男の貞操が国宝の世界で、俺のスキルは"繋がらないと"発動しない ~18年我慢した転生貴族、全部いただきます~ 作:朝凪小夜
経過観察は、ついに九十分に延び、当たり前になっていた。
「データの安定のため、です」
リゼットは、もう理由を言うとき、記録板から顔を上げなかった。
夕刻の観察室。窓の外が、茜色から藍色へ変わりかけていた。
比較実験が終わってから、一週間が経っていた。
実験の日々のあいだ、観察は昼に行われていた。実験が終わると、観察は夕刻の最後の枠に移った。
研究棟の他の部屋は、もう灯りが消えている。扉の外の長椅子では、付き添いのヘルガが揚げ菓子の袋を抱えて、うとうとしていた。
琥珀色の小瓶を、飲み干した。
体の奥に、熱が灯る。
いつもの感覚だった。疲れが溶けて、四肢に力が戻ってくる。鉛のようだった肩が、ふっと軽くなる。
「十八時二分十秒。服用完了」
リゼットが、記録を始めた。
「計測器を、お付けします」
彼女が立ち上がって、アルトの横に来る。
身を屈める。手首に、首筋に、胸元に。金属片を一つずつ貼っていく。
この一か月で、何十回と繰り返した手順だった。
ただ、その日は、少しだけ違った。
彼女の髪が、束ねてあった。
比較実験の四日目と、同じように。紐で無理やりまとめた、下手な束ね方。あちこちから髪がはみ出して、うなじのあたりで跳ねている。
あの日以来、彼女は毎回、髪を束ねてくるようになっていた。
理由は、聞いていなかった。聞いたら、また何かが漏れそうな気がしたからだ。
「十八時三分四十秒。計測開始」
リゼットが、椅子に戻った。
その椅子は、もう机一つ分どころではなかった。アルトの椅子の、すぐ斜め前にあった。
膝と膝が、触れそうな距離だった。
十分が過ぎた。
体が、軽かった。
軽いというより、満ちていた。
第七号の効き目が、いつもより強い気がした。いや、薬は同じだ。強くなったのは、体の方だった。
この一か月、第七号を飲み続けて、疲れが少しずつ抜けていった。騎士団の訓練で、素の力が伸びた。神殿と騎士団の予定表の赤い字を、ようやくこなせるようになった。
疲労の欄が、ほとんどゼロになっていた。
(……体が、空っぽじゃない)
天賦の儀から、初めてだった。
ずっと、空っぽだった。貸して、消耗して、訓練して、また消耗して。いつも、底が見えていた。
それが今、満ちていた。
そして、満ちた体の奥で、何かが目を覚ましかけていた。
「十八時十三分。心拍、上昇。八十八」
リゼットが、淡々と記録した。
二十分。
リゼットが、記録板から顔を上げた。
眼鏡越しに、こちらを見る。表情の微細な変化を読み取るために。精度を上げるために。
アルトは、その目を見返していた。
琥珀がかった茶色の目。眼鏡が、少しずり落ちている。
白衣のボタンは、今日も一つずつずれていた。上から二番目の穴に、一番上のボタンが。
その隙間から、白衣の下の、薄い夏服の襟がのぞいていた。
「十八時二十三分。心拍、九十四」
(……っ)
三十分。
リゼットが、立ち上がった。
「脈拍を、直接確認します」
彼女は、アルトの首筋に指を当てた。
懐から、砂時計を取り出す。ひっくり返す。
砂が、落ち始めた。
彼女の顔が、すぐ近くにあった。
うなじの、はみ出した髪。日向の猫の匂い。
吐息が、首筋をかすめる。唇が、かすかに動いている。数を数えている。
(っ、っ)
砂時計の砂が、落ちきった。
「……毎分、百二」
リゼットは、首筋から指を離さなかった。
離さずに、そのまま、もう一度砂時計をひっくり返した。
「再確認します」
(……再確認)
砂が、また落ち始めた。
彼女の指先が、首筋の脈の上にあった。
冷たかった指が、少しずつ温かくなっていた。
四十分。五十分。
時間が、ゆっくりと過ぎていった。
リゼットは、椅子に戻っていた。記録板を膝に置いて、ペンを走らせている。
「十八時四十八分。心拍、百八」
「十八時五十二分。対象の発汗、顕著」
「十八時五十七分。対象の視線、計測者のうなじに向く。約五秒」
(記録されてる)
(全部)
(うなじを見てたのも)
淡々とした声だった。
その淡々とした声で、自分の全部が、秒単位で書き留められていく。
心拍も、汗も、視線も。何を見ていたかも、どれだけ見ていたかも。
(この人、全部、分かってて書いてる)
(分かってて、眉一つ動かさない)
(……それが、一番、くる)
六十分。七十分。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
観察室の灯りは、燭台が一つだけだった。その灯りの中で、リゼットの眼鏡が、ときどき光った。
「十九時十二分。心拍、百十五」
声が、ほんの少しだけ、掠れた。
アルトは、気づいた。
彼女の手の、ペンを持つ指先が、かすかに震えていた。
記録板の上の字は、相変わらず定規で引いたようにまっすぐだった。まっすぐなのに、ペンの動きが、少しずつ遅くなっていた。
「十九時十八分」
彼女は、そこで言葉を切った。
記録板を、見下ろしていた。
それから、顔を上げた。
眼鏡越しに、アルトを見た。
「……心拍」
彼女は、そこまで言って、止まった。
ペンが、記録板の上で止まっていた。
アルトの数値は、限界まで跳ね上がっていた。
計測器の紙の上で、ペンが端から端まで揺れていた。山脈どころではなかった。紙の幅が、足りていなかった。
リゼットは、それを記録しようとしていた。
記録しようとして、ペンを止めていた。
彼女の手首にも、計測器が貼ってあった。計測者も計測される。それが、魔導院の規程だった。
その計測器のペンも、端から端まで揺れていた。
彼女は、それを見ていなかった。
アルトは、見ていた。
(……この人も)
体が、満ちていた。
疲れが、どこにもなかった。この一か月、ずっと底に沈んでいた何かが、第七号の温かさで、ゆっくりと浮かび上がってきていた。
(自分で納入した薬で……)
(いや、俺が飲んだんだけど)
一瞬だけ、頭の片隅が冷静になった。
彼女が届けた薬が、自分の疲れを取った。疲れが取れたから、今、ずっと押さえていたものが、浮かび上がってきた。
薬が欲をくれたわけじゃない。欲は、最初からあった。疲れの下に、ずっと埋まっていただけだった。
その冷静さは、一呼吸ももたなかった。
(——無理)
(この人の、淡々とした声で、九十分)
(全部、記録されて)
(もう、無理)
アルトは、手を伸ばした。
彼女の頬ではなかった。肩でも、手でもなかった。
眼鏡だった。
ずり落ちかけた、彼女の眼鏡のつるに、指先をかけた。
リゼットが、動かなくなった。
ペンを持ったまま。記録板を膝に置いたまま。
眼鏡越しの目が、まっすぐにアルトを見ていた。
琥珀がかった茶色の目が、燭台の灯りを映して、揺れていた。
アルトは、眼鏡を、ほんの少しだけ持ち上げた。
外しはしなかった。外していいかどうかを、聞くように。
リゼットの唇が、かすかに動いた。
数を数えているのではなかった。
「……これも」
声が、掠れていた。
淡々とした声ではなかった。初めて聞く、彼女の声だった。
「これも、記録してよろしいですか」
アルトは、答えなかった。
答える代わりに、眼鏡を外した。
リゼットの手から、ペンが落ちた。
床に当たって、乾いた音が響いた。
誰も、拾わなかった。
翌朝。
統計課の片隅の机に、リゼットが座っていた。
いつもの時刻だった。九時ちょうど。机に着いて、羊皮紙を広げる。
髪は、束ねていなかった。
床まで垂れた灰銀の髪が、昨日よりも少しだけ、あちこちに跳ねていた。
白衣のボタンは、一つずつずれていた。
眼鏡は、かけていた。つるの片方が、ほんの少しだけ、曲がっていた。
彼女はペンを取った。
インクを含ませる。
羊皮紙の一行目に、定規で引いたようにまっすぐな字で書いた。
『件名:滋養強壮魔導薬・第七号の効果に関する追加知見』
二行目。
『日時:昨日十八時二分十秒より』
三行目を書く前に、ペンが止まった。
リゼットは、机の端に目をやった。
小さな簡易水晶板が、そこに置いてあった。研究棟の観察室から、今朝、持ってきたものだった。
誰も手を置いていないのに、その表面に、淡い金色の文字が残っていた。
【ステータス貸与】
契約成立:リゼット・ハーシェル
契約3/3
リゼットは、その文字をしばらく見つめていた。
それから、ペンを動かした。
三行目。
『観察事項』
その下は、まだ白紙だった。
彼女の耳が、ほんの少しだけ、赤かった。