを、何て言うつもりだった)
(いいですね?かわいいですね?うなじが見えて最高ですね?)
(どれも駄目だ)
リゼットが、記録板を構えたまま、固まっていた。
「……その髪型、が、何でしょうか」
「いえ」
アルトは、穏やかに微笑んだ。
「なんでも、ありません」
(あぶねえ)
(精神十貸しただけで、これ)
(我慢が、漏れる)
セラフィナが、部屋の向こうから、じっとアルトを見ていた。五本の鎖を、ぎゅっと握りしめて。
クラウディアは、直立したまま、灰色の目だけをアルトとリゼットの間で往復させていた。
リゼットは、しばらく記録板を見下ろしていた。
それから、ペンを走らせた。
「十一時十四分。精神の貸与時、検体の発言に変化。通常の発言制御が、一時的に緩むと推定」
淡々とした声だった。
ただ、ペンの動きが、いつもより少しだけ遅かった。
「……髪型についての言及は、途中で中断」
その夜。
統計課の片隅で、リゼットは実験の報告書をまとめていた。
意図による配分、可能。同種貸与、効率一・五倍。体力の貸与、魔力の貸与、知力の貸与。それぞれの効果。
精神の貸与。検体の発言に変化。
一行ずつ、清書していく。
報告書の最後の頁には、計測値の一覧表があった。
検体の心拍。協力者二人の心拍。四日間、毎時間ごとの、全員の数値。
それから、計測者自身の心拍の欄。
実験の公正を期すため、計測者も計測される。それが、魔導院の規程だった。彼女は四日間、自分の手首にも計測器を貼っていた。
リゼットは、一覧表の数字を、上から順に確かめていった。
検体。正常に記録されている。リース神官。正常。ヴァイス副長。正常。
計測者。
一日目。正常。二日目。正常。三日目。正常。
四日目。十一時十四分。
その欄だけが、空白だった。
前後の時刻は、ちゃんと埋まっていた。十一時十三分も、十一時十五分も。
十一時十四分の欄だけが、空いていた。
リゼットは、ペンを持ったまま、その空白を見つめていた。
記録の漏れだった。彼女が魔導院に入って五年で、初めての漏れだった。
彼女は、思い出そうとした。
十一時十四分に、何をしていたか。
その髪型……
検体の声が、耳の奥で鳴った。
リゼットは、ペンを置いた。
それから、自分の手を、後ろへ伸ばした。
うなじに、触れた。
今朝、慣れない手つきで、一つに束ねた髪。紐から、髪がはみ出して、跳ねていた。
彼女は、そのはみ出した髪を、指先でそっとつまんだ。
統計課の片隅の、窓のない部屋で。
しばらく、そのまま動かなかった。